利用者‐会話:Chocopeanut
ウィキペディア日本語版へようこそ! | |||
---|---|---|---|
こんにちは、Chocopeanutさん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
|
練習
[編集]| style="text-align:left" | 左寄せのセル | style="text-align:center" | 中央寄せのセル | style="text-align:right" | 右寄せのセル
次 | 答申年月日 | 答申等の内容 |
---|---|---|
第1次 | 1953年(昭和28年)10月16日 | 地方制度の改革に関する答申 |
第4次 | 1957年(昭和32年)10月18日 | 地方制度の改革に関する答申 |
第5次 | 1959年(昭和34年)2月28日 | 地方公務員の退職年金制度の改正に関する答申 |
第7次 | 1960年(昭和35年)2月28日 | 首都制度の改革に関する行政部会中間報告 |
第8次 | 1962年(昭和37年)1月16日 | 地方開発都市の建設に関する意見(中間報告) |
〃 | 1962年(昭和37年)10月1日 | 地方開発都市に関する答申 |
〃 | 1962年(昭和37年)10月1日 | 首都制度の当面の改革に関する答申 |
第9次 | 1963年(昭和38年)12月27日 | 行政事務再配分に関する答申 |
第10次 | 1965年(昭和40年)9月10日 | 府県合併に関する答申 |
〃 | 1965年(昭和40年)9月10日 | 行政事務再配分に関する第2次答申 |
第12次 | 1968年(昭和43年)6月4日 | 行政事務再配分に伴う財源再配分に関する答申 |
〃 | 1968年(昭和43年)8月27日 | 最近における社会経済情勢の変化に伴う地方行政の変ぼうに対処する行財政上の方策に関する中間答申 |
第13次 | 1969年(昭和44年)10月15日 | 広域市町村圏および地方公共団体の連合に関する中間報告 |
〃 | 1969年(昭和44年)10月15日 | 都市制度に関する答申 |
第14次 | 1970年(昭和45年)11月20日 | 大都市制度に関する答申 |
第15次 | 1972年(昭和47年)10月26日 | 特別区制度の改革に関する答申 |
〃 | 1973年(昭和48年)11月9日 | 今後の地方行財政のあり方に関する中間答申 |
第16次 | 1975年(昭和50年)7月23日 | 地方財政の硬直化を是正するためにとるべき方策を中心とした地方行財政のあり方に関する答申 |
〃 | 1976年(昭和51年)6月18日 | 住民の自治意識の向上に資するための方策に関する答申 |
〃 | 1976年(昭和51年)10月22日 | 地方税財政制度のあり方についての起草委員会報告 |
第17次 | 1979年(昭和54年)9月10日 | 新しい社会経済情勢に即応した今後の地方行財政制度のあり方についての答申 |
第18次 | 1981年(昭和56年)7月31日 | 地方税財政と行政改革のあり方についての意見 |
〃 | 1981年(昭和56年)11月24日 | 地方行財政制度のあり方についての小委員会報告 |
第19次 | 1982年(昭和57年)6月8日 | 地方行財政制度のあり方についての小委員会報告(参考) |
〃 | 1982年(昭和57年)9月7日 | 地方行財政と行政改革のあり方についての意見 |
〃 | 1983年(昭和58年)11月14日 | 広域行政制度のあり方に関する小委員会報告 |
第20次 | 1986年(昭和61年)2月3日 | 機関委任事務等に係る当面の措置についての答申 |
第21次 | 1988年(昭和63年)5月18日 | 社会経済情勢の変化に伴う基礎的自治体(地方公共団体)のあり方についての小委員会報告 |
第21次 | 1988年(昭和63年)5月18日 | 地方公共団体への国の権限委譲等についての答申 |
〃 | 1988年(昭和63年)5月18日 | 地方行財政と税制改革のあり方についての意見 |
第22次 | 1989年(平成元年)エラー:和暦テンプレートの解説ページを参照してください。[元号要検証]12月6日 | 小規模町村のあり方についての答申 |
〃 | 1990年(平成2年)9月20日 | 都区制度の改革に関する答申 |
第23次 | 1991年(平成3年)12月6日 | 地方交付税制度に関する基本的な考え方 |
〃 | 1993年(平成5年)4月19日 | 広域連合及び中核市に関する答申 |
第24次 | 1994年(平成6年)11月22日 | 地方分権の推進に関する答申 |
〃 | 1994年(平成6年)11月22日 | 市町村の自主的な合併の推進に関する答申 |
〃 | 1996年(平成8年)4月16日 | 地方分権の推進に伴う地方行政体制の整備・確立についての専門小委員会報告 |
