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利用者:ロームブルグ/sandbox


生涯[編集]

出自[編集]

父アルフレートは1846年にハンガリーバナート地方のテメシュヴァールに生まれ、後にグラーツに移住した。母ヘルミーネ・ベルガウアー Hermine Bergauer はオーバー・エースターライヒ州出身である。

アルフレートは、エンジニア、専門学校の校長を経た後、1890年からブリュン工科大学機械工学の教授、1917年には世襲貴族の称号を与えられる。ヘルミーネの祖父も、有名なエンジニアである。

生誕から少年期まで[編集]

1900年

1880年11月6日クラーゲンフルトに生まれる。幼少期をコモタウ(現チェコのホムトフ)、シュタイアーオーバー・エースターライヒ州の都市)で過ごす[注釈 1]。シュタイアーにはギムナジウムがなかったため、ムージルは成績優秀にもかかわらず実科学校に通った。一家は1891年ブリュンへ転居するが、そこでもやはり実科学校に通う[2]

ムージルにとって読むことと書くことは幼少のころから特別に際だった体験であり、ドイツ語の作文ではその長大さと巧みに盛り込まれた見解、豊麗な描写が教師を驚かせたが、自身では「綱渡り」のような興奮状態の内に書かれた文章も、読み返す段になると、「結局彼(ムージル)は転落するのだった」と日記で回想している[注釈 2][1]

ブリュンで出会った二歳年上の友人グストゥル(グスタフ)・ドーナトから性に関する知識を得るなど、早熟な少年だったムージルは、両親、特に母親との衝突と「ナポレオン的」なものへの憧れから[1][2][3]アイゼンシュタットの陸軍初等実科学校へ進み、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン(チェコのフラニツェ・ナ・モラヴィェ)の陸軍上級実科学校に学んだ。やがて機械工学の道に転じてブリュン工科大学に入学[4]

その後再び哲学に転じると、ベルリン大学エルンスト・マッハ研究により博士号を取得する(1908年)。しかし結局、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906)で踏み出していた作家としての道を選ぶ。1905年には「特性のない男」の草案を日記に書いている。

作家として[編集]

その後短編集『合一』(1911)、『三人の女』(1924)、『生前の遺稿集』(1935)などを発表、客観的で透徹した認識を保ちながら、理性や言語を超えた神秘的とも言える世界を追求する。1919年、「特性のない男」の仕事に本格的に取り組み始める。

『特性のない男』、亡命と突然の死[編集]

ムージルの名を世界的なものにしたのは、唯一の長編にして未完の大作『特性のない男』である。第一次世界大戦直前のウィーンを舞台にしたこの小説は、1930年に第一巻(第一部、第二部)がローヴォルト社から五千部出版された。

ムージルは1931年に再びベルリンに移るものの、1933年ナチスの政権奪取後はウィーンに戻り、1938年にはスイスに亡命、この時彼の書物は発禁処分を受ける。最後はジュネーヴでこの大作の完成に心血を注ぐが、1942年シャワー室の中で脳卒中のため急死した。

略年譜[編集]


