利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ9
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故城一片之月様にお願いがあります
[編集]故城一片之月様にお願いがあります。一つ目は佐野氏は旧知300石以上の家で、かなりの訳がありそうな家です。私は佐野氏と深いかかあわりがありそうな牧野弥次兵衛家に詳しくないので、記述に自信がありません。是非、越後長岡藩の家臣団に著述をお願いします。また西郷氏は先法家並みの家柄と推察されますが、なぜ凋落したか、いまひとつわかりません。情報やコメントをお寄せください。越後長岡藩の家臣団の本文・西郷氏の修正も大歓迎いたします。--今泉総一郎 2010年2月1日 (月) 18:26 (UTC)
- 今泉さんのお話は承りましたが、今は該当ページの記事整理作業中ですので、その後にと言うことで。--故城一片之月 2010年2月2日 (火) 11:04 (UTC)
ご無沙汰しております。
ウィキペディアの牧野氏関連、長岡藩関連のページを久ぶりに、読みかえしてみました。利用者 故城一片之月さんのページも、読んでちょっと気になることも書いてありました。私と、故城一片之月さんとは、一面識もありませんが、おそらくお互いの血縁者が、過去に濃厚なお付き合いをしたのではないかと、想像されます。私たちはネット上では一定の信頼関係もあるのではないかと、考えています。
越後長岡藩の家臣団の編集方針や、コンセプトについては、多数の参加者が、執筆すれば、方針が乱れ、コンセプトが失われていくことは、当然だと思います。学者の書籍も共著であれば、論理一貫性や、コンセプトは失われやすいといわれます。かの名著、有斐閣双書シリーズは、共著であるがゆえに、一貫性を失っている恨みがあるとの指摘は、よく聞くところです。
マルチアカウントは、使用していませんが、私たちの一味というか、一派は、越後長岡藩の家臣団のコンセプトにかかわる部分は、編集せずに故城一片之月さんのした編集の補充、訂正に徹するように、方針を変更したいと考えていますが、故城一片之月さんのお考えはいかがでしょうか。
小諸藩牧野氏の家臣団のページは、故城一片之月さんに修正は頂いているが、コンセプトまでは入魂されていないと思います。家臣の区分けについて、小諸は制度的に6階級に区分されているので、非常に編集がやりやすい面がありますが、長岡は家老、先法、及び幕末・維新期の非常時の重臣以外は、どう区分してよいのか、わからないのが本音です。
今泉総一郎さんは、長岡・小諸に所縁であったり、そのアマチュア研究者ではないので特に、こだわりはないそうです。
結論を言えば、私とその一派に、いちいち気兼ねせずに、故城一片之月さんが、自分のコンセプトで越後長岡藩の家臣団のページを修正・書き換えしてみたらどうかと、提案しています。その都度、断ったり協議をすると、労力が膨大になるので、質問・疑問・提案はあとで、まとめて、ノートにさせて頂きます。
真木氏・槇氏については、近く膨大な資料が入る見通しがあります。それがウィキペディアに掲載できるかどうかは別の次元ですが、それまで執筆は自粛しています。--鉄三郎 2010年2月19日 (金) 22:36 (UTC)
- 鉄三郎さん、どうもご無沙汰してました。越後長岡藩・越後長岡藩の家臣団の編集では、だいぶ大きく整理しているものですから、今泉総一郎さんには、だいぶ御心配かけているようで心苦しいのですが、他藩のページと比較して膨大な記述量があるため、色々その他の利用者の方々からも厳しい指摘・御意見も出てきておりますから、方針・ガイドラインになるべく近寄せる形での記事整理はやむを得ません。しかし、上記の鉄三郎さん・今泉さんの御理解・御許容を得られるのであれば心強い限りです。とはいえ拙筆・微力のものですから適宜、御指摘・助力くだされば有り難いと存じます。
- また、真木(槇)氏関係の新資料が得られるそうとのお話、今後の該当記事の更なる充実が楽しみです。--故城一片之月 2010年2月21日 (日) 17:59 (UTC)
まず鉄三郎氏に同意見です。いろいろとお手間をとらせて、申し訳ありません。私の意見を書いてみました。すべて無視されて、越後長岡藩の家臣団を編集されても、かまいません。1,稲垣(権)、真木、今泉(竹)は、理由がわかっているか、不明かは別として、失脚した家臣であることは、まちがいないと思います。小諸藩牧野氏の家臣団と同じく、 失脚した有力家臣として、まとめるのはいかがでしょうか。この三家のほかに竹垣氏や、西郷氏などもこの項目に付加するのもよいかもしれません。故城一片之月さんが、本家のところに2~3行を簡約して書くべきだとの強力な考え方であれば、それも受け入れられます。現状のままで可ならそれが良いと思います。2,先法3家が別ページになっているのだから、家老5家(またはその一部)も別ページにして、少なくともいま以上に、家老の説明は、越後長岡藩の家臣団では増やさないようにしたいと考えていました。私は稲垣平助家の記述を詳細にすべきと考えて、稲垣家譜録(長岡中央図書館蔵)のコピーなどを用意をしたのですが、鉄三郎氏の意見と提案が出たので、作業と準備をストップしましました。家老首座の稲垣平助家のあまりにも記述量が少ないと考えます。--今泉総一郎 2010年2月21日 (日) 23:28 (UTC)
