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利用者‐会話:喜連川一色家

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はじめまして。ウィキペディアへようこそl。このページはあなたの会話ページです。他の利用者からあなたへのメッセージが書き込まれます。そしてこのページを編集することで、他の利用者からのメッセージへ返信することができます。

ウィキペディアにようこそ!

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こんにちは、喜連川一色家さん、はじめまして!Doripokeと申します。ウィキペディアへようこそ!

  • ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
  • よろしければ自己紹介してみてください。
  • お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
  • 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
  • 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。Doripoke 2006年10月7日 (土) 04:51 (UTC)[返信]

Welcome to Japanese Wikipedia. If you are not a Japanese-speaker and expect further information, visit Wikipedia:Chatsubo for Non-Japanese Speakers. Enjoy!

なお、このメッセージは主に利用者‐会話ページに何も記入されていない方に投稿しております。喜連川一色家さんが、すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、ご存知のことばかりをご案内したかもしれません。不明をお詫び申し上げます。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 04:51 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアにご寄稿頂きましてありがとうございます。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。

投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、整形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでよろしければお読み頂けると幸いです。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。 --Doripoke 2006年10月7日 (土) 04:51 (UTC)[返信]

私は喜連川とは全くの無関係ですが

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  • どうも私が喜連川町関係者である、と思われているようですが、喜連川町誌(1977年版)発刊当時は私は幼稚園児ですし、喜連川町史が発刊されたころは、ちょうど私が定職に就いた頃です。以前にも書きましたが、宇都宮生まれ、ヒップホップ育ちでして、居住歴は宇都宮市浦和市(現さいたま市)、黒磯市(現那須塩原市)のみです。また行政関係の職に勤務した経験はありませんし、歴史を専門としていません。(ゲームセンターの店員ならしたことがありますがすべて宇都宮市内です)一体なんの根拠を持って思いこまれているのでしょうか?正直、私にとって喜連川の歴史が歪曲だろうが捏造だろうが、そんなもんは知ったこっちゃありません。うちの本家は市貝ですし、親戚も、知人も、喜連川にいません。
  • Wikipediaは隠されている事実を明らかにする場所ではありません。これは公式の方針です。一言で説明するのが難しいので、Wikipedia:基本方針とガイドライン内のリンク先をお読みいただければ、と思います。以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 05:23 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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初めまして、TETRAと申します。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に投稿を繰り返されているようなので、一括投稿のお願いとプレビュー機能のお知らせに参りました。 Wikipedia では投稿・更新された文章について、全ての版を保存するシステムを採用しており、例えば、ある記事に3回の編集を行ったときには、最新の状態の他に過去3回の状態がそれぞれ保存されます。このときの編集には実際の編集の量、範囲は関係なく、細かい編集を施し、投稿した場合でも、投稿一回につき記事全体が古い版として保存されます。

このように同じ記事への連続投稿はウィキペディアのサーバーに負荷を掛けるほか、履歴の見通しが悪くなったりと、いろいろな面で不便になります。(詳しくはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすをご覧ください) これを避けるため、記事を投稿する前にミスなどがないかを確認したのち、一括して投稿してくださるよう願いします。

1の部分がプレビューを実行できるボタンです。

投稿前の確認には、投稿ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンをご活用いただくことをお勧めします(画面右側の図を参照)。これを使うことで、

等を予め確認し、訂正した上で記事を投稿することができますので是非ともご活用下さい。ご理解とご協力をよろしくお願いします。

また、失礼かとは思いますが、今回はお知らせ用の定型文履歴)を利用して投稿させて戴きました。上記をご理解いただけたらこのメッセージは削除していただいて結構です。

以上、今後の喜連川一色家さんの活動の助けになれば幸いです。失礼します。

― TETRA 2006年10月8日 (日) 16:34 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアにご寄稿頂きましてありがとうございます。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。

投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、整形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点についてはWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでよろしければお読み頂けると幸いです。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--ikedat76 2006年10月11日 (水) 15:27 (UTC)[返信]

『大日本史料』などについて・・・

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ノート:喜連川騒動でのご質問に可能な範囲でお答えしてみたいと思います。『大日本史料』という書物についてですが、まずは大日本史料およびこのページをご参照ください。特に後者は非常に判りやすい解説となっています。要するに『大日本史料』は編年体の体裁をとっており、その年月日にどのような事件があったのかを、各地に散在する厖大な史料を元にまとめた「史料集」のようなものです。ある年月日の事件の概要を記したものが「綱文」です。さらに綱文の根拠となっている史料の原文などが「按文」として記載されています。「綱文」は史料ではありません。史料を読み込んだ東大史料編纂所の研究者が書いたものです。

『大日本史料』の編纂は明治年間から連綿と続けられており、今も継続しています。編纂事業が完了するまであと千年かかるとも言われています。実を言いますと、喜連川騒動のあった正保・慶安年間の『大日本史料』はまだ編纂されていません。データベースに載っていた慶安元年12月22日の記事(綱文)は、『大日本史料』編纂のため明治年間に作られたメモ(『史料稿本』と言います)に過ぎず、その後、何らかの新史料が見つかっている可能性だってある訳です。ちなみに『史料稿本』の慶安元年12月22日の綱文の根拠となっているのは「人見私記」「万年記」以下の各史料です。『大日本史料』について大体お判り頂けましたでしょうか。

『大日本史料』なり『史料稿本』なりは史料集に過ぎません。我々ウィキペディアンが『大日本史料』『史料稿本』などを根拠とする際には、これらの文献に記載されている以上のこと、例えば『大日本史料』の綱文を元にウィキペディアンが独自の考察を加えるようなことを記述してはなりません。これはウィキペディアの信頼性を守るためです。もし、何らかの考察を記述するのであれば、それは自分の考察ではなく、専門的な研究者が論文などで示した考察でなければならないのです。

