利用者:のりまき/第八作業室

京極派(きょうごくは)は、鎌倉中期から室町初期にかけての和歌の流派の一つ。

概要[編集]

京極派の創始[編集]

京極為兼からの始まり[編集]

京極為兼と西園寺家[編集]

建長4年(1254年)、後に京極派を率いることになる京極為兼が誕生する。為兼が属する御子左家一門は、祖父の藤原為家、曽祖父の藤原定家、高祖父の藤原俊成と高名な歌人を輩出し、その嫡流は代々和歌宗家となったが、父の京極為教は和歌の才能に欠け、朝廷においても有能な廷臣とは見なされてなかったと考えられ、生涯参議に任じられずに終わるなど不遇であった[1]

為教の妻は当時権勢を誇った西園寺氏家司である三善氏の出身であった。もともと御子左家は西園寺家との結びつきが強く、父母の縁によって為兼は幼い頃から西園寺家に出入りし、特に5歳年上の西園寺実兼には半ば家僕同様に仕えていた[2]

御子左家嫡流に対する京極為兼の反抗心[編集]

為兼の祖父である藤原為家は、有力御家人である宇都宮頼綱の娘を正妻とし、二条為氏、京極為教らを儲けた。しかしその後、為家は当初秘書のような存在であった20歳以上若い阿仏尼との間に冷泉為相冷泉為守を儲けた。阿仏尼の登場後、為家の晩年には嫡子である為氏との関係が悪化していた。ただし為家は自らの後継者としての二条為氏の存在は尊重した、これは京極為教は和歌の才能に欠け宮廷の廷臣としてもぱっとせず、冷泉為相や冷泉為守はまだ幼かったという事情があったと考えられる[3]

このような中で為兼は祖父為家から和歌の手ほどきを受けるようになり。為兼とともに阿仏尼、為兼の姉である藤原為子、冷泉為相も一緒に為家から和歌を学んだ。また後に為兼のライバルとなる二条為氏の子である二条為世も、為家から和歌を学んでいた。為家、為氏親子の関係が悪化したことがきっかけとなって、御子左家内は嫡流である二条為氏、為世と、京極為教、阿仏尼、冷泉為相との間に溝が深まっていった。為家は二条為氏、為世に配慮を見せながらも、京極為教、冷泉為相に対しても和歌の奥義を伝えていった[4]

京極為兼の父、京極為教は兄である御子左家嫡流の二条為氏と生涯を通じて不仲であった。しかし先述のように和歌の才能に乏しい上に朝廷の廷臣としても有能ではなかった。弘安元年(1278年)の年末、二条為氏が撰者となった続拾遺和歌集が完成した。為氏の撰集中、為教は日ごろ不仲であった兄為氏に対し、前非を悔い改めて今後為氏の指示に従うと誓っていた。ところが完成した後拾遺集には、為教の和歌は7首、息子の為兼は3首、そして娘の為子は3首しか撰ばれなかった。為教は当時治天の君である亀山院に対し、後拾遺集に撰ばれた自らの和歌7首を削ってでも、息子の為兼、娘の為子の歌を増やしてほしいと訴えた。しかし亀山院は為教の訴えをあっさりと却下した。そして約5ヵ月後、京極為教は不遇の中、死去する[5]

不遇の中、死去した京極為教は、一生涯和歌宗家である御子左家嫡流の二条為氏に対する反抗を続けた。その反和歌宗家の意志は息子である為兼に引き継がれたが、為兼は単なる和歌宗家に対する反抗に終えることなく、宗家に牛耳られていた当時の和歌のあり方に対するアンチテーゼの樹立に昇華させていくことになる[6]

東宮煕仁のもとで花開きだした新たな和歌[編集]

持明院統のホープ、煕仁親王の登場[編集]

13世紀半ば、京都の朝廷は後嵯峨院治天の君となっていた。後嵯峨院は自らの息子である後深草院亀山院の在位時に上皇として朝廷の実権を掌握していた。後嵯峨院は後深草院と亀山院のうち、弟である亀山院のことを偏愛していたとされ、実際文永5年(1268年)、在位中の亀山院の皇太子として後嵯峨院の皇子ではなく、亀山院の皇子である世仁(後の後宇多院)を立太子させた。しかし文永9年(1272年)の後嵯峨院崩御後、遺言状では後深草院、後亀山院のいずれが治天の君を継ぐべきであるかを明らかにしていなかった。鎌倉幕府は亡き後嵯峨院が、後深草院と亀山院のどちらに治天の君の座を継がせる意思を持っていたのかを両院の母である大宮院に確認したところ亀山院と答えたため、亀山院が治天の君と決定した。亀山院は文永11年(1274年)に皇太子世仁に譲位し、上皇となって院政を開始した[7]

