利用者‐会話:ミラー海神/過去ログ1
このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題は、利用者‐会話:ミラー海神で行ってください。 |
あの件について
[編集]Wikipedia:存命人物の伝記を厳重に守って下さい。存命人物のプライバシー侵害や名誉毀損の可能性がわずかでもあれば絶対に書かない。--ぱたごん(会話) 2014年3月16日 (日) 12:04 (UTC)
- 大道健二のページでも、またやらかしてるようですね…。そういう事を繰り返していると、ブロック対象にされても文句が言えなくなりますよ?--202.40.137.197 2014年3月23日 (日) 06:21 (UTC)
力士記事について
[編集]出典になさった「大相撲 記録の玉手箱」には「文章・画像の無断転載を禁ず」という管理者の著作権表記があるんですが、ご承知の上でのことでしょうね?--219.111.115.170 2014年7月17日 (木) 14:40 (UTC)
Template:NF-Board又はConIFAに加盟、もしくはFIFA未加盟のナショナルチーム について
[編集]アルトクールと申します。先ほどTemplate:NF-Board又はConIFAに加盟、もしくはFIFA未加盟のナショナルチームを投稿されたようですが、転送先なしのリダイレクトとして即時削除を貼りました。表題のページはテンプレート名前空間で、標準名前空間へのリダイレクトは一般的に行われません。ご留意のほどお願い致します。--アルトクール(話/歴) 2014年7月23日 (水) 12:40 (UTC)
中山 涙 について
[編集]加筆・編集ありがとうございました。--鬼さんこちら(会話) 2014年8月22日 (金) 00:09 (UTC)
英語版から翻訳されたネオジオのゲーム作品について。
[編集]得点王 (ゲーム) 、ネオジオカップ'98 〜THE ROAD TO THE VICTORY〜、ネオジオカップ'98プラスなどを翻訳なさったようですが、日本語版でミラー海神さんが独自に追加された部分はなにを理由に追加になさったのでしょうか?個人のウェブサイトやブログ、そのほかの自己公表物あるいは自費出版物は、二次資料として使用できません。という方針があり、ミラー海神さんが参照したサイトの多くは「個人ブログ」、「まとめサイト」、「ゲーム攻略wikiサイト」などで、信頼できる情報源の要項を満たしていません。それらに代わる信頼できる情報源の提出をお願いいたします。出典がまったくなく独自研究にあたる節や文もいくつか見られましたのでそちらも改善願います。--120.74.85.7 2014年9月4日 (木) 00:01 (UTC)
referenceの編集について、
[編集]Eichler-Shimuraの編集ありがとうございます.しかしながら、現在、英語側の原文の編集も行う予定があり、英語側、日本語側の他の記事との整合性を取っているところです.また、このマクロの該当部分を変更しても表面上は何の変化もありませんので意味がありません.英語版と比較することができませんので、Undoさせていただきます.趣旨をご理解いただきましたら、本セクションを削除いただいて結構です.--Enyokoyama(会話) 2014年9月14日 (日) 07:51 (UTC)
お誘い
[編集]こんにちは、Musitation(会話)と申します。人間の性関連記事の執筆にご参加くださいましてどうもありがとうございます。もし宜しければPortal:性やプロジェクト:性なども是非ご参考になさってください。どうぞ宜しくお願い申し上げます。--Musitation(会話) 2014年9月28日 (日) 05:18 (UTC)
出典について
[編集]どうもはじめまして。途方シネマズと申します。野球選手の記事について大変積極的な加筆をされているようで、恐れ入ります。しかし、ミラー海神様が加筆されている記事について、出典をよく見ると、個人のサイトを出典としているものが大半のように見受けられました。果てはヤフー知恵袋(筒井良武です)を出典とされているようですね。Wikipedia:信頼できる情報源を見ますと、(前略)自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられませんとあり、原則個人のサイトは出典としてはNGという事になっています。ヤフー知恵袋についてはネット上での匿名での投稿となるため、情報源としては受け入れられないように思います。Wikipediaでは出典を全くつけずに加筆していく方が非常に多いので、出典はないよりはましだとは思いますが、出典を付けるのであればWikipedia:信頼できる情報源をお読みになり、記事の加筆・立項をお願いいたします。--途方シネマズ(会話) 2014年10月2日 (木) 23:34 (UTC)
- 上記の注意書きを記載後にのぼらんかと言うゲームの記事を立項されたようですが、外部リンクを見ますと、個人サイトYoutubeの動画などがリンクされています。外部リンクの取り決めを見ますと、youtubeなどの動画は禁止ではないもののアップロードされている動画は一個人が勝手にアップロードした動画のようなので著作権上問題となる動画ですので不適切な外部リンクとなります。動画でないサイトについても個人サイトのようですから、宣伝的で中立でない可能性があり、外部リンクとしては不適切です。--途方シネマズ(会話) 2014年10月6日 (月) 01:21 (UTC)
- 上記の注意書き後、更にプロゴルフ (ゲーム)の記事を立項されたようですが、こちらに外部リンクとして記載されているサイトは個人のブログと、youtubeの個人のプレイ動画ではないでしょうか?また野球選手の記事を立項されていますが、今度はいずれも出典が全くありません。個人のサイトは出典として使えませんが、書物等であれば出典があるはずです。ちゃんとした出典が無ければ記事を書くべきではありません。Wikipediaには様々な方針やルールがありますが、それらを理解の上編集活動にいそしんでいただきますようお願いします。--途方シネマズ(会話) 2014年10月26日 (日) 23:28 (UTC)
刑死した人物Categoryについて
[編集]人物の死の状況があなた個人の憶測を誘うのかもしれませんが、なんでもかんでも「刑死した人物Category」を付けるのは止めていただけませんかね?記事読者を誤読へと誘導しかねないので。--Nagaichi(会話) 2014年10月26日 (日) 18:09 (UTC)
ペドロ・サンチェスについて
[編集]私が新しく作成したいくつかの記事に「○○年設立」などのカテゴリーの付与を行っていただき、ありがとうございます。ミラー海神さんはペドロ・サンチェスにCategory:スペインのバスケットボール選手を付与されましたが、ABC紙の出典を確認するとあくまでも学生時代にアマチュアとしてプレーしていただけのようで、この人物の経歴の中では政治家という肩書と並列させるまでもないと思い、この項目からCategory:スペインのバスケットボール選手を外し、エストゥディアンテスBCの歴代所属選手欄からサンチェスの名前を除去しました。ご理解をお願いします。なお、結局エストゥディアンテスBCのどのカテゴリーのチームに所属していたのかが不明なのですが、現在は基金の運営にかかわっているなどとの注釈つきでエストゥディアンテスBCの項目に記載することには意義があるかもしれません。その辺はお任せします。--Asturio Cantabrio(会話) 2014年10月27日 (月) 04:30 (UTC)
森岡俊夫について
[編集]お疲れ様です。森岡俊夫についてミラー海神さんが追加してくださった[[Category:大阪大学出身の人物]]ですが、医学部選科の場合にもつけていいのでしょうか?当時の歯科医師が研究で医学博士になる際に必要なルートでは有りますが、大学としては特殊なコースの用に思えますので、そこで判断に悩んでinfoboxの出身校や出身カテゴリに追加できませんでした。KMT(会話) 2014年11月1日 (土) 09:29 (UTC)
カテゴリの濫造はおやめください
[編集]こんにちは。あなたがカテゴリ:ハイチのギタリストやカテゴリ:オランダの小説家を作成しているのを見ましてお伺いしました。