『喜連川町史』『喜連川町誌』の信頼性ですが、自分は現物を読むことができませんので何とも言えません。市町村史は概してレベルの差が大きく、史学研究の方法論を身に付けていない好事家が執筆されたものから、非常に高レベルの研究を残している歴史学者が執筆されたものまで、玉石混淆と言ってよいかと思います。ただ、一人だけで執筆した市町村史というものも無い訳でして、編・章・節ごとに別々の執筆者が分担しているのが通例です。『喜連川町史』についても、喜連川騒動の箇所を執筆した人が目次などに記載されているはずです。で、その人がどのような素性の方なのか、巻頭か巻末の執筆者一覧で調べることが可能だろうと思います。どこかの大学の教授とか助教授とか博物館の学芸員とかであれば、自分の勝手な憶測によることなく、広く史料を渉猟して史学研究の方法論に則った考察を加えている蓋然性が非常に高いですので、かなり信頼性が高いと言えます。もし地元の好事家が執筆している場合でも、一概に信頼性が低いとは言えません。脚注や参考史料・参考文献がふんだんに記載されており、検証に耐えうる内容であれば、信頼性は十分確保されていると考えて良いかも知れません。ここで重要なのは、とにかく信頼性の高い論文・文献に数多くあたるということです。『栃木県史』のご参照を勧めましたのも、ひとえにこの趣旨からです。

『史料稿本』の綱文と『喜連川町史』の記載が整合しない場合でも、『喜連川町史』が誤っているとは限りません。東大史料編纂所の人も知らないような信頼性の高い史料に基づいて『喜連川町史』が書かれている可能性だってある訳です。その辺の事情について、誰か信頼できる研究者が考察を加えていれば、安心してそれをウィキペディアに書くことができます。もしそのような考察が存在していなければ、ウィキペディアには「『喜連川町史』の記載によると・・・・である。一方東京大学史料編纂所の『史料稿本』には・・・とあり、両者の記述は一致していない点がある。」ということだけを書けばよいのでして、「物理的に考えるならば前説が正しいと思われる」「高家は、高師直の末裔のようだ」「高四郎左衛門と高野修理との関係が伺える」「2人の墓石を堂々と建立できる人物は誰であったのか」などのような独自の考察を書いちゃいけない訳です。喜連川一色家さんがここ一両日、喜連川騒動に執筆されている内容は、多分に喜連川一色家さん独自の考察が含まれているように思われますので、この点を自分はかなり危惧しておりまして、あえて言及させていただきました。

つらつらと申し述べてまいりましたけれども、ウィキペディアンの中でも喜連川騒動およびその周辺人物に最もお詳しいのは喜連川一色家さんだと拝察しております。実のところ喜連川騒動は興味を持って読むことができました。ただ残念だったのは独自の考察と思われる記述が非常に多かったことです。今後、独自の考察を加えないようご留意いただければ、より高質な内容になっていくと思います。それでは失礼いたします。--shimoxx 2006年10月11日 (水) 16:47 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。既に複数回にわたってプレビュー機能のお知らせを受け取られているかと思いますが、お読みいただいていますでしょうか。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に何度も投稿されているようなので、同じ記事への連続投稿を控えて頂くようお願いに参りました。

投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、整形結果を先に見ることができます。これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿すると同じ記事への連続投稿を減らすことができます。過度に多回数の投稿はサーバに負担をかけ、閲覧される方・編集される方の快適さを損ねてしまいます。くわしくは、Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすに説明があるのでぜひお読みください。また、Wikipedia:ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますのであわせてお読みください。ご理解とご協力をよろしくお願いします。

--ikedat76 2006年10月11日 (水) 15:27 (UTC)[返信]

  • ご迷惑おかけします。プレビュー機能は、使用しているのですが、何分書きかけであること、私の文章能力のなさが原因です。極力、まとめて投稿変更を心がけますので、よろしくお願いいたします。

--喜連川一色家 2006年10月13日 (金) 15:28 (UTC)[返信]

プレビュー機能をお使いくださるよう、また文章をまとめて投稿して戴くよう私からも再度お願いします。編集履歴を見た限り、喜連川一色家氏は思いつくがままに編集・投稿されているような印象を受けます[1][2][3]。確かに Wikipedia が利用している Wiki システムはメモ書きに使用するにも便利かもしれませんが、そのような利用のために Wikipedia が存在しているわけではないことはご理解戴いているかと……。ご自分の手元で十分に記事を推敲なさった上での投稿をよろしくお願いいたします。 ― TETRA 2006/10/16 10:45

ブロックされました。 あなたは喜連川騒動において、Three-revert ruleに反した過度のリバート(編集の差し戻し)を行ったため、一時的に投稿ブロックされました。いかなる理由であれ、編集合戦はお止めください。

ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。 --Tietew 2007年5月7日 (月) 10:55 (UTC)[返信]

「狂える名君」の十代藩主の名について

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Wikipediaの内容に関することではないので、ここに書いてもいいのかどうか、ちょっと迷いましたが、もし都合が悪いようなら後で消しておいてください。 ちょっとしたおせっかいです。 たぶん、「煕氏」だと思います。音読みでは「キ」ですが、通常のIME変換では出ないようです。IMEパッドの手書き入力で拾えます。--Horlicks 2007年5月10日 (木) 08:30 (UTC)[返信]