こうなると後深草院の子孫に皇位が継承される可能性はほとんど無くなったと見られた。しかし外戚、関東申次として権勢を振るっていた西園寺家の内部事情が後深草院に味方した。当時、西園寺家の家督は若年の西園寺実兼であり、老練な政治家であった叔父の洞院実雄に押され気味であった。しかも新たに天皇に即位した後宇多院の母は洞院実雄の娘であった。その上亀山院の治世では、亀山院、後宇多院とも西園寺家を敬遠していた。そこで西園寺実兼は自らの勢力挽回を図り後深草院に接近していった。そして西園寺実兼の運動が功を奏し、建治元年(1275年)11月、後宇多院の東宮として後深草院の皇子の熈仁(後の伏見院)が立太子し、西園寺実兼は東宮大夫となった[8]

祖父為家が健在であった頃、京極為兼の官位昇進のスピードはいとこである二条為世とそう遜色なかったが、為家が引退した後は為世の出世に置いていかれるようになっていた。建治元年(1275年)には祖父為家、そして弘安2年(1279年)には父為教が亡くなった。父が亡くなった頃、為兼は後深草院の家司となっていた。そして翌弘安3年(1280年)、為兼は東宮熈仁に出仕することになる[9]

先述したように自らの復権をもくろむ中で西園寺実兼は後深草院らの持明院統に接近し、後深草院の皇子熈仁を後宇多院の東宮とすることに成功した。東宮大夫となった実兼は、家司のように仕えていた為兼を東宮に推薦したものと考えられる。年少気鋭の東宮熈仁の許にはやはり気鋭の若手公卿が集まっていた。為兼はそのような中で東宮の厚い信頼を得ることに成功し、栄達への足がかりを掴むことになる。そして東宮熈仁と為兼を中心とした東宮の側近グループの中から、これまでの旧態依然とした和歌を革新する京極派が生まれることになる[10]

東宮熈仁は文永2年(1265年)に生まれた後、建治元年(1275年)の立太子までは皇位とは縁遠い一皇族として成長した。そして立太子後も践祚するまで12年間、皇太子として多くの経験を積むことが可能であった。岩佐美代子はこのような東宮熈仁の幼年期から青年期にかけての人生が、当時の多くの天皇が幼くして天皇となることを宿命付けられていたのに対し、人間的に安定感ある情味に富んだ人格形成を可能としたと評価している[11]

沈滞した中世和歌に対する為兼の反抗[編集]

13世紀後半の鎌倉時代後期、和歌の世界は御子左家の嫡流である二条家による二条派の歌風が支配的になっていた。二条派による歌風が確立されていく中で、和歌は歌「道」としての法則、つまり歌の詠み方を細部にわたって規定していく方向へと流れていった。つまりこれは和歌が芸術から乖離していく方向への進化であった[12]

二条派の和歌はその後、明治初年までの長きにわたり和歌の世界の主流派として君臨し続けた流派であり、結局のところ「うるわしい言葉でうるわしい光景を詠むのをよしとする」伝統派であった[13]。当時の和歌の世界は、子細な言葉の解釈や故実、秘伝の詮索が横行し、単に知識を振りかざすような風潮が横行するようになっていた。京極為兼は、和歌とは何か、どのような態度をもって歌を詠むべきであるか、どのような歌が良い歌であるのかなど、和歌の本質が追求されるべきであるにも関わらず、そのような枝葉末節に過ぎないことばかりが重視されている歌壇のあり方に大きな疑問を抱くようになっていった[14]

もちろん京極為兼以外にも、歌道的な風潮が強まる中、芸術性を喪失しつつあった当時の和歌のあり方に疑問を抱く風潮は存在した。特に歌道を教養として改めて学んでいく必要性が薄い上流貴族にその風潮は強く、自然のありのままの姿を素直に詠み、技巧に頼らず制約が少ない見様体と呼ばれる和歌が広まりつつあった。しかし為兼はこのような疑問を通り越し、二条派に支配されていた歌壇に反逆し、自らの思想に基づいた新たな和歌を提唱していくことになる[15]

東宮を囲む文芸愛好グループと京極為兼[編集]

弘安3年(1280年)、東宮熈仁の許に出仕するようになった京極為兼は、ほどなく当時40歳であった飛鳥井雅有をリーダーとする、10名内外のやや閉鎖的な東宮側近の文芸愛好グループに加わるようになった。グループの構成員は当時27歳であった為兼と同年代かやや年上であった。グループ内には既存の権威に盲従しない自由な文芸観、そして自らの目で見て考え判断するという自主的な雰囲気があった。御子左家という和歌を家業とする家に生まれたものの、二条為氏、二条為世という嫡流からは外れた庶流であった為兼にとって、このような環境は為兼が内包していた独自の個性を発展させる格好の土壌となった[16]

京極為兼は幼い頃から祖父藤原為家から和歌の奥義を学んでおり、当時広く受け入れられていた伝統的な形式の和歌を高い水準で詠みこなす実力を備えていた。しかし為兼はそれに飽き足らず、新しい表現にチャレンジしていく中で、奇矯な表現をした和歌とも言いがたい歌を詠むようになった。この頃、為兼が詠んだと考えられる和歌で、当時の歌論書の一つである野守鏡が厳しく非難した為兼作の奇矯な和歌の例としては