- 今泉竹右衛門家の長岡藩離脱はその原因詳細を記述した文献も史料も管見には無いのですが、個人的には失脚の線は今のところ考えていません。『諸士由緒記』によれば、庶流・今泉惣左衛門家が高位の藩士として残留し本家の由緒も託されている様子なので、不祥事や抗争の結果と断定する理由も無いのだと思うのです。いずれにしても、これに具体的に言及する書籍も論文も公に成っていないのならば、推量でここに失脚者として記述するのは早計ではないかと私は考えます。
- 私も不器用なので、いろいろ手を拡げてはろくな編集も出来ないと思うので、やはり越後長岡藩の家臣団の編集は当分控えることにいたします。今泉総一郎さんに置かれましては、鉄三郎さんと相談されてよろしくこの記事の編集充実に尽くされてください。--故城一片之月 2010年2月22日 (月) 14:01 (UTC)
越後長岡藩の家臣団の山本氏、今泉氏
[編集]上記、よろしくお願いします。越後長岡藩の家臣団の山本氏ですが、だいぶ整理されたようですね。投稿合戦になるといけないので、様子をみてしていますが、山本氏以外の、長岡重臣の分家は100石級まで詳しく書かれているのに、山本氏は分家・庶流については、家老となった牧野頼母家の記述しかないのは、バランスに欠くと思います。別に山本氏(牧野家重臣)で1頁を立ち上げるならば、話しは別ですがどのようにお考えでしょうか。先法家が別ページになっているので、あってもおかしくはないと思います。
また家老連綿の歴代当主の名が、山本氏と牧野平左衛門家だけに、あるのもおかしいので、補充が望まれます。--今泉総一郎 2010年2月3日 (水) 19:24 (UTC)
要点別にお返事します。
- 家老の山本氏は既存頁に三河山本氏#越後長岡藩上席家老、山本氏が有りますので重複記述を省略しました。山本氏 (牧野家重臣)の新規頁を作ると、屋上屋を重ねることになりませんか?
- また、他の長岡藩士の山本氏諸家のうち、山本帯刀家の分家だと資料上で明確に判別できるものはどれでしょうか?(確実なもの以外は同項目から省くべきと思います。)
- 牧野頼母家の基になった山本家は帯刀家と三河時代に別流だったもの(八名郡入文の山本家)で藩政時代の帯刀分家ではありません。
- 家老家の歴代の実名はどなたかが記入されたものですが不要かも知れません。バランスを考えるなら、私は削除が妥当と考えます(この議論は必要ならば、ノート:越後長岡藩の家臣団にて)。--故城一片之月 2010年2月4日 (木) 10:42 (UTC)
たしかに山本姓の家臣は多いが、山本帯刀家の分家と、明記してある山本氏はない。要するに東三河と駿河には山本姓が多いということかもしれませんね。しかし山本帯刀家に分家がないというのも、不思議な話しですね。世襲家老は分家を出さないという明文化された規則はないが、慣例法が18世紀くらいにできたのでしょうか。
私は家老歴代の実名は必要に応じて補充派でしょうか。--今泉総一郎 2010年2月4日 (木) 20:59 (UTC)
今泉惣領家の菅沼氏仕官
[編集]菅沼氏の分限帳や、古文書が、だいぶ公開されるようになりました。今泉惣領家の菅沼氏仕官は、確実ではないかとの心証を得ていますが、特にご意見や、補充できるような内容はないでしょうか。--鉄三郎 2010年2月19日 (金) 22:40 (UTC)
http://www.h2.dion.ne.jp/~jiemon/sitaragahara-museum-02.htm --鉄三郎 2010年2月19日 (金) 22:43 (UTC)
- 松平君山原著、「士林沂洄」(『名古屋叢書』所収)には、今泉氏系図が掲載され、初代は「今泉竹右衛門」となっています。これによれば、この今泉氏は菅沼織部正の家臣(800石)から尾張徳川家に転籍したことがわかります。子孫はそのまま尾張藩士として連綿したようです。しかし、菅沼家への仕官の経緯は記載されていません。--故城一片之月 2010年2月21日 (日) 18:23 (UTC)
『三百藩藩主人名事典』の件
[編集]先日はお便りを頂きありがとうございました。
当方も、図書館に行った際に改めて『三百藩藩主人名事典』を改めて確認しましたが、やはり「原則として慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いから明治四年(一八七一)の廃藩置県までの約二百七十年間に任藩した藩主を収録した」と記されておりました。
