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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ2

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  • 2007年4月1日から2007年9月30日までの会話分です。
  • なお、進行中の荒らし(長期)指定[1]による無期限投稿ブロック適用者である利用者:オタスケマン利用者:時空の旅人による、当会話ノートへの書込部分は、当該・無期限投稿ブロック措置[2]の根拠となる違反行為として、この過去ログ中に継続保存する一方、他サイト→鬼蜘蛛おばさんの疑問箱Part.2において、あたかも『穂国幻史考』の著者がこの会話ペ-ジあるいは、他のWikipedia記事・ノート等に工作活動をしているかのような、著しい誤解を招く形で現在も引用され、かつ公開されているため、『穂国幻史考』の著者の工作活動の事実は全く無いことをここに改めて言明し、強く注意を喚起するとともに取消線の付加による追加訂正を行いました。--故城一片之月 2010年4月30日 (金) 18:10 (UTC)

真木氏[編集]

真木氏の出身地ですが、牧野幕府さん・鉄三郎さん・IP142氏が、河内国真木村としていましたが、その後、牛久保六騎のページで、あなた様が河内国古内郡とされたところ、すべての関連ページでさまざまな人によって古内郡が書き足されています。

私は交野郡のように思います。角川や、平凡社等の地名大辞典をひいても古内郡に真木・槙郷がありません。

交野郡には、牧郷があり、同地は真木と呼ばれていたことが、太平記・平凡社歴史地名大辞典にあります。

真木(地名)の人々は、南朝方につき、淀川沿いの通行を止めたことが知られています。また同地は、中世には散所・別所の被差別地域であったような記述もみえ、真木氏が楠木氏と同じく、散所の長者であったとすれば、うなずけるところです。  

河内国在住当時の真木氏については、史料が乏しく、また推測・伝説の域を出ないことは承知していますが、単純に古内郡と、交野郡を間違えらたのでしょうか。それとも古内郡に固執する根拠があるのでしょうか。

古内郡内・交野郡内とも、真木姓の旧家はあるようです。

--からからからぼりぼりぼり 2007年4月21日 (土) 15:42 (UTC)


からからからぼりぼりぼり様へ、お返事はそちら様の会話ページに致しましたので閲読下さい。--故城一片之月 2007年4月22日 (日) 05:37 (UTC)

三河国牧野庄がどこにあったのかというのと同じ質問かもしれません。槙郷の場所を質問することは。--鉄三郎 2007年4月23日 (月) 14:55 (UTC)

牛久保六騎関連[編集]

牛久保城牛久保六騎越後長岡藩の家臣団真木氏 (牧野家重臣)と追っていくと、現代人の槇有恒に行き着きます。こういうことが牧野氏(本姓松井氏)でもありえないかと伺っているのです。

牛窪記を時空の旅人氏が一部、執筆したようです。しかしながら私には何を言っているのか、なんとなくはわかるのですが、彼の書いた日本語がよくわかりません。故城一片之月は、おわかりになるでしょうか--兄卵妹卵 2007年4月11日 (水) 15:38 (UTC)

牛久保・吉田城主以外の三河牧野氏[編集]

故城一片之月さんからの質問を私のノートに書いておきました。この記述について、私は特別な研究をしているわけではなく、ただ、文献を拾っただけです。本文のほうは、ご自由にお書き換え下さい。

次に牧野平三郎系の子孫ですが、岡山藩の中老・加判の家柄である牧野氏がこれに当たる可能性があるようです。あくまで可能性の範囲であり、確信は私的にも持っていません。牛久保から去った牧野氏の後任は、池田氏ですから可能性は大いにあると思います。牧野平三郎系の子孫でなかったとしても、いずれかの宝飯郡牧野氏の家系をひいている可能性大です。調査・研究にご参加ください。池田氏の家老は万石級ですから、中老・加判であったとしても、越後長岡藩の家老首座稲垣氏を上回るものだと思います。


↑牧野平三郎の家系ではなく、牧野信成の子孫であることを確認しました。--鉄三郎 2007年5月8日 (火) 12:09 (UTC) 

関連項目を訂正・加筆しました。--からからからぼりぼりぼり 2007年5月8日 (火) 19:44 (UTC)  

穂国幻史考の作者が、このWIKIにいるのかな?????? 文章が似ているようだけど。

宣伝ですか??????????????????