1880年000000
11月6日午前9時、クラーゲンフルト市近郊ザンクト・ループレヒトに父アルフレートと母ヘルミーネの子として生まれる。
1881年 9月末、ムージル一家、父の転勤のためリンツを経由してコモタウへ転居。
1882年 ムージル一家、父の転勤のためシュタイアーへ転居。
1885年 春頃、初めて父に折檻される。
1886年 9月、シュタイアーのプロメナーデ小学校に入学。10月11日、祖父フランツ・クサーヴァ・ベルガウアー、リンツにて死去。
1889年 1月末~7月、「神経および脳の疾患」、おそらく髄膜炎を発症(1889/90年次に再発)。10月8日、祖父マティーアス・ムージル、グラーツにて死去。
1890年 9月、シュタイアーの実科ギムナージウムに入学。この頃から1892年まで、母との確執つのる。
1891年 1月末、ムージル一家、父の転勤のためブリュンへ転居。2月、同地のドイツ上級実科学校へ転入(同年9月2日まで在籍)。
1892年 春、再度重い病気に罹る。「学業不振」。性の秘密を知る。初めて「哲学的思想」を抱く。8月29日、アイゼンシュタットの陸軍初等実科学校に入学(1894年8月31日まで在籍)。寮生活中にホームシックに襲われる。
1893年 9月17日、祖母ルイーゼ・ムージル、グラーツにて死去。
1894年 9月1日、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン陸軍上級実科学校に進学(1897年8月31日まで在籍)。
1895年 この頃、『テルレス』の原型となる事件に遭遇する(~1896年春まで)。
1897年 9月1日、ウィーンの軍事工科アカデミーに入学。「自己省察」。12月30日退学。
1898年 ブリュンのドイツ工科大学に入学。エンジニアになるための勉学を開始。スポーツに打ち込む(テニスサイクリング水泳)。ニーチェメーテルリンクエマーソンドストエフスキーペーター・アルテンベルクダンヌンツィオクヌート・ハムスンなどを読む。8月20日、両親とフェルデンにて休暇、ホテル・ウルビングに宿泊。水浴場で母の裸を目にし、「恥ずかしく」もあり「腹立たしくもある驚愕」。初めて抒情詩を習作。「出来の悪い」戯曲を創作(現存せず)。
1899年 春、社会民主主義系の新聞『モラヴィア・シレジア民衆の友』に劇評を書く準備として、アリストテレスの『詩学』を読む(実現せず)。
1900年 3月29日、ブリュンのドイツ・アカデミー読書協会にて文壇デビュー、自作「ヴァリエテ」を朗読。4月19日、『新ブリュン新聞』に「ヴァリエテ」掲載される(初めて実名で署名をした公刊作品である)。8月、シュラートミングにて休暇中、ピアニストのヴァレリー・ヒルパートと出会う。8月末もしくは9月初め、巡礼地フィルツモースに数日間滞在。最初の神秘的体験。
1901年 10月1日~、フォン・ヘス男爵麾下の在ブリュン帝=王室第四九歩兵連隊に一年志願兵として勤務。
1902年 2月20日、カントの著作を読むのを中断。ボードレール『パリの憂愁』所収の作品を読む。5月8日、ニーチェ再読開始、数カ月続く(とりわけ『喜ばしき知恵』、『道徳の系譜』、『ヴァーグナーの場合』など)。これを契機にエマーソンの『処世論』、ハルトマンの『美の哲学』を読む。5月26日、エルンスト・マッハの『通俗科学講義』を読む。9月30日、軍曹となって除隊。10月、恋人のヘルマとともにシュトゥットガルトへ転居。材料試験所の無給助手に就任(1903年4月まで在職)。『テルレス』執筆開始。
1903年 1月1日、予備役少尉に任命される。10月、大学入学のためベルリンへ(主専攻は哲学と心理学、副専攻は数学と物理学)。11月7日、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学に学籍登録。
1904年 4月半ば、同大学の学生ヨハネス・フォン・アレシュと知り合う。秋、フッサールの『論理学研究』、ヘルマン・バールの『悲劇的なものについての対話』、アルフレート・ケルの『演劇術』を読む。
1905年 2月頃、『テルレス』脱稿。刊行への道を模索する。4月23日、ゾンヴェントシュタイン山で吹雪に遭遇、幻覚に襲われる。9月17日、『テルレス』の原稿をウィーン出版社に提出。9月23日、祖母エメリーネ・ベルガウアー死去。新しい長編小説の構想を練りはじめる。この年、フランツ・グリルパルツァーユイスマンスヤコブセンノヴァーリストーマス・マンなどを読む。
1906年 8月、のちの妻マルタと知り合う。10月末、『テルレス』刊行。
1907年 夏、ウィーン出版社倒産。書籍市場から『テルレス』消える。フロイトなどを読む。
1908年 1月31日、博士論文『マッハ学説判定への寄与』を提出。これにより哲学博士号取得。11月・12月、隔月誌『ヒュペーリオン』第六号に『魅せられた家』が掲載される。
1910年 『愛の完成』『静かなヴェローニカの誘惑』を執筆、脱稿。