  • 何かとご足労いただき、ありがとうございます。doripokeさんから出された「コメント依頼」にある、Horlicksさんの「代替案の下書き」の件、読ませていただきました。まさに「目からうろこ」の文体であり、感謝しております。しかし、読者が誤解しない様、多少の追加修正はさせていただきたく思いますが。私としてはOKです。また、現投稿文の参考文献「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」・「喜連川町誌の年表」のリンクは、張りたく思います。

なを、「コメント依頼」への返信は、doripokeさんのご意見を確認してからと考えております。 よろしくお願いします。--喜連川一色家 2007年5月10日 (木) 10:23 (UTC)[返信]

下書きを提案させていただいたColeusです。勝手に割り込んだので、気を悪されないか心配していましたが、ご賛同いただけたようで安心しました。1週間ほどdoripokeさんからの反応を待ち、特に異論が出なければ差し換えようと思っています。ただしその場合、最新1週間分の改訂が反映されない文章に戻すことになります。今日も改訂作業を進めておられるようですが、改訂前の状態に戻って二度手間をおかけすることになるかもしれませんので、予めご連絡させていただきました。--Coleus 2007年5月11日 (金) 06:33 (UTC)[返信]
  • 「代替案・下書」をご提供いただいたのはColeusさんでした。大変失礼いたしました。こちらこそ、気を悪くされていないかと心配でした。文章など卒業論文以来24年以上書いていなかった私が、急に書き始めた訳で、「てんてこ舞い」の文章でして、お恥ずかしいかぎりです。かえって感謝しております。ありがとうございました。

話は変わりますが、足利義嗣を調査するならば、4代藩主喜連川昭氏は、つまる所、室町将軍家と古河公方家の合体であることは、本文中に欠かせない所で、幕末の二階堂政権下で書かれた「高塩家文書」(現喜連川史編纂委員会も認める個人文書)をもとに、明治44年の「狂える名君」では「側室腹による御家乗っ取り」と表現されたことにより、現在においても、多くの時代小説やTVの時代劇などに影響を与えていることは、許せないことです。正式な権威ある歴史研究者の方々の研究材料となればと考えております。

私どもが、学生時代に覚えた鎌倉幕府の開幕年は、1192年でしたが、現在では、1185年が主流です。研究が進めば、当然と言われた歴史さえ変わる時代が現代だと考えております。--喜連川一色家 2007年5月11日 (金) 09:04 (UTC)[返信]

改訂作業について

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騒動の記事について下書き案に差し替えしました。ただし、ノートに説明させて頂いたとおり、勝手ながら喜連川一色家さんが修正される前の下書き案に差し替えさせていただきました。これは他の方と合意を取るために必要な措置だとは思っていますが、喜連川一色家さんのご意見の一部に反する方法を勝手に進めたことには申し訳なく思っています。 喜連川一色家さんの速いペースの作業に着いて行くのは私も他の方も大変なので、今後は、一歩一歩ノートで合意を取りながら、ゆっくり編集を進めませんか?取り急ぎお詫びとご提案まで--Coleus 2007年5月14日 (月) 10:11 (UTC)[返信]

ブロックについて。

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ブロックされました。 あなたは喜連川騒動において、Three-revert ruleに反した過度のリバート(編集の差し戻し)を行ったため、一時的に投稿ブロックされました。いかなる理由であれ、編集合戦はお止めください。

ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。 ―霧木諒二 2007年5月14日 (月) 13:20 (UTC)[返信]

「独自研究は載せない」について。

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(この部分は削除しました。詳細はWikipedia:独自研究は載せないをお読み下さい。--Doripoke 2007年5月16日 (水) 17:47 (UTC)[返信]

埋め込まれたページへのご編集を差し戻しました

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こんにちは。喜連川一色家さんが、上に埋め込まれていた公式方針(日本語版ウィキペディアでの上位ルールのひとつです)のページを編集されてしまっていたのを差し戻しました。上の文書上の編集ボタンから編集されますと、ここではない別のページが編集を受けてしまいます。お分かりにならなければ取りあえずは↓の線よりも下に編集するようになさってください。--スのG 2007年5月16日 (水) 17:25 (UTC)[返信]


疲れました。あとは、ノートでお願いします。--喜連川一色家 2007年5月16日 (水) 17:35 (UTC)[返信]

こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。

これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--月下美人 2007年5月17日 (木) 09:19 (UTC)[返信]

既にご存知かもしれませんが、喜連川一色家さんが[Wikipedia:独自研究は載せない]に投稿されたこの版削除依頼がでていますが、今のところ、この程度のものをいちいち削除していたらきりがないということで、削除しない方向で話が進んでいます。

ただ、喜連川一色家さんもご存知の通り、あの版は明らかに間違って投稿されてしまったものですから、私を含め存続票を入れた人にも本当は削除してあげたい気持ちもあるのでないかと思います。存続票を入れたのは、ここで前例を作ってしまって同様の削除依頼が続出するのが怖いということではないかと思います。

ところで、Wikipedia:削除の方針のルールには「投稿者本人から依頼がある場合。投稿者本人が削除依頼し、かつ、他の参加者から反対がないようであれば、削除できます」という規定があるので、喜連川一色家さんが「私からも削除をお願いします」と削除票を付けてくだされば、話が一変して、問題なく削除できるようになるのではないかと思います。喜連川一色家さんとしても、明らかに間違えて投稿したものが、Wikipediaの最重要方針のページの履歴に残っているのは本意ではないでしょうし、ここでDoripokeさんを始めWikipediaのコミュニティーに対して喜連川一色家さんの親切・善意を見せておくのも無駄ではないと思います。削除依頼の表現等には(私の存続票の理由の表現も含め)お気に召さないところもあるでしょうが、何卒ご一考の程お願い申し上げます。--Dwy 2007年5月19日 (土) 04:51 (UTC)[返信]