カテゴリに含まれるページが極端に少ないカテゴリの作成を短期間に繰り返している現在の行為は、カテゴリの濫造と判断される行為です。Wikipedia:カテゴリの方針、Wikipedia:過剰なカテゴリに沿った作成であるか、もう一度確認して作業を行ってください。--アルトクール(話/歴) 2014年11月3日 (月) 08:13 (UTC)
出典について
[編集]再三あなたの会話ページに書き込んでおりますが、相変わらず出典として使用されている外部サイトが個人サイトなど出典として不適切なサイトが見受けられます(叶凸、松永仏骨など)。私の注意書きを読まれておりますでしょうか?他の方からも出典以外の点でも注意されておりますが、読まれておりますでしょうか?--途方シネマズ(会話) 2014年12月17日 (水) 02:51 (UTC)
コメント依頼を提起しました
[編集]こちらでコメント依頼を提起しました。あなたの編集方針に疑念がありますのでお手数ですがコメントをお願いいたします。--途方シネマズ(会話) 2014年12月19日 (金) 09:11 (UTC)
あなたのお気に入りの記事をお聞かせください
[編集]あなたのお気に入りの記事をお聞かせください。その記事に半角スペース1文字だけ入れてわたしに知らせてください。読みたくなりました。読んだら感想とかまた書かせていただくかもしれません。--ジャコウネズミ(会話 | 投稿記録) 2014年12月23日 (火) 05:55 (UTC)
- 初めまして、ジャコウネズミ様。ミラー海神と申します。私のお気に入りの記事は、無冠の帝王 シルバーコレクター 番狂わせ の3つです。世間では普通、勝者ばかり取り上げられることが多いですが(好例が関ヶ原の戦い 元禄赤穂事件 など)、この3つの記事は、勝者の陰に隠れがちな敗者にスポットライトを当てて、敗者の特徴・美点を広く知らしめる点で気に入っています。私がWikipediaに投稿するコンセプトは、「時代の陰に埋もれてしまった人物・事項(特に第二次世界大戦前後の混乱期で、当時有名だった物が、いつの間にか時代の波に埋もれていたりする日本の事物)をこの場で投稿して、再び光を当てる」事です。そのため、少々出典が不足・不十分であって(無いのは困りますが。でも、私の投稿も度々Wikipediaのルールに抵触している所もあり、その点は反省しています)も、Wikipediaに立稿する事によって、再びスポットライトを当ててあげたい。そう思いながら、投稿しています。こんな私ですが、よろしくお願い致します。--ミラー海神(会話 | 投稿記録) 2014年12月23日 (火) 06:21 (UTC)
- どうもです。会話ページのリバートを悪意にとられるのは本当に嫌ですよね。私もいろいろ失礼な勘繰りをしてしまいました。英語版Wikipediaでは、自由に表示を消す文化が維持されているようですし(日本語版もその文化ごと輸入したので最初はそうだったらしいんですが、ページ上で言い合い(議論とも呼べないような)が多発して、話が終わってないのに消すな!って表示を復活させて、むしろ醜い応酬や警告の方が表示させなくてはならないようになって、今では「白紙化も禁止されていませんが」という程になってしまいました。むしろ禁止されていると思っている人の方が多いです。私の勘違いかもしれませんが、中国語版では既読の印にリバートするみたいです。「話が終わってないのに消すな!」に慣れてしまってついリバートしたら管理者か誰かがすぐ代わりに来て注意されました。白紙化の話は何度かしているんですが、いよいよこれは訴えなくてはいけないなと。Wikipedia:井戸端で話してみようと思います。
- 本来、この会話ページは記事向上のための議論のためにあって、雑談するためではないですし、感想を書かせていただくかもって言いましたが、特になかったです。テレビゲームの記事がやたら詳しかったんでそういうものがお好きなのかなと最初思っていました。「敗者の特徴・美点」ですか。神妙な気持ちになりますね。
- で、ですが、Wikipedia:独立記事作成の目安の方はWikipedia:信頼できる情報源の質をがっちり固めてないとあなたが思っている以上にまずいかもしれないです。コメント依頼でブロックとか、一度言ってしまったくらいなんで。厳しい考え方をしています。ただ、「特筆性の有無がはっきりしない記事については、削除は最後の手段であるべきです。」ってありますので、本当に最後の手段です。考え方については後でまた詳しく書きます。--ジャコウネズミ(会話 | 投稿記録) 2014年12月23日 (火) 08:05 (UTC)
- 本来、この会話ページは記事向上のための議論のためにあって、雑談するためではないですし、感想を書かせていただくかもって言いましたが、特になかったです。テレビゲームの記事がやたら詳しかったんでそういうものがお好きなのかなと最初思っていました。「敗者の特徴・美点」ですか。神妙な気持ちになりますね。
- どうもです。会話ページのリバートを悪意にとられるのは本当に嫌ですよね。私もいろいろ失礼な勘繰りをしてしまいました。英語版Wikipediaでは、自由に表示を消す文化が維持されているようですし(日本語版もその文化ごと輸入したので最初はそうだったらしいんですが、ページ上で言い合い(議論とも呼べないような)が多発して、話が終わってないのに消すな!って表示を復活させて、むしろ醜い応酬や警告の方が表示させなくてはならないようになって、今では「白紙化も禁止されていませんが」という程になってしまいました。むしろ禁止されていると思っている人の方が多いです。私の勘違いかもしれませんが、中国語版では既読の印にリバートするみたいです。「話が終わってないのに消すな!」に慣れてしまってついリバートしたら管理者か誰かがすぐ代わりに来て注意されました。白紙化の話は何度かしているんですが、いよいよこれは訴えなくてはいけないなと。Wikipedia:井戸端で話してみようと思います。
利用者‐会話:ジャコウネズミまで気楽にお越しください。お話しましょう。話題は何でも構いません。編集することの楽しさとかについて語り合いたいです。--ジャコウネズミ(会話 | 投稿記録) 2014年12月24日 (水) 00:31 (UTC)
お願い
[編集]ミラー海神さんがこれまで会話ページにいらっしゃらなかった理由が分かりましたので、逆に申します。この節に書くことは消さないでください。隠密にしておくために消してくださいと言いたいところですが、追記を書かせていただくことが発生してしまうかもしれないので、表示したままでお願いいたします。なぜ記事を粗製濫造してはいけないのかを結論から先に言いますと、『Wikipediaは複数の人たちが集まって記事を書き、よりよい記事にしていくサイトだから』です。私、ジャコウネズミは今後もあなたが記事の編集を続けていかれることを全力で擁護したいと思います。しかし、それを決めるのは、ここにいる人たちです。ですから、私にあなたを擁護するための根拠を与えてください。既にあなたは他の方々が編集されている記事を編集しています。他の方々が書いておられる記事の記事本文の編集の機会を増やしてください。カテゴリの濫造や既にあるカテゴリの添付ももうしないでください。擁護しづらくなります。翻訳記事の作成も内容的には素晴らしいことかもしれませんが、日本語版Wikipediaに居る人たちの中で記述を良くして行こうというここのサイトの趣旨に沿いません。気持ち的には擁護しますが不可能です。もうやらないでください。特筆性とは、立項される対象がその対象と無関係な信頼できる情報源において有意に言及されている状態であることを意味します。特筆性の言葉上の意味は、店の評判など、どんな些細なことでもWikipedia:信頼できる情報源を満たす出典によって何か言われたことが記事に書かれているということです。言葉の意味はただそれだけのことですが、出典があれば記事になるわけではなく、(リンク作の記事は)単にWikipedia:信頼できる情報源を厳格に守っただけの頭のいい人が作った「悪ふざけ」です。「独立記事作成の基準」ではありません。Wikipedia:独立記事作成の目安が「目安」であって「基準」とかかれていないのはそのためです。誰かと協力して、対話して、ときには議論もして、複数の編集者が記事を編集していけそうな話題がWikipediaで好まれているのはそのためです。このことをさらに強調するために、Wikipediaに「編集履歴」というものがある意味をご説明いたします。理由は『1.著作権法を守ることと、2.既に書かれている記事を変更することと、3.いちいち誰がどこをどのように変更したかを記事本文に表示させておかなくてすむようにする、この3つの条件をすべてクリアするために必要なシステム』だからです。