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伊集院忠国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊集院 忠国
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 助三郎(通称)、貞国、長門守
墓所 円福寺墓地(日置市伊集院町大田[1]
官位従三位
氏族 伊集院氏
父母 父:伊集院忠親
忠貞久氏日置久影麦生田義久大重忠季黒葛原俊久土橋忠治吉俊忠治久光飛松久義四本為吉、娘(島津氏久室)、南仲景周(泰定山広済寺開山者)、石屋真梁(月光山泰雲寺開山者)
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伊集院 忠国(いじゅういん ただくに)は、鎌倉時代末期から南北朝時代薩摩国武将。薩摩島津氏の一族、伊集院氏第5代当主。薩摩伊集院領主。4代忠親の子。

生涯

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南北朝の争乱が起きると、当初は島津宗家5代当主の貞久とともに足利尊氏に協力していた。足利尊氏が南朝方に敗れ九州に落ち延びると、貞久の招きに応じて北九州に出陣し、筑後の南朝方豪族・菊池氏を討つ。薩摩に戻った忠国だったが、延元2/建武4年(1337年)、懐良親王征西将軍に任命され、先遣として南朝方公家の三条泰季が薩摩へ到着するや、南朝方に属して居城の一宇治城で挙兵する。南朝方に属した薩摩の豪族は多かったが、島津一族の中で忠国は唯一南朝方に属した人物であった。

同年7月、忠国ら南朝方は伊作へ侵攻、伊作家島津久長の率いる北朝方と交戦するも勝敗は決しなかった。当時京都で戦っていた貞久は本領の危機を知り長庶子の川上頼久・久長の子である島津宗久を急ぎ帰国させ、南朝方討伐に向かわせる。頼久らは帰国すると伊集院方の市来院を包囲。忠国は市来院を救うため出陣するも、2か月後には城を放棄することになる。市来院城の陥落後、忠国は南朝方の豪族とともに大隅肝付兼重を援護、南薩地方で北朝方と戦う。延元3/暦応元年(1338年)、忠国は部将の村田如厳に命じ、給黎院(きいれいん)領主の和泉実忠(島津貞久の弟)を攻撃させる。村田如厳は給黎院の2城を落とし薩摩へ侵攻、島津本家の居城である碇山城を包囲するも、激しい抵抗にあい3か月後に包囲を解いている。

興国元/暦応3年(1340年)、島津貞久が帰国して南朝方を攻撃すると、忠国は一宇治城を放棄し平城へ逃亡。鹿児島の南朝方の城が次々と陥落する中、忠国は勢力の建て直しを計り、貞久が鹿児島を離れると肝付兼重とともに鹿児島の城を奪回する。興国3/康永元年(1342年)、懐良親王が薩摩に到着すると、忠国はじめ薩摩・大隅の南朝勢力は親王が居城とした谷山城に集まる。貞久は急ぎ谷山城を攻めるも敗退、貞久の子・氏久も負傷するなど南朝方優位の状態が続く。忠国は観応元/正平5年(1350年)には郡山松尾城を陥落させ、郡山以南の地を南朝方の支配下に組み込んでいる。

郡山攻略後の忠国の事跡はあまり残っておらず、以後の詳細は不明である。しかし観応2/正平6年(1351年)、貞久・氏久が南朝方に降伏、その後忠国の子・久氏は氏久に従い南朝方の畠山氏を攻撃している(島津氏は状況をみて帰属・離反を繰り返していた)ことや忠国の娘が氏久の室であることからも、この時期には島津宗家に協力していたと考えられる。

島津宗家と対立していた忠国は『島津家文書』などで「兇徒」「賊徒」などと記されているが、明治になって南朝への忠勤が認められ、従三位の位が贈られている。

脚注

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  1. ^ 伊集院忠国公夫婦の墓碑を含む円福寺墓地群 - 日置市観光協会 2013年4月13日閲覧。

関連項目

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先代
伊集院忠親
伊集院氏第5代当主
伊集院忠国
次代
伊集院久氏