五総村
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ごそうそん 五総村 | |
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廃止日 | 1915年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 五総村、明治村 → 西郷村 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 八頭郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,430人 ([1]、1915年) |
隣接自治体 | 明治村、八上村、宇戸村、佐治村 |
五総村役場 | |
所在地 |
鳥取県八頭郡五総村大字中井 (五総村明治村組合役場) |
座標 | 北緯35度22分55秒 東経134度09分55秒 / 北緯35.38183度 東経134.16533度座標: 北緯35度22分55秒 東経134度09分55秒 / 北緯35.38183度 東経134.16533度 |
特記事項 | 座標は旧西郷地区公民館位置 |
ウィキプロジェクト |
五総村(ごそうそん)は、鳥取県八頭郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは八上郡に属した。
概要
[編集]現在の鳥取市河原町中井・河原町本鹿(ほんが)・河原町牛戸・河原町神馬・河原町小河内(おごうち)に相当する。千代川支流の曳田川流域に位置した。
村名は5ヶ村の統合によるとされる[1]。
藩政時代には鳥取藩領の八上郡曳田郷(ひけたのごう)に属する中井村・鹿野村・本角村・牛戸村・神馬村・小河内村があった[2]。
沿革
[編集]- 1877年(明治10年)5月22日 - 鹿野村と本角村が合併して本鹿村となる[3]。
- 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
- 1883年(明治16年)3月 - 曳田村(後の曳田村→八上村大字曳田)に置かれた連合戸長役場の管轄区域となる[4]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、中井村・本鹿村・牛戸村・神馬村・小河内村が合併して村制施行し、八上郡五総村が発足。旧村名を継承した5大字を編成。明治村および曳田村との組合役場を中井村に設置[2][5][6]。
- 1893年(明治26年)3月1日[5]、または4月20日[7] - 曳田村が組合村を離脱したことに伴い、五総村明治村組合役場となる。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、八上郡・八東郡・智頭郡の区域をもって八頭郡が発足し、八頭郡五総村となる。
- 1915年(大正4年)1月1日 - 「五総村大字◯◯村」から大字の「村」を削除し、「五総村大字◯◯」と改称[8]。
- 1915年(大正4年)4月1日 - 明治村と合併して西郷村が発足。同日五総村廃止[9]。
行政
[編集]歴代組合村長
[編集]氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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岡村音次郎 | 1889年(明治22年)11月 | 1890年(明治23年)8月 | |
有田長平 | 1890年(明治23年)11月 | 1892年(明治25年)11月 | |
田村岩次郎 | 1892年(明治25年)12月 | 1893年(明治26年)12月 | |
谷口芳太郎 | 1894年(明治27年)1月 | 1900年(明治33年)9月 | |
上原弥太郎 | 1900年(明治33年)9月 | 1901年(明治34年)8月 | |
漆原定吉 | 1901年(明治34年)8月 | 1904年(明治37年)9月 | |
坂本頼蔵 | 1905年(明治38年)2月 | 1915年(大正4年)3月31日 | 合併後、西郷村長臨時代理者に就任[10] |
参考文献 - [2] |
教育
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 角川日本地名大辞典 鳥取県「五総村(近代)」
- ^ a b c d 河原町誌(河原町誌編集委員会、1986年)
- ^ 鳥取県史 近代 第1巻 (総説篇)836頁(鳥取県、1969年)
- ^ 府県管轄区域郡区町村名集覧(樋口文治郎、1888年)
- ^ a b 鳥取県町村合併誌(鳥取県、1964年)
- ^ 鳥取県改正市町村名及役場区域 明治22年10月改正(横山敬次郎、1889年)
- ^ 初稿八頭郡誌(八頭郡郷土文化研究会郡誌編集専門委員、1982年)
- ^ 「大字名改称」『官報』1914年11月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「村廃置」『官報』1915年3月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 自治制発布五十周年記念帖(帝国地方行政学会、1938年)