1. 誰でも書いたものは著作物で、誰にも複製も変更もさせない権利を持っています。2.記事編集に出典を付けるのも、著作権法の複製権(転載禁止)の例外規定である引用に定められている法的用件だからです。誰が(どこをどのように)変更したかを署名付きで残しておけば、編集可能です、というWikipedia内部のルールを保証して、記事を編集可能にしているのがWikipediaのライセンス規定です。3.これだけだと、現状自由に編集させてくれないここの会話ページやノートページのように、どんどん追加され、署名が増え、打ち消し線だらけのぐちゃぐちゃなページになってしまいます。記事として読めません。そこで、その役目を記事の裏にある履歴ページを残すことで表に書かなくて済むようにした、それがWikipediaのシステムなのです。ウィキペディアのシステムは全てはこのためにあるのです。そのシステムの中で、時を重ねるごとに、記事内容が向上するよう定めた考えに考えられた仕組みが、難しい言葉で書かれているWikipediaのルールの全てです。ちなみにここの編集者たちは、会話ページをまるで1.2.までしかない状態と同じと考えているやつらばっかりですが、同じシステムなので安心してください。もし差し戻すなと誰かに言われたら私を呼んでください。この件も含め、私はあなたの編集を身を挺する覚悟で擁護します。決して裏切らないでください。擁護と弁護は違います。弁護もしますが、その分、あなたの編集行為が有名になってしまい、不利かもしれないと危惧しています。もうこれ以上何も言わないことも擁護のうちだろうと思います。どんなことでもいいので、こちらに来て私に相談してください。あなたは、その編集行為の特徴から、既に何人かの方々から指摘を受け、徐々に知られる人になってきています。用心して記事の編集に励んでください。では失礼致します。--ジャコウネズミ(会話 | 投稿記録) 2014年12月24日 (水) 16:52 (UTC)
感謝していただき恐縮です
[編集]- 度々感謝していただき大変恐縮です。さて、ミラー海神さんは、勝者の陰に隠れがちなもの、日の当たらないものに興味があるとのこと。この点に付いては私も同じで、ちょっと意味が違うかもしれないが、有名でありながら未だ記事がなかった人物についても、私は日の当たらない人物として捉えています。相撲のことはあらかた終わったと思っていて、今は別角度からの記事作成をせねばならぬと思っている日々です。
- ところで先日来、私には記事にする自信がないとして執筆依頼に上げたものを紹介しておきますので、ミラー海神さんが記事にできそうであれば、どうぞ記事にしてあげてください。いずれも、日が当たっていないか、有名なのに記事がないものです。
- まずはゴルフの選手から、最近とみに活躍している武藤俊憲選手の記事がまだありません。また青木功などと同じように中卒のたたき上げ、千葉県野田市出身、優勝8回の草壁政治選手も記事がない。草壁は優勝から32年遠のいているので、過去の人かもしれません。
- ついで野球選手では、ドラフト制以降の中卒選手3人のうち、近藤義之がいまだ記事なし。元中日・広島の若林隆信の父、元西鉄の若林淳至も記事なし。西日本パイレーツの元選手、大分の津久見高校監督として優勝2回、高橋直樹、大田卓司らを指導、川崎憲次郎が2年の1987年まで監督を務めた小嶋の兄ちゃんこと小嶋仁八郎(1921年7月7日-1999年11月16日)も、何故か記事がありません。
- ラグビーの世界では、都城から明治、サントリー初優勝の決勝ゴールを決めたサントリーのエース・永友洋司、何かと有名な選手だがこれも記事なし。また1991年1月8日の三洋との伝説の試合でロスタイムの大逆転トライを決めた神戸製鋼のイアン・ウィリアムス(トライで同点、コンバージョンゴールで逆転勝ち越し、キックは細川隆弘)、2013年春に24歳で死亡した近鉄ライナーズの有望株、中井太喜も記事がない。
- マラソン選手では、1992年のバルセロナ五輪で有森裕子を選ぶか松野明美を選ぶかで有森を選んだ小掛照二は、ソウル五輪の男子マラソン3人目でも瀬古利彦か工藤一良かで、瀬古を選んだ。瀬古は有名だが、工藤一良も当時は悲運の選手として知れ渡っていた。ソウル五輪補欠になった工藤一良もいまだ記事なし。工藤は、青森の駅伝の名門だった名久井農業高校からリッカーミシンに進んだが、リッカーが廃部。ソウル五輪補欠になった時は日産自動車陸上競技部の選手だった。その日産陸上部も5、6年ほど前に廃部なのだから、工藤は悲運が似合うようです。しかし、日清食品グループ陸上部のコーチだか何だかに招聘され、日清陸上部を強豪にしたのだから、記事がないのは日が当たっていない証左。その他、読売防府マラソン常連の渡辺共則やマヌエル・マティアス、ジャクソン・カビガ、森宗寛司なども記事なしです。
- これは人物ではないですが、高校野球や高校サッカーの全国大会に過去に出場した高校は、当然記事があるものと捉えていたら、公立高校は統合によって消滅していたりするものです。そういった学校で、学校としての記事がないものとしては、野球では北海道芦別工業高等学校、サッカーでは石川県立河北台商業高等学校でしょう。日の当たらないという点では、廃校した私立高校というのもあり、釧路第一やジ・オリオンは何かと有名です。その他多くありますが、記事がなくて日が当たっていない廃校した私立高校は、石川の星稜(実践第二)の兄弟校の実践第一高校(実践商業高校から改称)や、和歌山の三尾高校(三尾商業高校から改称)でしょう。
- 以上の上げたものは、私には到底記事に出来そうにない人物や学校ばかりで、丸投げのようで申し訳ありませんが、もしもミラー海神さんの眼鏡に叶い記事にすべきと判断し、出来そうであればチャレンジ下さい。--まっきんりい(会話) 2015年1月27日 (火) 05:23 (UTC)
- 初めまして、まっきんりい様。ミラー海神と申します。色々と執筆依頼をして下さって、本当にありがとうございます。また折に触れて、執筆依頼の記事を作りたいと思います。今後もどうぞよろしくお願いします。--ミラー海神(投稿記録) 2015年1月27日 (火) 10:00 (UTC)
- 丸投げ迷惑かと思ったら、そうでもないとのこと感謝します。ところで昨日申し述べた小嶋仁八郎のこと、もし私が提供した情報を元に記事を作られるならば、ちょっと誤りがあったので訂正しておきたいと思います。1999年に小嶋氏が逝去された時に、川崎が「私が高2の時まで…」と言っていたので、1987年まで監督かと思っていたら1982年までのようです。その後はグラウンドに顔を出して、時折指導していたとのこと。小嶋仁八郎は、臼杵高、中央大では投手ですが、実際に西日本パイレーツに所属したのかあやふや、練習生であったのかもしれず、要するに元プロなのかそうではないのかわからず、それがネックで私には記事に出来なかった。教え子20余人をプロに輩出したのに記事がないのは残念なことです。その他、知っているのは1988年に朝日体育賞というものを受賞したことくらいです。
- また、2009年まで奈良の郡山高校を実に長く指揮し、甲子園でも名将に数えられる、今は大阪桐蔭の総監督でもある森本達幸氏の記事も存在しません。もう81歳くらいだと思います。たしか大和郡山市内で森本バッティングセンターという自営業をしながら、郡山高校を長く率いた人物です。また、福島の学法石川高校を強豪にし、監督退任後に総監督となり、1999年の学法石川の甲子園出場の際に、アルプススタンドで観戦中に倒れ、数日後に西宮市内で亡くなった柳沢泰典監督や、三重の明野高校の監督で、明野時代を築いた野球未経験、元ボクシング選手の冨士井金雪監督も著名です。明野の冨士井監督は、1990年6月13日に、部の後援会だか保護者会だか、部費のことだったか、何かのトラブルで連日の警察の事情聴取に疲れ、首吊り自殺しています。冨士井監督が潔白だったのかはわかりませんが、明野時代を築いたのは事実。昨日の分と、森本、柳沢、冨士井の3監督が、私には記事に出来そうにない人物、学校です。気が向いたらどうぞ、よろしくお願いします。--まっきんりい(会話) 2015年1月28日 (水) 06:48 (UTC)
情報を提供
[編集]- 執筆丸投げだと申し訳ないので、もし記事に出来るのであればと思い、私がこれまで摑んでいる情報を提供しておきます。ただ、これだけだと記事にするには心許ないことばかりです。