お願いの趣旨がわかっていただけなかったようで、残念です。また、喜連川一色家さんがこの版に書かれた『なぜ、Dorpikoさんが、必死に、マナーも守らず書版投稿より、「削除」を望むのか、「高塩家」「高野家」関係の方でもなければありえません。』の一節は、明らかに不適切な記述であり、この表現だけを切り取って判断すれば(ここに至るまでの経緯等、お互いに色々言い分はあるのでしょうが)「誹謗中傷」と言われても仕方がないだろうと私が考えていることも、申し述べさせていただきます。--Dwy 2007年5月19日 (土) 10:17 (UTC)[返信]
・・・とは言いながら、私としては、喜連川一色家さんに今ここで「あの発言が誹謗中傷だったと認めろ」と言っているわけではありません。もちろん、喜連川一色家さんには喜連川一色家さんなりの言い分が、おありのことでしょう。ただ言いたいのは、意見が違う相手ではあっても、合意が可能なところでは穏やかに協力し合うのが、大人というものだろうということです。喜連川一色家さんも、積極的にあのページの履歴を残しておきたいわけではありませんよね?たとえば「Doripokeさんの言い分は全く気に食わないし、同意もできないが、ページそのものは間違えて投稿してしまったものだし、後で色々文句を言われるのもうるさいから、削除してください」のようなことでも良いわけです。意見の対立する点は別に議論することにして、協調が可能なところではできるだけ協調していくのが、結局はお互いのためになると私は信じています。--Dwy 2007年5月19日 (土) 11:20 (UTC)[返信]

またお邪魔します。Wikipedia:削除依頼/Wikipedia:独自研究は載せない の議論について、本来の議題である「Wikipedia:独自研究は載せない の特定版削除の是非」についての審議からやや逸れてきつつあるようにお見受けします。 差し支えなければ、ノートページ(Wikipedia‐ノート:削除依頼/Wikipedia:独自研究は載せない など)のご利用をご検討いただきたく、よろしくお願い申し上げます。--スのG 2007年5月19日 (土) 15:45 (UTC)[返信]

高氏師の件について

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削除版を確認しました。冒頭部分を除くと、その子孫の記述が項目の多くを占めています。それ自体が削除理由となるかというと微妙なところですが。上に何度か貼られているプレビューのお願いとも重なりますが、高氏師自体について、加筆する予定でしたら、ある程度の分量をお手元のテキストエディタかワープロソフトで書き上げてから投稿されると、いろんな面で都合がよいので、以後ご留意頂けるようお願いします。子孫の記述が多くなってくるようでしたら、項目名を適切なものに変えるなど、ご一考頂くのが良いと思います。削除された文章がお手元にないようでしたら、ご連絡下さい。--Ks aka 98 2007年5月21日 (月) 19:49 (UTC)[返信]

    1. 早速のご指導、ありがとうございます。突然の「削除」は誰にでもできるこのなのでしょうか?管理者だけの特権であれば、私の編集が悪かったと納得できるのですが、そうでないことを信じるしかないのですね。こんな時間に返答いただきありがとうございました。ネット上のことで、初心者であり、何かと、誤解されやすいことは承知の私です。今後とも、ご指導いただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 20:08 (UTC)[返信]
  • 高氏師は管理者による即時削除です。詳しくはこちらをご覧下さい。なお、すべての削除行為は、管理者以上の権限がないと行えないことになっています(依頼は誰でも出せますが、判定は管理者です)。
  • 余談ですが、貴殿がこの編集で暴言を吐いた、「現在の削除依頼者」こと利用者:Loniceraさんについては、いずれ彼がどういう立場の方か、ご理解いただけると思います。
    基本的に、喧嘩を売るときには、私のような小物相手だけにするのが安全だと思います。以上、ご確認下さい。--Doripoke 2007年5月22日 (火) 09:12 (UTC)[返信]
こんにちは。横から失礼。Doripokeさんの上記コメントも暴言すれすれのように見えますよ。Wiki愛をお忘れなく。--miya 2007年5月22日 (火) 09:51 (UTC)[返信]
お手数おかけします。お騒がせしました--Doripoke 2007年5月22日 (火) 09:56 (UTC)[返信]

ええとですね。まず、削除は、即時削除というやつで、誰かが即時削除タグというのを貼って、それを見て管理者が削除します。即時削除の場合は、通常連絡しません。wikipedia:即時削除の方針も読んでみてください。で、削除理由は、「本人に関する内容が定義のみ」で、サブスタブ扱いでの削除と思われます(Wikipedia:スタブ)。要するに、「高氏師」の項目で、高氏師の記述が1行しかなく、子孫のことばかり書いてあって、子孫のことについての記述を除去すると、その1行しか残らない。定義文だけの記述では、百科事典の記述としてふさわしくないし、他の人による加筆も難しい。加筆できる人であれば、この1行はなくとも、加筆の際に書くことができるだろう、ということで、削除しましょう、と。なので、前に書いた通り、ある程度の分量がまとまってから投稿して頂くか、適切な項目名で子孫のことも交えて書くか、という形でお願いします。また、情報源があるのであれば、wikipedia:脚注を参考にして、投稿の段階で出典を明らかにしておいていただけると、なおよいと思います。

