今村重長
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 弘治3年(1557年)[注釈 1][2] |
死没 | 寛永4年5月5日(1627年6月18日)[2][1] |
別名 | 桁之助、九郎兵衛、彦兵衛[3][1] |
戒名 | 了心院法順[1] |
墓所 | 善立寺[3][1] |
幕府 | 江戸幕府 目付、下田奉行 |
主君 | 徳川家康、秀忠 |
氏族 | 藤原秀郷流河村氏族今村氏[3][1] |
父母 | 父:今村勝長[3][4] |
兄弟 | 重長、正信、掃部、大久保忠弘の妻、夏目信次の妻[5][1] |
妻 | 布施重直の娘、平岩左馬助の娘[2] |
子 | 正長、永見重成、伝右衛門、土屋勝正の妻[2][1] |
今村 重長(いまむら しげなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。
略歴
[編集]徳川氏中山譜代の家に生まれる。幼少期より徳川家康に仕えて御膳番を務める。天正3年(1575年)長篠の戦いで武功を立てる。同年に松平信康の家臣だった黒柳甚蔵が反乱を起こすと、これを捕らえる功績があった[注釈 2]。天正12年(1584年)長久手の戦いでは二番槍の武功を挙げた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに従軍。その後は徳川秀忠の使番となり、慶長19年(1614年)大坂冬の陣に従軍。翌年の夏の陣では首1級を挙げ、井伊直孝・安藤重信に従って落城後の大坂城に入城した。元和2年(1616年)目付、元和3年(1617年)下田奉行を歴任。知行は伊豆国賀茂郡に2,200石を領した。寛永4年(1627年)71歳で病死[5][1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜』 13巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0217-8。
- 『断家譜』 1巻、斎木一馬; 岩沢愿彦(校訂)、続群書類従完成会、1968年。ISBN 978-4-7971-0266-6。