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利用者‐会話:Nekosuki600/いわゆる暴言なるものについて

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お願い[編集]

意見・主張は簡潔にわかりやすく記してください。ややこしい議論に発展しそうであるかどうかはあらかじめ予測を立て、自らのその予測に従って適切な章立て・構成などを行うことを、強く求めます。また、いただいたご意見には目を通させていただきますが、個々のご意見について、その全てに丁寧な応対をするとは確約いたしません。あらかじめご了承下さい。--Nekosuki600 2009年7月26日 (日) 07:52 (UTC)[返信]

「文体」と「内容」などについて[編集]

2点思うことがあって、ブロック依頼を提出したお前が言うな、と言われそうですが、私個人としては「文体」と「内容」は切り離すことが出来ないのではないかと思っています。誤解でなければ、他の多くの編集者が「文体」と「内容」は別に考えることが出来る、きっちりと文脈を追っていけば「文体」とは別に「内容」が分かるはずだ、と考えていると思われました。私はその両者は切り離すことができないと考えています。(つまり「文体」がすでに「内容」を表現しているということです。)

もう1点は、「ざっくばらんな口調から慇懃な口調までの広いダイナミックレンジの中から適切なものを選び、また穏やかな妥協から厳しい対立までの広いダイナミックレンジの中から適切なものを選び、その中で意見交換を行い合意を形成していきゃいいんじゃないんでしょうか。」という、Nekosuki600氏の見解には大賛成なのですが、どうも実際の氏の「文体」はそうはなっていないのではないかと思うのです。

「文体」にどうしても「相手」も自動的に含まれてしまうとすれば、(そうでなければそれは「独語」になって初めから相手に伝えるということを放棄していることになります)Nekosuki600氏の問題になる時の「文体」は、「広いダイナミックレンジの中から適切なもの」とはいえなかったのではないでしょうか?

(別に相手に主ねろと言っているわけではありません。こちらの「内容」が相手に的確に伝わる「文体」は、困難だがそのつど発見できるのでは?と云うことです。(私が出来ているわけではなりません。しかし、その批判は他者から受けてもしょうがないとは考えています。))

まぁ、答えて頂けるかは別にして、氏の記述を見て以上のことを感じました。--山本山815 2009年7月26日 (日) 10:23 (UTC)[返信]

ご意見は承りました。大変申し訳ないのですが、「話を聞き置く」という対処にとどめたいと思います。
率直なところ、山本山815さんの「暴言」の基準は、わたくしには理解ができません。Wikipedia:投稿ブロック依頼/Nekosuki600 090725において山本山815さんは「『今回の被依頼者がお子様なんだとして。』といった記述を、1年近く前から他の編集者に対して被依頼者が行っており、」などと書いておられますが、これは原文を確認すればわかる通り[1][2]、誰かの間違いを指摘する際にその前提を確認したものにすぎず、また当該議論はその前提の確認をすっとばして議論を進めることはできないものでした。これを前提の確認ではなく相手方に向けられた暴言と受け止めたということは、「どの言辞が暴言であるか」に関する判断の精度という点で大きな問題を抱えていると考えざるを得ないというのが、おれの判断です。
前にもどこかで書きましたが、「それは暴言だ」と決め付ければ批判が可能になるというほど簡単なものではないと思います。上記「今回の被依頼者がお子様なんだとして」が意味するところが伝わらなかったのだとすると、それは書いた側ではなく読んだ側、読んでそれを暴言だと思った側に問題があると思います。確かにわたくしの文章は読者に対して一定以上の読解力を求めているとは思いますが、百科事典作りをやろうというサイトにおいて極端に度外れた高度な読解力を求めているものだとは思いません。
わたくしには、わたくしの表現力の使い方について見直すことは、可能です。しかし他者の読解力についてはいかんともしがたいというのが実情です。ご了承下さい。--Nekosuki600 2009年7月26日 (日) 12:21 (UTC)[返信]
  1. ^ Wikipedia‐ノート:投稿ブロック依頼/やまだくん - 当該発言の存在場所。
  2. ^ Wikipedia:投稿ブロック依頼/やまだくん - 上記の本論。
◆ブロック依頼・コメント依頼で言及されている、山本山815さんが指摘した「Nekosuki600の暴言」のうちいくつかについて、おれには理解不能なものがあります。言い換えれば、「暴言の定義」という点でまったく一致点が見出せておりませんので、他項目にて意見表明をする前に、その「暴言の定義」についての合意形成がはかれればと存じます。同時にその点での合意形成が成立するまで、他項目への発言は自粛していただけることを、強く期待いたします。わたくしは、無用な消耗戦のような議論は避けたいと思っております。
わたくしが理解できないでいるものはたくさんありますが、顕著なものを2例ほど示します(他の「暴言よばわり」に納得しているということを意味しません)。
  1. 「説教しようかと思いましたが、エキサイトされても面倒なんで、誰か他のひとにまかせます。」
  2. 「今回の被依頼者がお子様なんだとして。」
この2件、どこがどのように「暴言」であると山本山815さんはお考えになったのでしょうか。この2件は、わたくし的には感情の表明ですらなく、事務的な手続きのために必要な最低限の言辞でしかないと考えております。確かにまあ、「ここは感情を表明しておこう」と思うことはあり、そういうところが受け取る人によっては暴言と感じるケースがなくはないだろうと可能性論的に思うことはあるのですが、この2件はいずれもそれに該当しません。必要最低限の事務的言明が暴言と受け取られた理由をわたくしは知りたいと思いますし、必要最低限の事務的言明を暴言と受け取った方の感覚をお聞きしたいと思う次第です(なお、ご説明を伺ったのちにそれでも納得しない可能性はもちろんありますが、ご説明では意味がわからないと思う可能性もあることはあらかじめ表明しておきます。上記2例のうち特に後者は、山本山815さんにとって「ここでどう答えるかが正念場」なのではないかと思います。
同時に、上記2件についてはもちろん別の表現をすることは可能でしたが、どのような表現をするならば山本山815さんは「万民から暴言だと受け取られる可能性がなくなった」とお考えになるでしょうか。例文を示していただけると幸いです。わたくしの表現と山本山815さまによる例文との差分で、受け手側の判断がどのように異なると推測できるのかについての考察も、同時にお願いします。
では、ご回答よろしくお願いします。念のためですが、本件についての意思疎通の齟齬が解消されるまで、本ページの他項目には参加しないことを、強く希望しておきます。まあ、ご参加になったとしても「Nekosuki600もたいへんだなぁ」という外野的評価が得られるだけであり、わたくしは全く困らないとも思うのですが。--Nekosuki600 2009年7月28日 (火) 13:52 (UTC)[返信]
もし、他の章への私の書き込みが「無用な消耗戦のような議論」を導くものであったとすれば、私の意図とは全く間逆であるので素直に謝罪いたします。純粋にNekosuki600氏の文章が<絶対主義的>に感じられたため、それが「誤解」であるなら解いておきたかっただけです。
暴言」の意味は、辞書的に言えば「他人を傷つけるような乱暴な言葉」、もしくはWikipediaでは「他を傷付ける礼儀(→マナー)から外れた言葉、およびそのような言葉を口にすること」となっていますが、私の定義もそれに近いものです。
そして「説教」の意味は、「(1)教訓(教えさとすこと)をたれること。また、かた苦しい話や小言を言うこと。(2)経典や教義をわかりやすく説き、人々を教え導くこと。」と辞書にあり、「お子様」とは、「考え方・やり方などが未熟であること」です。 つまり、上にあげられたNekosuki600氏の記述の例には、正しい場所から間違った者(未熟な者)を諭す(上から下へ)という意味合いが含まれているように感じ取れたのです。
(禿げている人に、「ハゲ!」と言うことが礼儀に反するように)たとえ「本当のこと」であっても、それを公の場で表明することが礼儀に反する場面は多々あります。 私は、そのような言動を回避することが「暴言を回避する」ことだと思っています。
  1. 「きちんとその点を説明したいところですが、当事者同士で混乱しても仕方がないので、誰か他の人にお任せします。」
  2. 「今回の被依頼者がWikipediaの編集について全く理解がないとするならば、」
以上が私の例文になります。(考察は読めば分かると思いますので、割愛します。)
(でもNekosuki600さん、この議論は「不毛」じゃないですか? (納得は1ミリもされてないでしょうが、)私のこの章での意図は全て伝わったと感じたので、この章での更なる回答を私は回避したのです。(もちろん逃げた訳ではありません) 私には、上の議論はNekosuki600氏が全て分かった上で、結論から導いて議論をスタートさせているように思われます。 もちろん、「お前を潰すまでやる」と考えているのであれば、私は例えたった一人でも自分のためにやらざるを得ないのですが、この議論はWikipediaにとって全く無益にしか感じられないのですが…。)--山本山815 2009年7月28日 (火) 16:29 (UTC)[返信]
どのような言辞をもって絶対主義的と考えるか相対主義的と考えるかというのはもっぱら受け手側の解釈の自由に基づくものであり、書き手側がどのような意図を持っていようともそれが受け手側の解釈を支配できるわけではありません。その一点を以って、すでに「Nekosuki600の文体は絶対主義的に感じられる」という感覚について、わたくしがなんらかの見解を表明できるものではないと考えます。
暴言の意味が「辞書的に言えば『他人を傷つけるような乱暴な言葉』」「他を傷付ける礼儀(→マナー)から外れた言葉、およびそのような言葉を口にすること」であるならば、その定義は「暴言」と「批判」との区別をすることができない、定義として無意味なものであると考えます。正当な批判に傷つき「暴言だ」と主張して一矢報いようとする者などは珍しくもない存在であり、反論をもって個人攻撃だと断ずるような愚者もあまた存在するからです。一方当事者が傷つこうがどうしようが、それは正当な批判ではあり得ます。「暴言」というマイナス評価を伴うのであろう表現をするならば、「それは正当な批判の域を逸脱するものである」ということをあわせて立証しなければならないでしょう。
上から目線については、すでに言及しましたので、返答を省略します。教え諭されて当然の知識レベルの者に対して教え諭してやることは智慧を持つ者のノブレス・オブリージュでしょうし、自らが教え諭されるレベルにいることを不愉快に思う者がいるならば、その憤りは相手ではなく自分に向けるべきものでしょう。相手に対して不快感を与えないことは至上の課題ではありません。また、不愉快な思いをしたくないと切望するのならば、Wikipediaはもとより、意見をぶつけあうような場に立ち入るべきではありません。そういう不快感を回避する義務は不快感を抱く側にあるのであって、そういう者に迷惑をこうむる側にあるわけじゃないでしょう。
この議論ですが、おれにとってはとても不毛なものだと思っていますよ。不毛だと思ってはいますが、「不愉快なことはすべて悪いことだ」という発想に基づいているのだろうということはすでに推測していましたので、そういうポジションからWikipediaや意見対立を伴う場に参加することの是非について改めて正面から考え直していただきたいと考えたために、不毛を覚悟の上で展開しているのです。不快感を抱くのがいやならば、思想信条の対立を伴う可能性がある場には近づかないのがよろしいのではないでしょうか。チグリモ氏だけではなく、山本山815さんも同じなのではないだろうかと、わたくしは愚考する次第です。逆に言えば、こういう場に参加したいのならば、ちょっとやそっとの不快感くらい耐え忍ぶ覚悟がいるんじゃないんでしょうかね。
例文については、ニュアンスの差が大きすぎるため、代替案としてはわたくしは採用できません。差分についても、よくわかりません。確かに言われた側が「暴言だ!」と表立って言ってコメント依頼だのブロック依頼だのを出すことは封じられるかもしれませんが、言われた側の頭に血が上ることについては全然違いはないんじゃないでしょうか。もしもそこで「改定表現ならば頭に血がのぼらない」んだとすると、その受け手には「絶望的なまでの無理解」があるというにしかならないようにも思います。--Nekosuki600 2009年7月28日 (火) 16:52 (UTC)[返信]