で、ですね。しばしば削除依頼やコメント依頼が出されるのは、一つは独自の研究スレスレであるってことで、それはコミュニティの判断次第ですが、検証可能性と中立的観点を満たし、できるだけ丹念に資料を当たり、出典を明らかにして記述を加えているなら、個人的には、削除に及ばないと思うんです。ただ、自説を補強するための検証作業となるならば、ウィキペディアは演説場所ではありませんからは外れますし、その検証を示す場所としてウィキペディアを利用されていると受け取られかねない面もあると思います。せっかく町史関係の文献にあたっているのですから、限定的な話題で、既に自説をお持ちで、かつ資料に乏しい喜連川騒動ばかりではなく、喜連川町の歴史の節へ中立的に加筆など行って頂けると、よりウィキペディアが充実します。また、執筆や他の利用者との対話をするにあたって、Wikipedia:基本方針とガイドラインからリンクされている各種方針に、一度目を通すことをお願いします。アカウントをとってから数えても、もう半年以上参加されているので、いつまでも初心者と甘えているのはよくないと思いますですよ。--Ks aka 98 2007年5月22日 (火) 16:12 (UTC)[返信]

ノート:高氏師‎の質問にお答え下さい。

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プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。

これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。Doripoke 2007年5月23日 (水) 18:44 (UTC)[返信]

どうも。

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まず、ノート:高氏師についてですが、「高氏師」の項目は、一度即時削除されましたが、理由が適当でなかったと判断されて復帰されています。「削除される記述に、私の貴重な情報資料を開示する必要もない」と書かれていますが、前提とされる「削除される記述」というのは誤解でしょう。ウィキペディアの項目の記述で、検証できないものは、誰でも取り除くことができます。検証のためには、何に書いてあったかという情報が執筆者から提示されることが望ましいです。それが開示できないのであれば、その記述は信頼できないものとして、他の人が編集で取り除くことが認められています。たとえば

  1. 高修理守、あるいは高四郎左衛門が高氏師の子孫であることの出典は。

に対して、何々という本の何ページに書いてある、と答えてください。他のDoripokeさんからの質問にも同様に答えてください。いつの本でも構いませんし、候文であろうが万葉仮名であろうが、問題はありません。読める人なら読めますから。手稿の類であれば、その所蔵場所をお願いします。喜連川一色家 さんが、高家の子孫に聞き取り調査したものであったり、編纂委員会との会話で知りえたことであったり、喜連川一色家 さんの個人所蔵あるいは高家伝来の手稿だったりするのなら、過去に専門家の手によって資料としての考証がなされていなければ、根拠としては認められません。また詳細を明らかにすることが高家の子孫の方々に迷惑をかけるということでしたら、いずれにしても検証できないものとして、除去されます。

喜連川騒動も含めて、最近のDoripokeさんの記事本文への編集は、喜連川一色家さんが書いた文章の中で、何を根拠として書いたかが明らかになっていないものを削っているもので、これはウィキペディアの方針に沿った行為です。なので、それは批判するべきではありません。削除依頼中の編集についてもウィキペディアのルールや慣習上、問題があるものではありません。書かれた事に慌ててレスをつけるよりは、静観していただいたほうがいいと思いますが、黙ってみているだけでは駄目で、ウィキペディアは、専門家が書く百科事典ではないことから、いろんなルールがあるので、それをしっかり読んでください。なぜ、自分が批判されるか、ということを理解しなければ、問題は改善しません。ウィキペディアのことを考える前に、ウィキペディアのことを知ろうとしてほしいと思います。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:編集方針Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するをプリントアウトして、PCの電源を切って、1週間ほどかけて熟読してください。--Ks aka 98 2007年5月25日 (金) 12:40 (UTC)[返信]

  • ぼくが何かを判断するというものではない、ということも、覚えてほしいことの一つです。Doripokeさんの書き方が挑発的に感じられる部分もあるかもしれません。それはそれで、反論すべきと考えるのであれば、やはりきちんと方針を読み、自分と相手の振る舞いが、ウィキペディアにおいてどの程度許されるのか許されないのかを判断してから行ってほしいと思います。他方、自分に向けられたことに応え、あるいは正すべきを正すことも必要です。いずれにしても、先にあげた方針類を読んでいただきたいと思います。まじめに討議・検討している人たちは、履歴ページを参照し、誰がどのように編集しているかも確認できるのです。--Ks aka 98 2007年5月25日 (金) 13:28 (UTC)[返信]

学問や研究には学問や研究のルールがあり、ウィキペディアにはウィキペディアのルールがあります。まずは、そういったものを覚えるよう努力してみてください。資料の扱いや評価、それをどのように書くか、といったことは、学問においてもウィキペディアにおいても重要です。ウィキペディアのルールのいくつかは、そういった学問・研究の作法というようなものを、方針・ガイドラインとして示しています。また、専門家であれば当然知っていること、理解していること、あるいはその専門家の名前などで信頼性を担保できること、といったことが、ウィキペディアでは通用しませんから、いくつかの独自のルールがあり、これも方針・ガイドラインとして示されています。これらの文書にわかりにくいところもありますから、多少の誤解には、コミュニティは寛容であるべきだと思いますし、ぼく自身、これまでいくらか説明をさせて頂きました。その上で、ブロック依頼で、喜連川一色家さんが指摘されているのは、喜連川騒動についての立場・解釈の違いではなく、ルールを理解していないこと、なのです。

博物館などの資料は、編纂委員会以外の人も知ることができます。時代によりますが、全文をウィキペディアに掲載することは、無駄だったり、著作権法上の問題を生じさせたりします。出典を示し、所蔵を示すことで、第三者が検証可能であるようになれば、要約で十分です。誰かをブロックするには、別の誰かが「こいつをブロックしよう」と思うだけではダメで、ウィキペディアのコミュニティの合意が必要です。それを理解して頂ければ、何故その人をブロックするべきだと考えたかということを、示すことは当然行わなければならないことだということもご理解頂けると思います。加えるならば、削除依頼のページは、判断を下す場で、削除対象となる記事の執筆者がいちいちコメントをする場所でもないのです。

