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利用者:Uraniwa/砂場2

享徳の乱
戦争享徳の乱
年月日享徳3年(1455年)- 文明14年(1483年)
場所:関東地方
結果:幕府、関東公方の和睦
交戦勢力
指導者・指揮官
享徳の乱

享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日〈1455年1月15日〉- 文明14年11月27日〈1483年1月6日〉)は、室町幕府8代将軍足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠暗殺した事に端を発し、室町幕府足利将軍家と結んだ山内上杉家および扇谷上杉家が、鎌倉公方足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。

前史

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鎌倉府再興問題

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観応の擾乱を受けて足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の次男である基氏の子孫が世襲した鎌倉公方を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領が補佐する体制であったが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領とも対立していった(上杉禅秀の乱など)[1]。これを打開するため、第6代将軍足利義教は、前関東管領の山内上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実とともに攻め滅ぼした(永享の乱[2]。乱後、持氏を支持した結城氏朝らが持氏の遺児の春王丸安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され[3]、関東は幕府の強い影響のもとに置かれた[4]

義教は実子を関東に下向させて鎌倉公方とする計画を抱えていたとされるが、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された[5]。公方派が復権を目指すなか、持氏の子・万寿王丸(足利成氏)が鎌倉へ帰還して新たな鎌倉公方の地位を得た[6][7]。幕府では、京都重視の姿勢が評価されている憲実が関東管領に留任することを強く望んでいたが、憲実の引退の意志は固く[8]、やがて息子である上杉憲忠が父の反対を押し切って関東管領となり、憲実は西国に旅立った[9]

足利成氏と上杉憲忠の対立

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この時期の上杉氏の実権は、山内上杉家の家宰長尾景仲と、扇谷上杉家の家宰太田資清太田道灌の父)によって握られており、憲忠の存在感は薄かった[10]。再興後の鎌倉府では、憲忠が成氏を補佐しはじめたが、上杉氏と公方派の間の確執は当初からくすぶっていた[11][12]。成氏の鎌倉復帰は上杉氏と公方派および関東諸豪族の合意したところであったが、関東諸豪族が永享の乱以前の鎌倉公方中心の体制への回帰を狙って、成氏を奉じて鎌倉府に参集したのに対し、むしろ上杉氏にしてみれば成氏を媒介にして関東諸豪族を支配の中に組み込み、当時の上杉氏の勢力を維持しようとしたのであり、もとより激しい対立が予想された[13]

成氏は公方派の豪族層(小山氏宇都宮氏千葉氏結城氏など)を重用して上杉方の反発を招いた[14]。結城氏朝の子・成朝の赦免と出仕をめぐっては、結城氏家中の願い出を幕府が可とし、管領憲忠のもとへ認可の文書を送ったところ、この文書は数か月間にわたって未開封のまま放置されたという[15][16]

宝徳2年(1450年)、成氏は長尾・太田氏らと決裂して江ノ島に移り、景仲・資清らはこれを攻めた(江ノ島合戦[14][17]。腰越浦・由比浦で合戦に及んだが、成氏には千葉・小田・宇都宮・小山氏のほか、上杉方からも一部勢力が味方したため、長尾・太田軍は敗走した[17]。憲忠や扇谷上杉持朝顕房父子らは鎌倉を脱出すると、持朝の守護所である相模国糟谷(現・伊勢崎市)や七沢山(現・厚木市愛甲郡清川村)にこもった[14][18][19]。憲実は調停のために実弟道悦を派遣し、幕府も管領畠山持国をして仲介せしめ、和議が成立したものの、成氏が要望した憲実帰参[注釈 1]は本人の拒絶によって果たされず、景仲・資清に処罰が下らなかったことなどは禍根を残した[22]。成氏は鎌倉に戻り、憲忠・景仲らも鎌倉府に復帰したが、上野・武蔵・相模など上杉氏守護の各地では、上杉方と成氏方の間で所領をめぐる競り合いが激化した[18]

