伊藤秀範
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市青葉区 |
生年月日 | 1982年8月22日(42歳) |
身長 体重 |
181 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | NPB / 2006年 育成選手ドラフト1巡目 |
初出場 | NPB / 2007年3月31日 |
最終出場 | NPB / 2008年8月4日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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伊藤 秀範(いとう ひでのり、1982年8月22日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。
経歴
[編集]アマチュア~四国アイランドリーグ時代
[編集]横浜市立市ヶ尾中学校卒業後、駒場学園高校に入学。那須野巧とは高校の同期で当時エースナンバーは伊藤が背負っていたが、プロ入りは那須野が先となった(伊藤は那須野のことを「身近な目標」と語っている)。卒業後は本田技研工業に入社して狭山野球部に所属。同期に尾形佳紀(現・広島スカウト)がいる。
狭山野球部では選手層が厚く登板機会に恵まれなかったことから、四国アイランドリーグのトライアウトを受験し合格、2005年に香川オリーブガイナーズに入団。1年目のシーズンからエースとして12勝を挙げ、最多勝利のタイトルを獲得[1]。2006年シーズンはチーム最多の11勝を挙げ[2]、チームの総合優勝に貢献した。
2006年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議の育成選手枠を対象とした2次指名で、東京ヤクルトスワローズから1巡目で指名を受けた[3]。2006年12月7日契約。獲得の決め手となったのは、2006年11月15日の秋季キャンプ中の、香川対ヤクルトの練習試合における好投である。ヤクルトは前年育成枠での獲得に否定的な見解を示していたが、この試合での好投が監督の古田敦也の目に止まり、監督の要望で指名されることになった。[要出典]なお試合は9対5で香川が勝っている[4]。
NPB時代
[編集]2007年シーズンは育成枠でスタート。背番号105は担当スカウトだった岡林洋一の現役時代の背番号15の間に0を入れたものである。オープン戦に育成選手が出場できることが決まり、3月17日付けで初の一軍合流を果たした。3月20日の対中日ドラゴンズ戦で、オープン戦初登板初先発初勝利。ほぼベストメンバーの中日に対し、5回3被安打2四球1失点と結果を残したことから、一軍の公式戦に出場可能となる支配下選手への登録が決まった。3月26日正式に支配下選手登録を発表。背番号も52に変更。背番号52は香川オリーブガイナーズ時代のトレーナー、川畑勇一がヤクルト時代つけていた背番号である。推定年俸600万で再契約している。開幕一軍メンバーにも抜擢されたが、シーズン開始後は痛打を浴びて二軍降格。ファームでも良い時と悪い時の差がはっきりしていたが、投手不足から8月23日に再度一軍に昇格した。9月7日の中日ドラゴンズ戦で公式戦初先発するも、2回を8被安打・6失点で敗戦投手となった。
2008年シーズンは二軍スタート。8月3日付けで一軍登録され、8月4日の広島東洋カープ戦で11ヶ月ぶりの先発となったが、1イニングを4安打2失点の内容で1回のみで交代となった。8月11日に一軍選手登録を抹消。10月7日、戦力外通告を受けた。その後12球団合同トライアウトに参加した。
BCリーグ時代
[編集]2009年1月6日、元香川の芦沢真矢が監督を務めるベースボール・チャレンジ・リーグの新潟アルビレックス・ベースボール・クラブへの入団が決まり、3年ぶりに独立リーグに復帰。背番号は香川時代と同じ14番を付けた。この年は12勝8敗1セーブで防御率2.32の成績を収めたが、2009年のシーズン終了後、自らの申し出により退団した。本人は現役を続ける意思を表明していた[5]。
アイランドリーグへの復帰と引退
[編集]2009年12月17日、古巣である香川オリーブガイナーズに翌年から復帰することが発表された。背番号は以前の在籍時と同じ14番である。
2011年6月29日、選手契約の解除を受け、現役を引退[6]。成績不振で辞任した天野浩一の後を受け、香川の投手コーチに就任した[7]。この転身は、肩の不調に加え、監督の西田真二から「苦しんだ経験を生かし、若手を育ててくれ」という要望を受けたことが大きかったという[8]。
香川コーチ時代
[編集]コーチ在任中にチームの投手の中から冨田康祐・又吉克樹・寺田哲也・篠原慎平・松本直晃の5人がNPBのドラフト指名(冨田と篠原は育成選手枠)を受けた。このうち又吉については話し合いながらフォームを矯正してリーグ史上最高の2位指名を勝ち取り、スカウトからは「よくここまで伸ばした。ありがとう」と言われたという[8]。また、篠原は肩の故障で愛媛マンダリンパイレーツを退団後、トライアウトを受けた際に140キロの投球が可能なことを見て「能力はやはり高い。ちゃんとフォームを修正したら復活の余地はあると思います」と監督の西田に進言して香川に入団させたと述べている[9]。2016年のシーズン終了後、香川のコーチを退任することが発表された[10]。
軟式野球時代
[編集]コーチ退任後は就職活動を行いながらも野球を続けたい方針を語っており、軟式野球のチームにコーチとして声もかかっているとインタビューに答えていた[11]。
2017年には鹿児島県の運送会社・鹿児島トランスポートに就職して、同社の軟式野球部で投手として現役復帰した[12][13]。チームには同じく四国アイランドリーグ出身者が他にも3名在籍していた。ほか、野球教室での講師も務めた。2020年時点では同部の選手リストに名前はなかった[14]。
信濃コーチ時代
[編集]2021年2月18日、ベースボール・チャレンジ・リーグの信濃グランセローズ投手コーチに就任することが発表された[15]。プロ球団のコーチには5年ぶりの復帰となる。3シーズン務め、2023年のシーズン終了後に「本人の申し出」による退任が発表された[16]。
人物
[編集]- 憧れのプロ野球選手は伊藤智仁で、伊藤の決め球である高速スライダーは、伊藤智仁を参考に習得したものである。
- 伊藤智仁選手の背ネーム「T.ITOH」の様に「H.ITOH」を着ける予定だったが、石井一久と石井弘寿の時の様に「ITOH」となっていた。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2007 | ヤクルト | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 29 | 6.0 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 8 | 8 | 12.00 | 1.83 |