現在、喜連川一色家さんが、不愉快に、あるいは不満に思っていることの、かなりの部分は、ご自身がルールを把握していないことに由来しているように思います。ですから、度々方針文書を読んでくださいと申しあげています。ぼく個人は、ここでもブロック依頼の場でも意見は述べないつもりです。もし、自発的にウィキペディアを去るのであれば、たとえば色川大吉『定本 歴史の方法』(洋泉社)あたりをご一読下さい。もし、長期のブロックとなり、なおウィキペディアへの執筆を考えて頂ける場合は、まず各種方針を熟読し、色川を読み、その手法のどの部分はウィキペディアにも生かすことができて、どの部分は生かすことができないかを考えてみてください。--Ks aka 98 2007年5月27日 (日) 17:45 (UTC)[返信]

投稿ブロック依頼のご連絡

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先ほどはメッセージをありがとうございました。ところで、去る23日に、Wikipedia:投稿ブロック依頼/喜連川一色家が提出されました。喜連川一色家さんはこれに自分で賛否の投票をすることはできませんが、コメントを寄せることは可能です。--Kinori 2007年5月25日 (金) 15:02 (UTC)[返信]

返信など

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Coleusです。私のノートにメッセージをいただいたので、思うところを書きます。ウィキペディアでは、参加する人がそれぞれに相互チェックを行っていて、ルールから大きく外れることが無いように連携し合っています。実際、喜連川一色家さんがウィキペディアに参加してからも、ウィキペディアのルールに従っていないことに対して、かなり多くの人から注意をいただいて来ましたね。

喜連川一色家さんはいろいろとDoripokeさんを非難されています。しかし、多くの人がその非難の内容を眼にしたにも関らず、Doripokeさんがルール違反をしているという指摘は部分的な数件しかありません。つまり、ほとんどの人がDoripokeさんの行いを容認しています。これは、「Doripokeさんの行いが概ねルールに従っている」という証ではないでしょうか?

また、喜連川一色家さんは、Doripokeさんの編集によって記事が変わったため、他の方が誤解して判断していると危惧しておられます。しかし、ウィキペディアでは、過去の編集履歴や議論の履歴を簡単に調べることができます。私は、多くの方に誤解はなく、今までの経緯から客観的に判断されていると信じています。

喜連川一色家さんには、ありがたいことに、私(Coleus)については過分に評価いただいているようです。ここでご期待を裏切るかもしれませんが、私自身は、Doripokeさんについては、発言の趣旨や編集内容はルールに従っていて問題ないと思っています(ただし、言葉遣いや進め方が挑戦的に見える部分については賛同しかねます)。特に喜連川騒動の記事に関しては積極的に問題定義していただき、資料の調査までしていただいて、むしろ感謝しています。

私には、喜連川一色家さんに何か強いこだわりがあるあまり、ウィキペディアのルールに従っている人(Doripokeさん)の行いを見誤っているように思えます。Doripokeさんの件だけ無く、喜連川一色家さんの思い込みに起因する行いによって、喜連川騒動の関連記事については、保護依頼や投稿ブロックが何度も出たり、削除依頼が何度も出たりして、関った多くの方が労力を浪費しました。私は、喜連川一色家さんのご努力にはこれまで同様に敬意を表しますが、これほど多くの人の労力を浪費させた結果責任は認識していただきたいと考えています。

喜連川一色家さんについてのブロック依頼の結論はわかりませんが、いずれにせよ、今後ウィキペディアに関るときには、今までのようにウィキペディアを混乱させることが無いような参加方法を、ご自分で考えていただきたいと願います。--Coleus 2007年5月28日 (月) 03:59 (UTC)[返信]

  • ご指摘とご連絡ありがとうごございます。まず、私の現在の「喜連川騒動についての考え」とDoripokeさんのへの認識ですが、「喜連川騒動」の真実は、実は、東京大学史科編纂所の大日本史総合DBの「綱文」に隠されていると考えております。多くの当時を語る江戸の文献、を参照して一応の研究者、が書き残した記録であること、に意味があります。私としても、『寛政重修諸家譜』(幕府により1799年作成)を確認しておりますが、喜連川家の喜連川尊信の項には、

元和五年(1619年)下総国鴻巣に生る。寛永七年台徳院殿(秀忠)の命により、祖父が遺領を継。時に十二歳。慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎左衛門某と争論し、互いにその党を結ぶ。三月十八日二人を評定所にめし問る。事決するうち、四郎左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某伊賀金右衛門某をば、山名主殿?豊青木二郎左衛門直澄にめし預らる。のち四郎右衛門言葉屈し雌伏せるにより、十二月二十二日其党二人とともに大嶋に配流せらる。尊信も厳命によりて致仕す。承應二年三月十七日卒す。年三十五。昌山桂公端芳院と号す。室は那須左京大夫資景が女。

と記録されております。また、喜連川昭氏の項には、

寛永十九年(1642年)喜連川に生る。慶安元年封を襲。時に七歳。承應元年九月二十一日はじめて厳有院殿(家綱)にまみえたてまつり、正徳三年十一月十二日卒す。年七十二。孝山恭公令徳院と号す。室は松平遠江守忠倶が養女。

と記録されておりまた、昭氏の実弟、喜連川氏信の項には、

母は上に同じ。兄昭氏が養子。藤千代、右衛門督、尊信が二男。慶安三年(1650年)喜連川に生る。寛文八年正月兄昭氏にかはりて宮に登り、歳首を賀するのときはじめて厳有院殿(家綱)に拝謁し、九年昭氏男ありといへども、早世せしにより嗣となり、十年五月十四日父に先だちて卒す。年二十一。享山元公厳陽院と号す。