議論における文体について[編集]

はじめましてKubouと申します。さて今回の一連の流れについてですが、利用者:Chigurimo会話 / 投稿記録さんに問題がないとは思いません。ただ、Nekosuki600さんのコメントの仕方についてもまったく問題がないとは思っていません。具体的に問題と思っている部分は以下の通りです。

  1. 文章内(特に文末)につく独り言(?)についてですが、今回の議論の元となった「これだから鉄ヲタは・・・」や「(ため息)」などウィキペディアの5本柱である相手に対する礼儀を忘れないに反しているコメントが見受けられるように思います。
  2. 誤った内容に対しての指摘に際して「お前の誤りに対しておれ(達)はこれだけのリカバリ作業をしてやったんだ」という雰囲気が言外にこめられているように感じます。先輩ウィキペディアンの経験を基にした指摘は大変ありがたいものではありますが、やはり上から目線で対応されると指摘を受けた側としては面白くないという感情がはたらきます。

ウィキペディア自体はボランティアの活動となりますので溜め込むことはストレスですが、Nekosuki600さんの感情の吐露(特に上記No.1)が発生すると無用な軋轢が生まれることもあります。ぐっと我慢していただくことで軋轢を回避できればそれはウィキペディアの発展にとっても有用ですので考慮いただければと思います。 新米ウィキペディアンからえらそうな意見を述べさせて頂きましたが、何か見解がありましたら返答いただければ幸いです。--Kubou 2009年7月27日 (月) 01:35 (UTC)[返信]