221.119.63.112さんへ、別人です。ひとのノートに編集・投稿とまったく根拠もなく関係ないことを書かないように!それと署名をするように、ルールですよ!--故城一片之月 2007年3月27日 (火) 17:38 (UTC) →該当タイトル下へ移動。--故城一片之月 2007年9月9日 (日) 14:09 (UTC)


三河牧野氏炎上中[編集]

お知らせ。
三河牧野氏炎上中。--からからからぼりぼりぼり 2007年4月8日 (日) 16:19 (UTC)

とりあえず、あなたの方針を聞いてから、寄騎として参加します。私もメールアドレスを設定しました。--からからからぼりぼりぼり 2007年4月8日 (日) 16:23 (UTC)

三河牧野氏は、私の記述は、無視して、あなたが書き換えてかまいません。早急に対策が必要です。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年4月8日 (日) 19:45 (UTC)

皆様に御心配かけてすいませんでした。

私が少し目を離した隙にいろいろ有ったようですね。しかし、「三河牧野氏炎上」とは穏やかならずの観なきにしもあらずです。こういう反応が興を誘いエスカレートするのかも。たとえ新しいページに記事分割したところで解決するものでもないと思います。今、問題なのはウィキペディアに対する参加姿勢が本質的問題であると私は認識しております。ですのでこの点での対応処置(それと質問)で良いと思います。
牧野氏は偉いとか、徳川氏のほうがもっと偉いとかそんな視点で議論しようとしているところに誤解があるように思え(「自慢」という単語が時々見えるので)ますが勿論ここに心配していらっしゃる皆様は少なくともそうではないと信じています。
百科事典ですので、肯定論・反対論、通説・異説など内容は豊富かつ整理されておればそれでよいと思いますし、現代のわれわれがどう騒ごうと五十年後・百年後と歴史評価は粛々と固まっていく、現代から未来への利用者にそのための材料を提供するのですから。利用者が検索・参照してしがいがある、内容豊富でしかも面白ければなお良しでいきましょう。
本多氏由来説なども面白いと思うし、扇の馬印がいつから金色になったかなどを考えるうえで、聖眼寺伝承も含め材料提供すればよいが、やるなら、既存のページ徳川家康で「徳川家の金扇の馬印」でやるほうが適切でしょう。ページ馬印では徳川氏ばかり突出して変だし、三河牧野氏牛窪記でまとめるのも合わないし。--故城一片之月 2007年4月9日 (月) 10:57 (UTC)


豊橋・東三河・牧野氏・越後長岡藩・穂国造・山本勘助[編集]

全部同一人物または、同一団体による複数ハンドルネームによるもの。

論点がすべて、牧野氏は凄い、という前提の上に成り立っている。

牧野氏を批判する論者および牧野氏の事跡を史実に沿って記述している論者は存在せず、

そのため、反論が登場すると一斉に蜂起する。

あなたたちは、おそらく大学や出版社などの専門知識を有する集団のようですが。

ひょっとして、穂国幻史考作者の柴田晴廣さんですか? http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/

牧野氏の記事にも登場しています。http://www2.harimaya.com/sengoku/motto/makino_syusai.html

今川の家臣の牧野氏は、同じ三河の徳川に反抗したが、敗れ去り、徳川の配下になり、譜代に列した。

この1言ですむ歴史を、発祥がどうとか、穂国造であったとか、山本勘助が牧野氏の家臣とか、長岡藩がどうとか、いちいち余計なんですよ。

研究成果を発表する場所じゃないでしょ。史実を書くべきなのに。

ここまで牧野氏に異常にムキになるなど、信者は困ったものだ。--時空の旅人 2007年4月9日 (月) 10:09 (UTC)

