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高津長幸
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
死没 興国2年/暦応4年2月18日?
改名 道性
別名 長行、餘二
官位 従五位下播磨権守、贈正五位
氏族 清和源氏為義流河内源氏)?、吉見氏?、高津氏
父母 吉見頼行?
兄弟 吉見頼直、下瀬頼祐、上領頼見、志目河頼繁、吉見義直、吉見直見、七郎、吉見頼基、高津長幸
次郎三郎、孫三郎
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高津 長幸(たかつ ながゆき)は、石見国高津城を根拠とした豪族鎌倉時代末期に長門探題を攻略し、その功により従五位下播磨権守となった。また、南北朝期には南朝方として活躍した。吉見頼行の9男とされるが、12男あるいは吉見氏とは別の一族とする説もある。興国2年/暦応4年(1341年2月18日の高津城の落城後行方を晦まし北九州へ渡ったとも、落城の際に討死したとも伝わる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

弘安の役の後に新補地頭として石見に下向した吉見頼行の末子とされる(異説あり、後記)。父から長野荘の内、高津・飯田・廿子(いずれも現在の益田市)の支配を任された。この地は、北は日本海に面し、東は高津川を挟んで益田氏と相対する吉見氏にとって重要な地であった。長幸は、高津鴨山(現在の柿本神社のある小山)に高津城を築城して任にあたった。

長門探題攻略[編集]

綸旨拝戴[編集]

津和野(三本松)城址

元弘3年/正慶2年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇伯耆国船上山から綸旨を発し、これに応えて諸国の豪族が次々と馳せ参じた。これに対して長門探題北条時直が鎮圧のために兵を準備しているとの情報を得た後醍醐天皇は、3月24日津和野三本松城を居城とする頼行に対して北条時直討伐を命じる綸旨を発した(この綸旨は偽書とする説もある)。しかし、頼行はすでに79歳であり、かつ病床にあったため、子らに命じて討伐にあたらせることとした。

頼行は吉見軍を二手に分け、一方を4男の吉見頼繁に率いさせて津和野から大ヶ峠を抜ける山道で長門探題の置かれた長府へ向かわせた。もう一方は長幸に率いさせて高津から日本海沿いに軍を進めさせた。

長州進攻[編集]

吉見軍の進路(赤が長幸、青が頼繁)
霜降城址

長幸は、副将吉見八郎や子の次郎三郎らとともに長門国阿武郡を経て大津郡三隅まで進み、一旦ここに逗留して敵情の偵察と頼繁軍との連絡にあたった。頼繁の軍も津和野を発して南西に進み、大ヶ峠を越えて美祢郡於福に至った。

一方、長門探題側は、吉見軍の動きを知ると、直ちに妻をはじめとした女性など非戦闘員を筑前筥崎に避難させ、厚東武実豊田胤藤ら防長の豪族に迎撃を命じた。また、鎮西探題北条英時3月30日には救援のために日田備前権守入道・宗像大宮司らを長門探題に向かわせた。

3月29日、頼繁軍と厚東・豊田軍は美祢郡大峰で遭遇。頼繁軍は、副将吉見七郎の進言を容れて厚東・豊田軍の隊列が整う前に戦いを挑み、数度にわたる激戦の後に厚東・豊田軍を破った。この間、長幸は三隅を発って陸路を強行軍で南下し、於福・大峰から厚狭郡厚東に至った。ここで長幸は一帯の豪族を説得して味方に引き入れ、大峰で頼繁軍と激戦を演じた厚東武実も長幸から後醍醐天皇の綸旨を示されると恭順し、長幸を霜降城に迎え入れるとともに、自ら近隣の豪族の説得に回った。

探題館攻略[編集]

4月1日、長幸軍は長府の長門探題館を包囲し攻撃を始めた。戦闘は6日まで続いたが、探題側も事前に十分な準備を整えており、探題側の負傷者13人に対して長幸側では100人以上の負傷者を出し、長幸の子次郎三郎と厚東武実の子武村も重傷を負った。7日、長幸は鎮西探題から救援に派遣された日田備前権守入道らの軍が近づいていることを知り、包囲を解いて一旦霜降城まで退却した。日田入道らは同日のうちに霜降城に到達して攻撃を開始し、新鋭の軍の前に長幸軍は霜降城を棄てて後退した。しかし、豊田胤藤など諸軍が結集して再度軍勢を整えると日田軍を撃破。その余勢を駆って一気に探題館に殺到すると、ついに探題館は陥落し、北条時直はわずかな手兵のみを従えて船で逃れた。