長尾・太田氏ら上杉方は在地勢力を率い、江ノ島合戦の戦後処理で所領を奪われた人々を組織化して、公方派に圧力をかけはじめた[23]。これに対抗すべく、公方派のもとには結城・里見武田印東らの支持勢力が結集し、衝突必至の情勢を迎えた[24]

経過

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分倍河原・小栗城の戦い

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享徳3年12月27日(1455年1月15日)夜、足利成氏は鎌倉の自邸・西御門御所に、上杉憲忠や家宰長尾実景景住父子ら22名を招いてこれを謀殺し、岩松持国らをして山内の上杉邸を襲わせて上杉方を敗走させた[25][24][26]。享徳4年1月5日(1455年1月22日)、幕府へ憲忠殺害の情報が到達した[27][28][29]。この日には成氏も一色直清武田信長らの軍勢を派遣すると、糟谷から進軍した上杉持朝を翌6日に島河原(現・平塚市)で破り、伊豆国三島へ後退させている[30]

このとき上野国に下っていた長尾景仲には、永享の乱以来の庁鼻和上杉家上杉憲信や扇谷上杉顕房が行を共にしており、上州・武州一揆らを率いて軍備を整えるとともに、室町幕府に支援を求めた[31][27]。将軍足利義政は上杉方支持と成氏追討を決定し、正月16日に信濃守護小笠原光康へ上杉方への加勢を命じた[28][30]。成氏も周囲の勢力を糾合しようと努める一方、自ら出陣して北上すると、多摩川を挟んで上杉軍と対峙した。成氏が高幡、上杉軍が分倍河原に在陣し、21日と22日の両日にわたって分倍河原の戦いが行われたが、成氏の勝利に終わり、上杉軍は憲信や顕房のほか、顕房の同族である小山田上杉藤朝、犬懸上杉憲顕ら主要な将を失った[32]。景仲が残兵を率いて逃亡すると、成氏は追撃戦を展開し、3月3日に下総国古河へ移った[32]。景仲は3月19日に常陸国小栗城へ籠って戦ったが、5月20日までに陥落し、さらに落ち延びて下野国天命(現・佐野市)、只木山(現・足利市)に籠った[33]

成氏討伐軍の下向と鎌倉奪取

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憲忠の謀殺を受けた上杉氏の課題は、新当主を選定して関東管領への補任を受けることであった[34]。開戦にあたって幕府は上杉方を支持する姿勢を迅速に示した上で、上杉憲忠の弟・房顕(当時在京)を新当主とし、天皇の御旗を持たせて成氏討伐のため東下させることを決定した[28]。上杉家当主の決定と成氏の反逆者認定に時間を要し[34]、また「春三ヶ月東方有憚」[35]として、当初は4月を待つ予定だったが、義政が日延を嫌ったため房顕は3月28日に出発し、北国経由で4月中旬までに上野国平井城に入ったと推定される[28][36]

房顕に続き、4月中には越後守護上杉房定、駿河守護今川範忠[注釈 2]が、それぞれの本国で国人を集めて出陣した[36][37]。4月23日、上杉持朝は三島で成氏方と戦って勝利を収め、のちに今川範忠をはじめとする幕府軍との合流を果たすと、相模国を東進して6月16日に鎌倉に至り、成氏方の守備隊を駆逐して制圧した[38]。これ以降、鎌倉は今川軍が守備することとなった[38]。これにより鎌倉への帰還が不可能になった成氏は、そのまま古河に拠点を定め、古河公方と称されることになる[38]

応仁の乱への影響

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将軍足利義政が関東管領側に立ってしばしば介入したにもかかわらず、享徳の乱は28年に及び、この間に応仁の乱が始まりかつ終了している。享徳の乱が応仁の乱に波及した、少なくとも享徳の乱を治められなかった将軍及び管領細川勝元に対する不満が応仁の乱の遠因の一つとなったとされる[39]