横から失礼しますが。相手の寄って立っているところのものを踏まえた発言が出来なければ、その意見は誰からも顧みられることはありません。猫が好き♪さんの場合、ご自身が「鉄ヲタ」としての側面を有しており、これは自嘲も含めたものと解するべきでしょう。そのような発言背景を周知する意味で「利用者ページ」があるのです。また、相手に自分の行為による周囲への影響を知らしめるために、その影響を示したことが「上から目線」なのであれば、もう共同作業の中での注意自体が出来なくなります。Kubouさんが善意で書かれていることが文章から伝わってくるだけに、残念で書き込みました。なお、このように書いたことで、私が猫が好き♪さんと「一部の方々の仲良しクラブ」のメンバー同士のように誤解される向きが予想されますが、私と彼とは時に意見が異なり、今回大騒ぎしている方々から見れば「暴言」とも受け取られるようなやり取りがなされていることを付言しておきます(普通こんなのも履歴を見れば分かるんだけどね)。--ろう(Law soma) D C 2009年7月27日 (月) 06:19 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。「鉄ヲタ」については、当該コメントが記載されたノートを確認した上で上記のコメントとなった訳ですが読みようによっては自嘲とも取れるような気がします(ここは善意に取るあたりでしょうか)。ただし、上記の私のコメント内で「感情の吐露」と書かせていただいた部分について考慮いただきたいという気持ちに変更はありません。また上から目線と書かせていただいた部分ですが「お前の誤りに対して誰かがリカバリをしなくてはならない状況になっているんだ」という趣旨で注意をしていただければ(私としては)上から目線と捉えにくいと感じています。ここらあたりは感覚の問題もありますのであくまで私の意見ですが。
最後になりますが、今回Nekosuki600さんの利用者ページにコメントさせていただきろうさんからコメントをいただいたため大御所の方が、という思いで緊張はしていますが、私はWikipediaをいわゆる「仲良しクラブ」とは思っていません。また、暴言については文体やある程度乱暴な言葉があるからといってそれが激しく問題だとも思っていません。今回一番強く思ったのはやはり礼儀を忘れないだと思います。若干とりとめのない意見となってしまいましたが、意図は通じましたでしょうか?--Kubou 2009年7月27日 (月) 10:15 (UTC)[返信]
意図は伝わりました。私の上記文章は、貴方への返答ではありますが(特に「仲良しクラブ」云々の下りは)他の閲覧者を意識した蛇足ですので念のため。--ろう(Law soma) D C 2009年7月28日 (火) 01:00 (UTC)[返信]
◆なんか止まってしまいましたので、ホーミングがてら、寝る前にちょっと書いておきます。
いやさ。「礼儀を忘れない」てのはしばしばおれ宛への批判の理由として出されるのですが、その場合の「礼儀」って何なんでしょう、というのは前からずいぶん疑問に思っていることだったりします。
なんていうんですかね。相手を実は心中では馬鹿にしつつ適当にあしらうことは難しいことではないし、トラブルも引き起こしにくい世俗的な智慧ではあると思うのです。相手が予想した通りの本格的な馬鹿であり自分があしらわれたことにすら気づかない程度に気合のはいった馬鹿であるのなら、うまくあしらえばそこで話は終わるのです。でもそれって、形式的には穏当かもしれませんが、「相手を、知識の量や思考の深度などはとにかくとして、存在そのものは尊重し、対等な者としてまっとうに向き合う」という意味での「礼儀を忘れない」というのとは対極の姿勢なんじゃないか、おれにはそんな気がしてならないのですよ。
Wikipediaには「言葉を濁さない」という指針もあります(ってそれは記事空間の記述に関する指針ですが)。けっこうどっしょーもないトラブルの種が蒔かれたとします。そのとき、トラブルの種を蒔いたひとは、それに気づかないままに種を蒔いてしまう程度に無自覚であるものなんです。第一歩は、それをわかってもらうことではないかと、おれは思います。また、それをわかってもらうために努力をすることは、知識の量や思考の深度などはとにかくとして、相手を存在そのものについては対等に扱い対等に対話をするために必要なことではないだろうかと思います。オブラートに包んで言って伝わるようなら最初からトラブルなんか起きておりませんがな。
もちろん、そういうどっしょーもないトラブルの種を蒔いたひとは、どっしょーもないトラブルの種を蒔くくらいですから、それを指摘されたら不愉快に思うでしょう。ちゃんと反省できるだけのポテンシャルがあるひとがいないとは断言しませんけれども、たいていはまぁ、怒るでしょうね。でもそれはしょうがないじゃないですか。
相手に伝わらない慇懃でもって回った言い回しで「注意した」という実績を作りそれが通じないとわかったらブロック依頼などに直行、といった方法をおれは好みません。短期的には相手が怒ってもかまわないんだ。その程度には正面から向かい合うことの方が礼儀にかなっているのではないか、なんてことを思ったりもするのです。
目標は、情報を集積していくことであるはずです。今は間違っていても、修正ができるのなら、そのひとは仲間として受け入れてあげていい。ある意味、その通過儀礼として「間違いをはっきりわからせる」「とりあえず相手が怒ってもいいが、ちゃんと考えてもらうように誘導する」ということは大事なこっちゃないのかなぁ、なんておれは思うのですよ。
もう一回繰り返しておきます。「礼儀を忘れない」というのは、まあ世俗的なトラブル回避の処世訓という意味があることは否定はしませんけれども、「相手を馬鹿にしない」「相手と常に(というのが言いすぎであるならなるべく)正面から対峙する」という覚悟という意味だってあるんではないだろうかと。
こーゆーことを書くから「『三丁目の夕日』あたりに出てきそうな町内の頑固親父」みたいなイメージになっちゃうんだよなー。ぶつくさ。--Nekosuki600 2009年7月30日 (木) 17:25 (UTC)[返信]
こら。どさくさまぎれになに暴言吐いてるんですかっ。鉄ヲタ呼ばわりなんかされたらないちゃうからなっ。にゃあ。--Nekosuki600 2009年7月28日 (火) 10:58 (UTC)[返信]
ここを読んでいる皆さん、こういう軽口が如何にキツさを和らげるかということもお酌み取り頂ければ幸いです。--ろう(Law soma) D C 2009年7月29日 (水) 00:56 (UTC)[返信]
Kubouさんどうも。
先に念のために言明しておくのですが、何がどうあれスタイルを変えるつもりはないぞとかがんばるつもりはありません。まあ軽口を交えずにひたすらフォーマルにやるともっとキツくなるだけだろうけどそんでいいかということは、暴言呼ばわりをする方々に聞いてみたいと思ったりしますが。さて。
ときおり「暴言よばわり」が出てくるのは事実ですが、現実問題そういう指摘を受けることは多くないように感じています。いちいち自履歴から探してくるのも面倒なんで一例だけにしておきますが、たとえば「パンツの穴の raison d'e^tre」など。
暴言だという文句って、要するに反論のしようがないところまで追い込まれたひとが最後のつっこみどころとして使っているだけなんじゃないかという気がするんですよ。現実問題、他に有効な反論のしどころが見出し得るのならばそこに反論する方が効率的なわけですしねえ。おれがためいきをつきたくなるような状況って、丁寧に説明をしても相手がどうしても納得しないで自発的に追い込まれているようなときだから、なおさらそうなりがちなんでしょうけどね。
要するに、「暴言」なるものが原因で軋轢が生じてるわけじゃないでしょうと。軋轢はすでに「編集をめぐる意見対立」の段階で発生しており、抜き差しならぬ状況にまで発展してしまっているのであって、「暴言だ」という苦情はその結果でしかないように感じております(念のためですが、軋轢が抜き差しならぬ段階にまで発展するのに時間はたいしてかかりません。類型的トラブルならば最初の一発を見た段階でもうそこまで行ってしまうことは普通にあるだろう)。
個人的には、「『暴言だ』とひとしきり文句を言うことでその人の気が済むのなら、言わせてあげようよ」みたいに思っていたりします。ガス抜きすらふさいでしまって暴発されても困りますし。
おまけ。
おれはまあなんだ、にちゃんねるでは「記事などほとんど書いたことがないやつ」ということになっているらしいので、そういう視点に立つならWikipediaには全く寄与していないことになり、最下層ウィキペディアンであるはずですが、それはとにかく。記事を書いたり文書整備などをしてきたひとはそれなりの敬意を払われて当然だと思いますし、「誰であろうともおれに上から目線で何かを言うのは許さぬ」みたいに感じるようなやつは「Wikipediaにとっていらない子」だと思います(=^_^;=)。そういうひとは自分でサイト作ってる方が楽しめるんじゃないのかなぁ。--Nekosuki600 2009年7月28日 (火) 10:58 (UTC)[返信]
まぁうんざりされるのは承知で書くのですが、Wikipediaは 「記事は信頼できる情報源が公開している題材だけを含むべきです。それは個々の編集者が真実であると思うかどうかには関係ありません。」「ウィキペディアの中立性についての方針は、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない」などを基本方針に掲げていますが、上の様に書かれるとNekosuki600氏は、「正しいこと/間違っていること」の二元論に立っているように感じられるのですが間違っているでしょうか?
つまり、Wikipediaの「中立的な観点」は、私には<相対主義的>に感じられ、Nekosuki600氏の「文体」からは<絶対主義的>な感じが受け取られ、Nekosuki600氏の考えはWikipediaの方針と相容れないように感じられるのですが、その点はどう考えてらっしゃるのでしょうか? 私は「暴言」についての「ズレ」もその点が根本の原因の様に感じるのですが…。--山本山815 2009年7月28日 (火) 12:00 (UTC)[返信]
Wikipedia内に限らず、わたくしはゴリゴリの相対主義者ですが。
上の別ユニットに書いておきましたが、山本山815さんが考える「暴言」の定義というのは、正しいとか間違ってるとか食い違いがあるなあとかいう以前に、わたくしには理解することができておりません。より正確に申しますと、あなたの「これが暴言だ」とする定義はわたくしとの間で食い違っているわけではなく、あなたと他の多数のウィキペディアンとの間で食い違っているのではないでしょうか。こんなことで多数決をやろうとは思いませんが、少なくとも「これが暴言だ」とする定義の一部については、わたくしが問題を抱えているわけではなく、あなたの認識に問題があるのではなかろうかと存じます。--Nekosuki600 2009年7月28日 (火) 12:17 (UTC)[返信]

コメント by Freetrashbox[編集]

コメント 「あなた10年くらいWikipediaから立ち去ったらどうでしょうか。現状、実力不足で問題外だと思います。」「うるさいなあ。いいかげんにしろよ。」という言い方が「町内の頑固親父」の言葉と言えるんでしょうか。相手をいたずらに挑発しているだけのように思います。この問題、元々は、相手の編集内容が正確性あるいは特筆性を欠いていたということに過ぎない。それが、相手が暴走して短期とはいえブロックされる事態になってしまっている。ブロックされた当人が悪いのはもちろんだけれども、この原因の一端はNekosuki600さんにもあると思いますよ。大人として、頑固親父として注意をするのであれば、もっとふさわしい言い方があるはず。--Freetrashbox 2009年8月1日 (土) 01:15 (UTC)[返信]