穂国幻史考というのは、読む価値があるものですか? ①歴史小説として ②研究論文や柴田氏の私見として。情報をください。--鉄三郎 2007年4月9日 (月) 18:44 (UTC)

それぞれの氏の発祥を書くことは百科辞典にとって意義あることだと思います。--鉄三郎 2007年4月9日 (月) 18:54 (UTC)

歴史教科書の編集なら、「今川の家臣の牧野氏は、同じ三河の徳川に反抗したが、敗れ去り、徳川の配下になり、譜代に列した。この1言ですむ歴史を、発祥がどうとか、穂国造であったとか、山本勘助が牧野氏の家臣とか、長岡藩がどうとか、いちいち余計なんですよ。研究成果を発表する場所じゃないでしょ。史実を書くべきなのに。研究成果を発表する場所じゃないでしょ。史実を書くべきなのに。」との時空の旅人氏の発言は支持しますが、百科辞典である以上、諸説が入り乱れているなら、それを一つ一つ整理して、ウィキペディアに書くことは望ましいことだと思います。

またウィキペディアでは、学説や伝説を書くことは禁止されていません。「余計なんですよ。」との発言は、時空の旅人氏の意見であるが、ウィキペディアの方針ではない。--牧野幕府 2007年4月10日 (火) 09:29 (UTC)

↓からは時空の旅人氏の発言です。

http://www.d9.dion.ne.jp/~hongo/013senngoku-makino1.htm このサイトの管理者も、牧野信者で、牧野氏偏向主観で、牧野氏絡みのあらゆるものを合流させて、その事跡を脚色しています。はっきりしないものを断定的にベタベタ貼り付けています。

わたしにとって牧野氏と言えば、吉田城を築城した牧野古白が真っ先に、また幕末が好きなことから、北越戦争=河井継之助=長岡牧野氏が思い浮かびます。

本人も、河井継之助の信者ゆえに牧野氏の研究者であると公言していますね。

事跡が不明だから、どんどん脚色がエスカレートしていく。

信者にとって、牛窪記・牛窪密談記のような偽書はバイブルなんでしょう。--時空の旅人 2007年4月9日 (月) 10:40 (UTC)  はじめまして、「利用者-会話時空の旅人」というページにも投稿させていただきましたが、「穂国幻史考」著者の柴田晴廣です。  このページがどのようなものなのかわかりませんが、「穂国幻史考」で検索したところこのページがヒットし、私のあずかり知らぬところで私のことが書いてあることから投稿させていただきました。  拙著『穂国幻史考』の第三話で「牛窪考」(P699~747)のタイトルで牛久保について書いてありますが、タイトルの通り「牛窪考」であり、牧野氏については、その中の第一章「牛久保の地名由来譚と牧野氏」(p700~703)及び同第四章「牧野氏の出自」(p717~721)で書いてある程度です。  なお、上述の第四章では穂国造ではなく、砥鹿神社神主・草鹿砥氏と同族ではないかというのが私の主張です。  鉄三郎さん、取次を通していないため、第三者が拙著を紹介したページはありませんが、弊サイト(http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/)の「拙著購入方法」のページに目次及び「帯」の内容が記載してあります。参考までに知人の坂東千年王国の管理人さんが「本の頁」(http://honk.hp.infoseek.co.jp/data/hon/h000.htm)で書評を書いています。

牧野信者は、大きく2グループに大分類できる。[編集]

1、東三河郷土史家 山本勘助、穂国造、三河国府、東三河の覇者を、牧野氏の事跡に合流させようとする勢力。 豊橋市の歴史も誇張している。三河国の歴史を東三河主観でしか編集できない。

2、河井継之助信者、幕末の北越戦争で官軍に敗北したにもかかわらず、これを認めない輩は過小評価であるとして、主君の牧野氏の事跡を神格化しようとする勢力。河井継之助、牧野氏、山本氏などの家臣団は凄い、という論調で埋め尽くされている。