実例としては、同事典第4巻の因幡国には「浦住藩」の記事があり、藩主として垣屋恒総が取り上げられています。垣屋恒総は関ヶ原の戦いで西軍に付き、西軍敗退を知って自害しており、その後浦住に大名は江戸時代を通じて配置されていません。また同事典1巻の武蔵国には「東方藩」の記事があり、藩主として徳川家臣の戸田康長が取り上げられています。戸田(松平)康長は関ヶ原当時は1万石を与えられたていたとは言え、徳川家臣に過ぎず、関ヶ原の翌1601年には上野国白井藩2万石に転封となり、続いて1602年に下総国古河2万石に移されており、家康が将軍職に就いた時には古河藩主でした。一方、東方にはやはり江戸時代を通じて大名は設置されておりません。
同事典がどうしてかかる記載を行ったかについては、同事典中に記載は無くハッキリしませんでした。ただ、一方で江戸時代の始期を関ヶ原まで遡らせる説が存在することを考えると、同事典の方針が直ちに誤った編集方針であるとも言い切れないと思います。そもそも、「藩」自体が明治になってから旧大名領に採用された呼び名に過ぎないことや、幕藩体制に統一後の豊臣政権を含める説もあることを考えると、江戸時代の大名領に通称として「藩」の呼び名が行われているのと同じように、豊臣政権の大名領を「藩」と呼ぶことについて肯定する根拠も否定する根拠も実は存在しないのではないか? という疑念だけが残った次第です。
ただ、現在の歴史事典(『国史大辞典』『日本史大事典』など)が「藩」を江戸時代の制度として定義づけている以上、現在の「藩」の定義を弄る必要性はないと考えます(『三百藩藩主人名事典』の採録基準の根拠が明確ではない以上、我々が勝手に豊臣大名を藩と称するか否かを論じるのは独自研究に陥る可能性がありますし)。ただ、『三百藩藩主人名事典』を根拠として豊臣政権の大名領を藩として立項された場合(例えば上記の浦住藩や東方藩など)、これは認めざるを得ないのではないでしょうか?
余り、いい回答にはなっていないと思われますが、何卒よろしくお願いいたします。--水野白楓 2010年2月21日 (日) 15:11 (UTC)
- お返事は水野白楓さんの会話ノートにしました。--故城一片之月 2010年2月21日 (日) 18:26 (UTC)
改名投票へのCU依頼
[編集]- どうもお世話様です。故城一片之月さんも投票権を行使したノート:四国攻め/Log1の投票では「四国征伐」から「四国攻め」への改名が実施されました。その後、Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他で多重アカウントによる不正投票が疑われたことにより、Wikipedia:チェックユーザーの方針#日本語版でのチェックユーザー情報公開規定の第3項を基礎とするチェックユーザー依頼を提出したいと思います。これを告知すると共に、ご協力を願えるのであれば賛同を表明していただきたいと思います。
- 私もですが、自分自身を含めた多人数のCUは気持ちよいものではありませんが、今後も議論や利用者がターゲティングを受けて5アカウント(あるいはそれ以下、あるいはそれ以上)による議論撹乱や不正投票による工作が疑われるような環境で健全な議論をすることは難しいように思えます。
- また、対象が安全に分離された多重アカウントであればCUが徒労の終わる場合も考えられますし、無論無罪である場合も考えられます。それでもなおかつ、疑惑に対する健全性を向上させる手段としてCUを依頼したいと考えます。ご考慮をお願いします。--Yasumi 2010年5月5日 (水) 03:27 (UTC)
- お知らせ御苦労様です。該当ページに参り、私の意見等述べさせて戴きました。--故城一片之月 2010年5月12日 (水) 13:43 (UTC)
- こんにちは。影綱と申します。先日、Wikipedia:チェックユーザー依頼/トーク:四国攻め/Log1#改名投票者に於いて故城一片之月さんが引用された「日本語版の細目の冒頭には『その利用者が項目を破壊しつづけているとき~』」のコメント者は、恐らく僕ではなく薔薇騎士団さんではないかと思われます。お節介かも知れませんが、ご確認いただけると助かります。--影綱 2010年6月3日 (木) 22:04 (UTC)
- お知らせ頂き有り難うございます。どうもその様ですね、御名前を取り違えました。大変失礼しました。謹んで訂正させていただきました。--故城一片之月 2010年6月4日 (金) 09:39 (UTC)
川越藩城代家老の松井氏
[編集]川越藩城代家老の松井氏は大身のようですが、この出自がどこにもないのは、三河松井氏・松井氏の記事が充実している中で、不自然なような気もします。--鉄三郎 2010年5月26日 (水) 19:38 (UTC)
- その様ですが、今は私の方には記述に足る材料も資料もありませんので、もし鉄三郎さんの方でお持ちならお書き下さっても結構です。私の方は、次は全く別件の投稿を考えています。--故城一片之月 2010年5月27日 (木) 14:01 (UTC)
松井氏の史料は私も手持ちが少なく、無理のようです。ついでがあれば探してみたいとは思っています。--鉄三郎 2010年5月27日 (木) 16:06 (UTC)
牧野家譜代
