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二階堂行綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
二階堂行綱
時代 鎌倉時代中期
生誕 建保4年(1216年
死没 弘安4年6月7日1281年6月24日
改名 行綱→行願(法名)
別名 信濃三郎、信濃判官、伊勢前司、伊勢入道
官位 左衛門尉伊勢守
幕府 鎌倉幕府 引付衆 評定衆 政所執事
氏族 藤原南家乙麻呂二階堂氏
父母 父:二階堂行盛
兄弟 行泰行綱行忠
頼綱盛綱、行経、行景、行貞、政雄、宗綱、光綱、女
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二階堂 行綱(にかいどう ゆきつな)は、鎌倉時代中期の御家人鎌倉幕府政所執事

生涯

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建保4年(1216年)、二階堂行盛の次男として誕生[1]寛元3年(1245年)に伊勢守に任官し、建長元年(1249年)に引付衆に任じられた。康元元年(1256年)に5代執権北条時頼が出家すると、兄・行泰や弟・行忠と共に出家し「行願」と号した。

時頼の死後も幕府で重きを成し、文永元年(1264年)に評定衆の一人に任じられ[2]、この年長井時秀とともに京へ上り比叡山延暦寺並びに園城寺(三井寺)の僧を取り調べた。これは延暦寺と園城寺の戒壇の争いによる園城寺焼き討ちの首謀者を取り調べたものである[3]。文永6年(1269年)には政所執事に任じられた[4]建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の新宮建築に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、二階堂氏は200貫[5]の費用を提供した[6]

弘安4年(1281年)6月7日に死去。享年66。跡を子・頼綱が継いだ。

経歴

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脚注

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  1. ^ 「尊卑文脈」、『史料総覧』5編905冊258頁
  2. ^ 「関東評定伝」、『史料総覧』5編905冊88頁
  3. ^ 外記日記」「天台座主記」「関東評定伝」、『史料総覧』5編905冊97頁
  4. ^ 「関東評定伝」「武家年代記」、『史料総覧』5編905冊160頁
  5. ^ 信濃入道跡100貫、隠岐入道跡100貫。
  6. ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390-397
  7. ^ a b c d e 「関東評定伝」、『史料総覧』5編905冊258頁

関連資料

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  • 『国立歴史民俗博物館研究報告 第45集』「「六条八幡宮造営注文」について」海老名尚、福田豊彦、1992
  • 東京大学史料編纂所 大日本史料総合データベース『史料総覧』