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佐藤光夫 (運輸官僚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さとう みつお

佐藤 光夫
生誕 1914年10月1日
長野県諏訪郡上諏訪町
死没 (1997-07-17) 1997年7月17日(82歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 旧制東京商科大学(現一橋大学
職業 官僚実業家
栄誉 勲二等旭日重光章
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佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本運輸官僚海上保安官海上保安庁長官運輸事務次官等を務めた後に、京成電鉄第6代社長として京成グループを率い、経営危機に陥っていたグループの再建を成功させた。敬虔なクリスチャンとしても知られた[1]。1987年勲二等旭日重光章受章[2]

人物

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長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て旧制東京商科大学一橋大学の前身)卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望し、鉄道省入省(大鉄局書記[3])。同期入省の木村睦男(元参議院議長)は、佐藤を「若いころからまじめを絵にかいたような男だった」と評する[1]

その後大阪陸運局長として、白タク禁止を、自宅前でデモが行われるなど猛烈な反発を受けるなか、粘り強い交渉を続けて、実現した[4]

1965年には運輸省航空局長に就任し、1965年の日米航空協定改定交渉や、1966年の日ソ航空協定で、日本側代表を務めた[5]。また、全日空羽田沖墜落事故等、立て続けに起きた航空事故に対応し、フライトレコーダー設置義務化の検討も行った[6]

海上保安庁長官運輸事務次官を経て運輸省退官後、日本民営鉄道協会理事長。1979年に、村田倉夫(のちに京成電鉄社長)に口説かれ[7]、経営不振に陥り、労使対立も激化していた京成電鉄の社長に就任、以後京成グループ再建にあたることとなる。これまで叩き上げが原則であった京成の社長であったが、佐藤は京成で初めて外部から招聘された社長となった[注釈 1]

21年間社長を務めワンマン社長として有名だった川﨑千春前社長について、本業以外に手を出しすぎたと批判するわけではないとしながらも[8]、村田らとともに不動産部門や流通部門の整理を進め、谷津遊園の閉園、大森上野京成百貨店営業譲渡、自身が理事長を務めたこともある日本民営鉄道協会からの脱退による春闘での独自路線等、なり振り構わぬ徹底した再建策を推し進め、1984年には債務超過から脱却。鉄道、自動車の主力事業の黒字化も達成し[9]、同社の経営再建を成功させた[10]。1986年に松井和治運輸事務次官と相談の上、村田副社長を次期社長に指名し、自身は会長に退いた[7]

趣味は音楽と登山[4]。1997年7月17日死去。享年82。

略歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 社長以外では正力松太郎(総務課長)などの例もある。

出典

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  1. ^ a b 日本経済新聞 1997年8月1日
  2. ^ 「秋の叙勲に4575人 女性が史上最高の379人」『読売新聞』1987年11月3日朝刊
  3. ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、328頁
  4. ^ a b 朝日新聞 1966年7月9日
  5. ^ 朝日新聞 1965年8月8日、朝日新聞 1966年1月14日
  6. ^ 朝日新聞 1966年2月10日
  7. ^ a b 日経産業新聞 1986年5月30日
  8. ^ 朝日新聞 1979年7月5日
  9. ^ 日経産業新聞 1998年3月4日
  10. ^ 朝日新聞 1986年7月24日
先代
広瀬真一
運輸省鉄道監督局長
1964年 - 1965年
次代
堀武夫
先代
栃内一彦
運輸省航空局長
1965年 - 1966年
次代
堀武夫
先代
栃内一彦
海上保安庁長官
1966年 - 1967年
次代
亀山信郎
先代
若狭得治
運輸事務次官
1967年 - 1968年
次代
堀武夫
先代
太田三郎
国際観光振興会会長
1977年 - 1979年
次代
手塚良成