衣川篤史
東京ヤクルトスワローズ 二軍バッテリーコーチ #83 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県宝塚市 |
生年月日 | 1981年3月20日(43歳) |
身長 体重 |
179 cm 93 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 2006年 大学生・社会人ドラフト4巡目 |
初出場 | 2008年5月13日 |
最終出場 | 2010年6月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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衣川 篤史(きぬがわ あつし、1981年3月20日 - )は、兵庫県宝塚市出身の元プロ野球選手(捕手)。2019年から東京ヤクルトスワローズ一軍バッテリーコーチ。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]大商学園高校から岐阜聖徳学園大学に進学。同期の星野八千穂とバッテリーを組み、強化後間もないチームを大学選手権、明治神宮大会に初出場させる大きな原動力となった。3年時の大学選手権では初勝利もあげて、翌年も連続出場した。大学4年時にはシュアな打撃でドラフト候補と報道されたものの、プロからの声はかからなかった。
社会人野球の昭和コンクリートへ進んだものの、チームは2003年の夏をもって活動休止となり、住友金属鹿島へ転籍。住友金属鹿島では正捕手の座をつかみ、都市対抗野球大会連続出場に貢献した。社会人通算4年目となる2006年、第77回都市対抗野球大会の1回戦では日本生命と対戦。試合には敗れたものの、日本生命が仕掛けた4盗塁を全て阻止。強肩ぶりが注目され、一躍ドラフト有力候補となった。
2006年の大学・社会人ドラフトで東京ヤクルトスワローズから4巡目で指名を受けた。11月22日に推定契約金5,000万円、年俸1,000万円で仮契約を行い入団した。
プロ入り後
[編集]一軍キャンプに招聘されたが、オープン戦で当たりが出なかったこと、守備面でも課題を指摘されたことから、開幕は二軍スタートとなった。出場機会を増やすため、一塁手にも挑戦している。7月に川本良平が一軍昇格した後はほぼ二軍の正捕手として定着し、最終的に53試合に出場。ファームとはいえ打率.274、5本塁打と一年目からまずまずの成績を残した。
キャンプは二軍スタートだったが、川本良平の故障に伴って一軍キャンプに合流。開幕は再び二軍で迎えたものの、イースタン・リーグでは開幕から正捕手を務めた。打撃不振の選手が多い中で、二軍とはいえ3割台をキープ。そのことと福川将和の骨折の疑いもあり、5月13日に一軍初昇格。同日の対中日戦で初出場、初先発を果たした。翌5月14日対中日戦5回裏2アウト無走者の場面で、山本昌からプロ入り初安打を放った。しかし右肘の故障によって一軍に定着することはできず、5月29日に登録を抹消されると、以降は二軍で過ごすことになった。8月には試合に復帰し、最終的にイースタン・リーグとはいえ、44試合で打率.302、2本塁打10打点1盗塁と、前年を上回る結果も出している。秋には川本良平、米野智人らと共に一軍メンバーに選ばれ、松山でキャンプを過ごした。
シーズンの大半を二軍ですごし、ファーストやサードなども経験する。シーズン終盤に一軍へ昇格し、最終戦では代打でタイムリーを放つ。 クライマックスシリーズでもベンチ入りするも、新型インフルエンザにかかり、チームに貢献はできなかった。
シーズン序盤に2年ぶりの本塁打を放つなど活躍したが、それ以降は二軍ですごし、そのままシーズンを終えた。
一軍での出場はなく、二軍のみの出場となった。二軍では49試合に出場したが、打率.193、本塁打1、打点8であった。10月9日に戦力外通告を受け[1]、12月2日に自由契約公示された。
現役引退後
[編集]その後、現役を引退し、ヤクルトのスコアラーに就任した[2]。
2019年より、野口寿浩に代わって東京ヤクルトスワローズ一軍バッテリーコーチに就任することが決まった。
人物
[編集]社会人時代に結婚し、息子が2人いる。妻子がある場合入寮は免除されるが、2007年に単身で入寮した。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2008 | ヤクルト | 17 | 46 | 42 | 1 | 11 | 0 | 0 | 1 | 14 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 12 | 2 | .262 | .326 | .333 | .659 |
2009 | 5 | 4 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
2010 | 13 | 24 | 22 | 2 | 5 | 2 | 1 | 1 | 12 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 2 | .227 | .292 | .545 | .837 | |
通算:3年 | 35 | 74 | 68 | 4 | 17 | 2 | 1 | 2 | 27 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 1 | 16 | 4 | .250 | .311 | .397 | .708 |
年度別守備成績
[編集]年 度 |
球 団 |
捕手 | 一塁 | |||||||||||||||
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試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
捕 逸 |
守 備 率 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
2008 | ヤクルト | 15 | 74 | 3 | 2 | 0 | 1 | .975 | 6 | 6 | 0 | .000 | - | |||||
2009 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | - | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2010 | 6 | 19 | 1 | 2 | 0 | 0 | .909 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | - | ||||||
通算 | 22 | 96 | 4 | 4 | 0 | 1 | .962 | 7 | 6 | 1 | .143 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
記録
[編集]- 初記録
- 初出場・初先発出場:2008年5月13日、対中日ドラゴンズ7回戦(明治神宮野球場)、8番・捕手で先発出場
- 初打席:同上、3回裏に朝倉健太から四球
- 初安打:2008年5月14日、対中日ドラゴンズ8回戦(明治神宮野球場)、5回裏に山本昌から右前安打
- 初打点:2008年5月15日、対中日ドラゴンズ9回戦(明治神宮野球場)、1回裏に川上憲伸から右前適時打
- 初本塁打:2008年5月16日、対阪神タイガース7回戦(阪神甲子園球場)、9回表に安藤優也から左中間越3ラン
背番号
[編集]- 38(2007年 - 2011年)
- 83(2019年 - )
脚注
[編集]- ^ “来季の契約について”. 東京ヤクルトスワローズ (2011年10月9日). 2011年10月21日閲覧。
- ^ “【ヤクルト】衣川 篤史捕手 - スポニチ Sponichi Annex 惜別球人”. Sponichi Annex (2011年12月21日). 2011年12月21日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 衣川篤史 - NPB.jp 日本野球機構