Freetrashboxさんどうも。率直に言って、同意できません。
とりあえずまず、あなたがなんらかの編集をめぐってトラブルにまきこまれ、今回おれの会話ページに記されたのと同じようなストーキングをくらったとして、じゃああなたはどういう対処をするのでしょう。コメント依頼やブロック依頼という方法があることは存じておりますが、それって「キツい返答をする」のと比べて、さらに相手方に与えるダメージは大きくなるのじゃないでしょうか。あなたが「暴言」と表現するものは、コメント依頼やブロック依頼と比べればやさしい対処だと思います。かといって、慇懃な表現で相手方に伝わると思うのならば、それは考えが甘いと思います。
以下おまけ。
Wikipediaにはいろいろなルールがあってユーザのブロックとか記事の保護とかいった対処があるのですが、それよりもっと上位概念として、おれは「百科事典を執筆するに足らない知識水準・思考水準の者の参加をどうやって排除するか」というのがけっこう大きな問題になっているような気がしています。それは、一方でそれなりに向上心にあふれた年少者への対応であり、もう一方で権威主義にあこがれているが自らは権威になり得る実力を持たない成人への対応であり、いろいろ頭が痛いんです。
だからといって「年少だから」とか「能力が足らないから」とかいう理由で、特定個人をブロックすることはできませんよねえ。できない理由はいろいろあります。
「年少だから」については、年齢の確認ができないためです。
「能力が足らないから」については、全面的に能力不足ならいいんですが特定分野に限ってのの能力不足と口出ししたがりとかいますし(実社会でも上智大学かどっかの英文学者で歴史については素人のくせにやたら歴史観に口出しをする愚者の見本がいましたよね。いま検索したんだが名前わかんなかった)、分野については博識なのだがネットの力学やWikipediaについての知識が足らないとか、いろいろあります。
で、そういう人たちにたいしてどういう処遇をするのが正しいんでしょうか。そういうひとたちに厳しい叱責をして相手が怒ったとして、それは暴言なんでしょうか。相手を怒らせないことがなによりも大事なことだと、あなたは言うつもりなんでしょうか。そして、あなたならばどういう手段を考え付き、実践できるのでしょうか。
あなたは「元々は、相手の編集内容が正確性あるいは特筆性を欠いていたということに過ぎない」とおっしゃるけれども、それは間違っている。問題だったのは、たまたま正確性・特筆性を欠いていたということではなくて、なんでそんな明らかな間違いをやっちゃったのかという姿勢の方だ。
できましたら(って、おそらくこういう意見表明をしてくれちゃう以上うまくやれないだろうと思うのでやらなくていいんだけど)、あなたが思う「理想的な対処」を、しばらく時間をかけてやってみて、その上で「こういう良い方法があるだろう。わたしに学べ」ということをおれに突きつけるみたいな説得力のある方法で、批判をしていただきたいと思います。「特定の言い回しを使わなければ摩擦が起きない」なんていう簡単な問題を扱ってるわけじゃないんだからさ。
とりあえずなんだ。「自分が同じことをやられたらどう対処したか」を考えてみてくださいな。「私ならブロック依頼を出す」とかいう対処は、おれにとっては参考になりませんので、そこらへんもよろしくです。--Nekosuki600 2009年8月2日 (日) 16:39 (UTC)[返信]
Nekosuki600さん、レスありがとうございます。
「キツい返答」「暴言」という言葉が曖昧だからちょっと答えにくいのだけれども(私は暴言だとは言っていない)、これが「厳しい忠告」という意味であれば、私はNekosuki600さんの言い方はいわゆる「厳しいもの」だとは思いません。厳しく言うのであれば、シンプルに「○○さんの△△記事の編集は、□□な点で不正確だから差し戻しました」のように言った方が、相手に反論を許さないという意味でもよほどきついし、真意も伝わるんじゃ無いですか?Nekosuki600さんの表現は独創的すぎて伝わりません。
私も初心者の人に注意をしたことはありますよ。私の対応が他の人たちよりも優れていたとは思わないし、場合によっては不適切だったこともあるけれど、だいたいにおいては普通に注意あるいはお願いして話が済んでいます。私が見る限り、他の人が注意している場合にも大体は穏便に話がついているように思います。Nekosuki600さんは難しそうな相手をあえて選んで意見しているのかもしれませんが、それならばより言い方には慎重になってもらいたい。
例えばやや古い話になりますが、私の意見に対して「余計なお世話だよ。けっ。/“ぷっ”すま 見てるもんで、ぎりぎりだとはずす可能性がある・・・(おい(=^_^;=)>おれ)。」と返されていますが、これにはどういう意味が含まれているんでしょうか。(このコメントに対しての恨みを言っているわけじゃありませんよ。他にも似た話はあると思うのですが、別の人の話を引き合いに出してその人を巻き込みたくないので、自分の例を引いたまでです。)私が気付かない意図が隠されているのかもしれませんが、その真意が伝わらないのであれば意味がない。単純にバカにされたと思ってしまうだけです。当時はNekosuki600さんのコメントがしばらく削除されてしまったから気付かずそれきりだったけど、これがきっかけでNekosuki600さんと私が言い合いになった可能性もあると思いますよ。--Freetrashbox 2009年8月3日 (月) 11:48 (UTC)[返信]
前半については、言うまでもなく「余計なお世話である、と強く思った」ということを表明したものです。議論や依頼系で「お前の口の利き方が気に入らない」などと言い出すのは、現時点でもとても余計なお世話であり、かつ議論を枝葉方向に伸ばしてしまう可能性のある迷惑な言辞であると考えております。今回、冒頭部分に「節をちゃんと立ててくれ」と書いてあるにもかかわらずFreetrashboxさんはそれを無視してご感想をお述べになりました。「話の流れをどう整理するか」といったあたりにとても無頓着なのではないか、どこが余計なお世話だと言われたのかがよくわからなかった理由もそのせいではないか、とわたくしは思います。まあ親切ではなかったことは認めるに吝かではありませんが、親切に誤解なきよう説明すべき局面だったとも思いませんので、特に早急に改善が必要であるとは考えていません。
なお、「注意した結果ときおりトラブルが起きる」ことは否定しませんが、「注意するたびにトラブルを起している」というご認識なのでしたらそれはおれの認識とは全くもって異なるということを強く主張しておきます。定量的データは取っていませんが(そんなデータが取れるものか、という気もするわけですが)、どちらかというと「難度の高いトラブルの交通整理をやっているわりにはトラブルは少ない」のではないかと思っております。--Nekosuki600 2009年8月3日 (月) 12:09 (UTC)[返信]
私は「お前の口の利き方が気に入らない」とは言っていないし、Nekosuki600さんが「注意するたびにトラブルを起している」とも思っていませんよ。
「節をちゃんと立ててくれ」という話ですが、私は「ややこしい議論」に発展すると思ってなかったんですけどね。話が元の「議論における文体について」という節名と大きくずれていたとも思わないし。それに今のところ、レスは上から時系列的に続いているのだから、節を新しく作らなかったとしてもそれほど読みにくくはなっていないでしょ。話が長くなったときに節立てすればいいと思いますよ。
「やや古い話」で私が「丁寧な言葉遣いでの依頼をお願いします」と言った件。私はNekosuki600さんのためを思って言った訳ではなく、単純に「やめてくれ」と言ったつもりです。それを「余計なお世話である」と返されてもコメントのしようがありません。話を「枝葉方向に伸ばさないようにする」という考えには賛成です。しかし元々丁寧な言葉遣いで話を進めてくれていればそういう枝葉も伸びなかったわけで、私一人のせいにされても困ります。--Freetrashbox 2009年8月4日 (火) 11:56 (UTC)[返信]
◆いったん枝葉に飛びます。えーとたとえばこんな章構成になってたとしましょう(実際こうなっていたわけですが)。
==あれやこれや==
ああでもないこうでもない。--発言者A 2009年7月26日 (日) 10:23 (UTC)
==そんなこんな==
ああいえば上祐、こう言えば猫が好き♪。--発言者B 2009年7月27日 (月) 01:35 (UTC)
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら・・・--発言者C 2009年8月1日 (土) 01:15 (UTC)
この場合、「踊る阿呆に見る阿呆~」は「そんなこんな」の章へのコメントに見えると思うんですよね。関連話題ならばぶら下げてしまって良いわけですが、異なる話題ならば別章を立てなければ見通しが悪くなります。あるいは、読者の側に「これは『そんなこんな』の関連なのだろうか、それとも独立した話題なのだろうか」を考えるという負担をかけることになります。なんかそのあたりに無頓着に過ぎるのではないか。それに、「議論に発展する可能性がない」と思ったのだとしたら、それは見通しが甘すぎます。まあこの程度たいしてややこしくもありませんが。
当該ブロック依頼は、決してまるっきしの冗談ではなく、しかし心底本気でなにがなんでもブロックしなければならないと思い込んでいるわけでもありません。ある繰り返される典型的な問題を解決するアプローチとして試みたものです。それは前例のないアプローチだったし、目的のために適切な文体・方法論をおれは熟慮した上で当該依頼を立てている。ま、唯一の選択肢だったとまでは言いませんがね。
コメントの位置づけ問題もそうですし、依頼の目的という問題もそうですし、おそらく記事執筆に際しても似たような問題があると思うわけです。「それぞれの場における意味」を個別具体的に考えるならば別段問題がないであろうところに、それを考えずに特攻したら、そりゃ「不適切だ」と思うことがあるんじゃなかろうかと思います。現実問題、当該依頼は言葉遣いレベルの問題ではなく「提出そのものが悪戯である」として一度削除されているくらいですからねえ。その後復帰されましたが(と、遠い目をする。Loniceraはどこかの空の下で元気にやってんのかな)。