1911年 3月1日、ウィーン工科大学図書館「無給司書見習い」に就任。4月15日、ウィーンにてマルタと結婚。5月末、『合一』および『テルレス』新版がミュンヘンのゲオルク・ミュラー出版社から刊行される。10月14日、風刺小説『惑星エド』の構想(実現せず)。10月17日、住まいの建物の玄関口前で、交通死亡事故起こる。のち『特性のない男』に反映。10月20日および21日、大工クリスティアン・フォークト被告の裁判が開かれ、娼婦を殺害した罪により死刑判決下る(翌年、皇帝からの恩赦により終身禁固刑へ減刑)。『特性のない男』のモースブルガー事件のモデルとなる。この年、サッカレートルストイを読む。
1912年 1月1日、二級司書に就任。秋および冬、執筆障害と健康上の問題に悩む。
1913年 1月末、「重い心臓神経症」に罹り、精神科医オットー・ペツル博士の診察を受ける。7月28日、ペツル博士、ムージルに6カ月間の休職が必要である旨、診断書に書き記す。休職願いは認められる。スイスイタリアへ保養旅行。12月31日、10年間務めた軍役から予備校将校の位をもって退く。
1914年 1月3日、ベルリンでザームエル・フィッシャーとの交渉に成功し、『新展望』編集部に職を得る。1月11日、ヴァルター・ラーテナウおよびヴェルナー・ゾンバルトに会う。2月1日、『新展望』の編集者に就任。2月2日、ウィーン工科大学図書館に司書からの離職を願い出る。3月9日頃、フィッシャーの私宅でリルケに会う。7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国セルビアに宣戦布告。8月初め、兵役を志願。8月20日、リンツにて国民軍に入隊。11月1日、国民軍中尉に昇進。
1915年 各地を転戦。
1916年 3月1日、非梅毒性の潰瘍性炎症の症状現れる。4月、プラハのカロリーネンタールへ移送される。4月14日、マックス・ブロートおよびフランツ・カフカを訪問。6月18日、『チロル兵隊新聞』へ転属。同紙の任務は「帝国と陸軍の死活問題についての理解」を普及させること。ムージルは匿名で多数寄稿。10月8日から、同紙の責任編集者に就任。11月21日、フランツ・ヨーゼフ皇帝死去。父アーロイス、新皇帝カール一世の顧問の一人となる。
1917年 4月26日、『兵隊新聞』への貢献により、フランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章授与。10月22日、父アルフレートが世襲貴族に列せられ、父子ともに「エードラー・フォン・ムージル」となる。11月1日、国民軍大尉に昇進。
1918年 3月2日、新・兵隊新聞『故郷』へ転属。同紙の任務は、オーストリア・ハンガリー帝国の良好な軍事状況を毎週報道すること、「戦線後方に現れはじめた破壊的動向」およびボリシェヴィズムを撲滅すること。ムージルは匿名で多数寄稿。5月9日、『故郷』の責任編集者に就任。11月11日、カール皇帝退位。オーストリアに革命起こる。12月15日、戦時報道局の解散。ムージル、軍籍から離脱。戦後、ローベルト・ミュラーの社会主義的秘密組織「カタコンベ」の一員となる。
1919年 1月15日、オーストリア外務庁広報部の文書保管所に就職。表向きの任務は新聞の切抜きの索引づくり。内々の仕事はオーストリアのドイツへの併合の必要性を説くこと。12月5日~12日、トーマス・マンのウィーン滞在を機にマンとの個人的なつながりを得る。
1920年 5月1日、『メルケル』に「メロドラマ《黄道十二宮》の序幕」を発表。9月2日、「オーストリア軍事庁」専門顧問に就任。主たる任務は「将校団に、精神と労働力の養成方法を手ほどきすること」。翌年にかけて、アルフレート・デーブリーンフローベールなどを読む。
1921年 3月、『新メルクーア』に「精神と経験――西洋の没落を免れた読者のためのコメント」(オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』に対する批判)を発表。8月22日、ジビュレン出版社が戯曲『熱狂家たち』刊行。12月、『新メルクーア』に「グリージャ」を発表。
1922年 春頃から、ハンガリーからの亡命者たち、とりわけ作家で映画批評家のバラージュ・ベーラや精神療法医ルカーチ・フーゴ博士と付き合う。ルカーチ・ジェルジュと知り合う。6月24日、ヴァルター・ラーテナウ暗殺される。ムージルは「文学の上では彼の敵の一人だった」が、暗殺に対する抗議には、参加するに吝かでない。8月30日、チャップリンの映画『チャップリンの勇敢』(『公序の番人』)を観る。11月14日、専門顧問として勤務している軍事省から、1923年2月かぎりで解雇する旨通告される。
1923年 2月末もしくは3月初め、『新小説』に「トンカ」を発表。3月16日より、『プラハ新聞』に(主に自然科学や工学に関する)エッセイを寄稿しはじめる。10月19日、デーブリーン、1923年度クライスト賞にロベルト・ムージルおよびヴィルヘルム・レーマンを選出。11月1日、母ヘルミーネの重病をきっかけとして「別の状態」を体験。11月17日、「ポルトガルの女」がローヴォルト出版社から刊行される。手刷りで200部。12月3日~5日、ベルリンにて茶番劇(ポッセ)『ヴィンツェンツ』初演。上演は連続30日におよぶ。