これら、2大グループによるWIKI工作活動により、一般人が理解しがたい文章が完成している。--時空の旅人 2007年4月9日 (月) 11:24 (UTC)

越後長岡藩・支藩(小諸・笠間・田辺など)・牧野氏・牛久保関連およびその周辺のページが次々に立ち上げられて重厚長大な著述が集積した稀な例であり、ウィキの誇るべき事例となったと思っています。

ウィキの投稿者の中で、牧野氏を東三河の覇者だと信じている人がいるようには思えません。東三河の覇者だとした後世に作成された牧野家の文献があるので、それを注釈付きで紹介しているにすぎません。日本書紀で、朝鮮半島の三韓が日本の支配下であったとする記述があるのを紹介するのと同じことだと思います。

山本氏は、山本勘助と、山本五十六を同じ系譜に属する人間(智将・軍略家)として、宣伝または、周知したがる人が、豊川市や、長岡市に行くと、見られることはあります。それがいけないことだとは思いませんが、行き過ぎると個人的にはやや違和感があります。--鉄三郎 2007年4月9日 (月) 18:39 (UTC)

稲垣林四郎[編集]

稲垣林四郎は、永禄4年の牛久保城の合戦には、徳川方となって牛久保城攻めに参加したことは本当に間違いないですか?

岡崎市史には、永禄4年7月に、稲垣林四郎が岡崎に走ったから、牧野成定が帰順を決めたというような記述がありますが。

それにしても、稲垣林四郎は、徳川家の直参になれなかったのか不思議です。 --鉄三郎 2007年4月19日 (木) 21:31 (UTC)

鉄三郎様へ。永禄4年の稲垣林四郎のご質問の件お返事

  1. 永禄4年徳川方帰属の件。寛政重修諸家譜巻第三百八十四の稲垣氏連(林四郎)の項で、「牧野成定に属し、しばしば軍功がありしかば、東照宮(家康)の御聞きに達し、永禄四年岡崎にめされ六十貫の地を賜い、仰せによりて松平上野介某(親廣)の手に属し、九月四日今川氏真と三河国大塚において合戦の時、敵二人を討取り所々に疵を蒙ると雖も、なお、敵兵鵜殿新兵衛某と戦いて遂に死す。」(続群書類従完成会編『新訂寛政重修諸家譜・第六』より抜粋、現代仮名遣いに修正)とあります。
  2. また、これに関して、御指摘の『新編岡崎市史』の史料編中世では西尾市岩瀬文庫所蔵「稲垣文書」の三、今川氏真朱印状(永禄四年酉七月廿日稲垣平右衛門(重宗)宛て)で「弟稲垣林四郎、四-五人敵地(松平方)へ相退く云々」について重宗がこの事実を全く知らなかったと誓句(起請文)を以て氏真に重宗の主君牧野成定を介して言上した内容が分かります。

つまり、牛久保寄騎稲垣家本宗の稲垣重宗・長茂(藤助)父子は今川方牧野成定と今川氏真になお忠誠を示し、一方稲垣林四郎(氏連)は他の牛久保侍4-5人とともに岡崎松平元康に属し、その俸禄が六十貫文であったことが明白です。しかし、永禄5年9月4日の大塚城の戦いに松平軍として参陣した際に氏連は戦死しており、直参旗本としては稲垣林四郎家が続かなかったようです。