率直なところ、「常に丁寧な言葉遣いをすべきである」という価値観には同意できません(この点については見解表明にも書いてある)。また、非常に微妙な案件に突然そういう価値観を放り込んだことについても、理解できません。案外ここらへん、根っこのところでつながっているのではないか。--Nekosuki600 2009年8月14日 (金) 10:32 (UTC)[返信]
章立ての話、私のコメントは「議論における文体について」のKubouさんの意見に賛同し、一方でNekosuki600さんの返信に納得できない点があったので、それに対する意見として書いたものです(一部でNekosuki600さんの発言内容を受けてるでしょ?)。あそこに書くのが不適切だったとは思いません。なるほど今となれば、私とNekosuki600さんの対話の分量が増えてしまったので、今の章立てが読みやすいと思います。しかしそれはあくまで結果ですね。今の章立てが見やすいのは、話を続けているのが私とNekosuki600さんの2人だけだからです。他の人が引き続き議論に参加していれば、「議論における文体について」の章と「コメント by Freetrashbox」の章で似たような話が並行・混線して続いていた可能性が高く、私はそのほうがよほど読みにくいと思いますよ。
それと、去年4月のブロック依頼の件、相手をブロックすべきかどうか確信が無かったのであれば、コメント依頼にすべきだったんじゃないですか?それがスタンダードなやり方のはずです。私もウィキペディアにおける議論の進め方にはまだまだ改善の余地があると思うけど、「ブロック依頼」という不特定多数の人が参加し、その結果が特定の人にかかるような場で、実験的なことをすべきじゃあない。例え相手が悪かったとしてもです。他に手段が無かったならしょうがないけど。これが熟慮した結果の行動だとすると残念。
また、「余計なお世話だよ。けっ」と言われた場合、言われた相手に「Nekosuki600さんの行動は常に概ね正しい」という予備知識があれば、悪いのはNekosuki600さんではなく言われた自分の方だと考え直すことがあるかもしれません。が、Nekosuki600さんをよく知らない相手にそれを求めるのは無理というものです。大人が子供を叱る言い方でもないし。「Nekosuki600さんというのはけしからんことを言う人だ」という感想を抱く方が自然でしょう。
私も必ずしも「常に丁寧な言葉遣いをするべきである」とは思っていません。親しい相手に過度の敬語を使うのが逆に失礼な場合もあります。しかし、知らない相手に対しては、乱暴と取られかねないような言い方をすべきではない。その使い分けをしないのであれば、一律丁寧な言葉遣いをしてくれた方が問題は少ない。悪いことした人をしっかり叱り付ける、という手法は場合によっては必要ですが、Nekosuki600さんの表現では相手に「自分が叱られている、間違ったことをしている」というのが正しく伝わらない。正しく伝わっていないからこそ、相手が間違いを認めないんじゃないですか?ここを直して欲しいとお願いしているわけです。--Freetrashbox 2009年8月16日 (日) 01:39 (UTC)[返信]
当該ブロック依頼についてだけどさあ。
あれ、「ブロック依頼にして、ある程度問題点が共有された段階で取り下げる余地を残す(問題点が共有されなかったらブロックを厭わず、は当然留保。また、取り下げ表明があったからといって常にっ取り下げとなるわけではないことは確認)」というのと「コメント依頼にしてエンドレス」てのと、どっちがきつかったと思いますか。なんせネタは「ジョークがつまらなかった」ですぜ。こんなもんをコメント依頼でエンドレスでやられたら、やられた側はかなわないんじゃないでしょうか。ていうか、率直に言ってそれはいくらなんでもかわいそう。
ブロック依頼そのものは、「4月1日だけブロック」という優れて洒落た、そして実効性もある(って実際に行われるような気はしないんだけどさ)解法が提出されたことから、それ以上議論をする必要はあるまいと考えて、取り下げといたしました。
あれ、全体の文脈をちゃんと読んだら、延々と続いてきたものすげえ悩ましい問題をうまく解決すべく模索したものだということがわかると思うんですよ。毎年エイプリルフールとしては「それは天井天下唯我独善だから」と言うしかないようなしょーもないギャグ記事が氾濫してたわけでね。そういう問題意識はある程度Wikipediaに長く参加していたひとでなければ共有できないものかもしれませんし、自分が問題を共有できているかどうかを判断するというステップを踏んだならばああいう介入はないだろうという感想を抱いています。
章分けの件。
別に強要はしませんが、おれならば「多少の関連性があったとしても、議論に発展する可能性があるならば、独立した章を設ける。その独立章のキックオフ発言で関連性について念のために触れておく」くらいの選択をするんじゃないかと思います。しばしば「仕切り直し」なんて呼ばれる手法です。これまたWikipedia内でのみ通用する方法論ではなく、実社会における議論でも(途中で口出しをして「この件についてはあとで触れます」とか宣言した上で自分のノートにその件をメモしておいてあとでやる、みたいな)、他のネット上の会話などでも、実用的に使える方法論です。んで失速しちゃっても、それはそれでかまわないんです。ご参考まで。--Nekosuki600 2009年8月16日 (日) 17:28 (UTC)[返信]
ブロック依頼の妥当性の件で「ある程度Wikipediaに長く参加していた人でなければ分からない」とのお返事、なるほど私は新参者には違いが無いので、この依頼が妥当であったかどうか検討するのは私の側の宿題としましょう。
「余計なお世話だよ。けっ」などの表現は、Nekosuki600さんのことをよく知らない相手には不適切であるということについては御納得頂けますか?--Freetrashbox 2009年8月19日 (水) 11:06 (UTC)[返信]
申し訳ないんだが、納得はいたしません。いろいろ思うことはあるのだが、それについては述べません。
当該依頼がどのように悩ましいものであったのか、そして「エイプリルフールなんだ好きなように書かせろ」という極端と「エイプリルフールなんか禁止しろ」という極端との間でどのようなバランス取りが可能なのかを模索していたのか、そのあたりについて理解していないひとが突然介入してきたのだという事情は理解しました(っていうか、わかっていたけど)。しかしそれを説明をすることそのものが当該調整の効力を無にする可能性のある危険なものであり、「わかりやすく説明をしろ」という要求は、原理上お応えできないものであったと考えます。
今後とも、「事情を知らないまま特攻してくるひとを押しとどめるために万全の説明をなすこと」はお約束できませんし、「事情を知らないまま特攻してくるひと」に対して時として冷たい扱いをすることはあるでしょう。また、先日チグリモ氏も同じことをやっていたような気がするのだが、ほんとに問題点を理解し反省したのならばそういう粘り方はしないんじゃないかという感想を抱いています。
おまけ。
当該差分、いまいちどじっくり見てみてはどうでしょうか。特に二行目以下がなぜ同じタイムスタンプで記述されているのかというあたりに着目してみてはどうだろうか。おれは、ヒントは出してると思うんだよね。--Nekosuki600 2009年8月19日 (水) 14:48 (UTC)[返信]
過去の議論を精査した上で、話が過熱しないようぎりぎり知恵を絞ってコメントをしているのに、Nekosuki600さんがそれに気付かない人であるということに心底がっかりしてます。タイムスタンプのヒントも何も、見てすぐ気付くようなことをなぜいまさら持ち出すのかというのも不可解です。私は自分の行為が「事情を知らないままの特攻だった」とは思わないし、私が玉砕したとNekosuki600さんが思っているのであれば、それは真剣に過去の議論を読み直した方がいいと思う。Nekosuki600さんは私に対して「どこが余計なお世話だと言われたのかがよくわからなかった」人だとおっしゃる。同様に、Nekosuki600さんは自分の発言のどこが丁寧でなかったのか、単に表面上の言い回しのことを指摘されただけなのかということを考えるべきじゃないですかね。それと、上の議論で私が自分のNekosuki600さんへの行為に関して何らかの反省をしたのだと受け取ったのだとすれば、それは誤解です。--Freetrashbox 2009年8月19日 (水) 15:28 (UTC)[返信]
Freetrashboxさんがおれに対してなにか反省を表明する必要があるとおれは思っていませんが、Freetrashboxさんは反省をして「よくわからないことに無闇に口出しをしない方が良い」ということを確認したのがいいんじゃないかなとは思います。なお、おれは「誰に対しても万全の丁寧な説明をしなければならない、とは思っていない」ということをすでに表明しているような気がするのですが。
基本線としてこれは、もともと言葉遣いの問題なんかじゃないんですよ。いったい誰がそんな矮小な問題にしようとしていたのか(いや、「暴言だ」派の中にそういう派閥があったような気はするのですが)。表現論というのは、レトリックの問題じゃない。表現論というのは、当然の前提として、何を表現したいと思うのかというところまで遡るものだし、そこから逆算して表現を考える必要がある。最終的に選択された表現を問題にしてどうしようというのだあんたら、とおれは一貫して主張しており指摘してきたと思うのですが、そのあたりはいかがでしょうか(満足のいくレスポンスがなければ、これであなたとの対話は終わりにしたいと思います。以下、返答をしたとしてすべての末尾にこの宣言があるのだということを確認しておきます。んなことは改めて言わなくてもいいような当然のことではあるのだが)。--Nekosuki600 2009年8月23日 (日) 14:59 (UTC)[返信]
正直なところ、このまま話を進めても埒があかんですな。しばらく時間を空けて、続きは数ヵ月後にしましょう。--Freetrashbox 2009年8月25日 (火) 13:22 (UTC)[返信]

