内藤久一郎
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内藤 久一郎(ないとう きゅういちろう、1905年(明治38年)3月12日[1] - 1989年(平成元年)10月20日[1][2])は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡石地町長。
経歴
[編集]新潟県[1][2]刈羽郡石地町[3](朝日町、西山町を経て現柏崎市西山町石地)で、素封家・内藤鷲郎[注 1](内藤久寛養子)の長男として生まれる[4][5]。1930年(昭和5年)早稲田大学経済科を卒業した[1][2][3][4]。
1931年(昭和6年)9月、新潟県会議員に当選し、同参事会員も務めた[1][2][5]。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に新潟県第3区から立憲民政党公認で出馬して当選し[1][2][3][6]、衆議院議員に1期在任した[1]。その他、石地町長、新潟県町村長会副会長、刈羽郡町村長会長、新潟県大陸開拓協会副会長、大政翼賛会刈羽郡支部長、柏崎税務署管内家屋賃貸価格調査委員、青少年団長、帝国在郷軍人会石地分会長、石地町農会長などを務めた[1][2][5]。
実業界では、石地町信用組合長、柏崎瓦斯監査役、長岡銀行取締役、北越銀行監査役、七洋工芸取締役などを務めた[2][5]。
戦後に公職追放となった[7]。追放解除後、1952年(昭和27年)10月、第25回総選挙に新潟県第3区から改進党公認で出馬したが落選した[8]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『越佐人物誌 中巻』655頁では紫郎。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局、1936年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 下』人事興信所、1940年。
- 金子信尚『新潟県人名辞書』新潟県人名辞書編纂事務所、1941年。
- 牧野利平編『越佐人物誌 中巻』野島出版、1972年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。