- まずは森本達幸ですが、1934年11月6日、奈良県生まれ。郡山高校から関西大学、京都大丸で投手。高1の時は紀和大会決勝で新宮に1-2、高3でも紀和大会決勝で新宮に0-1で敗れ甲子園出場なし。関大では上田利治とバッテリーを組む。1963年から母校監督、2009年まで務め、甲子園春夏11回出場。1971年夏に初戦でPL学園に快勝したことで一目置かれはじめた人物。監督在任中は、バッテイングセンター経営と、時期不明ながら大和郡山市の助役も務めた。2011年から大阪桐蔭高校の総監督。80歳。
- ついで学法石川の柳沢泰典は、横浜生まれで日本大学高校から日本大学。卒業後の1967年に福島の学法石川高校の野球部監督に就任。大洋・遠藤、ロッテ・諸積、オリックス・川越を指導。福島の強豪にしたが、ある時に監督を退任し、総監督に退いた。1993年夏出場の時は、まだ監督であったので、それ以降のことかと思われる。1999年に学法石川が甲子園出場し、8月14日の初戦をアルプススタンドで在校生とともに観戦・応援中にくも膜下出血で倒れ騒ぎとなって病院に搬送され、大会終了翌日の8月22日に54歳で没。柳沢は甲子園で死んだと言われた。生年月日がわからないが、逆算すると1945年4月2日から8月22日までの間の生まれか。
- 明野の冨士井金雪は、1943年10月10日に三重県度会郡二見町の生まれ。伊勢実業高校(伊勢まなび高校に改称)、国士舘大学の出身。元ボクシング選手で、ボクシング部のある明野高校に赴任してボクシング部監督。1975年の三重国体では、明野ボクシング部を中心に構成するボクシング三重県代表監督として、国体優勝。1978年から野球未経験であったが野球部監督に就任。本人の志願ではなくて、ボクシングで優勝した手腕を買われたとのこと。1980年夏に初出場し、最後の甲子園出場は1988年春。初勝利は1985年春。金星は1986年の初戦にセンバツ優勝の池田を圧倒した白星。教え子に大道典嘉、広沢好輝。1990年のトラブルは、部員か部員の家族か、その周辺からの収賄容疑とのことで、警察沙汰になり任意事情聴取中に首を釣って縊死。
- 別件で紹介した廃校した私立高校の三尾高校は、三尾商業高校から改称ではなく、1948年の新制高校化で三尾商業学校から三尾高校に改称のようです。また最終的には三尾高校から三尾実業高校に改称したと聞き、いずれにしても1952年に廃校となり、高等学校としては4年しか存在しなかった模様です。ただ、実際に三尾高校を名乗ったのかどうかも不明で、三尾商業学校から三尾実業高校へ改称かもしれません。
- 以上の点では、記事にするには少し足りないと思い、私では出来ないと判断した次第。その為、私が摑んでいる情報を全て提供します。度々のこと、申し訳なく思っています。--まっきんりい(会話) 2015年1月29日 (木) 03:40 (UTC)
- 柳沢泰典は、1997年夏の予選終了後に監督を退き、総監督となったようです。また死去から15日後の9月6日に、学法石川高校で柳沢家と学法石川高校による合同葬が営まれた模様です。--まっきんりい(会話) 2015年1月30日 (金) 08:28 (UTC)
素晴らしい記事作成です
[編集]- 丸投げして申し訳なかったのですが、なかなか素晴らしい記事の仕上がり感謝します。足りない点は私も加筆しますし、また誰かが加筆するでしょう。ところで、近藤義之について私もよく知らないのですが、中学卒業後の1967年夏にプロテストを受けたので、生年月日は逆算すると1951年4月2日-1952年4月1日の間になります。1952年とあるので、1952年1月1日-4月1日の間で間違いないでしょうか?また詳しい誰かが加筆するので心配は無用かと思いますが。若林淳至の生年月日もそのうち誰かが加筆するでしょう。ラグビーの永友洋司のことを言うと、宮崎県に長友、永友の姓が多いので、当然何故多いのかそれに応えるために記事があって、著名人として永友洋司はあるものだと思ったらなかった。1995年度の三洋との同点優勝を決めたゴールキックなど何かと有名だったのですが。サッカーの長友も祖父が宮崎出身のようです。また郡山高校の森本達幸は、昨年発売された本に郡山高校名誉監督とあったので、大阪桐蔭の総監督をもう辞めたのか、兼任なのかわかりません。ともあれ立派な記事感謝します。--まっきんりい(会話) 2015年2月2日 (月) 03:08 (UTC)
- まっきんりい様へ。褒めて戴き、こちらこそ感謝致します。近藤義之に関しては、ページ中の元阪神の辻本賢人の記事で「15歳で1年目のシーズン」を迎えたとあるので、1968年1月1日時点で15歳というと、1952年1月2日-1953年1月1日の間になります。また仰る通り、1967年夏にプロテストを受けたので、生年月日は逆算すると1951年4月2日-1952年4月1日の間ですから、重複している期間として1952年1月2日-4月1日の間と計算できます。これ以上はいくら調べても不明でした。ただ断片的な資料から計算できる物はなるべく記事化していきたいです。お仕事があるので中々時間が取りづらいですが、今後もなるべくまっきんりい様のご要望に関しては、記事化していきますのでよろしくお願い致します。--ミラー海神(投稿記録) 2015年2月2日 (月) 13:00 (UTC)
- 忙しいところ申し訳ないです。ところで、日が当たらないマラソン選手(有名なのに記事がない選手含む)で、工藤一良のみ詳しく情報を提供しましたが、他の選手については情報を提供していないので、ここで提供をしておきます。渡辺共則は旭化成所属、高校は京都の宇治高校で、女子マラソンの千葉真子と同級のようです。高3の9月1日から宇治高校が立命館宇治高校に改称したようです。防府国際マラソンや北海道マラソンといった、少し注目されないが大きい大会によく参加していた選手。防府は1999、北海道は2005、2006年で優勝しています。都道府県対抗男子駅伝の京都選手団に入ったりと、マラソン選手としては比較的地味に活動。表記はごく稀に渡邊とされるが、実際に渡邊なのか渡邉なのかわからないから、渡辺共則と表記されるのが一般的。旭化成の一流選手と千葉真子の陰に隠れた存在。
- 次いで森宗寛司(もりそうかんじ)については、カネボウ所属の選手で、マラソン選手しては好結果を残せておらず、それがネック。ただ、伊藤国光の指導を受けた選手で、伊藤に栄冠を齎した大功労者ということは事実。伊藤と言えば日本が誇る名ランナーでありながら、何故か一度も優勝できなかったカネボウの選手。日本人で初めて2時間7分台をたたき出した時も優勝できなかった。カネボウ監督としては、高岡寿成や入船敏を一流に育てた手腕は大変評価されています。現在元日に開催されている実業団駅伝の第40回大会で優勝監督になった時は、優勝に縁がなかっただけに感動しました。この40回大会でカネボウのアンカーを任されたのが森宗で、旭化成の佐保希とほぼ同時にタスキを受け、佐保とともにアンカー区間を併走、ゴール目前1秒差で佐保を抑え、伊藤に栄冠を齎した。アンカー区間以前の区間の選手も立派だが、森宗が伊藤を男にしたのは事実。森宗はマラソン選手としてはあまり実績がなかった。都道府県男子駅伝で出身の岡山選手団で何度か走っていた。
- マラソンの大会では、トラック勝負になることが、かつての東京国際や福岡国際ではよくあって、ジュマ・イカンガーと瀬古利彦、デンシモと渋谷俊浩、メコネンと小指徹のトラック勝負とかが有名です。ポルトガルのマヌエル・マティアスは、1989年の福岡国際でトラック勝負を制した選手で、併走して競技場に入ってきたのではなく、それなりの差をソ連のラビル・カシャポフに付けられて競技場に入ってきた。それをトラック400mで猛追し、残り20mほどで並んだと記憶していて、最後に抜いたと思う。当時はポルトガルは、1984年ロサンゼルス五輪男子マラソン、1988年ソウル五輪女子マラソンで金メダリストを輩出しており、さすがにポルトガルの選手は勝負強いと思ったが、マラソン大国であったポルトガルの、日本のマラソン大会優勝者の記事がないことは残念なことです。またマティアスにかわされたカシャポフは、実は前年が3位でこの年は同タイムの2位、翌年に期待されましたが、翌年は全くいいところがく4位、さらに翌年にソ連崩壊だからこれが皮肉。ソ連という国の晩年を彩ったマラソン選手かもしれません。
- トラック勝負とは別に、初めから独走と言うと、1998年の福岡国際を制したケニアのジャクソン・カビガ。初めから抜け出しバテないかと心配するくらい。途中2位集団から抜け出した選手が一旦追いついたが、再スパートしてまたまた独走。なにか、当時いくつかの大会で結果を既に残していた選手のようで、一流マラソン選手とのことです。
