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利用者:伊勢志摩ライナー/あべのハルカス近鉄本店

近鉄百貨店の歴史

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大軌百貨店

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大軌社内では大軌ビルディングを建設した大正時代から、百貨店経営を行うべきだという声が上がっていた。当時の役員会でこれは拒否されたものの、昭和5,6年頃の苦境を脱出したころ、改めて百貨店の開設を決めた。 伝統的な百貨店として、三越大丸そごう髙島屋といった老舗百貨店に対し、新興の阪急百貨店が独自の様式で展開していたため、どちらをベースに展開するかという問題が上がった。

東横(現在の東急百貨店)や大鉄は開業前の準備期間に、阪急百貨店へ行って1年から1年半ほど実習を行った。しかし、大軌はそこまでの時間的余裕はなく、たまたま五島慶太が大軌監査役だった縁で東横百貨店へ1週間ほど社員を送り込んだ。東横の管理部門の責任者から色々教わり、役員会への提出資料が完成した。そこで、阪急のやり方を東横が学んだものをベースに、プロを呼んで肉付けする形となった。1935年(昭和10年)8月1日、創業準備事務所が発足して正式に百貨店事業への進出が始まった。そうして百貨店部は発足したが、職制が決まっていなかった。在阪の各百貨店を研究した結果、責任の明確化や顧客・銀行などへの対外的な立場として係長を置くことになった。係長は課長級なのでむやみに置けないと本社から反発されたが、なんとか係長制を導入した。

社員の募集は新人、中途共に実施した。職業紹介所、学校、ラジオ、新聞など各地で採用試験を告知した結果、昭和10年には100名ほどの応募が集まった。その中から、第三次試験で残った8名の研修を大丸神戸店に依頼して1か月ほど行った。また、百貨店の経験者が必要だとして、大軌の幹部が東京の三越白木屋デパートの社員を訪ねた結果、白木屋の社員を引き抜くことに成功した。ハード面では、昭和10年8月から、村野藤吾の設計・大林組による工事で、大軌ビルの改装を行った。この際、それまで入居していた三笠屋百貨店の退去に伴い、什器の一部は帳簿価格で引き取り、さらにその一部を使用することになった。

1936年(昭和11年)7月1日には1階と地階にある食料品売場の一部開店、9月26日には雑貨や呉服を含めた全館開店となった。この際、社内から公募した結果、広い意味でサービスに徹する経営方針を分かりやすく説明しているとして、自慢の百貨が標語として選ばれた。また、当時の大阪電気軌道および参宮急行電鉄沿線の各駅、大阪近郊の沿線へ無料配達を行った[注釈 1]

開店直後は活気があったものの、戦局の悪化につれて商品がなくなっていった。このため、社員の郷里から売れるものをかき集めることになり、石川県の山奥の荒物屋で調達したかごやわらじ、同県金沢市の蕪寿司などを必死に集めて販売した。やがて、5階を地方木材に貸し出し、4階以下も国策による売場供出を実施した。営業しているといえる状態ではなくなった[1]

大鉄百貨店

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大阪鉄道 (2代目)は兼営事業に注力し、藤井寺や恵我ノ荘における住宅開発、玉手山遊園地の運営を行っていた。さらに、藤井寺球場や専門店街「大鉄アーケード」の建設も計画していた。

大正15年4月に日用品市場「大鉄アーケード」がオープンした。大鉄は大阪阿部野橋駅建設用地として1000坪(3300平方メートル)ほどの土地を買収していていたが、建設の目途が立たなかった。このため、平屋の建物を同地に建設して41のテナントに貸し出すことになったものである。

周辺や沿線の住民に大歓迎されてにぎわい、拡張の必要性が高まっていた。昭和7年、大阪鉄道の社長に就任した佐竹三吾は当地への百貨店建設は有望であると考え、調査に着手。1934年7月、株式会社大鉄百貨店が設立された。東区(現・中央区)北久宝寺の寿ビルに開業事務所が置かれた。電鉄系百貨店が鉄道会社直営ではなく別会社方式を取ったのは初めてだが、当時の大鉄の資金繰りが厳しく、外部資金を投入しやすくするためであった。

猪飼久兵衛専務の要求で何度も設計が変更されたが、開業事務所と東京の久野建築事務所との往復が大変であった。大林組による施工が何度も延期され、1935年(昭和10年)7月にようやく着工した。