1924年 1月5日、三幕からなる茶番劇『ヴィンツェンツとお偉方の女友達』がローヴォルト出版社から刊行される。1月24日、「グリージャ」がポツダムのミュラー商会から刊行される。1月24日、母ヘルミーネ死去。2月28日、短編集『三人の女』がローヴォルト出版社から刊行される。以後ローヴォルト出版社はムージルの作品すべての版権を握ることになる。5月1日、5人の作家とともにウィーン市芸術賞を受賞。10月1日、父アルフレート死去。
1925年 芸術家団体「グループ1925」に加わる。
1926年 5月、訪問客のアルフレート・デーブリーン、ムージルの長編小説の原稿に自分の名前を書き込む。デーブリーンは冗談のつもりであったが、ムージルは原稿の持ち主が自分でなくなったような気になり、その後何カ月も長編小説の続きが書けなくなる。胆嚢の病が悪化、危険な状態に陥る。6月2日、胆嚢摘出の手術を受ける。12月29日、リルケ死去。追悼会開催の是非をめぐって、ベルリンの「グループ1925」内部に激しい議論が巻き起こる。ブレヒトは反対したが、ムージルは賛成し、ムージルの意見が通る。
1927年 1月16日、ベルリン、ルネサンス劇場で催されたリルケ追悼会にて講演。2月6日、ベルリンの「ラジオ講座」の連続放送番組「現代の名匠」に出演。『テルレス』、『熱狂家たち』、未刊の長編小説『特性のない男』からそれぞれ一部分を朗読(このとき『特性のない男』という表題が初めて公にされる)。2月14日、『リルケ追悼講演』刊行。4月20日、オーストリアで行われる選挙を前に、社会民主主義を支持する「ウィーン知識人の声明」に署名。秋から翌年春頃にかけて、重い執筆障害に陥り、長編小説の続きが書けなくなる。ルカーチ・フーゴ博士による治療が功を奏し、障害を克服。
1928年 1月、『新展望』に「黒つぐみ」が掲載される。4月8日、正式に『特性のない男』と名づけた長編小説を部分的に発表しはじめる。第八章にあたる「カカーニエン――断章」を『ターク』に発表。
1929年 4月3日、ヨー・レーアマンによって無断改変された『熱狂家たち』が初演され、大失敗に終わる。年末もしくは翌年初め頃、男娼についてリヒャルト・リンゼルトが行ったアンケートに「同性愛の蔓延を阻止することは……望ましいことだと思う。もっとも、この特殊な感じ方の道徳的価値は高く、たとえば……ジッドの『贋金つくり』において顕わにされているものである。わたしはこの価値をけっして否定しない」と回答。
1930年 11月6日、50歳の誕生日。オーストリアやドイツの新聞、さらにチェコスロヴァキアのドイツ語新聞に、かなりの数の祝辞が寄せられる。それにもかかわらず本人は、ほとんど完全に世間に無視された「悲しい誕生日」を迎えたと感じる。12月22日、ローヴォルト出版社から『テルレス』新版が刊行される。
1932年 9月半ば頃、ベルリン。経済状態が逼迫。美術史家クルト・グラーザーによる後援のもと、ムージル協会が設立される。同協会は銀行家クラウス・ピンクスとともに、およそ二万マルクを調達。しかし会員の大部分がユダヤ人であるため、同協会は1933年1月30日のヒトラーの政権掌握以降、散り散りに。12月19日、ローヴォルト出版社から『特性のない男』第二巻刊行。
1933年 5月21日頃、第三帝国を離れる。その後ウィーン。8月末から、ヘルマン・ブロッホに対して自分のエッセイを剽窃したと非難。ブロッホは誠実に対応し、ムージルの非難を退ける。
1934年 5月、ムージルの友人たち、「ムージル基金」設立を呼びかける。結果、約400シリングという下級公務員の月給程度の金額が、さしあたり一年間毎月支給されることに。12月16日、オーストリア・ドイツ語作家擁護連盟の設立20周年記念祭にて、「この時代の詩人」を講演。集団主義的国家に対し、個人を擁護。
1935年 6月末、パリで開催された「文化擁護のための国際作家会議」で講演。この催しの趣旨である人民戦線政策に抗して、文化はいずれの政党からの威嚇に対しても擁護されていることが望ましい、と主張。そのため、ボード・ウーゼから公然と非難される。その後、社会民主主義系、共産主義系の新聞から相次いで非難される。12月半ば、チューリヒのフマーニタス出版社から小品集『生前の遺稿』刊行。実売数、数百部。
1938年 3月13日、独墺合邦。ムージルの友人や知人のうち、多数のユダヤ人がオーストリアを去ったため、ムージル基金の経済基盤は崩壊。8月15日、チロルのランデックおよびフィンスターミュンツを経由して、スイスのヴルペラへ。9月2日、チューリッヒ。10月10日、『特性のない男』がドイツ国内全域で「禁書に指定された」旨、ウィーンのベルマン=フィッシャー出版社管財人から書状により通知される。
1939年 7月11日、ジュネーブに移る。
1940年 第三帝国がムージルの全作品タイトルを「1941年版 有害にして望ましからざる著作リスト」に載せる。
1942年 4月15日午後1時、ジュネーブ脳卒中に襲われ死去。
1946年 7月末、遺灰がマルタによってサレーヴの麓、「ジョン・レーフス通りからそう遠くない、ふたつの荒れた庭の境界に」撒かれる。骨壺はアルヴ川に投げ込まれた。