なお、氏連が松平方に去ったのち、能勢氏に養子入りしていた氏連の一族(兄弟または庶子か?)の能勢甚三が跡式を継いで稲垣姓に復し、その子孫が長岡藩稲垣林四郎家の祖となったことは長岡藩関係文書の『諸士由緒記』の稲垣氏の項で分かります。大塚城合戦で氏連が戦死した永禄5年は牧野成定が牛久保衆を率いて広瀬・富永(設楽郡)や宝飯郡の八幡など各地で松平元康軍と激戦を重ねたことは同じ史料編中世の1066-1068頁の「牧野文書」所収・今川氏真発給文書から明白であり、成定が永禄4年に稲垣林四郎(氏連)が松平方になって成定も帰順を決めたとするのは大いに疑問あるところです。むしろ、「牧野文書」の三の牧野成定証状(永禄4年7月11日発給山本孫五郎以下家臣三人宛て)では今川氏に対する忠誠へと成定の決意が傾いた事を示している。(岡崎市史本文の該当個所は私は未だ確認してませんが矛盾を感じます(執筆者はたしか新行紀一さんでしたか)。--故城一片之月 2007年4月20日 (金) 16:25 (UTC)

丁寧なお返事をありがとうございます。該当箇所を玉虫色になおしておきました。市史編纂委員の著述であってもおかしいものはあります。この1月に、小諸市史編纂委員が、自分で本を出版されましたが、宗家・長岡藩町奉行の河井継之助が小諸騒動を収めるために来たする記述があり、失笑してしまいました。市史編纂委員でありながら、長岡藩の町奉行と、御奉行の相違・意義がまったくわかっていないのですよ。--鉄三郎 2007年4月20日 (金)22:18 (UTC)

時空の旅人氏に関する件[編集]

履歴を改めて確認しましたが、対話不能と判断するに至りました。よってブロック依頼を提出しました。--おはぐろ蜻蛉 2007年4月9日 (月) 11:47 (UTC)

故城一片之月さん、こんにちは。ウィキ豊です。ブロック依頼に参加させて頂きました。利用者:時空の旅人会話 / 投稿記録の件に根気よく対応されたと思います。この利用者はどうしてインチキと決め付けたり説明文を混乱させたりするのかは不明です。混乱させる理由の解明よりも編集をとめるほうが喫緊の問題かもしれません。--ウィキ豊 2007年4月10日 (火) 02:46 (UTC)

時空の旅人氏の投票のご案内をいただきましたが、知人のパソコンから執筆しているため、その人物とIPアドレスが同じとなるため、投票は自粛させていただきました。ご容赦下さいませ。

ネット上でも、実社会でもまったく私の知らない東京ウォーカー氏が最近、登場され、故城一片之月氏の執筆されたページを再編集・訂正なさっています。荒らしをしている参加者ではありませんが、少し注目しております。--からからからぼりぼりぼり 2007年4月15日 (日) 16:49 (UTC)

梁山泊智多星呉用さんが、登場なさいました。時空の旅人さんがこだわっていた馬印 牛窪記 柳営秘鑑をはじめ歴史の知識が深いかたのようなので、チョー注目しています。時空の旅人さんがブロックされたいま梁山泊智多星呉用さんは、頼もしい存在でありご活躍を期待したいと思っています。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年4月19日 (木) 17:18 (UTC)

こんにちは。お久しぶりです。ウィキ豊です。ご案内申し上げます。利用者:梁山泊智多星呉用会話 / 投稿記録氏へWikipedia:投稿ブロック依頼/梁山泊智多星呉用が出ました。利用者:時空の旅人会話 / 投稿記録氏や利用者:オタスケマン会話 / 投稿記録氏と同一人物ではないかという疑惑からです。このブロック依頼へ何かご意見はございませんか。--ウィキ豊 2007年9月4日 (火) 03:59 (UTC)

庶子[編集]

越後長岡藩主の庶子に関する記録はどうなっているでしょうか。

幕府に届けが出されなかった庶子もかなりいるものと思われます。

小諸藩の家臣団のページの整理・補充をいましていますが、小諸藩主・牧野氏には、かなりの数の藩主の庶子がいて、これれを、あちらこちらに押し付けていた様子がわかります。ほんの一部だけ執筆しましたが、あまりにも多いので、数例にとどめることにしました。当然、越後長岡藩主・牧野氏でも同様なことがあったと思います。何か情報がないでしょうか。 --鉄三郎 2007年4月23日 (月) 15:02 (UTC)