もう少し、芸を磨かれたらいかがでしょうか?[編集]

もし口が悪いというご自身特性を素直に口語体で書き表すことが、議論に寄与するとお考えのようでしたら、そんなことはないと考えます。面手向かって表情がわかる状況と文字だけ見て解釈する状況では相手に伝わる情報の質や量は全く異なります。文字だけで相手に意見を伝える場合はそれなりに工夫が必要と考えます。 ずっとおなじ調子で繰り返されているようなので「礼儀がたらない」のではなく、「工夫が足らない」のであると考えます。あなたの持っている見解を、その見解をもっていない相手に対して情報伝達する場合に、文章で見解が伝わらないのは明らかに情報発信側の失策です。--あら金 2009年8月16日 (日) 14:40 (UTC)[返信]

いやあ。大半は伝わってると思うんですよね。しょもない議論を一発鎮火して建設的方向に持っていったケースと言えるものも少なくないと考えております。面倒なのでリストは出しませんが。それに一本調子で常に口語体でやってるわけでもありませんし。
「暴言だ」という苦情を立てる方の類似性などについては、ある程度見えてきているものがあると考えております。これまでのところ、「他に反論の余地があるケースでは『暴言だ』という非難は滅多に使われることがない」くらいのことは言ってもいいのじゃないだろうか。もちろん、今後も継続的に調査研究を行い、より効果的な方法を編み出すべく努力はしていく所存でございます。--Nekosuki600 2009年8月16日 (日) 15:10 (UTC)[返信]
皆まで云うつもりはないので、返答代わりです。
『人を説得する秘訣は、教えないふりをして相手に教え、相手が知らないことは、忘れていたのだろうといってやることだ。』(出典:チェスターフィールド
『やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ』(出典:山本五十六
--あら金 2009年8月18日 (火) 03:53 (UTC)[返信]
チェスタフィールドも山本五十六もアンドリュー・カーネギーも、基本的に「まっとうな大人をどう導くか」みたいな話をしてるんじゃね? たぶん、問題となるフィールドがぜんぜん違ってる、ような気がする。基本線として、不愉快に思ったときに「暴言だっ」とか「個人攻撃だっ」とか言い始めるのは、そのレベルに達していない人々なんですよ(実年齢はとにかくとして)。あ、ときどき政治的計算をやってそういう言辞を使うひとがいることは否定しませんが。--Nekosuki600 2009年8月18日 (火) 15:26 (UTC)[返信]
そうですか? 政治は目的達成のための手段であって、政治が目的という人は他者の操り人形ですよ。わたしは人形とコミュニケーションする価値は見出しませんが。--あら金 2009年8月19日 (水) 02:11 (UTC)[返信]
「暴言だ」といった非難は、「他に言い返せるポイントがみつからなかったときに、相手方が悪いということを声高に述べるための表現」として使われることが多いという意味で、悪しき意味での政治的レトリックである可能性は看過し得ないと考えています。相手の主張に適切に反論ができるんだったら、暴言なんかあっさり流して正面突破で行く方が遥かに効果的ですし、(まあWikipediaは闘争の場ではありませんが)相手に与えるダメージも大きいでしょうから。
まあ、それ以前の「自分にとって不愉快な表現は、暴言である」「自分に向けられた注意・叱責は、個人攻撃である」という定義の未熟者の方が多いような気はしますけどね。--Nekosuki600 2009年8月19日 (水) 11:58 (UTC)[返信]
そうですか? 利用者:Nekosuki600|Nekosuki600さんの未熟者の行動に関する定義のうち、前者は大辞林 第二版(goo辞書)によると「暴言 — 他人を傷つけるような乱暴な言葉。」です。この場合「自分にとって不愉快な表現は、暴言である」の自分とは辞書の云う他人であり、発言者の意図のいかんにかかわらず「他人を傷つけるような乱暴な言葉。」にたしいして「暴言」と表現することは、未熟者でも大人でも用例として問題ないですよね。あとは、なぜ「注意」でなく「叱責」なのですか? 「相手に与えるダメージ」に言及しているので「叱責」であったと判断しますが、二回目以降だったんですか?(同一理由で二回目以降であるという根拠を履歴で確認できないものですから。具体的に版をしめしていただければ助かります)--あら金 2009年8月19日 (水) 23:25 (UTC)[返信]
その辞書的定義に基づいた場合、「自分にとって不愉快な表現は、暴言である」と「暴言は禁止されている」を組み合わせたら、議論なんかできなくなってしまいますね。丁寧な表現でも「慇懃無礼」なんていう表現があるくらいですから、いくらでも不愉快な表現として組み立てることはできるのですし。となりましたら、不愉快さに耐えられない方には参加しないでいただくという以外の選択肢はなくなるものと思います。それが適切な解法であるかどうか、おれは疑問に思いますが。--Nekosuki600 2009年8月20日 (木) 12:31 (UTC)[返信]
「暴言」と「誹謗」「中傷」を同一視するのがそもそも間違いであるし、「暴言があった」と「暴言の認定はコメント依頼になじまない」というのは別の話。「誹謗」「中傷」はなんらかの外見できる事実があって、それに対して真実に基づかない意見を合成するという話なので、外見できる事実は第三者がコメント可能。しかし「暴言」は受け手の内心の問題なので、第三者は推定しかできないので、推定に基づいた発言しかできないので「コメント依頼になじまない」ということ。善悪、正義不正義を論じる手がかりがないということ。Wikipedia:個人攻撃はしないにも「暴言」という言葉は出てこないし、Wikipedia:礼儀を忘れないの「暴言を永久に削除する」は「暴言を禁止する」という意味で示唆はないしWikipedia:論争の解決にもWikipedia:個人攻撃の除去にもない。だから「暴言を禁止する」は根拠がないです。なので「暴言の認定はコメント依頼になじまない」という判断は支持します。しかし、コメント依頼になじまないということと、Nekosuki600さんの発言・行為に腹を立てている人がいるというのは独立していますよね。つまりWikipediaコミュニティの規範の問題ではなく、Nekosuki600さんと相手とで個人的に言い争っている問題ですから、ご当人の間で結論を出す問題です。結論を出さなくよいという根拠は何一つありません。
「暴言」が内心の問題であるならは「誹謗・中傷」と異なり、「暴言でなかった」と反証するには内心についての証拠を持ち出さない限りは証明できません。つまり自ら「鉄オタ」であるという発言している文書を引用できなければ悪魔の証明になるということです。内心についての観点の問題なので外で「鉄オタ」がどのように使われているかという引用は独立した別の観点の問題なので反証になりえません。
とどのつまりは「解はない」ので、永遠にそのままうやむやにしておくということで、勝ちはないです。でも「故意に、やっている」という証拠を出されると反証は不可能であるとも考えますが…--あら金 2009年8月21日 (金) 09:26 (UTC)[返信]
すみませんが、誰が「誹謗中傷」についての話をしているのでしょうか? 事実に基づかない言辞の話なんか誰もしていないと思いますし、おれの言辞についても「その批判は事実に基づいていない」という指摘はなされていないと思います。なんでそういう要素を出さなければならないのかがよくわかりませんが。
ついでに、おれは「暴言はコメント依頼に馴染まない」とも言っていないと思うんですが。あちらのコメント依頼には深入りする気がありませんが、せっかくなんで「自分にとって不愉快な言辞について、とにかく『暴言だ』などと言って非難すれば、マイナスな評価を下すことができる」というように思い込んでいる方々に対して、控えめに言って「それが必ずしも同意される考え方ではない」ということが明示されるような結果となれば、それはそれで望ましいことであると考えます。
なお、結果は、まあ好きにしてくれとか思っています。おれとしては、相手側の説得力が劣っていた場合に、相手方に「間違っておりました」と言わせるところまで追い込もうとは思っていません。また、沈黙に逃げ込まれてしまえば、やっぱり結果は出ません。そこで無理に続きをやろうとすれば感情的対立が深化するだけであろうと思っております。--Nekosuki600 2009年8月21日 (金) 10:36 (UTC)[返信]
「暴言と誹謗中傷では外的要因が異なる」が論旨なので誹謗中傷について検討するつもりはないです。「暴言だ」といわれた時点で感情的対立が存在すると考えるのが妥当ですが、なぜ感情的対立を解消しなくてよいと考えるのですか? 結果を出すために感情的対立を解消しないというのは、もしかして感情的対立を利用しようということでしょうか? --あら金 2009年8月23日 (日) 01:13 (UTC)[返信]
感情的対立って、普通に存在するものでしょう? まあ、きっちり他人と対立するという経験をしたことがないひとにとっては、たじろぐものなのかもしれませんが(そういうのを、おれは「お子様案件」に含めています)。でだ。
この節のタイトルって「もう少し、芸を磨かれたらいかがでしょうか?」なんですよね。おれ、この程度では笑みを浮かべて「お手並み拝見」とか思う程度なんですけど、これって人によっては煽られたと思って激怒をしても不思議はないレトリックだと思うんですよね。「もしかして感情的対立を利用しようということでしょうか?」って、こういうレトリックを使うひとに言われたくありませんよ(あ、別に言ってみてるだけだから気にすんな(=^_^;=))。でもさあ、あなたここでおれを怒らせて自滅させようとか計算してかかりませんでしたか?(ふっ) おれがそういう手法を愛用しているかどうかについては、面白いからここでは何も言わずに通そうと思いますが、感情的対立をあえて引き起こして話を有利に運ぼうとした自分の姿を正視して下さい。
でだ。
Wikipediaではしばしば「信念をめぐっての議論」というものが発生します。そういうのは、当然に感情的対立を伴っているものであり、感情的対立を排除して理性のみで対話をしようなんてどだい無理なことなんじゃないかと、おれは思います。その事実をおれは肯定的に受け止めはしませんが、避けようのないことなのじゃないかと諦めています。「慇懃な言辞」は、決して「感情的ではない」ことを保障するものではなく、ことさらに感情的ではないと言い張る感情的な姿勢を如実にあらわすことがあるのだ、とも思っています。「慇懃無礼」なんてのはそういう状況に陥ってしまった言辞をあらわすタームなのであろうと、おれは理解しています。
まだ何か、おれとあなたの間で話をする必要がある要素がありますか。あれば、どうぞ。--Nekosuki600 2009年8月23日 (日) 13:59 (UTC)[返信]
「もう少し、芸を磨かれたらいかがでしょうか?」:いやぁ、煽るんだったら、もっと逆なでする言葉を使いますよ。
「もしかして感情的対立を利用しようということでしょうか?」: 「感情的対立」というよりは「釣り餌」ですね。場合によっては証言が手に入りますから。
さて本題です、「先入観にもとづいて相手の議論を誘導する」ということは、先入観が事情をしらないことが明白になれば単なる過失ですが、故意に基づく先入観であれば(通常そのばあいは先入観とは呼ばず「偏見」と呼ぶわけですが)は、一度や二度であれば「Wikipedia:礼儀を忘れない」の範疇ですが、一定期間相当数の頻度で行われるとすれば「常習的な印象操作」ないしは「常習的に議論妨害」であると存じます。つまり目的が議論の誘導にあるかどうかです。この種の内心の問題は、原理上、「物的証拠」となるのは自白だけですから、それ以外は「状況証拠」となるわけです。「状況証拠」は「物的証拠」よりも間接的という点で弱いですが、それは数で補うことは可能です。だから証拠というのはとても重要なのです。「芸を磨かれたらいかがでしょうか?」というのは「下品な」という意味ではなく、「状況証拠残しすぎ」という意味ですよ。--あら金 2009年8月24日 (月) 23:48 (UTC)[返信]
えーとね。
あら金さんは、「暴言とは、受け手側の感覚によって定められるものである」ということを、辞書的定義を引きつつ「2009年8月19日(水)23:25 (UTC)」のコメントで述べているわけです。しかしながら今回の「2009年8月24日(月)23:48 (UTC)」のコメントでは「いやぁ、煽るんだったら、もっと逆なでする言葉を使いますよ」として「送り手側の感覚では、あれは暴言ではない」という反論をしているわけです。その間には論理的不整合が存在します。脊髄反射をしていないで、きっちり主張をまとめてから書いて下さい。意見が揺れることを責めはしませんが、揺れるのだったら迷っているのだということを自覚しつつ、自分の考えをまとめるためのブレストという意味あいを視野に入れて、議論に参加して下さい。そんなブレた立場で相手を説得するのは無理ですし、それ以上にそんな定まらない視点からの意見表明でおれの時間を浪費しないで下さい。
おれはもともと、そういう送り手側と受け手側との感覚の不整合を問題としているし、受け手側の不快感を理由としての暴言扱いは不当であると指摘しているわけです。また、受け手側の暴言扱いに一定の傾向があるという指摘もしている(つまり、「暴言呼ばわり」以外に反論のしようがなくなっているという指標として機能する、という指摘をしている)。そういう指摘をしている中で、「送り手側としては、暴言のつもりはない。もっと苛烈な表現は可能だった」という反論をしてどうしようというのですか(おれの本来の感覚に基づくならばここで「(=^_^;=)マーク」をつけて多少の緩衝帯としてあげるのですが、さすがにもうそんな寛容を示す気にはなれません)。
なお、「あなたのためだから」みたいなどっかの金融会社のテレビCMみたいな助言を、おれは必要としていません。状況証拠を残しすぎているとは思いませんし、そもそもおれは「芸風」なんていう主張をしていません(「芸風」という表現は、第三者による評価であり、おれが自身で「芸風である」なんて言ったことはない・・・んじゃないかなあと思います)。おれは、Wikipedia以外でも同様に文体の臨機応変な選択をしてきております。文体を一致させようとして原稿の文体統一作業をした編集者に対して「全部戻せ」というかわいそうな指示をしたこともあるくらいで。
おれはさー。おれがどう考えたのかを明確にあらわすことを文体選択の基準にしているんで、政治的につっこみどころを減らして保身をはかるために文体選択をする気がないのです。ということで、もうよろしいですか。--Nekosuki600 2009年8月25日 (火) 14:32 (UTC)[返信]