一方、足利成氏も山名宗全や畠山義就ら西軍諸将が足利義視を擁立して所謂「西幕府」を立てると、西軍側の勝利を期待して西幕府との和睦交渉に動いている。しかし、戦況は次第に東軍優勢となり、最終的に応仁の乱は東軍の勝利に終わったために成氏の当ては外れることになる。しかし、勝った幕府(東軍)側も西軍諸将の行動(成氏との交渉を含めて)の責任を問わないことにした上に、長すぎた空白の間に発生した上杉氏の内紛によって関東への介入を再開できる状況ではなくなっており、成氏との和睦交渉に応じる背景になったと考えられている[40]

参戦武将

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古河公方側

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堀越公方側

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幕府は他に奥州探題大崎教兼結城直朝小笠原光康にも出陣要請をしたが、奥羽国人が互いに抗争を繰り返しており、大崎、結城の2人もそれに巻き込まれていて出陣することはなかった。小笠原も一族の内訌に巻き込まれて同様であった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 長尾・太田氏を抑制する働き[20]や、幕府の信頼の厚い憲実を帰参させることで歓心を買うことを期待したものと考えられる[21]
  2. ^ 『康富記』享徳四年四月十五日条には「上椙今河桃井等賜之」とあるが、桃井氏については詳細不明[36]

出典

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  1. ^ 峰岸 2017, p. 39.
  2. ^ 峰岸 2017, p. 44.
  3. ^ 峰岸 2017, p. 46.
  4. ^ 久保 2020, p. 44.
  5. ^ 久保 2020, pp. 42, 44.
  6. ^ 久保 2020, pp. 44–46.
  7. ^ 石田 2008, pp. 116–119.
  8. ^ 石田 2008, p. 118.
  9. ^ 久保 2020, pp. 45.
  10. ^ 久保 2020, pp. 47–49.
  11. ^ 久保 2020, p. 47.
  12. ^ 峰岸 2017, p. 50.
  13. ^ 佐藤 1989, pp. 54–55.
  14. ^ a b c 峰岸 2017, p. 51.
  15. ^ 佐藤 1989, p. 55.
  16. ^ 久保 2020, pp. 46–47.
  17. ^ a b 佐藤 1989, p. 56.
  18. ^ a b 石田 2008, p. 120.
  19. ^ 久保 2020, p. 49.
  20. ^ 佐藤 1989, p. 57.
  21. ^ 久保 2020, pp. 51–52.
  22. ^ 久保 2020, pp. 53–54.
  23. ^ 峰岸 2017, pp. 52–53.
  24. ^ a b 峰岸 2017, p. 53.
  25. ^ 石田 2008, pp. 125–126.
  26. ^ 黒田 2021, pp. 10–11.
  27. ^ a b 黒田 2021, p. 11.
  28. ^ a b c d 石田 2008, p. 132.
  29. ^ 峰岸 2017, p. 54.
  30. ^ a b 黒田 2021, p. 12.
  31. ^ 石田 2008, p. 127.
  32. ^ a b 黒田 2021, p. 13.
  33. ^ 黒田 2021, pp. 14, 18.
  34. ^ a b 佐藤 1989, p. 63.
  35. ^ 康富記』享徳四年三月三十日条(『史料大成』 40巻、臨川書店、1965年9月、150頁。 
  36. ^ a b c 佐藤 1989, p. 64.
  37. ^ 峰岸 2017, p. 68.
  38. ^ a b c 黒田 2021, p. 22.
  39. ^ 峰岸 2017, p. 107.
  40. ^ 家永遵嗣「応仁二年の「都鄙御合体」について」『日本史研究』581号、2011年。 /所収:長塚孝 編『足利成氏』戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三三巻〉、2022年、189-211頁。ISBN 978-4-86403-421-0 

参考文献

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関連項目

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