さっそくありがとうございます。いったい誰の隠し子でしょうね。--鉄三郎 2007年4月24日 (火) 14:31 (UTC)

私だけではありませんが、小諸藩の家臣団・越後長岡藩の家臣団をだいぶ増補補正しました。一度、更正頂ければ光栄です。

また三河牧野氏を整理することをご検討中のようですが、項目名をやたらと変えると、小諸藩の家臣団・越後長岡藩の家臣団のリンクが切れてしまうので、ご配慮くださいませ。項目名を絶対に変えないで欲しいと申し上げているわけではありません。--鉄三郎 2007年4月25日 (水) 17:52 (UTC)


家格[編集]

諸藩でだいたい同じであったと思いますが、家臣の分家には、新恩給付型、本家の家禄分与型、新恩給付型と本家の家禄分与型の折衷型の3つがあったようで、越後長岡藩でも同じようであったようです。

分家を分出すると、本家に穴埋め加増がある場合もあったようで、家老山本氏などは、分家の分出で家禄が減ってもまたすぐに加増となり、旧知に復したように思いますが、私の見方に間違いないでしょうか。

次に300石の家臣が100石の分家を分出して、200石となると、家格はそれと同時に落ちてしまったのでしょうか。越後長岡藩では、300石ないと番頭まで昇進することは、少なかったようですが、300石の家が、分家の分出で200石となると、200石級の家柄として扱われたのでしょうか。それとも分家の分出以前の旧知の300石級の家柄を尊重されたのでしょうか。

分家の分出をたくさんおこなっている家と、そうでない家がありますが、どうしてこのようなことがおこるのでしょうか。 九里氏の庶子たちの不自然な新知による召しだしや、当主が婿養子で、長男が妾腹というような場合は、個別の事情で、分家の分出に迫られるということがあったと思われますが、なぜ分家をたくさん持つ家とそうでない家があるのでしょうか。 --越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年4月28日 (土) 19:52 (UTC)

越後長岡と牧野一族を学ぶ会さんへ。
分家の分出が家臣の家筋と関係があるかどうかは私は良く知りません(何か法則めいたものがあるというより個別の子細事情と思えますが。藩主家の分家は初期を除き制限されていたようで、例えば牧野平左衛門家の分家は初代においてあったが以後は無い。藩政初期の継嗣係争の影響と思われます。)。稲垣家や山本家のような特別な家は別として、個別に時の藩主に目を懸けられて次男以下が取り立てられたりしたことは『諸士由緒記』などに散見されますが、長岡藩政研究家の方の講演など聞きますと、時の藩政当局者が藩の規模拡大や財政の増減・貧富で分家新規取立や改易・取り潰しの方針が変わり、時代による差があるとされます。一般的には幕藩体制初期には大身の家臣が多く、時代が下るにつれ藩政組織の充実とともに人員の増加に迫られ、大身を改易して新規雇用を得るか、既存の知行を分家分出などでシェアしてまかなったようですね。『長岡の歴史』(第1巻、今泉省三著、野島出版)にもデータが収録されていますので図書館等で参照下さい。
また、長岡藩においては知行の上下が序列のすべてではなく、かなり筋目というものを重んじていたといわれています。下の鉄三郎氏へのお返事も見て下さい。--故城一片之月 --故城一片之月 2007年5月13日 (日) 17:27 (UTC)

越後長岡藩では、先法家の存在・小組でも大組より家禄が大きい家があったという例外を除けば、家禄の大小が、序列のすべてだったのでしょうか。

越後長岡藩では、番頭職を3代以上、勤めれば番頭の家柄、用人職を勤めれば、用人の家柄という慣行はなかったのしょうか。

つまり将軍家では、御家人が旗本の役職に3代以上勤務すれば、旗本の家柄になるとか、小諸藩の牧野氏では、番頭職に3代以上勤めれば、上録の家柄と呼ばれたそうですが、越後長岡藩ではどうだったのか、私は恥ずかしながら知らないのです。--鉄三郎 2007年4月29日 (日) 13:43 (UTC)