- 日本電気所属の阿部文明が記事にならないかと思っていたら、先日記事になっていて、それは阿部がびわこ毎日マラソンで2度優勝したことからではなく、箱根駅伝を走ったマラソン選手というくくりで作成されたものでした。日本電気のマラソン選手で、阿部より有名なのは早乙女等ですが、なんと早乙女の記事がないようです。姓も早乙女と珍しいのだから、誰かが気付いて記事を作ってもよさそうですが。
- ゴルフの武藤俊憲は現状、一流選手ですので簡単に記事を作成したら、誰かが大量に加筆して万全の記事が出来るのではとも思っています。
- これはまた別のことですが、先日森本達幸、柳沢泰典、冨士井金雪という高校野球監督を紹介しましたが、1970年夏、福島の磐城高校で準優勝投手、小さな大投手、福島のヒーロー、田村隆寿の記事がないようです。田村は日大、ヨークベニマルを経てのちに、安積商(現・帝京安積)を2度、母校の磐城を1度、監督として甲子園に導き、昨今隆盛を極める聖光学院の監督も務めていました。今の聖光学院の斎藤監督は、田村が監督時は野球部部長(責任教師)。田村監督のもと、秋季東北大会に出場するなど、強豪・聖光学院の下地を築いた。どうやら、福島の人には、田村を擁した磐城高校時代、柳沢泰典指揮下の学法石時代、そして聖光学院時代と3つあるようです。
- 丸投げはよくないので、情報だけを提供しておきます。記事に出来そうなものがあれば一つ宜しく願います。--まっきんりい(会話) 2015年2月3日 (火) 05:01 (UTC)
- 阿部文明は日本電気HEでしたが、早乙女等は日本電気で、所属が別でした。誤情報提供を陳謝します。--まっきんりい(会話) 2015年2月4日 (水) 08:12 (UTC)
冨士井監督も報われました
[編集]- またしても素晴らしい記事で、あのような形で亡くなった冨士井監督の浮かばれるかと思います。もみ上げについての情報は提供していなかったのですが、それも入っているのはなかなかの調査力です。これも陰に隠れた、隠れてしまった人物を取り上げたい気持ちが強いからなのでしょう。
- 提供し忘れていた情報と言えば、学法石川の柳沢泰典は日大の経済学部の卒で、現役時代は外野手。ただ怪我の為に、今で言う学生コーチに転じており、その指導力を買われ学法石川に雇われたようです。つまり、柳沢からではなく、学法石川の招聘。学法石川は戦前からある学校ですので、日大にもルートがあったのでしょう。磐城のエース、安積商、磐城、聖光学院元監督の田村隆寿も日大ですが、こちらは準硬式野球部の所属です。
- 私が丸投げする人物や組織の記事作成は大変でしょう。そう思っていながら、まだ私では作成困難な人物を紹介させていただくと、サッカー・ベルギー代表DFのペーター・ファン・デル・ヘイデンの記事がまだありません。この選手は、2002年W杯の日本戦に出場した選手です。自らのミスから、日本の鈴木隆行に同点ゴールを許し、さらに稲本のゴールで逆転される。ペーター・ファン・デル・ヘイデンは、日本のGK楢崎がやや前に出ているのを見逃さず、冷静にループシュートを決めて同点に追いついた。試合中に自らのミスを帳消しにした。この他、サッカーなら日本が出場した1998年で同組になり、得点も決めた選手でまだ記事がないのはアルゼンチンのピネダ、ジャマイカのアールあたりですね。1982年のハンガリー10得点大勝の得点者のキシュなどもまだ記事がありません。
- 歴史上の人物にも造詣が深いならば、絵師の加瀬谷東嶺についても私では記事にできないと思っています。今の秋田県横手市(横手市に吸収された増田町)の人で、同じ増田町出身の漫画家の矢口高雄の蛍雪時代なる漫画に登場する実在の人物です。秋田と言えば秋田蘭画ですが、日本絵師もいたわけで、加瀬谷東嶺は増田町の狙半内(さるはんない)という地区の肝煎りの身分だったようですが、とあることから牢獄にぶち込まれています。藩の理不尽な課税に抗議した結果なのか、何なのかわかりませんが、無茶苦茶な理由でぶち込まれています。牢獄を出て、肝煎りを息子に譲り、39歳(数え)で、円山・四条派の鈴木南嶺に入門し絵師になっています。故郷に錦を飾ったが、1年後に死亡。加瀬谷家は代々正右衛門を名乗るようです。東嶺の雅号は、鈴木南嶺の弟子だからです。--まっきんりい(会話) 2015年2月8日 (日) 03:49 (UTC)
- 柳沢泰典で忘れていた情報で、たしか2002年あたりに、その死が労災に認定されていたはずです。こういうのも労災になると、話題になりました。こういうのと言うのは、総監督でスタンド観戦中でのこと。かつて1959年の大会で戸畑の直村鉄雄監督が、試合に敗れた直後のベンチで倒れのち死亡ということがありましたが、直村は労災に認定されたのか、されなかったのかと、こちらも話題になった。戸畑は1959年から3年連続出場だから、あとの2年は弔い合戦と言われていたのですが、労災のことは聞かなかった。--まっきんりい(会話) 2015年2月8日 (日) 08:58 (UTC)
- 深夜遅く失礼します。詳細な情報を提供して下さって、本当にありがとうございます。柳沢泰典についても記事作成致しました。--ミラー海神(投稿記録) 2015年2月8日 (日) 17:15 (UTC)
- 柳沢も報われて感謝します。私の知り得る情報だけではこのような立派な記事にはならないでしょう。やはり、私が作成するよりは丸投げしたのが正解だったかもしれない。川越はまだ、柳沢に総監督に退く前の選手なので訂正しておきました。また、これまでの記事も誰か更に詳しい人の加筆を望む為に、Portal:日本の都道府県の加筆依頼に入れてあります。これは近藤や若林父、柳沢の生年月日を知る人がいるかもしれない処置です。また、加瀬谷東嶺が牢獄にぶち込まれたのは仙北街道の拡張工事に関する事のようです。--まっきんりい(会話) 2015年2月9日 (月) 04:03 (UTC)
新たな情報を提供
[編集]- まず田村隆寿(たむらたかとし)の記事作成困難なのは聖光学院の監督にいつ就任したかがわからないということ。日大準硬式からヨークベニマル、1976年に安積商の監督就任、1983年には母校の磐城の監督就任。1985年に母校を甲子園出場に導いた。とにかく、小さな大投手と言われる人物は何人かいるが、その代表例のような人物。聖光学院は1991年秋季東北大会に福島1位で乗り込みます。この時、田村が監督だというので話題になりました。初戦で仙台育英に延長15回1-2でサヨナラ負けのようです。今の斎藤智也監督は1999年に監督就任。田村については1996年監督就任ともいうので、一旦誰かに譲ったのちに再就任しているのか。だとしても、1991年の秋季東北大会に出場した時はすでに監督であったので、一体何時就任したのかわからない。1996年というのが、1986年の誤りであるならわかりがいいのですが。
- 加瀬谷東嶺(かせやとうれい)について、ただ日本絵師とだけ紹介してもわからないでしょうから、私が摑んでいる情報を提供しておきます。漫画家の矢口高雄と同じく秋田県増田町(現・横手市)狙半内の人で、1789年生まれ。加瀬谷家は狙半内の親郷肝煎で苗字を許された身分、10代加瀬谷正右衛門の長男で、幼名は正七。絵に興味があり、家も裕福で親も理解があり、秋田藩の絵師・渡辺洞昌に付いて若年の頃に絵を学ぶ。何年間学んだか、また帰郷して11代加瀬谷正右衛門として親郷肝煎にいつなったかは不明。3年間牢獄にぶち込まれたのは、1825年に起きた牛道事件と言われるもので、発端は仙北街道の手倉越えの道の拡幅工事。人しか通れない幅を、牛馬が通れる幅に拡幅したいと役所に願い出た。拡幅の狙いは、狙半内の新田開発や農耕に、牛馬を活用したいため。奥羽山脈の東、今の岩手県は奥羽馬の産地、また牛もいて、奥羽山脈の西では、当時農作業に牛馬を使うことが稀だった。この為、牛馬獲得、新田開発、農作業を楽にする、延いては石高増産、年貢米も増えるし、農民の手取りも増えるという理由から、道の拡幅を肝煎として役所に願い出た。ところで、この今の仙北街道の手倉越えは、秋田藩領の祖半内から仙台藩領の下嵐江(おろせ)に跨るので、同様の主旨を仙台藩の肝煎りを通して願い出て、仙台藩領内の手倉越えの道の拡幅は許された。下嵐江は今の岩手県胆沢あたりです。ところが、秋田藩ではなかなか許可が下りない。仙台藩領内の道は、仙台藩の親郷肝煎たちの手で拡幅工事が始まり、東嶺もそのうち許可が下りるだろうと秋田藩領内の拡幅工事を始めたところ、逮捕され3年間の入牢となった。考えてみれば、秋田藩佐竹家と仙台藩伊達家は、関ヶ原合戦では敵対しており、道を拡幅すれば攻め込まれる危険が増えるし、仙台藩の牛馬を買うわけにはいかないということで、許可が下りるはずがなかった。3年間入牢ののち出獄、息子の正松に肝煎を譲って絵に専念するために、円山応挙の流れの汲む円山・四条派の鈴木南嶺に弟子入り。これが数え39歳で、修行期間は足掛けで8年(1828-1835)、東嶺の雅号を頂き、1835年5月に帰郷。しかし、1836年12月22日、数え48歳で没、死因不明という人物です。東嶺については、同じ狙半内の矢口高雄が、蛍雪時代という漫画で「東嶺の末裔」という話で紹介したのが有名で、この話を発表した時に、1995年が増田町の町制100年だから・・・とか、また他にも東嶺の名誉回復を・・・と聞いた記憶があります。これだけでも記事に出来そうですが、足りない気がしています。--まっきんりい(会話) 2015年2月9日 (月) 07:01 (UTC)