長幸はしばらく探題館にとどまって戦後処理にあたった後、石見に凱旋した。翌建武元年(1334年)2月、長幸は、長門探題攻略の功によって従五位下播磨権守に任じられた。頼行は子の功によって長門国阿武郡・周防国佐波郡山城国久世郡大和国宇陀郡に所領を得、頼繁も吉賀郡志目河村を領することになり後に志目河氏を称した。また、厚東武実は5月に長門守護に任じられている。

南朝方での奮闘[編集]

南北朝初期の石見の情勢[編集]

建武2年(1335年)、 建武の新政が行き詰まり足利尊氏が反旗を翻すと、各地の武士は宮方と武家方に分かれて相争った。石見においても、益田惣領家と一族の丸茂氏は武家方に、益田氏支族の三隅氏周布氏福屋氏などは宮方につき、さらに三隅氏支族の永安氏は武家方につくなど、一族同士でも敵味方に分かれて対立した。吉見氏も、宗家は武家方・北朝側についたが、長幸は一貫して宮方・南朝側として行動し、武家方・北朝側と石見各地で激しく争うことになる。

尊氏の離反から3ヵ月後には石見でも戦端が開かれ、建武3年(1336年)正月、武家方の益田兼見の子仙道兼弘と、安芸国吉川氏の支族で邇摩郡津淵村を領していた吉川経明が高津城に攻め寄せてきた。長幸は抗しきれず城を放棄して撤退したが、中央で尊氏が都を追われて九州へ西下すると石見でも宮方が勢力を取り戻し、長幸も高津城を回復して次第に石見における宮方の中心人物の一人と看做されるようになっていった。

九州に落ち延びた尊氏は、西国諸将を糾合して再挙を図り、石見には上杉憲顕を派遣して味方を募った。益田兼行小笠原長氏などがこれに応じたが、長幸をはじめ三隅氏や周布氏などは宮方にとどまり、総じて石見国では宮方がかなり優勢であった。東上の途についた尊氏はこれを危惧し、一族から上野頼兼守護として征伐のために石見に派遣した。尊氏が光明天皇を立てて渋谷重棟を石見の国司に任命すると、南朝方も新田義貞の一族から新田義氏を守護、日野邦光を国司として石見に派遣した。こうして石見では南北双方の国司・守護が派遣されて激しく対立することとなった。

黒谷城の戦い[編集]

豊田城の戦い[編集]

高津城落城[編集]

高津長幸の墓(島根県益田市)

人物[編集]

子供の頃より勇猛な性格で知られ、石見最有力の豪族益田氏と領を接する高津の支配を任された時には、この重責を「男子の本懐この上もない」と喜んで任に着いたという。

一方で神仏に対する信仰も厚く、領内の鍋島八幡宮・人麻呂神社を深く崇敬している。また、当時石見に下向してきた般若寺の僧本性明覚に、三隅兼連とともに師事し、「道性」の戒名を得ている。本性は尊王の僧として知られ、石見へ来たのも朝廷の味方を密かに募るためであったとも言われている。後に長幸と兼連が一貫して南朝方に与したのは本性の影響も大きかったとされている。

異説[編集]

出自[編集]

前述の通り長幸は吉見頼行の9男とされているが、これは高津中島家に伝わる「吉見氏系図」を根拠としている。ただし、長幸の通称「餘二」から、これを「10余り2」と解釈し12男とするものもある。

一方で、高津中島家蔵以外の吉見氏の系図に長幸の名が見当たらないことから、吉見氏と前後して高津へ補任された別の一族である可能性も指摘されており、また、高津氏の出自について「全くの謎」とした上で、この時期高津姓の豪族が一定数この地域に定着していたのではないかとの推測もある。

最期[編集]

関連項目[編集]

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