[編集]山本義路のページに牧野家譜代の長岡藩士である陶山霜台という表現があります。また越後長岡藩の家臣団のページにも譜代の家柄という表現があります。牧野家(長岡藩等)には譜代・非譜代の別があったのでしょうか。そうした別がなかった場合、明確な法令がなくても、慣習法のような形であった可能性あるのでしょうか。牛久保譜代ということは長岡では足軽以外は、特に意識されていなかったという見方もあり、私も本当のところよくわからないのです。--今泉総一郎 2010年6月12日 (土) 14:30 (UTC)
- 歴史用語というものは厄介なもので、なにがしかの時代の文書、それも同時代か後世のものかでも持つ意味が違ってくるようですし、この歴史的用語と同一の単語にについて、近代歴史学の専門用語として特に定義された用語の意味が重なって存在する場合もある訳です。
- 「譜代」についても専門用語としては一般的に使用される言葉でしょうが、その一般的な意味における譜代の家臣というものは存在するのかもしれませんが、その場合たしか主筋の系譜代々に対し相当の期間リンクして被官関係あるいは主従関係があり、その該当家臣の側にもこれを裏付ける代々の系譜が伝世されている事が条件だったと思います。また個別の事象、つまり長岡藩藩士に於いてはどうかというと、辿った歴史が違うのですから松平氏=徳川氏の場合とは同一視できる訳はありません。
- さて、くだんの記述がどの定義において「譜代」と言っているかはよく解りませんが、徳川氏のように「安城譜代」・「岡崎譜代」の様に長岡藩に「牛久保譜代」・「大胡譜代」のような用語の定義がされているものについては、今のところ私は承知しておりません。陶山氏については『牛窪記』(上)に「保成繁昌、付須山軍慮事」という一節が存在し、その「須山」は陶山氏と思われること、牛久保光輝院所蔵「牛久保城古図」にも陶山善四郎の名がある事から、三河以来の家臣と考えられています。但し、繰り返しになりますが、「三河譜代」・「牛久保譜代」のような定義は私は存じていませんから、これを是とする根拠は持ち合わせていません。まあ、記述者に典拠があれば別に問題ないですが。--故城一片之月 2010年6月12日 (土) 16:59 (UTC)
よくわかりました。ご丁寧な説明ありがとうございます。ウィキペディアでは典拠があれば原則的に許されるわけですから、おっしゃるとおりだと思います。--今泉総一郎 2010年6月13日 (日) 01:36 (UTC)
小田原城の戦い (1560年)改名について
[編集]はじめまして。貴方が編集に参加されました小田原城の戦い (1560年)にはWikipedia:削除依頼/小田原城の戦い (1561年)という経緯があり、削除されたページを立てられたフォックストロット氏からの提案がありませんでしたので、私から改名提案を出させていただきました。議論中のコメントにもあり、また今「記述が冗長である」との理由で出典付き記述を議論無しで削除している方もいますので、場合によっては分割も視野に入れての議論にもなると思いますが、ご意見がありましたら、宜しくお願いします。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 10:47 (UTC)
- 私は標題の記事について内容的編集は参加しておりません。通りすがりに、期限付き要出典テンプレートが文法不正により赤字表示になっていたので修正しただけですので、私については該当記事の主筆者・先の削除依頼の議論参加の方々にまずはお任せしたく思います。
- なお、ジャムリンさんは複数の利用者の方々に同内容のお知らせをされているようですが、コミュニティにより広く意見をお求めの場合はWikipedia:お知らせ、Wikipedia:コメント依頼や関連プロジェクト等で告知されるよう老婆心ながら、お勧めいたします。--故城一片之月 2010年6月23日 (水) 11:38 (UTC)
- ご返答ありがとうございました。参考にさせていただきます。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 11:45 (UTC)
コメント依頼でのご発言について
[編集]- 影綱と申します。
- Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他における故城一片之月さんのご発言の真意を問いたく、コメントさせていただきます。
- 2010年6月29日 (火) 12:57 (UTC) 付のご発言にて、「ノーコンテストならばブロックになる理由も発生しませんし、以後のこの依頼議論を根拠にした一切の責任追及も謝罪要求も何ひとに対しても発生させない事になります」とありますが、一方で「議題の焦点が個人の名誉回復や謝罪要求に移ってきている等々の理由から依頼当初の論点に有効性が失われている」とも仰っており、取り様によっては「名誉回復を論点にしたことで、議論が破壊された」かのようにも見受けられます。これは暗に影綱への批判であり、「責任追及、謝罪要求」なのではないでしょうか?