誤情報提供を陳謝
[編集]- 柳沢泰典の件ですが、1967年に22歳で日大卒業と同時に監督就任なので、生年月日は1945年4月2日から8月22日の間ではなく、1945年1月1日から4月1日の間でした。誤情報提供を陳謝。勘違いしていました。手元の資料に、1945年生まれとだけあり、1999年8月22日に54歳で没。1967年4月に着任とあるので、1945年の早生まれということです。なので横浜の渡辺監督(1944年11月)や天理の橋本監督(1944年12月)なんかと同じということでした。訂正しておきました。--まっきんりい(会話) 2015年2月10日 (火) 02:41 (UTC)
第4回東京箱根間往復大学駅伝競走について
[編集]--KAZUKI.JP 2015年2月14日 (土) 09:44 (UTC)こんにちは~ ミラー海神さん
第4回東京箱根間往復大学駅伝競走のページで通過順位と表示されているのにも関わらず各区間の区間順位が載っています。早急の訂正をよろしくお願いします。
- こんばんは、KAZUKI.JPさん。再確認した所、やはり区間順位ではなく通過順位を記入しています。この年の駅伝は激戦で、6区までは順位が入れ替わっていました。各大学の区間ごとのタイムを合算し、タイム順に通過順位を記入しました。よって計算違いがなければ、私の投稿で間違っていないと思います。 -- ミラー海神(投稿記録) 2015年2月14日 (土) 09:53 (UTC)
ペーター・ファン・デル・ヘイデン感謝と、新たな情報の提供。
[編集]- 私には出来ない記事内容で感謝します。この調子で頼みます。サッカーのW杯得点者のことでは、アルゼンチンのピネダについては、そこそこ有名なのに記事がないので上げましたが、ジャマイカのアールについては、同国のW杯初得点者なので上げています。やはりW杯初得点者は、敬意を示されるようで、エクアドルのデルガドなんかは協会の大物になっています。他には1994年W杯で、ボリビアにW杯5試合目にして初得点を齎したエルウィン・サンチェス(1969年10月19日-)の記事がまだありません。サンチェスはのちに監督も務めます。1978年W杯のポーランド戦ゴールが有名なブラジルのロベルト・ディナミテは、のちに名門のバスコ・ダ・ガマの会長になったはずです。他に有名どころで記事がないのは、メキシコのフランシスコ・バレンシア、同じくフローレスあたりでしょうか。
- 野球選手では、尾崎兄弟や阪神の岡本、日本ハムの津野のようにゴルファーに転向する人も珍しくありません。1977年に読売ジャイアンツに2位指名を受けた木下透もゴルファーに転向しています。1県1校制でなかったので、県で優勝したが山口哲治(のち近鉄)の智弁学園に敗れて甲子園出場がならなかったという選手。今は焼肉屋を営む西岡良洋の先輩のようです。また1969年に阪神に指名されて拒否した三重高校の上西博昭(1969年センバツ優勝投手)も中京大学卒業後にゴルファーとなっています。木下も上西も、地方のゴルフ場の専属と聞きます。
- ラグビーのウィリアムスと永友について、少し詳しく述べておきます。新日鉄釜石の7連覇の2年後、東芝府中が優勝しましたが、この第40回社会人大会1回戦の神戸製鋼戦は逆転、逆転また逆転の熱戦で、終了間際の再逆転で東芝府中が1点差で勝利したはずです。そのまま東芝府中が優勝したものだから、神戸製鋼は悔しかった。それが1988-1994年度の7連覇に繋がっています。この7連覇中、1990年度の社会人大会決勝が、件の三洋電機戦で、終了間際の同点、逆転であり、ウィリアムスの活躍です。7連覇中最も危なかった試合ですが、リーグ戦では神戸製鋼キラーのワールドに結構負けていた。それでも同じ神戸のチームだからあまり話題にならなかった。この7連覇中でルールも変わった。1992年度から1トライ4点から5点になり、トーナメントでは同点の場合は無無条件引き分けであったのが、まずはトライ数が多い方が次戦進出、トライ数も同じならば抽選に変わった。要はトライを重視することになった。それでも記録上は引き分けだが。1996年度まで、社会人大会優勝者と大学選手権優勝者による試合を1月15日の成人の日のしていましたが、社会人と大学の実力差が開き過ぎ、大会方式が変わったのはルール変更と無関係ではないでしょう。前述の東芝府中を早稲田が倒したのが、実質的に最後の大学勝利のはずです。神戸製鋼の7連覇の2日後に震災があり、翌年度は神戸製鋼の連覇が阻止されます。止めたのが若きチームリーダー永友が率いるサントリーでした。神戸製鋼が3点リードしながらも、トライ数ではサントリーが上回っている終了間際に永友が同点のPGを決めます。決勝でも三洋電機相手に、同じように三洋3点リードでトライ数でサントリーが上回る終了間際に、永友が同点のPGを決めます。どちらも記録上は引き分けで、決勝は両者優勝になるわけですが、大学優勝者との次戦進出が懸かっているので重要なキックでした。永友は神戸製鋼戦でのキックを、外したら切腹ものだったと言いましたが、同じようなキックがもう一回あるとは思ってもみなかったことでしょう。三洋に関しては、非常にシルバーコレクターで、2009年度もリーグ戦で1位になりながら、トーナメントで負けたりサントリーアレルギーが払拭できないでいましたが、三洋の名で最後の2010年度に遂に単独優勝できてよかったなと思っています。
- 加瀬谷東嶺について、矢口高雄(本名は高橋)が言うには、矢口の曽祖父(3代前)の話では、高橋家の先祖は加瀬谷家の下男だったとのこと。それが矢口の高祖父(4代前)なのか、さらに前なのか、時の加瀬谷家当主が東嶺なのか、その息子、または東嶺の親の時なのかわからないが、とにかく関わりがあったということです。同じ狙半内で、絵を生業とし、血縁はないが先祖が奉公していたということで、「東嶺の末裔」という自伝漫画を描いています。--まっきんりい(会話) 2015年2月17日 (火) 06:14 (UTC)
E.サンチェスの記事感謝のこと。
[編集]- 早速の記事作成感謝します。ボリビアはあの後に国の内紛が起きてサッカーどころではなくなってしまったので、その大変な時に代表監督を引き受けたサンチェスにも日の目が当たりました。今、アレハンドロ・チュマセロという期待の星がいるようです。また私の記憶違いで、5試合目の初得点ではなく6試合目の初得点でした。たしかギリシャが4戦4完封負けで5試合目に初得点しましたが、ボリビアは5試合目がスコアレスドローだったはず。いまだW杯で得点なしは、中国、カナダ、旧ザイール、インドネシア、トリニダード・トバゴでしたか。インドネシアは出場回数に含まれているのかは定かではありません。トリニダードはスコアレスドローがあるので勝ち点だけは上げているということですね。恐韓症のように苦手意識のある対決も面白いかもしれません。例えば日本がクウェートに3戦3完封負け(全て0-2)であり、引き分けどころか得点できていないとか、また日本が北朝鮮での試合は3試合して未だ得点なしとか、苦手な場所を取り上げるのも面白いでしょう。アメリカ代表がメキシコでの試合に勝ったことがなかったのですが、先年遂に勝利し話題になりました。--まっきんりい(会話) 2015年2月18日 (水) 03:21 (UTC)
