兼重就継
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 慶長17年(1612年) |
死没 | 延宝元年3月5日(1673年4月21日) |
改名 | 兼重勝内(幼名)→兼重就継 |
別名 | 采女正→五郎兵衛(官途名) |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流兼重家 |
父母 | 父:兼重元辰、母:和智広世の娘 |
兄弟 | 就継、長屋就忠、女(天野就友室) |
妻 | 西清房の娘 |
子 | 就宣、露身、女(児玉就正室)、玄利 |
兼重 就継(かねしげ なりつぐ)は、江戸時代前期の長州藩士。家格は物頭組、590石。父は兼重元辰。妻は長府藩士・西清房の娘。
生涯
[編集]慶長17年(1612年)、毛利氏家臣の兼重元辰の子として生まれたが、元辰は元和3年(1617年)に死去した。元和4年(1618年)3月6日に毛利秀就の加冠により元服し、「就」の偏諱を与えられて就継と名乗る。
元辰の死後は祖父の元続が代わりを務めていたが病に伏せたため、元和6年(1620年)5月28日に毛利輝元と秀就に願い出て許可を得、就継が15、16歳くらいになるまでは、元辰の弟の元可が役目を務めさせることとし、知行890石のうち300石を元可に分与した。なお、元続はその翌月に死去している。
元和10年(1624年)3月3日に采女正、寛永6年(1629年)7月7日には五郎兵衛の官途名を秀就から与えられた。秀就、綱広の2代に仕えた後、延宝元年(1673年)3月5日に死去した。享年62。嫡男の就宣が跡を継いだ。