- この点、ご説明を戴きたく、お願い申し上げます。--影綱 2010年6月29日 (火) 23:38 (UTC)
- 影綱さん、ようこそ。私の会話ページに訪ねてきて下さって、歓迎いたします。気まぐれな性格のせいか、最近は訪問下さる人もめっきり減りまして、まあ、ここは論争の場ではありませんから、貴方の気持ちが許すならゆっくりお話ししていって下さい。
- さて、まずはご質問の趣意にお答えしますが、「名誉回復を論点にしたことで、議論が破壊された」と言うようなつもりは毛頭ありません。議論は2度の困難なCU依頼提出とその「謝絶」決定、それとブレイクしていた、Machine gun氏が再登場してブレイクの理由とその間に起きた彼の外部コミュニティでの気の毒な出来事の説明によって、この:Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他本来の疑惑の根底も不確かなものとなり、他にも終了議論で挙げた幾つかの理由で依頼の有効性は失われていると思っているのです。貴方とは別に、謝罪を求める話はMachine gun氏も言っており、ただそれは謝罪を求める原因が違うわけだから個別の事象と思われます。いずれにしても依頼の主眼は不正の解明であった訳ですから論点が移ろってきたことは事実ではないでしょうか?しかし、だからと言ってなぜ私が貴方に責任追及とか謝罪要求していると考えるのかは私にはよく解りません。
- 貴方は「暗に」と仰る。つまりそれは私の胸の内と言うことでしょうが、果たして私の胸の内が解りましょうや?他者の胸中、心情を推察は可能でしょうけども、私はたとえば貴方の心や思考そのものが解る筈もないですが、気持は推察いたします。
- 貴方がこれまでの議論に良かれと思って参加されたのに、或る人から疑念とされるアカウントに関係があるかのような言われ方をしたのは存じております。理不尽な話だと思います。貴方が投票者全員のCU実施案に反対され、Yasumi氏が当初データ提出した、3〜5アカウントに限定したCU依頼を主張したのは、スジの通った提案であったとも思うし、その時は私はその様に進めるのであれば敢えて反対はしなかったでしょう。私は自分は副アカウントを使用していないし、なんら疚しい部分はないのだけれども、その全員CUと言う考え方が納得できないので反対したのです。その時点での影綱さんの考え方には共感していたというのが私の胸中でした。今はと言えば、CU依頼の2度謝絶で困難な状況に陥り、3度目を準備していた貴方には当該コメント依頼発のCU依頼はもう無理だからここはクロ-ズした方が良いのではと申しあげたいのでした。あちらで、第4項の自己CUの依頼に同意されたようですが、私は詳しい前例は知りませんが、自己によるCUの依頼というのは可能のようですね、その場合御自身と比較される相手側のアカウントがあるのでしょうから、相手方の同意とかの課題はあるのでしょうが。まあ、とにかく私は貴方に謝罪なんか求める気は一かけらも無いのですよ。--故城一片之月 2010年6月30日 (水) 12:14 (UTC)
- ご回答を戴き、有難うございます。まずはお答えの中に、「議論が拗れた一因が影綱の進行にある」とのお考えはないと推測できることに、安堵の気持ちがあります。
- ご指摘の通り、僕も読心術(超能力の類でなく、言動から正確に相手の心中を読む、と言う意味での)に秀でている訳ではありませんので、推測の域を出ないことは事実であります。安易な決め付けをしたことを心よりお詫びいたします。
- 当該議論において、当初僕はCUには反対でした。議論においても何度かコメントいたしましたが、投票終了後の混乱も収まらぬうちに、突如「不正があった」と依頼が出され、当初の5ユーザーへの疑惑根拠も不明なまま、矢継ぎ早に「投票全ユーザーを依頼対象とする」と一方的に通告された訳です。幸い、少なからぬユーザーのご尽力により、一旦は「5ユーザーのみ対象で」CU依頼が出されたのですが、「保留」との回答があった際に、僕が「条件を見直すよう」コメントをつけ、反対票を入れたことが問題だったのでしょう、ご存知の通り、「対象5ユーザーと関係の深い」疑惑を突きつけられたのです。
- その後、「投票者全員を対象とした」第3項適用のCU依頼が出され、やはりこれも「合意形成不備」が理由であったことから、それならば「まず合意ありき」の議論をしようではないかと考え、Yasumiさんの後を引き継ぎました。話を進めようとする内に、machin gunさんも復帰され、「これはどうも当初のCUの前提が間違っていたのではないか」との思いに至り、「ではこれまで疑惑をかけられてきた5ユーザー、また途中からではあるが疑惑をかけられた影綱自身の疑惑払拭」を軸に合意形成をしようと考えました。
