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マウント・マッキンリー
基本情報
級名 マウント・マッキンリー級揚陸指揮艦
艦歴
起工 1943年7月31日
進水 1943年9月27日
就役 1944年5月1日
退役 1970年3月26日
最期 1979年にスクラップのため売却
除籍 1976年7月30日
要目
排水量 12,550t
速力 15ノット(31km/h)
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マウント・マッキンリー (USS Mount McKinley, AGC-7/LCC-7)は、アメリカ海軍のマウント・マッキンリー級揚陸指揮艦の1番艦。艦名は北米大陸最高峰に因む。第二次世界大戦朝鮮戦争で活躍した。

進水と就役[編集]

マウント・マッキンリーは1943年7月31日ノースカロライナ州ウィルミントンノースカロライナ造船社英語版でC2-S-AJ1型輸送船サイクロン(Cyclone)として起工。9月27日、T・L・レイナー夫人に命名され進水。同年12月27日マウント・マッキンリーと改称される。1944年5月1日、ロイ・W・M・グラハム大佐指揮のもとフィラデルフィア海軍工廠で就役。

艦歴[編集]

第二次世界大戦[編集]

短期間の慣熟航海を完了したのち、1944年6月8日ヴァージニア州ノーフォーク海軍基地を出港して6月27日真珠湾に到着する。7月20日、第5水陸両用群を乗せてパラオへと向かう。9月25日ペリリュー島沖に到着し、ペリリューの戦いに参戦。第5水陸両用群指揮官は本艦より第1海兵師団の上陸戦の指揮を執った。28日にNgesebus島近くへと移動し、艦砲射撃の調整を行う。

ペリリュー島やその他の島々が確保された後の10月14日、パラオ海域を離れる。ニューギニア島ホーランディアに立ち寄ってから、レイテ及びオルモック侵攻のためにサン・ペドロ湾に赴く。サン・ペドロ湾内では敵軍の絶え間ない航空攻撃に晒されたが、幸い本艦に命中弾はなかった。12月15日ミンドロ島侵攻に参加。1945年1月9日、リンガエン湾に進出して艦砲射撃を指揮。スービック湾付近での無血上陸を指揮したのち、レイテ湾に戻った。

3月21日慶良間諸島沖に進出し、第77歩兵師団英語版の上陸を指揮。5月22日サイパン島、真珠湾を経由して6月23日サンフランシスコに入港した。

戦後[編集]

2ヶ月間のオーバーホールを経て、戦争が終結した後の8月20日に再配備された。9月23日佐世保に到着し、占領軍の兵士を当地とに上陸させる。1946年2月12日に本国へ帰還。同年初夏にビキニ環礁へと向かい、そこでクロスロード作戦旗艦に指定される。実験の期間中は、第1統合任務部隊(Joint Task Force 1)司令官のウィリアム・H・P・ブランディ英語版大将の将旗が翻っていた。実験後の18ヶ月間はサンディエゴ沖で作戦に従事した。

1948年エニウェトク環礁での核実験・サンドストーン作戦に指揮艦として参加する。実験終了後、サンディエゴに戻って任務を再開した。

朝鮮戦争[編集]

マウント・マッキンリー艦上より仁川上陸作戦を観戦するマッカーサー元帥。左はGHQ民政局局長コートニー・ホイットニー准将、右は第10軍団司令官エドワード・アーモンド少将。1950年9月15日撮影。

1950年5月20日第8軍(司令官:ウォルトン・ウォーカー中将)と作戦演習を実施するため西太平洋へ赴く。6月25日朝鮮人民軍の奇襲により朝鮮戦争が勃発。早くも26日、慶尚北道浦項沖へと日本を出撃。一旦日本に帰投したが、9月11日神戸を出撃。12日に佐世保に寄港してダグラス・マッカーサー陸軍元帥一行を乗せ、韓国西岸に進出。マッカーサー元帥は自身が立案した仁川上陸作戦の直接指揮を執った。この作戦は大成功し、北朝鮮軍を北へと押し返した。

人民志願軍が参戦すると、国連軍は押し戻され始めた。マウント・マッキンリーは撤退を援護した他、1951年1月下旬には韓国人難民数千人の済州島への移動を援護した。

同年6月7日横須賀を離れ8月3日に大規模オーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所に入渠する。入渠中に船尾がヘリコプターデッキに改造された。翌年1952年3月6日に西太平洋へと出航するが、1953年1月30日には本国へ帰還した。

10月27日に再び本国を出航し、11月16日に横須賀に到着。1954年7月30日に本国への帰路につくまで、本艦は日本、韓国、台湾沖での水陸両用戦演習に明け暮れた。8月18日に帰国した後は、局地任務に従事した他、10月のハワイ沖での一ヶ月間演習に参加して1954年の残りを過ごした。

1955年春、中央太平洋での水中核実験であるウィグワム作戦に旗艦として参加。同年夏のオーバーホールを終えると、翌年1月に西太平洋へ舞い戻った。

大西洋・地中海[編集]

1956年6月3日サンディエゴに帰還、9月1日に太平洋艦隊を離脱。パナマ運河を経由して9月20日ノーフォーク海軍基地に到着。

翌年1月9日より地中海に配備される。東地中海では炎上するギリシャ漁船から乗組員を救出し、消火活動を行うとともに港まで曳航した。地中海でNATO軍と艦隊演習を実施した後、6月19日にノーフォークへ帰投した。9月から10月前半にかけて、いわゆる「GIUKギャップ」海域で行われた演習・ストライクバック作戦英語版やその他の演習に参加。ストライクバック作戦中には、メイン州ポーツマス海軍造船所に停泊して指揮を執った。


太平洋[編集]

8月25日にサンディエゴを出港し、9月16日ルソン島に到着した。1週間後、スービック湾にて姉妹艦エルドラド英語版にかわって第7艦隊旗艦となる。南シナ海に拠点を置き、第1水陸両用群(Amphibious Group 1)の艦艇と共に不測の事態に備えた。

バンコクへの航海中、船長が重病になった「ハーキマー」(Herkimer)という船を救援した。3月上旬と4月中旬には海兵隊増援部隊のダナンフエへの上陸を調整した。

8月23日、帰国の途につき、1966年9月16日に到着。

1月中旬に任を解かれ、2月10日にサンディエゴに帰港した。1969年1月1日、番号がLCC-7に変更される。帰国後は第3連合水陸両用群(ComPhbGru 3)旗艦として訓練や演習にたずさわった。

1976年に処分のため売却された。

受勲[編集]