2008 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 6 | 1.0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 18.00 | 4.00 | |
通算:2年 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 35 | 7.0 | 15 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 10 | 10 | 12.86 | 2.14 |
記録
[編集]- NPB
- 初登板:2007年3月31日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤドーム)、7回裏に3番手で救援登板、1回2失点
- 初奪三振:2007年8月25日、対横浜ベイスターズ14回戦(明治神宮野球場)、8回表に村田修一から空振り三振
- 初先発登板:2007年9月7日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤドーム)、2回6失点で敗戦投手
独立リーグでの投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
完 投 |
防 御 率 |
投 球 回 |
打 者 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
奪 三 振 |
与 四 球 |
与 死 球 |
失 点 |
自 責 点 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
奪 三 振 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005 | 香川 | 36 | 12 | 9 | 1 | 11 | 1.67 | 210.1 | 827 | 167 | 2 | 146 | 29 | 11 | 50 | 39 | 2 | - | 6.25 | 0.93 |
2006 | 35 | 11 | 5 | 2 | 9 | 1.84 | 156.2 | 609 | 121 | 5 | 127 | 23 | 4 | 38 | 32 | 3 | - | 7.29 | 0.92 | |
2009 | 新潟 | 24 | 12 | 8 | 1 | 15 | 2.32 | 186.0 | 741 | 173 | 4 | 115 | 20 | 4 | 63 | 48 | 4 | 0 | 5.56 | 1.04 |
2010 | 香川 | 27 | 3 | 2 | 1 | 0 | 2.29 | 55.0 | 222 | 57 | 1 | 33 | 9 | 2 | 19 | 14 | - | - | 5.40 | 1.20 |
2011 | 15 | 1 | 1 | 0 | 0 | 6.19 | 16.0 | 77 | 26 | 3 | 9 | 5 | 0 | 14 | 11 | - | - | 5.06 | 1.94 | |
IL:4年 | 113 | 27 | 17 | 4 | 20 | 1.97 | 438.0 | 1735 | 371 | 11 | 315 | 66 | 17 | 121 | 96 | 5 | - | 6.47 | 1.00 | |
BCL:1年 | 24 | 12 | 8 | 1 | 15 | 2.32 | 186.0 | 741 | 173 | 4 | 115 | 20 | 4 | 63 | 48 | 4 | 0 | 5.56 | 1.04 |
- 各年度の太字はリーグ最高。
背番号
[編集]- 14 (2005年 - 2006年、2009年 - 2011年)
- 105 (2007年 - 2007年3月25日)
- 52 (2007年3月26日 - 2008年、2012年 - 2016年)
- 74 (2021年 - 2023年)
脚注
[編集]- ^ “ドラフトへ好感触-四国IL代表総括”. 四国新聞. (2005年10月20日) 2022年6月26日閲覧。
- ^ “堂上(香川OG)打撃2冠 四国IL全日程終了”. 四国新聞. (2006年10月2日) 2022年6月26日閲覧。
- ^ “深沢(香川OG)巨人5巡目-プロ野球ドラフト”. 四国新聞. (2006年11月22日) 2022年6月26日閲覧。
- ^ “香川OG13安打、ヤクルトを下す-交流戦”. 四国新聞. (2006年11月16日) 2022年6月26日閲覧。
- ^ “BC新潟、伊藤ら3選手が退団”. 新潟日報. (2009年10月9日) 2009年11月7日閲覧。
- ^ 香川OG退団選手のお知らせ 香川オリーブガイナーズ
- ^ 天野浩一投手コーチ辞任・伊藤秀範投手コーチ就任のお知らせ 香川オリーブガイナーズ、2011年6月29日
- ^ a b <5>若手と話し合い 徹底 - 読売新聞香川版2014年5月7日(連載企画「我らガイナーズ!」)
- ^ 寺田、入野、山本、篠原がNPBで活躍するために - Sports Communications(2014年11月4日、「野球西国巡り」第209回。伊藤の執筆)
- ^ 香川OG 伊藤秀範投手コーチ退団のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2016年11月16日)
- ^ “【インタビュー】伊藤秀範「今だから、語ろう。」≪香川OG退団インタビュー・前篇≫(11月28日 香川オリーブガイナーズ)”. 4SPO (2016年11月28日). 2021年2月16日閲覧。
- ^ “【社会人軟式】全日本早起き野球大会が新潟市で初開催 32チームが参加し開会式”. 新潟野球ドットコム (2017年9月29日). 2021年10月19日閲覧。
- ^ “古巣を激励!軟式で国体出場目指す元ヤクルト・伊藤さん”. SANSPO.COM. (2018年5月21日) 2021年2月16日閲覧。
- ^ 鹿児島トランスポート野球部
- ^ 投手コーチ就任のお知らせ - 信濃グランセローズ(2021年2月18日)
- ^ 伊藤コーチ、荒西コーチ退団のお知らせ - 信濃グランセローズ(2023年10月5日)2023年10月5日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 伊藤秀範 - NPB.jp 日本野球機構