と記録されております。
そして、この記録は、当然「喜連川騒動」のWikipediaノートにて、Shimoxxさん2006年10月10日のありがたいご指摘と情報提供が、ありましたので、確認しておりました。しかし、この情報を私がなぜ、「喜連川騒動」の記事に編集していないかは、『寛政重修諸家譜』は、1799年に、幕府が全国の大名家に提出させた資料情報により、書かれたものだからです。特に、喜連川尊信の記録に関しては、「つじつまが合わない」記録として考えております。この記録の要約は、
「二階堂主膳助某」と「高四郎左衛門某」は、喜連川の地において、争論となり、互いの党(派閥・意思を通じる仲間)を結んだ(組んだ)。そして、幕府は二人を問い正すべく、幕府の評定所に呼んだ。評定は決するまでは、高四郎左衛門某をだれだれに預け、その仲間である「一色刑部某、伊賀金右衛門某」は、だれだれとだれだれに預けた。その後、評定において、四郎右衛門がそれまでの彼の言い分を、屈し雌伏せたので、十二月二十二日にその党(仲間)二人とともに大嶋に配流された。尊信も厳命(徳川家光の命)により致仕(隠居)させられた。
ということなのですが、まず、この記述は、当然「喜連川家」から提出された資料により書かれたのですが、実際の所、喜連川家当主が、この資料を提出したと考えるのは、歴史を知らない方の誤解です。当然、当時の「国老である二階堂家」により提出された資料であると考えるのが正しいのです。
家臣にとっての「名君」とは、政ごとは、全て家臣にまかせる殿様を言います。(余談でしたか?)ですから、二階堂家にとって都合の悪い文面は作らないのが常識です。よって、このように歯切れがわるい。事件を十分に語らない。記述となっていると判断できるのです。
そして、当時の筆頭家老、一色刑部を格下の高四郎左衛門の党(仲間たち)ともとれる表現です。後北条家(氏政から古河公方家の家臣への手紙「古文書」(5~6通残されております)における、家臣の序列においても、筆頭は一色右衛門佐久氏、次が町野備中守義俊、次が小笠原兵庫頭氏長、次が高大和守、次が梁田右馬助助寛、次が徳陰軒です。先の高氏師の時代では、高大和守の所が高修理亮助(氏師)と替わるだけです。
ですので、「喜連川騒動」の記事にあえて載せることはしなかったのです。当然、東京大学史料編纂所の「綱文」を残した研究者の方は、「綱文」に付けられた、多くの出典と参考文献を読んで、「綱文」を残されたはずです、ところが、「二階堂主膳助等」と「高四郎左衛門」の件は、その「綱文」にいずれの文献にも共通する所として、残され、「一色刑部等」については、その記述がまちまちであり、幕府の政略的判断を感じとりながら、それを「綱文」に残すことは、好ましくないので、外したと考えております。当然、この『寛政重修諸家譜』は、「綱文」の出典の一つとしてあげられていることは、「喜連川騒動」記事の外部リンク(大日本史総合DB)で確認できます。怪しいのは、最後に参考として付けられた、『聞及秘録』あたりかと考えております。
そして、Doripoteさんにおいては、この綱文の出典となる、文献の必要以上の削除編集を繰り返したこと。旧喜連川町発刊の明治44年版、昭和52年版の文献の解釈、が現喜連川町史編纂委員会の主事の方とまったく同じ見解をしていること。喜連川となんら関わりはない。といわれておりますが、私は、実は『喜連川文書』平成5年発刊、の存在は、3年前から県立図書館で見つけ知っておりますが、なぜ、幕府の老中2人から、榊原家当主にあてた手紙「古文書」が喜連川家で保存されているのか?疑問がある文献として、まともな物とは判断しなかったのです。
主事さんには、昨年10月に初めてお会いした時から、「一色刑部について教えてほしいいので、関係史料があれば見れるものなら見せてほしい」とご挨拶したはずか、『喜連川町史』明治44年版『喜連川町誌』昭和52年版の存在があり、五人の義民が出たこと、そして、その出典は「高塩家文書」(編纂室内のお茶のみ場の隣のロッカーにある)であるので間違いないとのコメントでした。大変親切な対応でしたが、真実は語ってはくれなかったのです。奥には、「国史大系『徳川実紀』」や「寛政重修諸家譜」もあるのにです。当然、『喜連川文書』の説明もありません。隣の図書館にあるのにです。
一方、Doripokeさんは、『喜連川文書』を発見する経緯において、私にとって、苦しい弁解が感じとれたのです。それは、削除依頼等の会話で判断できます。ネット上の人物ですから、断定は不可能ですが、逆に、現喜連川町史編纂委員会の主事さん、の立場として理解すれば、その行動も理解でき許せたたのです。どうして、喜連川関係者でなく歴史などに詳しくないと、主張しつずけけきたDoripokeさんが、『喜連川文書』を90ページぐらいの薄い研究発表レポート本です。まず、目につくことは難しい本です。受付で申請して出していただかなければ、出会えない文献を15分で見つけ出せたのでしょうか?。ま、それはそれです。
そして、「喜連川騒動」には、さらに隠された、史実の存在を発見しました。それは、Wikipeoiaには、投稿できない「個人研究」と判断されるので、ここではよします。ただ、現段階での「喜連川騒動」について発表された文献は、あくまでも、旧喜連川町が発刊した「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」であり、日本人の時代劇ファンや歴史ファンに知られている事件の物語は、この二誌であることは、事実といえます。Wikipedia上でさえも歪曲しようと考える、方は、当然おりますことを、再度ここでコメントとして残しておきます。--喜連川一色家 2007年5月29日 (火) 05:36 (UTC)[返信]
喜連川一色家さんが上に長々と書かれているのは、結局、喜連川一色家さんの個人的な説に過ぎません。そして、このページにやってくるWikipediaの参加者は、所詮、専門化には程遠い素人にしか過ぎないのです。Wikipediaのルールは、素人が素人の個人的な説の是非を判断し、それに基づいて記事を編集することを、禁じています。上の「どうも。」の節でKs aka 98さんがリンクされているWikipediaの基本方針に関する諸文書をお読みになれば、このことはすぐに分かることです。
そして、それらの文書を素直にお読みになれば、Doripokeさんの発言や編集が、それらの基本方針に則ったものであることもお分かりになるはずです。ところが、喜連川一色家さんは、私たちが何度お願いしても、基本方針をまともに読んでくださらない。基本方針を一切無視して、(我々には荒唐無稽に見える)Doripokeさんに対する疑惑を繰り返しておられる。だから、投稿ブロック依頼になってしまっているのです。
どうかお願いですから、Ks aka 98さんが列挙されているWikipediaの基本ルールに目を通してください。そして、喜連川一色家さんがそれらのルールに同意できるかどうかを判断しください。メインページにも欠いてある通り、基本方針に賛同していただけない方には、Wikipediaの編集は認めらていないのですから。--Dwy 2007年5月29日 (火) 06:44 (UTC)[返信]