- こんにちは、まっきんりいさん。度々返信して戴いて、とても感謝しております。日本がクウェートに3戦して未勝利なのは、サッカークウェート代表の項にあります。ところで、Category:FIFAワールドカップにおける初得点者 (各国代表別)を作成して気付いたのですが、結構日本キラーの選手(=日本のサポーターにとっては嫌な思い出がある選手)が多いですね。代表格がオーストラリアのケーヒル(実は2006年W杯での日本戦の同点ゴールが、オーストラリア史上初のW杯でのゴールでした),コートジボアールのドログバ(嗚呼、2014年W杯…)でしょうか。他に1998年W杯で対戦したクロアチアのスタニッチ、ドーハの悲劇でも対戦したイラクのラディ、1985年に1986年W杯アジア予選で対戦した韓国の朴昌善などもいます。極めつけはイスラエルのシュピーグラー。イスラエルは1970年代初頭、AFCに所属(1974年に周辺諸国との険悪な関係〈特にUAEとサウジアラビア〉によりAFCを追放され、現在はUEFAに所属)していて、日本戦でも度々対戦した記録が残っています。ちなみに日本代表は、イスラエルになんと7戦して全敗というワースト記録を残しています。←ニッポン天敵列伝Vol.1 「男子サッカー・イスラエル代表」(参考サイト)。サッカーイスラエル代表の編集を見ていたら、その事に言及している人がいましたが、やはり独自研究と取られたのか非表示になっています。何はともあれ、これからも宜しくお願い致します。 -- ミラー海神(投稿記録) 2015年2月19日 (木) 06:47 (UTC)
- そうでしたか、クウェートに未勝利は既にありましたか。それと側面情報だった三洋がサントリーにやられたのは、2010年度のようで、またまた記憶違いで申し訳ない。ラグビーの日本選手権については、1997年度の大会方式変更でさっぱり要領を得なくなっています。豪州の初得点献上についても、豪州は初出場以来32年越しですので、何も日本が相手でなくともと思いました。1993年のドーハでの集中開催のイラク戦の記事では、同点ゴールを決めたオムラムの記事がないようですね。これは驚きです。フセインの拷問を回避できたイラク選手団にとっては英雄、何度か日本のTV局の取材に応えていましたが、記事がないとは。オムライスに響きが似るので、忘れにくい名前です。W杯本戦については、PKを決めた選手一覧とか、オウンゴールをした選手一覧とかあってもいいと思いましたが、初得点者より価値が低く思われ、ただ初得点がPKによるものは違いますが、やめた方がいいかと思われます。PKの場合、W杯で初のPKを決めたメキシコの選手の情報が不鮮明で、さらに両軍で5本のPKが決まる、PKの判定が下った不可解な試合もあり、オウンゴールは自チームに貢献していないからです。
- 私が知り得ている役に立たず、記事にできない情報だと、沖縄県の前原高校は野球で3回全国大会に出場し、全て初戦完封負け。サッカーでも今年度の大会に2度目の出場を果たし、またまた初戦完封負け。競技は違えど、5度出場し悉く無得点は面白い。サッカーの場合、0-0で引き分けてPK勝ちもあるので、必ずしも無得点が恥ではないが、これは興味深いと唸りました。これはアマチュアスポーツですので構いませんが、プロスポーツで陰に埋もれているものには光を当てたいものです。--まっきんりい(会話) 2015年2月19日 (木) 08:02 (UTC)
アールの記事感謝のこと。
[編集]- これまた素晴らしい記事で、やはり私には作成できない内容でした。やはり初得点者は一目置かれるのかもしれません。初勝利の立役者のウィットモアは監督になっているし。この調子で、陰に埋もれている、または有名なのに記事がない人に光を当ててください。
- W杯のサッカーについて、多くのサッカーに興味がなかった日本人が見るようになったのは、初出場の1998年や日韓共催の2002年大会ですので、あの時よく名を聞いた選手は、どんな選手だったのかなと気になることも多いかと思われ、2006年以降はまだ記憶に新しいでしょうから、特に1998、2002年の得点者や注目された選手は記事を作っておいた方が有効かと思われます。私には出来ないので丸投げしているわけですが。
- 1998年に日本と対戦したクロアチアのアリオシャ・アサノビッチ(アリョシャ・アサノビッチとも、1965年12月14日-)の記事がないことに驚いています。ゴルフの武藤の記事がまだなかったのと同じくらいの驚きです。アサノビッチは一流だし、日本人には浅野に聞こえて馴染みがあったし、大体日本戦のシュケルのゴールは、警戒していたアサノビッチに突破を許したところから始まっており、それだけ名が知られているのに記事がないことは不思議です。
- またジャマイカのアールの記事を作成して頂きましたが、この時のジャマイカ代表で最も触れ込みが高かったのは、アールでもウィットモアでもなく、ディオン・バートン(1976年10月25日-)であり、当時日本でもジャマイカで警戒をすべきはバートンと報道されて名は知られているのに記事が有りません。
- 変わったところでは、2002年大会で韓国戦でゴールを決めたアメリカのクリント・マティス(1976年11月25日-)は、サッカーがマイナーであったアメリカのスポーツ雑誌の一面を飾った初のサッカー選手という勲章を持っています。この大会は、ベッカムのモヒカンに倣ったのか、日本では戸田、トルコのユミトダバラもモヒカンにしていましたが、ベッカムを除けばこのマティスが最もモヒカンが似合っており、なるほど一面を飾るはずだと妙に納得しました。
- 先に上げたメキシコのバレンシアは指導者としても有能ですが、とかくクアウテモク・ブランコと馬が合わなかったとか。フローレスも代表監督を一時したはずです。
- 1991年に東京で開催された第3回世界陸上の50km競歩で、ソ連のアンドレイ・ペルロフとアレクサンドル・ボタショフが併走して競技場に入ってきて、どちらが優勝するかと注目された時、どちらかか忘れましたが、手を差し伸べ二人で肩を組んで同時にゴールしようということになった。これはこの1ヶ月前にゴルバチョフの軟禁事件があり、結果的にこの年限りでソ連が崩壊、そういう苦境にあって同じソ連の選手として争うのは止め仲良くゴールしようというもので、肩を組むのも唐突だったが拒否するでもなくあうんの呼吸があった。それでもどちらかを金、どちらかが銀にしなければならぬので、ゴール脇で写真判定をし、ボタショフが金になりました。ただ、ペルロフは記事があるのに、ボタショフは記事がありません。なかなか有名な出来事ですので、記事があれば有効ですが、私には出来そうになにので、出来そうであれば頼みます。
- 私はもうあれこれ丸投げするわけにもいかぬので、依頼するのはこれくらいにして、あとは丸投げした人物や学校につき、何か思い出したことがあれば情報を提供します。
- 先日の東芝府中の優勝は、新日鉄釜石7連覇の2年後ではなく3年後でした。また三洋がサントリーにまたやられたのは2009年度ではなく2007年度で、2009年度は東芝にやられていて記憶が混同していました。永友とウィリアムスの側面情報としてはあまり役立ってなかったですが、誤情報陳謝します。--まっきんりい(会話) 2015年2月19日 (木) 03:49 (UTC)
永友、ウィリアムス感謝の件など。
[編集]- ラグビーにおいてもなかなか立派な記事で、これまで知名度がありながら記事がなく日が当たっていなかったので、これは素晴らしいことと思います。
- 情報の提供ですが、マラソン選手のジャクソン・カビガ(Jackson・KABIGA)は、どうやらかなり日本では馴染みの選手のようですね。1998年の福岡国際を制したあと、1999年から始まった長野五輪記念の長野マラソンの第1回で優勝しているようです。長野マラソンにも福岡国際にも、以後招待されてかなり走っているようです。
- マラソン選手で、日本でもかなり知られているのに記事がない選手で、南アフリカのゲルト・タイス(1972年-)がいました。1996年と2006年の別府大分毎日マラソンで優勝していますが、10年ぶり優勝というのはマラソンでは稀ですが、これは一流選手としての期間が長いからです。また2006年まで2月にあった東京国際マラソンの1999年大会で2時間6分33秒という、当時の世界歴代2位の記録で優勝もしており、それでいながら記事がないのは信じられぬところです。今でもこの記録は、これまでの日本国内の全てのマラソン大会の記録で、かなり上位ではないでしょうか。
- メキシコ代表のフランシスコ・バレンシアは、1973年4月28日生まれのようで、先日監督を辞めたアギーレの第一次メキシコ監督の時、急遽代表復帰したようですが、同じく復帰したブランコと馬が合わないので、両者ともに呼び戻すというのが、離れ業だったようです。
- この年代のメキシコの選手、ヘスス・アレジャノ(1973年5月8日-)は、モンテレイでは永久欠番になっているようです。