系譜[編集]

 
 
 
祖母
 
 
 
祖父
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
花子叔母
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太郎
 
ローベルト
 
 
 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ムージルはオーバー・エースターライヒの風土を愛し、後年その印象を回想している[1]
  2. ^ カール・コリーノはこのエピソードを『特性のない男』が未完に終わった事実と関連付けて考察している[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 「1:「まるで子供のうちに全部決まってしまったかのようだ」」コリーノ 2009, pp. 1–44
  2. ^ a b 「2.「現実からそれてゆくラインの始まり」」プフォールマン 2019, pp. 11–29
  3. ^ 「3:悪魔の尻の穴で――寄宿生時代」コリーノ 2009, pp. 89–121
  4. ^ F・ブライ『同時代人の肖像』法政大学出版局、1981年、P.147頁。 

参考文献[編集]

  • オリヴァー・プフォールマン 著、早坂七緒、高橋完治、渡辺幸子、満留伸一郎 訳『ローベルト・ムージル――可能性感覚の軌跡――』アスパラ、2019年。ISBN 978-4-901022-10-1 
  • カール・コリーノ 著、早坂七緒、北島玲子、赤司英一郎、堀田真紀子、渡辺幸子 訳『ムージル伝記 1』法政大学出版局、2009年。ISBN 978-4-588-00914-3