萩の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなる薄なりけり

などが挙げられる。やはり伝統の殻を破って新たな表現の確立まで到達することはたやすいことではなかった。そして東宮側近の文芸愛好グループ内での切磋琢磨、為兼自身の修練の中で、東宮熈仁のために執筆したと考えられる歌論書、為兼卿和歌抄が生まれる[17]

為兼卿和歌抄で為兼は、二条家嫡流の和歌のあり方を言葉で心を詠むものであると批判し、自らの「心」の真実の表現こそが和歌であり、自らの中から生まれ出づる言葉のままに歌えばよく、その表現方法は自由であるべきと主張した。為兼の主張は、様々な決まりごとに則って和歌を詠む二条家嫡流の和歌のあり方に対するアンチテーゼであった。これは御子左家という和歌を家業とする家に生まれながら、ルールに縛られ、表現方法に箍が嵌められたも同然の当時の和歌のあり方にフラストレーションを溜めていた為兼の伝統への挑戦であった。そして既存の和歌に飽き足らない思いを共有していた東宮熈仁とその側近の文芸愛好グループは、為兼をリーダーとして新たなる和歌の表現に向けて切磋琢磨を続けていくことになった[18]

このような京極派誕生の経緯は、その後の京極派の盛衰に大きく影響することになった。まず「心」の真実の表現が和歌であるという基本は京極派の衰亡まで守られていくことになる。しかしこれはまた「心」のあり方を直視し、和歌として表現しうる優れた文学的才能を備えた上流貴族が衰退し、やがて南北朝時代の動乱の中で壊滅することによって、京極派はその歴史的使命を終えることに繋がった。また東宮熈仁とそのブレーンの文芸を愛好する側近グループによって京極派が始まったことも、最後まで京極派が持明院統中心の閉鎖的なグループ内に止まり、外部への広がりを欠き、観応の擾乱によって京極派の中心にあった光厳院南朝に拉致されたことによってあっけなく消滅していく要因となった。一方では洗練された鋭い感受性に富んだメンバーによって構成された、排他的な少人数のグループによって京極派が成立していたことにより、高度かつ深みのある和歌表現の追求が可能となり、文学性の高い多くの和歌を生み出すことに成功した[19]

永仁勅撰の挫折と京極為兼の配流[編集]

京極派の確立[編集]

試練の時に花開いた京極派和歌[編集]

延慶両卿訴陳状の泥仕合[編集]

玉葉和歌集の完成[編集]

再度の京極為兼配流後の京極派[編集]

永福門院の叱咤激励[編集]

治天の君となった光厳院と後期京極派の隆盛[編集]

風雅和歌集の完成[編集]

京極派指導者たちの和歌思想[編集]

京極為兼の思想[編集]

伏見院の思想[編集]

花園院の思想[編集]

観応の擾乱による京極派の壊滅[編集]

異端視された京極派[編集]

京極派の再評価[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 今谷(2003)pp.15-23、井上(2006)pp.1-8、pp.19-20
  2. ^ 井上(2006)pp.31-32
  3. ^ 今谷(2003)pp.28-31、井上(2006)pp.4-8、pp.28-29
  4. ^ 今谷(2003)pp.30-33、井上(2006)pp.22-28
  5. ^ 今谷(2003)pp.43-45、井上(2006)pp.35-38
  6. ^ 井上(2006)p.38
  7. ^ 網野(1974)p.185
  8. ^ 網野(1974)pp.185-187、井上(2006)p.32
  9. ^ 今谷(2003)pp.38-40、pp.45-46
  10. ^ 岩佐(1984)pp.24-25、今谷(2003)pp.50-54
  11. ^ 岩佐(1984)pp.23-24
  12. ^ 岩佐(1987)p.4
  13. ^ 岩佐(2000)p.9、井上(2006)p.47
  14. ^ 網野(1974)p.334
  15. ^ 岩佐(1987)p.4-5
  16. ^ 岩佐(1984)pp.24-25、pp.38-39
  17. ^ 岩佐(1984)pp.70-71、石澤(2012)pp.2-7
  18. ^ 岩佐(1984)pp.98-107、井上(2006)pp.47-48
  19. ^ 岩佐(1984)pp.66-68、pp.108-109

参考文献[編集]

  • 網野善彦「日本の歴史10 蒙古襲来」小学館、1974
  • 石澤一志「コレクション日本歌人選053 京極為兼」笠間書院、2012、ISBN 978-4-305-70653-9
  • 井上宗雄「中世歌壇史の研究 南北朝期」明治書院、1987
  • 井上宗雄「京極為兼」吉川弘文館、2006、ISBN 4-642-05236-4
  • 今谷明「京極為兼」ミネルヴァ書房、2003、ISBN 4-623-03809-2
  • 岩佐美代子「京極派歌人の研究」笠間書院、1984
  • 岩佐美代子「京極派和歌の研究」笠間書院、1987
  • 岩佐美代子「永福門院」笠間書院、2000、ISBN 4-305-60039-0
  • 小川剛生「武士はなぜ歌を詠むか」角川学芸出版、2008、ISBN 978-4-04-702140-2
  • 佐藤進一「日本の歴史9 南北朝の動乱」中公文庫、1974