コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

依仁親王妃周子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東伏見 周子
(依仁親王妃 周子)
東伏見宮家
続柄 岩倉具定第1女子

全名 東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)
身位 親王妃 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1876年8月29日
死去 (1955-03-04) 1955年3月4日(78歳没)
日本の旗 日本東京都
埋葬 日本の旗 日本・東京都文京区豊島岡墓地
配偶者 東伏見宮依仁親王
子女 なし
父親 岩倉具定
母親 岩倉久子
栄典 勲一等宝冠章
役職 愛国婦人会総裁(1924年 - 1942年[1]
大日本婦人衛生会総裁
テンプレートを表示

依仁親王妃 周子(よりひとしんのうひ かねこ、1876年明治9年〉8月29日 - 1955年昭和30年〉3月4日)は、日本旧皇族東伏見宮依仁親王の妃。岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。旧名は、岩倉 周子(いわくら かねこ)。皇籍離脱前の身位親王妃で、皇室典範における敬称殿下。皇籍離脱後の名は、「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」。

生涯

[編集]

1876年明治9年)8月29日岩倉具定公爵の長女として誕生。はじめ華族女学校に学ぶが、東京女学館に転校して卒業[2]。安井春子(広瀬武夫夫人)に漢学を、西川清子(西川虎之助の長女、ヴィッカース慶大教授夫人)に英語ピアノを、中島歌子和歌を、野口小蘋絵画を、それぞれ師事した[2]

1898年(明治31年)、依仁親王と結婚する。結婚後も教養や語学に磨きをかけるとともに、写真撮影を愛好し、夫妻で旅行を楽しんだ[2]。容姿端麗で、駐日の欧米外交官との社交で活躍。1893年(明治26年)に来日したオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントは、舞踏会で会った依仁親王妃の周子を「きわめて美しく魅力にあふれた女性」と評し、結婚わずか8日後に夫の依仁親王がヨーロッパへ出発したと聞いて同情したと記している[3]

また、香淳皇后皇太子妃だった頃の輔導役も果たした。社会事業にも積極的で、母の岩倉久子公爵夫人の跡を追い愛国婦人会、大日本婦人衛生会の総裁を務めた。東伏見宮邸では4頭の愛犬(ジョン、タンナ、メー、フク)を飼っており、食事の際には夫妻の膝に載ることもあったという[4]

寡妃となった後も皇族女子として活躍したが、1947年昭和22年)10月14日皇室典範第14条の規定により、皇籍を離脱し、以後は「東伏見 周子(ひがしふしみ かねこ)」となる。1955年(昭和30年)3月4日、逝去。78歳没。

女優・小桜葉子の伯母であり、その長男・加山雄三にとって大伯母にあたる。

栄典

[編集]

親族

[編集]

参考文献

[編集]
  • 中村秋人『名媛と筆蹟』博文館、1909年12月。全国書誌番号:40071861 

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 今井 小の実「愛国婦人会と社会事業:大正後期の山口支部の活動に焦点をあてて」(関西学院大学人間福祉学部研究会『Human welfare』第12巻第1号、2020年)
  2. ^ a b c 中村 1909 p.22
  3. ^ 『オーストリア皇太子の日本日記』フランツ・フェルディナント、(講談社学術文庫、2005年9月)p171
  4. ^ 中村 1909 p.24
  5. ^ 『官報』第4472号、明治31年5月30日
  6. ^ 『官報』第7578号、付録「辞令」、明治39年9月28日
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。