- その過程で、チャボさん他複数の方から「この依頼はクローズすべき」という論が持ち上がり、「僕が今行っている議論進行が問題なのか?」と感じました。これは僕の力量不足なのか、或いは良かれと思い行った進行が逆に疑惑を広げる事に繋がったのか、今でも悩んでいる次第です。その悩みが、おかしな方向に暴発してしまったことは、重ねてお詫び申し上げます。
- また、自己CUについては、一部の常連の方が「CUは万能ではないのだから、自身の潔白を証明する事はできない」と仰っています。しかし万能でないなりに、前例として13件の依頼があり、内6件は、潔白証明となったかはともかく、受理されCUが実行されました。
- なお、僕の会話ページ、概要にて「お返事が遅くなり」とありましたが、皆さんが必ずしも僕と同じタイムテーブルで活動されている訳ではなく、通常3日程度、長ければ一週間はかかるだろうと思っていますので、むしろ違うテーブルの方から24時間以内にお答えを戴ける事は、こちらにとっても恐縮する次第です。有難うございます。--影綱 2010年6月30日 (水) 23:00 (UTC)
- いえ、大変お疲れさまでしたと申し上げたい。それはCU依頼について、手続きと合議を重視すべきであるとの点で影綱さんは終始一貫していました。しかし、その声は結果的に届かった訳ですから。もっともCU係の見解は影綱さんの手続きと合議重視の姿勢を支持するものであったとも受け取れ、貴方の考え方は見る人は見ていた筈と私は思います。そして私自身はmachin gunさんの述懐で彼自身の不正の疑いは晴れたと考えていますから、CU不成立でも結果オーライと解釈しています。そして今後、個人で自己CU依頼する分には、もはやWikipedia:コメント依頼/Machine gun他のいかなる合議・決定にも左右されるものではないでしょうから、その点であの依頼をいま閉じても問題無いように考えます。--故城一片之月 2010年7月1日 (木) 17:01 (UTC)
見知らぬ方に失礼とは存じますが、言上申し上げます
[編集]見知らぬ方に失礼とは存じますが、言上申し上げます。
私はウィキペディアがどうしても嫌いです。どうして実名で発表しないのでしょうか。ですからいい加減な内容になりがちで、緊張感にかける無責任な解説も登場する。
牧野幕府さんや、鉄三郎さんから、たっての依頼をメールでいただいたので、補筆訂正しましたが、やはり、ウィキペディアンは私に向かないと痛切に感じているところです。お2人のメールによると、あなたは、ウィキペデイアと長岡藩、牧野家、松井家研究における市井の大家であると伺っております。私の書いた補筆部分に疑問を感じれば、削除でも移動でも、私に断らずにご自由になさってください。 夏休みなので、時間的な余裕があったので一時、ウィキペディアンとして、参加させて頂けましたことを、感謝します。--越後長岡藩 2010年8月13日 (金) 15:02 (UTC)
- 私が「市井の大家である」わけはありません、ただの一般の利用者でしかありません、誤解なきように願います。ですので、自・他の記事の編集については、その立場でしか行動しませんし、お答えもそのできる範囲となりますので宜しく御理解のほどを。--故城一片之月 2010年12月6日 (月) 14:30 (UTC)
再補充
三河牧野氏 ・小諸藩牧野氏の家臣団 (牧野氏の部分・上席家老牧野氏の部分)を書き直しました。 ウィキペディアの規則もよくわからず、おそるおそるの投稿となりました。本文に書くことは不適切な内容を少し触れさせていただきます。 牧野平四郎家の嫡家は、現在は群馬県沼田市にお住まいです。墓地は小諸市古城にあります。江戸時代に成立した牧野平四郎家の家譜には従来の通説をひっくり返す内容が含まれていました。概要は本文に書いたとおりですが、個人の非公開文書をネットで暴露するようなこともできず、ウィキペディアの規則上からもこの程度が限界か、やや限界を超えている恐れすら感じます。牧野平四郎家の末裔は、長岡御家中には1家も残らずすべて小諸に随従しています。また藩主家の家系図を否定する家系図を封建時代に公にしにくい事情があったのではないかと、推察されます。--越後長岡藩 2010年8月14日 (土) 14:13 (UTC)