社員に関しては、同年4月には250人の応募の中から、25人の新入社員を採用した。6月から阪急百貨店髙島屋そごう[注釈 2]の各店に分かれて1年間の業務実習を行った。しかし、階長の店員監視を避けて店の外で主任に質問を行ったり、通勤に便利などの理由で受け入れ先の一部社員が大鉄百貨店への転籍を希望してしまい、引き抜きという形になったので実習先が激怒するなどの苦労があった。また、4月には矢田に城南女子商業専修学校(現在の城南学園高等学校)を設立して、卒業生は優先的に女子店員として採用する計画を立てた。世間から注目されるアイデアだったが、ごく一部の生徒しか入社せず、見込み違いとなった。

1937年(昭和12年)7月15日に地階、1階、2階の一部の800坪で部分開業した。全館工事施工中の事故防止のため、警察がなかなか許可しなかったうえ、開店前日には地階で水道管が破裂する騒ぎがあった。しかし、それらの困難を乗り切った。続いて、11月16日に全館開業した。大多数の客は大鉄沿線からだった。

全館開業の当日こそ、縄を張って時間制限制で入店する騒ぎだったが、以降は売上予算の2万円をクリアできず、苦戦していた。しかし、翌1938年(昭和13年)4月に梅田からの地下鉄御堂筋線天王寺駅に到達したことで、阿部野橋周辺が急激に発展し、1939年(昭和14年)7月の大阪朝日新聞で「大阪の新宿」と呼ばれるまでとなった[注釈 3]。売上も飛躍的に伸び、1939年2月期決算では初の配当まで出せるようになった。

好調な業績を基に、小松常務の主導で満州出店が計画され、中国語の教員免許を取った社員もいた。この満州出店は実現しなかったが、満州にアスパラガスの工場を建設し、アスパラガスの缶詰の輸入・販売を実施した。呉服や、サービス扱いでよいとされた食堂は赤字だったものの、雑貨、化粧品、菓子、食料品が当店のドル箱だった。

主な経営方針としてはターミナルデパートであり、地元住民のマーケットであることから、経費節減と実用百貨店に徹することであった。高級品から実用品まで並べたところ、実用品ばかりが売れるため、実用品販売を徹底し、「百貨」には拘らなかった。ただ、現場社員には老舗百貨店のように文化発信などに注力したいとの声もあった。

やがて戦時体制で売るものがなくなり、呉服の仕入れ先である秩父や足利では相手にされない、商品の配達人はに菓子を配って次の配達を頼むような状況に追い込まれた。そのため、親会社の大阪鉄道が1943年(昭和18年)2月に合併していた関西急行に、当社も合併することが決まった。1944年(昭和19年)4月に関西急行に合併して、「関急百貨店阿倍野店」となり、1972年(昭和47年)まで鉄道会社の一部門として営業することになった。6月には南海電気鉄道との合併で、近畿日本鉄道となった[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 大阪線三本松駅名古屋線(当時の津支線)桃園駅吉野線薬水駅をはじめとして、現在の伊賀鉄道(一時期は伊賀線)の西名張駅-美旗新田駅間の各駅と上林駅四十九駅桑町駅新居駅鍵屋辻駅近鉄山田線東松阪駅漕代駅斎宮駅は対象外だった。2023年現在、この中で西名張駅-美旗新田駅間の各駅や鍵屋辻駅は現存せず、三本松駅や桃園駅、薬水駅に関しても未だに周辺の駅より乗降客数が少ない。
  2. ^ 神戸阪急の前身となった百貨店で、現在は関西にはないが、大阪発祥。2009年まで心斎橋に大阪店→そごう心斎橋本店があったが、隣接する大丸心斎橋店や、後年にオープンした阪急・近鉄を下回る売上で赤字が続き、撤退した。
  3. ^ 当店隣接の新宿ごちそうビルの「新宿」とは、大阪の新宿にちなんで当地に建てられた旅館「新宿」のことである

出典

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  1. ^ (40年のあゆみ 1977, pp. 26–39)
  2. ^ (40年のあゆみ 1977, pp. 40–52)

参考文献

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  • 株式会社近鉄百貨店『40年のあゆみ』株式会社近鉄百貨店、1977年12月20日。