コメント by 124.102.112.85[編集]

ご自身の書き方・やり方で「うまくいったケース」と「うまくいかなかったケース」どちらが多いかという事も考えられてはどうでしょう。コメント依頼の山やらなんやらこれまでの経緯は面倒ですんで省略しますが少なくとも、うまくいかなかったケースが多数を占めませんでしょうかな。そうした場合、話し方を工夫したり努力したりするものだと思いますね。調査を繰り返し積み重ねても実践が伴わなければ何の意味も無いわけで。--124.102.112.85 2009年8月18日 (火) 03:33 (UTC)[返信]

うまくいったケースの方が圧倒的に多いと感じていますが、定量的観測をやるのはかなりの手間だし、やってみせても「うまくいったかどうか」「ざっくばらんな口調だったのかフォーマルな口調だったのか」というあたりでいくらでも納得せずにがんばることが可能だと思うので、コストパフォーマンスが悪すぎることが見えるもので、定量的観測データを作る気はありません。
コメント依頼の山ってアンタ(=^_^;=)、こんだけ活動してきてあの程度しかコメント依頼がなく、明らかに異常あるいは許容範囲の洒落による裁量ブロックはあるにせよブロック依頼審議でブロックになったこともないわけでなあ。
おれを嫌いなら嫌いでかまいませんが、自らの印象を信じて語られても、それはおれに影響を与えるような言辞とはなり得ないと思います。ましてや、今回が最初の発言であるIPでは、いったいどういう背景があってそう思ったのかとかぜんぜんわかりませんしね。--Nekosuki600 2009年8月18日 (火) 14:46 (UTC)[返信]

ご自身もこのサブページを立ち上げており、多くの方から言動について暴言等の指摘を受けているのは事実ですが、それを「大方コミュニケーションがうまくいっている」と解釈されている時点で自己のコミュニケーション方法の検証・努力等はされていないなと感じざるを得ませんね。自分などは長いこと閲覧はしてますが、それほど執筆していませんし、井戸端や各種ページ・ノートを見る程度ですが、そんな人間でも見ていてnekosuki600さんの言動は目に余るなと感じますので、ご意見をと思いましたが。--124.102.112.85 2009年8月20日 (木) 10:18 (UTC)[返信]

はい、あなたがそう考えるのはあなたの自由ですし、妨げません。--Nekosuki600 2009年8月20日 (木) 12:34 (UTC)[返信]

暴言であるかどうかの判断とリバートについて[編集]