- 利用者一般の参照確認が不能の資料に基づき寄稿・編集された場合は、検証可能性で問題視されるかもしれませんし、また気になるのは牧野平四郎家の伝世系図が存在するにしても、それだけで長岡藩主牧野家系図や牧野村牧野氏系図など他の牧野家の系図を否定できるものではなく、記述内容の客観的事実確認については2次史料・3次史料で論じられたものに依拠できるなら可能ですが、そうでないのならば、それは相対的な存在としてしか記述できないのであって、1次史料である該当系図またはその活字化本によるだけなら、ただそのような記述があるとまでしか実際は書けないのだろうと思います。(なお、利用者:影綱さんの会話と区別のために節見出しを付加しました。)--故城一片之月 2010年12月6日 (月) 14:30 (UTC)
正岡と牛久保の馴れ合い説
[編集]享禄2年(1529年)、西三河から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。
以上は、吉田城(三河国)の引用です。
清康進攻のときの牛久保と正岡の馴れ合い説というのは、地元では有名な話しのようです。
享禄2年に牧野平三郎が牛久保牧野氏に服属してきた。また牧野平三郎(田三郎)が正岡城主牧野成興の庶子か近縁であったとすれば、関ヶ原の真田兄弟ではありませんが、どちらかの家を存続させるためか、馴れ合いの保証のために庶子か近縁を差し出したと容易に推察できます。これについてのご意見を頂きたく、またこのようなことは、ウィキペディアの規則上、書けるのかわかりません。--越後長岡藩 2010年8月21日 (土) 14:06 (UTC)
- 暫く、個人的都合でここから離れていましたので、お返事が今になり申し訳ないです。
- それで、その「馴れ合い説」なるものは、何の記述によるものでしょうか?私の寄稿ではないのでコメントは控えます。
- 長岡藩主牧野家の「御家譜」、牧野成勝の享禄2年の記述には、「…伊奈の住人牧野平三郎來て、牧野成勝に属す…」とのみ記され、詳細な事情説明はないですね。なお、ウィキペディアのルールを守れば貴方の寄稿・編集は原則自由です。ルールはWikipedia:基本方針とガイドラインを参照下さい。ただ、ページの構成バランス等は考えて編集されるとよいと思います。そういう所での修正は私も遠慮なくさせて頂くかもしれませんので悪しからず。--故城一片之月 2010年12月6日 (月) 14:30 (UTC)
ページ:戊辰戦争の件
[編集]- 表記の記事・記事ノートについて個人的に何かご質問等あれば、この節にてお願いします。なお、議論そのものはノート:戊辰戦争にて(勝手ながら2011年1月14日~1月16日までは所用のためウィキブレイクとなりますのでお返事はそれ以降になります)。--故城一片之月 2011年1月13日 (木) 14:46 (UTC)
- 利用者:高崎おさると申します。この度は編集合戦の件でご迷惑をかけて申し訳ありません。当方はノートでの議論を望んでいます。しかしノートでの議論で片付けばよいのですが、Wikipediaの他の事例を見ると、議論を拒絶して編集した人間がページを占領する事例、改変された文章で保護される事例もあるようでとても不安です。しかし当面は議論を呼びかけます。--利用者:高崎おさる 2011年1月13日 (木) 15:50 (UTC)
- 利用者:高崎おさるさん、早速のコメントありがとうございます。編集合戦もお互いの意志疎通の不全から相手を対立に追いやることで激化する傾向があると思います。3RRで双方ブロックを受けて嫌な思いをする位なら、面倒でも対話の道を選ぶべきです。私の過去の経験では対立で相手が本当に荒らし編集者になってしまった例もあるので申しております。IPさんだと対話に不安があったり不慣れのため頑な気持になり易いと思います。私もIP利用者で約1年間試していましたがアカウント取得以前はなにか他人行儀でぎこちない気分でした。しかし、他の利用者さんや管理者の皆さんのフォローと寛容な姿勢でここに慣れる事ができ、アカウント取得に進みました。いずれ、具体的に彼の利用者さんと他の皆さんの両論併記、または分割などの棲み分けの可能性などを問いたいと思います。--故城一片之月 2011年1月13日 (木) 16:30 (UTC)
氏族名のつけかた
[編集]大神氏 (豊後国)のノートを閲覧ください。ここでの会話によると、疋田氏(越後長岡藩)・牧野氏(三河国)という標題でも許されるということになります。--今泉総一郎 2011年1月15日 (土) 15:08 (UTC)
- お話の趣旨がよく解りません。あなたは疋田氏で立項したいのでしょうか?--故城一片之月 2011年1月18日 (火) 12:51 (UTC)
ノート:小諸藩の家臣団
