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武彦王妃佐紀子女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐紀子女王から転送)
武彦王妃 佐紀子女王
山階宮
1922年頃。
続柄 賀陽宮邦憲王第2王女

全名 佐紀子(さきこ)
身位 女王王妃
敬称 殿下
出生 (1903-03-30) 1903年3月30日
日本の旗 日本京都府
死去 (1923-09-01) 1923年9月1日(20歳没)
日本の旗 日本神奈川県鎌倉郡鎌倉町
埋葬 1923年9月18日
豊島岡墓地
配偶者 山階宮武彦王
父親 賀陽宮邦憲王
母親 邦憲王妃好子
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武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年明治36年〉3月30日 - 1923年大正12年〉9月1日)は、日本皇族賀陽宮邦憲王同妃好子の第2王女、山階宮武彦王

生涯

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1903年明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生[1]京都府立第一高等女学校を卒業[2]

1921年大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられた[3]が、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い[4]山階宮武彦王と結婚した[5]

1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した[6]。圧死であった[7]

佐紀子女王を守ろうと、好子妃や侍女、そして侍医が身を重ねたが、間もなく建屋が崩壊した[8]。瀕死の侍医に、好子妃はその死が「国家の損失である」と声をかけ、侍医はその言葉に感謝しつつ絶命した[8]

夫の武彦王は、追浜(現横須賀市)から自動車で駆けつけ、震災発生から約2時間後に妃の遺体に対面した[9]。佐紀子女王の遺体が発見された際、結婚以前から仕えていた侍女の石島祥(いしじま しょう/石嶋祥子とも)が、佐紀子女王を守ろうと覆いかぶさるようにして殉死していた[10][11]。武彦王は、胎児だけでも助からないかと下問したが、侍医がその可能性も無いことを告げると、好子妃は涙を流して悲しんだ[8]

遺骸は、防腐処理の上で鎌倉御用邸内のテントに移された[12]。テントには、負傷した母・好子妃も身を寄せ、武彦王は妃の通夜と、姑の看病に臨んだ[12]。武彦王は、横須賀の海軍航空隊に勤務しており、同部隊からテント等の資材や警護人員の差出を受けた[13]

武彦王は見舞いの武官に、多数の国民を喪ったことを残念に思うとした上で、妃佐紀子女王の薨去について次のように述べた[10][11]

併しこの際多数の國民と一緒に佐紀子が亡くなったといふことは自分としても聊か心に安んずるところがある。佐紀子としても聊か満足して居ることと信ずる。 — 山階宮武彦王、『大震災の哀話と美譚』p.21

9月17日付の官報で、生前に遡って勲一等宝冠章が授与されたことが公表された[14]。9月18日午前8時に、山階宮邸で告別の儀が行われ、引き続き東京都文京区豊島岡墓地にて埋柩の儀が執り行われ午前10時15分に終了した[15]

妻子を喪った武彦王は精神疾患を発症し、梨本宮家の規子女王との再婚も破談となった。

なお、同震災では、藤沢市東久邇宮稔彦王第2王男子の師正王が、小田原市閑院宮載仁親王第4王女子の寛子女王がやはり遭難し、皇族ではあわせて3名が落命している。後年、昭和天皇は皇族の薨去があったことを理由に、9月1日を「慎みの日」としていた[16]

栄典

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関連書籍

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  • 京都鴨沂会『露わけ衣』〈鴨沂会雑誌 特別増刊 佐紀子女王殿下奉悼號〉1924年。 

参考文献

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  • 飯塚哲英編『大震災の哀話と美譚』金の鳥社、1923年。全国書誌番号:42017215 
  • 関東大震災情報部編『関東大震災講話資料 第1輯』関東大震災情報部、1925年。全国書誌番号:43046736 
  • 高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文藝春秋文春文庫〉、1988年3月。ISBN 978-4167472016 

脚注

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  1. ^ 明治36年宮内省告示第10号(『官報』第5921号、明治36年4月1日)(NDLJP:2949226/2
  2. ^ 皇室写真帖編纂所『皇室写真帖』皇室写真帖発行所、1922年。全国書誌番号:43041601  p.79(NDLJP:1182552/110
  3. ^ 1921年2月22日読売新聞「賀陽宮家の佐紀子女王と山階宮武彦王が 御婚約の儀が進捗し 近日勅許を仰いで決定する」
  4. ^ 『官報』号外「宮廷録事」、大正11年7月20日(NDLJP:2955108/4
  5. ^ 大正11年宮内省告示第25号(『官報』第2990号、大正11年7月20日)(NDLJP:2949226/2
  6. ^ 大正12年宮内省告示第32号(『官報』号外、大正11年9月4日)(NDLJP:2955453/2
  7. ^ 関東大震災講話資料 1925 p.110
  8. ^ a b c 関東大震災講話資料 1925 p.111
  9. ^ 関東大震災講話資料 1925 p.110-111
  10. ^ a b 飯塚 1923 p.21
  11. ^ a b 関東大震災講話資料 1925 p.112
  12. ^ a b 飯塚 1923 p.20
  13. ^ 飯塚 1923 p.20-21
  14. ^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」大正12年9月17日(NDLJP:2955466/2
  15. ^ 『官報』号外「宮廷録事」、大正12年9月19日(NDLJP:2955468/2
  16. ^ 陛下、お尋ね申し上げます 1988 p.322
  17. ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」大正11年06月28日(NDLJP:2955089/6

関連項目

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