ですから。喜連川一色家さんの現在の「喜連川騒動についての考え」とDoripokeさんのへの認識喜連川騒動については、誰もなにも申し上げていないのです。お願いですから、方針文書を読んでみてください。ちなみに、国会図書館で検索すれば、栃木県立博物館人文課によって編まれた『喜連川文書』が出版されていることがわかり、栃木県立博物館にあるだろうと想像するのは、歴史の専門家でもなく、喜連川がどこにあるのかもよくわかっていないぼくでも5分で見つけられます。もう少し調べれば、たとえば、佐藤博信「喜連川家伝来史料考証」史学雑誌. 88(7) [1979.07] や「喜連川判鑑」といった資料もあることがわかります。--Ks aka 98 2007年5月29日 (火) 06:50 (UTC)[返信]

  • ご連絡ありがとうございます。「喜連川判鑑」については、私も大変よく知っているものです。十五代将軍徳川慶喜の実弟、喜連川縄氏のとき、水戸家によって、喜連川家(足利家)の系図を写し取った文献ですね。それと、佐藤博信氏の雑誌ですが、参考にさせていただきます。一方、某氏の、だれも聞いてはいないのに「栃木県博物館の隣の産婦人科の生まれ」のコメントは、無駄でしたね。宇都宮の方であるとの、自己紹介とか、投稿履歴から、学校関係の方であることは判断できます。県内の公職の立場もあるようですので、ネット外の情報からも特定は可能です。本人が一番知ることですから、いずれ「喜連川町史(近世)」の編集のしかたによっては、それなりの沙汰があると思います。理由はどうあれ、旧喜連川町は、すでになく、「さくら市」としては、最初で最後の発刊となります。ここで、明らかな歪曲を許すことは、現在の法律において禁止された行為です。地方自治体であろうと、同じです。個人の判断としてではなく職制としての判断をしなけでば、それなりの沙汰はあるでしょう。--喜連川一色家 2007年5月29日 (火) 07:28 (UTC)[返信]
    • 貴方が「明治44年版の喜連川町史」と主張されている「狂える名君」の出典は、『喜連川郷土史(前編)』(1950年、片庭壬子夫、喜連川町教育委員会)ですよ。出典ひとつ満足に確認できない人間に、歴史をとやかく語っていただきたくない。ひょっとして、私をさくら市教委の主事かなにかとでもお思いでしょうか?何とか家の子孫の次は、お役人さまですか。開架(かいか。図書館において、利用者が手に取ることができる場所に所蔵していること。また、その収蔵場所。⇔閉架)にある本を「受付で申請しないと出していただけない」などと、ありもしない妄想をお話しになっていらっしゃるんでしょうか?ま、それはそれです
      最後になりますが、私の名前はDoripikoでもDoripoteでもありません。他人の名前を間違えるのは失礼極まりないです。そのうち「私の本名」と称して、全くの第三者の名前をここに書き込みかねないと心配しています。--Doripoke 2007年5月29日 (火) 11:07 (UTC)[返信]

プレビュー機能のお知らせ

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こんにちは。ウィキペディアへのご寄稿ありがとうございます。喜連川一色家さんが同じ記事に対して短時間に連続して投稿されているようでしたので、プレビュー機能のお知らせに参りました。投稿する前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。

投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。

これを使うことで

などを予めチェックし、修正してから投稿していただくことにより、同じ記事への連続投稿を減らすことができます。この利点については同じ記事への連続投稿を減らすに説明がありますので、よろしければお読みください。また、ガイドブックにウィキペディア全体のことについて分かりやすく解説されていますので、あわせてお読みいただけると幸いです。ご理解とご協力をよろしくお願いします。--Doripoke 2007年5月29日 (火) 15:02 (UTC)[返信]

投稿ブロックのお知らせ

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あなたは無期限ブロックされました。今後ウィキペディアの編集を行うことは一切できなくなります。また、ブロックが自動的に解除されることもありませんのでご留意ください。今後の対話ならびに異議申し立てはメーリングリストで受け付けます。Wikipedia:投稿ブロック依頼/喜連川一色家では、あなたに好意的な意見も一部見受けられました。そうした方の意見を受け入れ、ウィキペディアの方針にご理解をいただきますよう、お願い致します。--Bellcricket 2007年5月30日 (水) 03:10 (UTC)[返信]