[編集]ご指摘、誠にありがとうございます。初心者のため編集の仕方が、まだ未熟のようでございます。とりあえず、参考文献等は下におろさせて頂きました。過去の同ページの執筆者からの依頼によりまして、新参者ですが、参加させて頂いております。公表されている古文書を解読しながらの執筆・投稿であるため、訂正・修正が多く、遺憾に思っています。出典・引用文献をつけると複雑な構成になり、苦慮していますが、少しずつ進めていきたいと考えています。小諸は長岡と異なり、大空襲がなく、昔の武家屋敷の屋敷割に、そのままご子孫が住んでいることもあって、自分の先祖の歴史について感情的な反応をする人もいるようです。郷土史を客観的に、議論・確立しにくい状況にあります。古文書に、女中部屋を天井裏から覗きしたことで処分され、失脚したというようなことが、書いてあり、そのご子孫は、そのまま当地に住んでいるが、過去の事件は風化して忘れ去られているというような例もあり、150年~300年も前のことを、どこまでどう書くかが、悩むところです。--越後長岡藩 2011年2月16日 (水) 11:14 (UTC) →このノートは時系列降順のため、新規見出しを付して下部に移動いたしました。--故城一片之月 2011年2月16日 (水) 15:07 (UTC)
- 執筆御苦労様です。小諸藩関係者の子孫の方を気遣い、どこまで記述するか悩まれているようですが、それは越後長岡藩さんの個人的裁量の問題で私としては何も申せません。むしろ、お書きになりたい事項は山とあっても、これをWikipediaを検索利用される方々の利用の便があるかどうかに重点があるように思います。当該ページを検索後にさらに出典参照したい場合にそれが可能かどうかが利用上必要なことでありましょう。ご面倒でも、脚注・傍注等の手段を使って、列記された参考文献への誘導が望まれます。--故城一片之月 2011年2月16日 (水) 15:07 (UTC)
牧野成敏
[編集]お久しぶりです。またボチボチ投稿に参加させて頂きますが、少し自信を失い控え目・慎重にというスタンスですので、よろしくお願いします。牧野成敏は、丹後田辺藩主の家祖という説があるようですが、この点について、あなたの起こされたページには何も触れられていないのは、なぜでしょうか?。牛久保城下屋敷図には、牧野田兵衛家系と、牧野山城守家系があることが、矛盾となりますが本支流ということもできます。豊川や舞鶴では、牧野山城守家系の先祖は牧野成敏であるという説を唱えている方は、珍しくないようです。牧野平四郎家系と異なり私に自信がなく、どのように編集したらよいかわかりません。 http://www.d9.dion.ne.jp/~hongo/01mikawanorekishi/sengoku/makino/013senngoku-makino3.htm
--牧野幕府 2011年4月11日 (月) 00:33 (UTC)
- どうも、お久しぶりです。「牧野成敏は、丹後田辺藩主の家祖という説」というのは、もし、下に貼り付けられた外部リンク先のサイトの事と解釈いたすならば、私もそれは存じておりますとお答えします。なぜなら、サイトに言う催し物の「三河に興りし牧野一族展」を見学してきておりますもので。その際に牧野村牧野氏の系図を(その所有者の末裔の方が讃岐屋敷公園の隣地に今もお住まいです)拝観できました。それは長岡藩主牧野家の系図とは相違している部分もあるようですし、またサイト主の人も述べているように朱書きの加筆もあり、数本の系図を併せたのではないかという印象を私も受けました。なので、桜ミュージアムの学芸員さんに質問をいたしましたが、「まあ、この様な系図があるので展示させて頂いております」とのことで慎重なお話だったと記憶しております。つまりは未だ検証・解析の途上だったのでしょう。そして、展示の現物以外に当該系図の内容は出版などの公開はされていないとのお話だったと思います。
- つまり、現状では一般利用者の閲覧・検証可能性の確保が出来ない資料ですから、Wikipedia上で記述する要件を未だ満たしておりませんから、基本ルールに従い私は記述いたしませんでした。それだけのことです。
- 牧野幕府さんが、自信が無いとのご発言については、どの様に申し上げて良いのか私には解りません。ただ1つ言える事は、一般に閲覧可能な資料・典拠そして著名性などの条件を満たすならば思い切って記述されてみたら如何でしょうと言うことですかね。--故城一片之月 2011年4月11日 (月) 15:33 (UTC)
- ありがとうございます。出版はされていなくとも、一般に公開されて閲覧可能であればよいと思いますが、著名性に厳しいものがあると感じますので、少なくても私は正岡城主・牧野成敏の子孫が舞鶴・田辺藩主という記事は書かないつもりです。同藩家臣の牧野氏にも、牧野成敏の子孫を称している者は管見にはありません。--牧野幕府 2011年4月12日 (火) 17:11 (UTC)