鉄三郎さんへ。私も長岡藩において番頭職を何代か務めればどうなるというような話は知りません。ただ、長岡藩においては、筋目ということにこだわりが有ったように思います。雨宮氏・深津氏・三間氏が一代家老になったのも、とくに一代家老の制があったわけではなく、筋目による周囲の圧力や、本人自身の筋目への過剰意識から耐え難く、世襲の家柄として続かなかったといいます。筋目はあらためて言うまでもないかも知れませんが、三河在住以来の戦功や珠功、それによる序列を指し、天下泰平後の藩政時代もそれが家老だけではなく上士・平士、足軽に至るまでこの筋目が重んぜられ、これが藩内人事の保守性につながったと思われます。(これを打破するのは幕末の河井継之助の改革まで待たねばならなかった)
もっとも、藩政時代にも主君の大事(藩主継承等)に珠功の有ったものや、他藩の出身者でも抜群の戦功等の由緒で主君に気に入られ(藩内でも異論のない戦功ならば)上士に抜擢され定着した例もあるようですが、それも筋目のひとつと受け取られたのでしょう。
長岡藩の番頭200石役は知行170石・140石でも就任した例はあるが、120石以下の例は見えず、或る幅をもって就任資格が定められていたのでしょう。また萩原要人家のように、用人・取次・番頭を歴任(本人のみならず代をまたがって)するものがあり、役職と家格は1対1の関係ではなく、ある一定の家格において横への流動性があったように思えます。家老五家と先法三家は別格で流動性は無く、家老職と寄合職に原則固定(他職の兼任はあるが)であり、先法疋田家の減知(600石→450石、先法家は600石以上が本来の待遇)、牧野平左衛門家の減知(1000石→700石、家老職の役高1000石に足りない)の例からも、筋目を知行高の増減よりは優先しているといえる。--故城一片之月 2007年5月13日 (日) 16:23 (UTC)
自分で引用しておきながら、ちょっとおかしいなと思ったのですが、真木氏 (牧野家重臣)の化成期の真木氏の凋落という項目ですが、本当にこういうことはありえたのでしょうか。支藩の真木氏の話しになって、恐縮ですが、博学な故城一片之月さんのコメントを頂ければと思います。

父から無相違で家督を相続した家老職の家柄の者(真木九馬左衛門玄橋)が、10数年にわたって、奏者・側用人の地位にあります。病気による致仕で無役になるわけでもなく、懲罰によって減俸されたわけでもなく、この地位に留まっています。実子の男子が二人いるので、病気だとしても、子供が作れる程度であったことになります。

あるいは、実際は病気による致仕であったが、人事上はそのままにしておいたとこれは、読むべきでしょうか。

小諸藩では用人は、加判の列となることもある重臣ですが、側用人は番頭・物頭より格下です。

小諸では家老の家柄の者は、小姓→側用人→用人→家老職と進むのが一般的ですが、側用人は飛ばして、いきなり用人ということはあったようです。また家老の家柄の者であっても、家老職に空席ができるまで、用人職に在職するということはあったようです。長岡の稲垣平助家のように子供が家老本職になるということはありませんでした。--鉄三郎 2007年5月14日 (月) 17:33 (UTC)

長岡諸士由緒記などを読むと、病身であたため大組であったが、小組に格下げとなったという記述がありますが、これらは家老・先法・着座の家柄の藩士ではありません。長岡にせよ小諸にせよ、筋目・家格の高い家の当主が、長く病身になったり、精神薄弱児などであった場合は、どのように対処したのでしょうか。ひとつの方法として、自分は隠居して弟に出仕させるという方法があるという話しは聞いたことがありますが、よくわからないので、もしわかったらお教えください。 --越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年5月20日 (日) 17:33 (UTC)


