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宮出隆自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮出 隆自
東京ヤクルトスワローズ 二軍打撃コーチ #76
2011年7月10日、こまちスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県宇和島市
生年月日 (1977-08-18) 1977年8月18日(47歳)
身長
体重
192 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手三塁手投手
プロ入り 1995年 ドラフト2位
初出場 1998年4月5日
最終出場 2012年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2013 - )

宮出 隆自(みやで りゅうじ、1977年8月18日 - )は、愛媛県宇和島市出身の元プロ野球選手外野手内野手投手)。野球指導者。現在は東京ヤクルトスワローズの二軍打撃コーチを務める。

来歴

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プロ入り前

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愛媛県立宇和島東高等学校ではエースとして、後にヤクルトでチームメイトとなる岩村明憲とバッテリーを組んだ。1994年甲子園一塁手として出場し、3打数1安打1打点、高校通算34本塁打。

1995年のドラフト会議ヤクルトが2位指名し、契約金7000万円、年俸600万円(金額は推定)で入団する[1]

ヤクルト時代

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1998年4月22日対中日戦で一軍初先発、5回を自責点2で初勝利。

1999年に中継ぎを中心に2勝を挙げる。

2000年には3勝を挙げる。2000年には少ない打席数ながら8打数4安打(打率.500)の好成績を記録している。

2001年はセットアッパーとして開幕戦にも登板するも、4月半ばに膝の半月板を損傷して手術。その後、投球を行うと膝に水が溜まるようになった。

2002年から持ち前の打撃力を生かして外野手に転向する。投手時代の打撃成績は計17打数7安打(打率.412)だった。この年、ファームでは2本塁打を放ったが一軍昇格は果たせなかった。

2003年は夏場から一軍定着し、60試合に出場し打率.277、5本塁打だった。同年5月25日の地元の松山中央公園野球場での試合で阪神藤川球児から一軍初本塁打を放った。

2004年はポジションの被る外国人選手の加入もあって出場機会が激減した。

2005年は後半戦から5番打者としてクリーンナップの一端を担う。規定打席には達しなかったが、打率.320、8本塁打、46打点。

2006年はチーム有数のクラッチヒッターとして右翼のレギュラーで134試合に出場し、初の規定打席に到達して打率.275、自己最多の9本塁打59打点をマークした。8月30日は宮出隆自Dayとして8号本塁打を打ち勝利する。

2007年は宮出の高校の後輩でもある岩村明憲のメジャー挑戦で三塁手が空席になったため、外野手から三塁手へのコンバートが予定された。春季キャンプの阪神との練習試合では2回の守備機会で2回ともエラーを喫し、阪神の岡田彰布監督から「岩村はセ・リーグ一のサードやったから気が楽や」と言われた。この後も特守に励んだが成果は思わしくなく、三塁手としての守備率は.875と奮わず、三塁手のレギュラーは飯原誉士に奪われた。以後は折しもアダム・リグスが離脱した事で一塁手としての出場が増え、長身も生かしてまずまずの守備を見せ新たなレギュラーポジションを掴んだ。同年は一塁68試合、三塁18試合、外野13試合を守った。主に5・6番打者として、111試合で打率.279、前年と同じ9本塁打を記録するなどの活躍を見せたが、9月17日の対中日戦で山井大介の投球を右手に受けて骨折し、残りのシーズンを棒に振った。

2008年は、一塁には畠山和洋が、右翼には福地寿樹が固定され、自身の不振もあり出場機会数が激減した。

2009年、開幕直前の3月23日、一場靖弘[注釈 1]との交換トレードで、ドラフト指名時のヤクルト監督である野村克也率いる東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。背番号は9

楽天時代

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前半は打率は1割台と調子が悪く出場選手登録と抹消とを繰り返したが、7月14日の対西武戦に代打で出場し2007年9月5日対広島戦以来となる2年ぶりの本塁打を三井浩二から放つ。これが決勝点となり、移籍後初のヒーローインタビューを受ける。この頃を境に調子を上げ、中島俊哉の故障の影響もありスタメンでの出場機会が増えた。ファーストやライトの守備固めとしても25試合で起用された。最終的に打率は3割を超え、対左投手の打率は.340と結果を残した。盗塁も5個記録し、失敗は0だった。

2010年は若手選手の台頭と自身の成績急落もあって出場機会が激減し34試合の出場に留まった。シーズン終了後の10月、一時はチームの秋季キャンプに参加したが、同月27日に戦力外通告を受けた。

ヤクルト復帰

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11月10日に古巣のヤクルトが宮出の獲得を発表し[2]、3シーズンぶりにスワローズ復帰となった。背番号は49となった。

2011年は28試合のみの出場だが打率は.300を残した。

2012年10月6日、この年限りでの現役引退を発表した[3]。10月7日のシーズン最終戦となる対広島戦(神宮)で途中出場し、セカンドフライに打ち取られている[4]11月1日、任意引退公示[5]