ほとんど忘れ去られているような気がするのだが、ホーミングがてら(ホーミングしてどうする(=^_^;=)>おれ)。

えっとさあ。誰かの会話ページあたりに強く批判的な言辞が書き込まれたとして、それに対して第三者が「暴言」としてリバートすることとかってよくあるんだよね[1]。ただ第三者的には、それが暴言なのか単に強く批判的なのかは判断に迷うことが多い。ここで提案してどうなるってものでもないのだが、人種・民族・門地・性別などにかかわるいわれなき攻撃や個人情報の暴露(それが正しいか正しくないか、誰のものかなどは無関係)といった限定された場合は除外してもいいけれども、基本線としてそういうのは「批判を向けられたご本人の判断を待つ」といった常識を作ることはできないものなのだろうか。

実は単に「強く批判的である」場合だけではなく「差別的言辞などを含む暴言」を向けられた場合も含まれるのだが、批判が失当な場合やくだらない暴言である場合、そういったものはたいした力を持たないのです。いや、衆愚的状況の中ではそういうアジテーションが力を持つ場合はあるのだけれども、われわれは百科事典派の末裔なのだ、そんな言辞は力を持たないであろうという希望を持ってもいいのではないか。そして、失当な批判やくだらない暴言に対して屹立してみせることは、失当な批判や暴言を無化することにつながる。逆に失当な批判やくだらない暴言にあたふたしたらその段階で「もしかしたらその失当に見える批判や単にくだらない暴言に見える言辞にもなんらかの真実が含まれているのではないか」という疑念を生じさせたりもする。更には、何を「撤去すべき暴言」と判断したかによって、第三者のリバートを行った者の精神的強度・信念・オープンソースへの洞察なども計られることになったりする(いや、計られることになるのをわかっていてリバートする分にはかまわんのだが、そのあたりに無自覚なリバート者が多すぎるような気がするんだ)。

こと、おれのノートページに関しては、そんなに丁寧に見ていないんで気づかなかったケースとかあるかしらんし、おれあるいは第三者の個人情報を晒してなんか圧力をかけようとしたような下劣なやつの言辞は編集除去をさせてもらってますが、それ以外の批判的言辞の消去リバートなどは原則として戻した上でレスポンスをつけています。まあ万民にこういう方針を採用しろとまでは言わないけど、「自分はこれを暴言だと思ったので除去する」ってのをあたりまえの行動様式ででもあるかのように受け止める感性には、おれは納得がいかないのです。それは、違うだろうと。--Nekosuki600 2009年10月30日 (金) 16:41 (UTC)[返信]

※この節に関する注釈を追記--Nekosuki600 2009年10月30日 (金) 17:58 (UTC)[返信]

  1. ^ 近々の例。おれはこの戻しをやり、第三者リバートで守られる側であったように思われる者と最近けっこう対立していたこともあって「攻撃的リバート返しによる暴言の再現」と受け取られるのではないかという懸念を感じたため、この節を起こした。
◆ご無沙汰です。おっしゃることはよく分かりますし基本的に趣旨には同意です。しかしながら今回のリバート返しは、おっしゃるように痛くもない腹を探られる可能性が大きいと思います。李下に冠をたださないことも必要ではありませんか?違うタイミングで違う場で提唱されたなら諸手をあげて賛成するご提案ですが、このタイミングではちょっと賛成に躊躇してしまいますね。--ろう(Law soma) D C 2009年11月2日 (月) 00:43 (UTC)[返信]
あ、どーも。まあ今回の件については見送るかここで問題提起をするかで悩んだのは事実ですし、全面的に賛同されても困るような状況であると認識しております。そこらへんはまぁ、ご指摘の通り。
いったん余談(ていうか、今回の「ふゆひ v.s. アイザール」という図式は、おれ的には余談なんで)。
あれについては、一方で「捨てアカウントでいきなし喧嘩を売る」というふゆひ氏には全くもって全面的に同意できません。ふゆひ氏の主張はおれの主張に近いような気はするのだが、なんていうかこう、「まずは身内の馬鹿を撃て」というおれの基本姿勢に照らし合わせて評価するなら、ふゆひ氏にはこれ以上何も主張してほしくないし、過去に遡ってあんなお馬鹿な手段で主張をしていただきたくなかった。この論点について、おれはアイザール氏のはるひ氏に対するいきなしの裁量無期限ブロックについて「それは正しい権限行使ではないと思うが、あえて異議を申し立てない」という選択をしていることを指摘しておこうと思います。明確に言わないとわからないひとが数多くいるだろうとは思うわけですが、おれはふゆひ氏に対して強い不快感を抱いています。
ただ、おれはふゆひ氏の行動に対してそのくらい低い評価をしているものですから、逆に「そんなもんを放置しておいたとして誰も傷つかないだろ?」という感想も抱いたりしているわけなんですよ。おれは、実績なんてないも同然の内気で小心で存在感のない無名なコモノにすぎないのですが、捨てアカウントではなくそれなりの期間Wikipediaで活動していたりはするわけで、そのおれからの再三にわたる対話要請を無視しているはるひ氏がまったく実績のない捨てアカウントなんぞの対話要請に応じるわけはないだろう。そこにアイザール氏が登場してきてはるひ氏を擁護する必要がどこにあるんだろうか。どう考えても、ないだろ。
まあそういうわけで、今回のはいろいろな意味で「綱渡り」のような危うい要素があったことは自覚しているのですが、絶対安全圏から(つまり安定した上から目線で語れるポジションから)何かを言うよりも思想のせめぎあいという意味で面白いんじゃないかなあとか思った部分があって、あえてやってみたという側面がありました。ここらへんでまあ、この手の話に参加できる階梯にいないひとたちが「おまえが言うな」とか言ってつっこんできたら、それはそれで優しく丁寧に厳然としていなしてあげればいいんじゃないだろうかと(=^_^;=)。--Nekosuki600 2009年11月2日 (月) 12:09 (UTC)[返信]
その辺は分かっているつもりですが、猫が好き♪さんの「綱渡り」は、ときどき危なっかしいので書き込んだ次第です。なんていうか、そこら辺の機微っていうか空気というかは、分かっている人と分からない人がいるんですよね。私と猫が好き♪さんとはしばしば意見が異なるものの(それはプロジェクトなんだから当然なんだけど)、少なくともその「分かっている」という一点は共通していると認識しているので会話が普通に成り立つと思うのです。でも「分からない」人から痛くもない腹を探られることへの対処って、結構エネルギーを消耗するので、回避するに越したことはないとも思うのです。--ろう(Law soma) D C 2009年11月5日 (木) 01:04 (UTC)[返信]

はじめまして。まうんてんと申します。利用者:Nekosuki600/いわゆる暴言なるものについてを読みました。

まず、『ざっくばらんな口調が常に否定されるべきものとは思わない』についてですが、私もそう思います。でも、それは、例えば他のユーザーが何かをやらかしてしまったとき、注意をするべきですが、ちょっとしたことでざっくばらんな口調になるのはおかしいです。明らかにそれは悪いことであれば、ざっくばらんな口調になっても否定はしません。

次に、『「相手方に批判の口実を与えるな」というおれに向けた批判があることは知っており、その批判には一定の耳を傾ける価値があるとは思っていますが、口調問題ってそれ以上のものではないと、おれは受け止めています。』についてですが、これについても同感です。人というものは、何かしらの欠点があり、ウィキぺディアのような現実社会の場では、ざっくばらんな口調でもしないと、相手が理解しないこともありますしね。

それから、『Wikipediaなんてもんは「記事ページに情報をどれだけ有益な提供できるか」が問題となる場所のはずです。そのためにはさまざまな意見交換が必要になるだろう。その意見交換は、その時々の雰囲気や参加者を基盤に置いて適宜やれば良いものであり、常に慇懃にやらなきゃならんというものではないだろうと、おれは思います。ついでに、常にストレートにやらなくちゃいけないものだとも思わない。特にお子様案件なんかでは顕著なんだが、間違いを真正面から間違いだと指摘してやりこめちゃうような方法論が好ましいものなのかどうかもわかりません。ざっくばらんな口調から慇懃な口調までの広いダイナミックレンジの中から適切なものを選び、また穏やかな妥協から厳しい対立までの広いダイナミックレンジの中から適切なものを選び、その中で意見交換を行い合意を形成していきゃいいんじゃないんでしょうか。』についてですが、これもそう思います。しかし、さっくばらんな口調では相手が納得しないということも、時としてあることです。そのときは、少し冷静になるべきだと、私は思います。

ウィキペディアを投稿しているときは、理想な記事をつくるためにすべきことの最大値を目標にすることだと私は思います。それでは。--まうんてん 2011年2月27日 (日) 03:02 (UTC)[返信]

議論の時の言い方[編集]

私は、ノートページや会話ページでは話し言葉をそのまま書くのではなく、わかりやすい表現で書いた方がいいと思っています。また、1つの文章の中で口調が変わっているのもよくないと思っています。--プログラム (会話 | 投稿記録) 2011年3月15日 (火) 03:02 (UTC)[返信]