長岡諸士由緒記などを読むと、御人減少のため改易という記事がときどきあります。御人減少とはなんのことでしょうか。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年5月25日 (金) 12:12 (UTC)


今回編集・投稿中断について[編集]

突然、ウィキにお出ましがなくなり、心配していました。--鉄三郎 2007年9月4日 (火) 12:20 (UTC)

私はてっきり、奥さんか恋人に、ウィキにはまって怒られて、出てこれなくなったのではないかと思いました。私もそれに近いことがありました。 --兄卵妹卵 2007年9月10日 (月) 06:02 (UTC)

三河牧野氏は、Tetsusaburou|鉄三郎氏がおこしたページのようですが、故城一片之月|故城一片之月氏がおこしたと自己紹介にあります。--兄卵妹卵 2007年9月10日 (月) 06:04 (UTC)

兄卵妹卵様へ。お久しぶりです。別に女性の要望というわけではないが、時空の旅人氏による騒動直後で新たな編集合戦の生じるのを避け(ウンザリしてました)かつ、私もウィキ中毒気味だったので暫く離れていたのです。でも、また梁山泊智多星呉用氏の騒動がおきていました。静観のつもりでしたが三河山本氏の彼の断定的記述が放置できずまた編集にもどってきました。今後は無理の無いペースで参加します。
それと、三河牧野氏は鉄三郎氏のおこしたページですが私の自己紹介ページで新規投稿の項目に挙げてありました。明らかに間違いです。たぶん部分編集・投稿のグループにあげたつもりが間違って入っていたようです。訂正しました。御指摘感謝もうしあげます。--故城一片之月 2007年9月10日 (月) 12:54 (UTC)

牧野信成の件[編集]

こんばんは、May.Lowです。わざわざコメント有難う御座います。曖昧さ回避は初心ということですが、私も曖昧さ回避でミスをしたことがありますので、気にされないでください。{{otheruses}}の用法について当方の会話ページに返信しておきましたので、User_Talk:May.Lowの方までお願いいたします。--May.Low_[lounge][Cont.][Mail] 2007年4月27日 (金) 18:54 (UTC)

お早うございます、故城一片之月さん。ウィキ豊です。僕のノートページに書き込まれていましたのでご返答します。わたくしはこの一連のトラブルメーカーの人物はひとりで複数のアカウントを用い自作自演の書き込みをしているように思えて仕方ありません。この利用者:小野きょうこ会話 / 投稿記録 氏以外も実は利用者:時空の旅人会話 / 投稿記録 氏が複数アカウントを用いて質問とその回答をなしているとしか思えないアカウント名が有ります。本音で言いますと利用者:Emergency Center会話 / 投稿記録氏も疑わしいですし、また、他の○○ Center名義にも怪しいものが有ります。この名義では利用者:梁山泊智多星呉用会話 / 投稿記録氏を批判しています。言動は管理者のようです。但し、ウィキペディアでは管理者は公表されていますので管理者ではないことは明白です。利用者:時空の旅人会話 / 投稿記録 氏は複数名義で対論しているのは周りの目を撹乱する戦法でしょう。そんな戦法まで用いて訴えたい利用者:時空の旅人会話 / 投稿記録 氏の内心は見当もつきません。--ウィキ豊 2007年9月11日 (火) 00:53 (UTC)

お早うございます、故城一片之月さん。ウィキ豊です。この利用者:小野きょうこ会話 / 投稿記録 氏の件でWikipedia:コメント依頼/小野きょうこを出しました。既にブロックされた利用者:梁山泊智多星呉用会話 / 投稿記録氏とは別人という立場で良いですので、お暇な時で良いですのでご意見を頂けたらと思います。--ウィキ豊 2007年9月17日 (月) 01:18 (UTC)
ご意見記入ありがとう御座いました。何も同意見は求めていませんので。--ウィキ豊 2007年9月17日 (月) 05:03 (UTC)