引退後

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2012年オフの11月23日に明治神宮球場で開催されたファン感謝DAYで、同じく引退を表明していた福地寿樹と合同で引退セレモニーが行われた[6]

2013年より、ヤクルトの二軍打撃コーチに就任した[7]

2015年より一軍打撃コーチに配置転換され、2017年までは攻撃時に一塁ベースコーチャーも担当した。

2020年からは一軍ヘッドコーチに配置転換。

2022年からは再び二軍打撃コーチを務める[8]

人物

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既婚で、2人の子を持つ。

チームでも随一の練習量をこなしており、2007年には年齢的には若くないにもかかわらず「若手の期待選手」として紹介される事もあった。真面目で優しく人柄の良い選手として知られ、チームメイトからの人望も非常に厚い。

長身から繰り出されるパワフルな打撃から、一時はロベルト・ペタジーニに引っ掛けて「ミヤジーニ」のニックネームで和製大砲として期待された。また、2005年にはその長身から同年に巨人に在籍していたバート・ミアディッチと引っ掛けて「ミヤデッチ」または「ミヤディッチ」と呼ばれていた事もあった。

楽天移籍後の会見では、「入団したときのようにまっさらな気持ちでがんばりたい」と語った。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1998 ヤクルト 3 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 41 8.0 5 0 14 1 0 10 1 0 4 4 4.50 2.38
1999 21 4 0 0 0 2 4 0 -- .333 190 43.1 40 5 22 0 0 43 1 1 31 28 5.82 1.43
2000 22 3 0 0 0 3 1 0 -- .750 193 49.0 41 7 13 0 1 43 1 0 23 23 4.22 1.10
2001 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 18 4.1 3 0 4 0 0 4 0 0 3 0 0.00 1.62
通算:4年 49 8 0 0 0 6 5 0 -- .545 442 104.2 89 12 53 1 1 100 3 1 61 55 4.73 1.36
  • 「-」は記録なし

年度別打撃成績

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O
P
S
1998 ヤクルト 4 3 3 1 1 1 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .333 .333 .667 1.000
1999 23 6 6 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .333 .333 .333 .667
2000 22 10 8 1 4 1 0 0 5 1 0 0 2 0 0 0 0 2 0 .500 .500 .625 1.125
2001 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2003 60 169 159 17 44 6 1 5 67 18 1 0 1 0 6 0 3 27 5 .277 .315 .421 .737
2004 35 91 85 6 20 2 2 2 32 6 0 0 2 0 3 0 1 26 2 .235 .270 .376 .646
2005 99 304 275 39 88 14 1 8 128 46 5 2 2 1 22 0 4 54 4 .320 .377 .465 .843
2006 134 473 422 49 116 22 3 9 171 59 1 4 8 3 38 1 2 83 11 .275 .335 .405 .741
2007 111 348 323 28 90 10 3 9 133 46 3 0 6 1 16 0 2 63 4 .279 .316 .412 .728
2008 29 50 47 0 6 0 0 0 6 2 0 0 1 0 2 0 0 13 1 .128 .163 .128 .291
2009 楽天 82 168 155 13 47 5 1 3 63 21 5 0 0 3 9 1 1 26 6 .303 .339 .406 .746
2010 34 88 78 9 12 5 0 0 17 4 0 0 0 0 10 0 0 21 4 .154 .250 .218 .468
2011 ヤクルト 28 45 40 2 12 1 0 0 13 3 0 0 0 0 5 0 0 7 0 .300 .378 .325 .703
2012 37 58 54 5 16 5 1 3 32 8 0 0 1 0 3 0 0 11 1 .296 .333 .593 .926
通算:14年 701 1813 1655 171 458 72 12 39 671 216 15 6 23 8 114 2 13 335 38 .277 .327 .405 .732

記録

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初記録
投手記録
打撃記録

背番号

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  • 43(1996年 - 2009年3月26日)
  • 9(2009年3月27日 - 2010年)
  • 49(2011年 - 2012年)
  • 76(2013年 - )

脚注

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注釈

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  1. ^ 2011年からチームメイトとなる。

出典

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  1. ^ 『朝日新聞』1995年11月29日付朝刊 (14版、29面)
  2. ^ 濱中選手と宮出選手の獲得について
  3. ^ 宮出選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へ ヤクルト球団公式サイト
  4. ^ 10月07日(日)東京ヤクルトスワローズ-広島東洋カープ ヤクルト球団公式サイト
  5. ^ 2012年度 任意引退選手”. 日本プロ野球機構 (2012年10月30日). 2012年10月30日閲覧。
  6. ^ 【ヤクルト】福地、宮出が引退セレモニー - プロ野球ニュース”. nikkansports.com. 2021年4月8日閲覧。
  7. ^ 2013年のコーチングスタッフについて 2012年10月22日 東京ヤクルトスワローズ公式サイト
  8. ^ 【ヤクルト組閣】松元ユウイチ作戦コーチ、大松尚逸1軍打撃コーチ” (2021年12月8日). 2021年12月8日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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