第25次 | 1997年(平成9年)2月24日 | 監査制度の改革に関する答申 |
〃 | 1998年(平成10年)4月24日 | 市町村の合併に関する答申 |
第26次 | 2000年(平成12年)10月25日 | 地方分権時代の住民自治制度のあり方及び地方税財源の充実確保に関する答申 |
第27次 | 2003年(平成15年)4月30日 | 今後の地方自治制度のあり方についての中間報告 |
〃 | 2003年(平成15年)5月23日 | 地方税財政のあり方についての意見 |
〃 | 2003年(平成15年)11月13日 | 今後の地方自治制度のあり方に関する答申 |
第28次 | 2004年(平成16年)11月18日 | 地方税財政のあり方についての意見 |
〃 | 2005年(平成17年)12月9日 | 地方の自主性・自立性の拡大及び地方議会のあり方に関する答申 |
〃 | 2006年(平成18年)2月28日 | 道州制のあり方に関する答申 |
第29次 | 2009年(平成21年)6月16日 | 今後の基礎自治体及び監査・議会制度のあり方に関する答申 |
徳川慶喜の表記を何度も一橋慶喜に直されていますが、時期に関係なく、徳川慶喜は常に徳川慶喜です。Chocopeanutさんは要約欄で「徳川慶喜」表記は時期的に誤りであると断言されていますが、根拠は何でしょうか?彼を一橋慶喜と呼ぶのは一橋徳川家当主であったためのいわば通称(徳川光圀を水戸光圀と呼ぶのと同様)であって、正式名称ではありません。最初に「一橋徳川家当主」と書いてあれば誤解を生む可能性も低いでしょうから、百科事典としてはより一般的な「徳川慶喜」表記で記述するのが妥当と思われますがいかがでしょうか。--トホホ川 2011年7月3日 (日) 02:28 (UTC)
- ご指摘ありがとうございます。一橋家時代も「徳川」が正式とのこと、正直初耳でしたので大変勉強になりました。ただし、一橋家当主時代の慶喜については、歴史書・歴史論文の類では徳川宗家時代と区別して「一橋慶喜」と表記するのがむしろ一般的であり、閲覧者の理解を助ける上でも有益であると考えますが、いかがでしょうか。(同じ理屈でいえば、山内容堂は全て「松平容堂」と表記すべきということになるのでしょうか。)--Chocopeanut 2011年7月3日 (日) 02:43 (UTC)
- 仰る通り、歴史論文の類では「一橋慶喜」の表記が用いられることも多くあります(ただ一般的とまでいえるかどうかは微妙です。今ざらっと見た中では一橋家時代の慶喜に関して、家近良樹『幕末政治と倒幕運動』は「一橋慶喜」、高橋秀直『幕末政治と天皇』は「徳川慶喜」で表記されています。もっとも両書ともほとんどの箇所では姓を略して単に「慶喜」と書かれますが)。これは読者の知識が十分なことを前提として一橋派や一会桑勢力などの文脈に即した使用法をしているためと思います。しかし、Wikipediaは論文どころか歴史辞典でもなく百科事典であり、読者は必ずしも日本史ないし幕末の知識を十分蓄えている層を前提としていませんので、より一般的な呼称(絶対的な基準はありませんが、概ね教科書で用いられる表記)を用いる方が普通かと思いました。
- もちろん方針さえ守れば誰でも編集可能なWikipediaですので、Chocopeanutさんがどうしても一橋慶喜の方が読者に有益だと判断されるならば、表記を改めることも自由ですし、私もこだわっている訳ではないので強くは反対いたしません。ただ、編集理由として要約欄に「時期的に誤り」とあったのが気になったので、誤っている訳ではないことを伝えに会話ページにお邪魔したという訳です。あしからず…。あと、小笠原長行は早速出典を掲示してくださり、ありがとうございます。--トホホ川 2011年7月3日 (日) 03:32 (UTC)
TPPの編集について
[編集]TPPでのあなたの編集以降、出典欄で、エラーが出るようになってますが、観てもらえませんか。私もみてみましたが、簡単ではなさそうなので。よろしくお願いします。--Kmk75s 2011年11月21日 (月) 01:56 (UTC)
「ファイル:23samurais-memorial.jpg」がコモンズへ移動されました
[編集]ウィキペディア日本語版にアップロードして頂いたファイル:23samurais-memorial.jpgですが、このたびウィキメディア・コモンズのcommons:File:23samurais-memorial.jpgへ移動されました。 この移動によりあなたの投稿されたファイルは、ウィキペディア日本語版だけでなく、他の言語版やその他の姉妹プロジェクトなどでもより広く利用することが可能になりました。
なお、この移動の後、ウィキペディア日本語版に残っている元のファイル:23samurais-memorial.jpgは、Wikipedia:即時削除の方針#ファイル1-5に従いまもなく削除されますので併せてお知らせいたします。--もんじゃ(会話) 2017年10月5日 (木) 10:41 (UTC)