井上清純
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井上 清純(いのうえ きよずみ、1880年〈明治13年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉1月5日)は、日本海軍の軍人、政治家、男爵。最終階級は海軍大佐。貴族院議員。
経歴
[編集]本籍鹿児島県。外交官・吉田清成の二男としてアメリカ合衆国ワシントンD.C.で生まれ、井上良智海軍中将の養子となる。攻玉社を経て、1901年(明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業し、1903年(明治36年)1月に海軍少尉任官。海軍砲術学校特修科修了。
「日進」「新高」の各分隊長、「浪速」砲術長、「八雲」分隊長、「橋立」砲術長などを歴任し、1912年(大正元年)12月、海軍少佐に進級し工作船「関東 関東丸」航海長となる。
1913年(大正2年)5月20日、養父の死去に伴い男爵を襲爵[1]。依仁親王付武官、海防艦「満州」副長、「平戸」副長、台湾総督府副官などを経て、1918年(大正7年)12月、海軍中佐に進級。「鹿島」副長、井上良馨元帥副官兼出仕、砲艦「最上」艦長などを歴任し、1923年(大正12年)12月、海軍大佐に進級し待命。1924年(大正13年)2月、予備役に編入された。
その後、1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に当選し[2]、公正会に所属し[3]、1946年(昭和21年)3月12日まで在任した[4]。議員在任中、同じ公正会に属した菊池武夫や井田磐楠とともに、天皇機関説攻撃の論陣を張った。
栄典
[編集]- 位階
- 1903年(明治36年)4月10日 - 正八位[6]
- 1904年(明治37年)8月30日 - 従七位[7]
- 1906年(明治39年)11月30日 - 正七位[8]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従六位[9]
- 1919年(大正8年)6月30日 - 正五位[10]
- 1941年(昭和16年)4月15日 - 従三位[11]
- 勲章等
著書
[編集]- 『国史を貫く日本精神』古今書院、1939年。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第241号、大正2年5月21日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』62頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
- ^ 『朝日年鑑』昭和22年版、90頁、「公職追放者一覧」。
- ^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
- ^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
- ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
- ^ 『官報』第2072号「叙任及辞令」1919年7月2日。
- ^ 『官報』第4310号「叙任及辞令」1941年5月23日。
- ^ 『官報』第2346号「叙任及辞令」1920年5月29日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山崎信一『師恩 - 井上清純先生を偲ぶ門下生の回想記』非売品、1990年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 『朝日年鑑』昭和22年版、朝日新聞社、1947年。
日本の爵位 | ||
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先代 井上良智 |
男爵 井上(良智)家第2代 1913年 - 1946年 |
次代 井上三郎 |