- フローレスという姓はメキシコに多いらしく、1978年W杯にDFとして出場したイグナシオ・フローレスは、2011年8月に旅行先で銃撃され58歳で死亡したようです。1986年W杯出場のルイス・フローレス(1961年7月18日-)もなかなかの選手。この大会は地元開催の地元のスター・ウーゴ・サンチェスが全く不振で、フローレスやフェルナンド・キラルテ(1961年7月7日-)の脇役の活躍で、メキシコはベスト8入りしたはずです。サンチェスはPKを外したり、名選手の割りにW杯では不完全燃焼でした。--まっきんりい(会話) 2015年2月22日 (日) 08:05 (UTC)
訂正のこと
[編集]- ルイス・フローレスは代表監督をしていませんでした。フローレスという姓が多いようなので、混同していました。イグナシオの方は銃撃され死亡したDFで、ルイスの方はウーゴ・サンチェスの相棒だったFW。ウーゴ・サンチェスが有名すぎて地味だった人ですね。サンチェスが不発で、地味なフローレスとDFのキラルテに牽引された印象があります。--まっきんりい(会話) 2015年2月22日 (日) 08:29 (UTC)
- 永友の三洋戦のゴールはPGではありませんでした。これも訂正しておきました。誤情報の提供を陳謝します。--まっきんりい(会話) 2015年2月22日 (日) 08:48 (UTC)
工藤一良の感謝など。
[編集]- 私などとは調査力が違いますね。私の適当な記事なんかよりはるかに充実しているし、丸投げして正解であったように思います。工藤も報われました。
- ジャクソン・カビガは、1998年のパリマラソンでも優勝しているようです。同年12月の福岡国際で22歳、1999年4月の栄えある第1回長野マラソンで22歳ですので、1976年4月-12月の間の生まれと思われます。
- 1998年のW杯・クロアチア戦で得点したアルゼンチンのDF・マウリシオ・ピネダは1975年7月13日生まれで、当時はウディネーゼに所属です。
- 少しサッカーのメキシコ代表チームのことについて述べておきます。1990年W杯で、予選途中でメキシコは失格になっています。まだ1試合もしていない状況でしたが、これは年齢制限のある別の大会で、年齢を超過した選手を出場させた制裁措置という。何故別の大会、A代表の大会にペナルティを転嫁するのか、これはアメリカの陰謀とも言われています。1994年に自国開催を控え、その前回大会に出場しておきたかったアメリカが、FIFAを動かしメキシコを失格に追い込んだとも言われます。なお、アメリカの戦前2度の出場は、イングランドからの帰化選手中心で、1950年大会はアマチュア主体でした。メキシコの英雄、ウーゴ・サンチェスは、若くして1978年W杯に出場しましたが活躍できず、1982年は不幸にして出場を逃し、自国開催の1986年は不完全燃焼、1990年は予選失格、1994年は峠を越えてしまい、初戦のノルウェー戦にのみ出場しただけでした。こういう不運もあり、メキシコの得点者には着目しています。それでは、1986年以降に限り、W杯で得点したメキシコ選手を紹介(既に紹介したルイス・フローレスとキラルテを除く)します。
- まずマヌエル・ネグレテ(1960年3月2日-)は、メキシコが唯一ベスト8入りした1986年W杯の決勝トーナメント1回戦のブルガリア戦で、決勝点となる先制点を、左足ジャンピングボレーで決めています。クライフターンのように人々の記憶に残るゴールなので、映像も多いと思います。ネグレテとアギーレ元日本代表監督とのワンツーからだったと思います。ベスト8を手繰り寄せた得点。さらにDFのラウル・セルビン(1963年4月29日-)による追加点が入り勝利しています。
- 1994年、1998年のW杯に出場し、1994年のイタリア戦で同点ゴールを決めたのは、マルセリーノ・ベルナル(1962年5月27日-)は、のちにモンテレイにも所属しました。1998年W杯で、韓国戦、オランダ戦でいずれもリードされている後半から出場し、いずれも反撃の狼煙となる得点を決めたスーパー・サブのリカルド・ペラエス(1964年3月14日-)も強烈に印象に残ります。決勝トーナメント1回戦のドイツ戦でも後半から出場しました。
- 昨日述べた1986年の得点者のルイス・フローレスは、同名のドミニカ共和国のバスケットボール選手がいるので注意が必要です。1986年にはDFのアマドール・フローレスも出場しているのでややこしい。1978年のポーランド戦の出場したDFのフローレスが、旅先で犯罪に巻き込まれて死亡したのは昨日伝えました。運がないようです。
- 学校の記事のことですが、以前いくつか伝えましたが、野球の全国大会に出場しながら記事がないのは、1981年センバツ出場の福岡県立築上中部高等学校もそうでした。しかし、築上中部は他校と統合され青豊高校になっているようです。人によっては統合先へのリダイレクトを作成していますが、統合でできた学校と、統合された学校は別物では。また戦前に4回出場した京阪商業、のちの大阪府立守口高等学校も統合されていますが、そもそも守口高校(大阪府立芦間高等学校へのリダレクト)の記事がない。京阪とは鉄道会社の京阪が作った元は私立高で、のち市立、府立になったようです。統合先へのリダイレクトで問題ないならば、この両校に河北台商、芦別工も何とか出来ます。しかし実践第一と三尾実業はそうはできないようです。
- ちょっとゴルフのことですが、1998年に彗星の如く登場した韓国の朴セリという女子ゴルファーですが、1998年7月の全米オープンで実に20ホールにも及ぶプレーオフの末優勝しました。この時、闘った当時アマチュアで、タイのジェニー・シャシリポーン(こんな名前だった)は、どうなったか気になっている人は多いと思います。プロに転向したのは知っていますが。
- ここからは、日に隠れたものではなく、単に依頼です。私は四海波のなかで、四海波を名乗った力士の曖昧さ回避を作成しましたが、この中で一番上にある四海浪吉五郎こと由良ノ海楫五郎、のちの3代湊川ですが、私には到底出来そうにないので執筆を依頼する次第です。力士についてはもう一件千田川吉藏の曖昧さ回避で作った千田川吉藏 (2代)も私には手に負えません。両者とも資料が少なすぎる。千田川の方は、大関の千田川吉藏よりあとの時代の人ということ、千葉の銚子のでということしか分かりません。銚子市が顕彰会でも設けていたらよいのですが。それと、ミラー海神さんが以前作った錦木塚五郎は2人おり、どちらも小結で、現役中に死亡したのは後者のですので、現役死した力士一覧を修正しました。どちらも同名で小結ですので、死亡した錦木塚五郎 (2代)にしてあります。現在幕下の錦木が関取になれば、歴代錦木に注目が集まりそうです。--まっきんりい(会話) 2015年2月23日 (月) 04:38 (UTC)
- マヌエル・マティアスは1994年の福岡国際でも2位のようです。また早乙女等は、同年代に小指徹がいて、苗字先行の印象で、1991年福岡国際の3位が最高成績ではないかと思われます。
- 先ほど申し述べたタイの選手は、両親がタイ人の国籍はアメリカ人、表記はジェニー・チュアシリポーンが最も多いようで、シュアシリポーンもあるようです。最終日に朴セリに追いつき、5日目となるプレーオフも18ホールで決着が付かなかった。プレーオフの何ホール目だったか、朴セリが池の渕に打ち込んでしまい、これで決まりかと思われたところ、朴セリの水切りのスーパーショットがあり、まだまだプレーオフは続きました。この水切りショットの前に、ジェニー・チュアシリポーンは、もう自分の優勝が決まったと気持ちが緩み、カロリーメイトのような携行食を口にしていました。その後のスーパーショットで気持ち的にやられたのではないか。決着が付いたのは少し後のことでした。この1998年全米オープンでは、まだアマチュアだったので、1位の賞金がプロの朴セリにのみ入るので、それならば優勝という名誉がほしかったということだったはず。2012年7月11日付の日経の電子版では、ジェニー・チュアシリポーン(すでに引退)とあるので、引退したのでしょう。また2012年6月24日のテレビ朝日「朝いちゴルフPlayBack全米オープン」で、過去の名勝負の筆頭各として、1998年のプレーオフ20ホール目決着が取り上げられているようです。
- ともあれ、力士の2人はともかく、日が当たらない人物に光を当てる作業で、私には無理だからと、もし自分に技量があれば記事にするつもりのものを上げてきましたが、上げた数が非常に多くなってしまい、中には記事にするのも困難であるのも含まれ、ミラー海神さんには負担だろうから、これくらいにし、以後はもし記事が出来れば加筆するなり、修正するなりします。また欠かすことが出来ない人物、学校に対する情報を摑んだり思い出したりすれば提供します。--まっきんりい(会話) 2015年2月23日 (月) 08:21 (UTC)