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天皇の公務負担問題[編集]

天皇の公務負担問題」 「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議天皇の公務負担軽減等に関する問題 天皇の公務負担問題(てんのうのふたんもんだい)は天皇公務国事行為公的行為等)の負担問題(主に高齢による)である。天皇の退位譲位)に対する議論でもある。

経緯[編集]

(前略) これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。 — 第125代今上天皇おことば宮内庁
歴代 読み 生年 御称号 践祚[1] 在位期間 続柄
第125代 明仁 あきひと 昭和8年(1933年)
12月23日(90歳)
つぐのみや
継宮
昭和64年(1989年)
1月7日
35年139日 第124代昭和天皇
第一皇男子

2016年平成28年)8月8日15時に日本で放送された、第125代今上天皇自らによるビデオ映像象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば)において高齢による公務負担を表明した。これを受け第97代内閣総理大臣安倍晋三は「本日今上天皇よりお言葉がありました。私としては今上天皇ご自身が国民に向けてご発言されたことを重く受け止めている。」と記者団にコメント。[2]9月23日、 内閣官房を事務局とする「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の開催を決定10月17日 、今上天皇が現在82歳(当時)と御高齢であることも踏まえ、公務の負担軽減等を図るため、天皇の公務の負担軽減等について、様々な専門家と意見交換を行う有識者会議第1回が開催された。[3]

天皇の公務・活動[編集]

[4]

天皇の公務は激務である。

天皇の公務について[編集]

  • 公的行為について世論がどうかは認識する必要はあるが、世襲という特殊性に鑑みて、柔軟に考えなければならない。[5]
  • 憲法によれば、国事行為ができていれば最低限天皇としてよいと読める。事実、摂政の規定も国事行為ができない場合の規定である。それ以外については記載されていないので国事行為の実行の是非が判断基準にならざるを得ない。[5]
  • 宮内庁で「公的行為」に関する例を検し、新基準を設けてから次代に継承すべき。[6]
  • 恒例である三大行幸や国家的・国際的な儀式・行事等以外は、ほかの成年皇族が可能な限り分担するべき。[6]
  • 皇室の役割は、国家の安寧と国民の幸福を守り、そのために祈るという形で長い歴史の中で定着していった。歴代天皇は、まず祭祀を最重要事と位置づけて、国家・国民のために神事を行っており、日本の中心に大祭主としての天皇がいた。この御負担を軽減するために、祭祀、次に国事行為、そのほかの御公務にそれぞれ優先順位を付けて、天皇でなければ果たせない役割を明確にし、そのほかのことは皇太子や秋篠宮に分担していただくような仕組みの構築が重要。 [7]
  • 現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ている。この優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で、天皇の日常の日程を整理し直すのが大事なのではないか[7]
  • 被災地方のことなど今上天皇は間口を広げられすぎたのではないか。災害の多発する日本で被災地すべてを慰問するのは不可能。慰問は極力辞めておことばだけで十分ではないか。[8]
  • 問題は、この「公的行為」が憲法に明記されたものではなく、その具体的内容や範囲が明確でないことである。それゆえ、公的行為がますます拡大している。本義に立ち返って、憲法が期待する「天皇の象徴としての役割」とは何かを再考すべき。[9]

論点[編集]

  • 世間は天皇のお歳と仕事に同情したが、法律的に許されるのかなど、詳しいことはよく突き詰めて考えていないのが実情ではないか。もし世間の同情に流されて特例法で対応するようなことがあれば、憲法違反にかなり近いのではないか。極めてよくない先例となり得る。[5]
  • 天皇家は続くことと祈るという聖なる役割に意味がある。それ以上の世俗のことを天皇の義務としての役割と考えるのはいかがなものか。[5]
  • 世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ちこむことになりかねず、皇室制度の維持は将来困難になる。 [5]
  • 適応障害の方はどうするか。
  • 国事行為の臨時代行に関する法律を活用して適宜負担軽減を図り、医学的に継続的な国事行為の遂行が困難と認められる状態になった場合は、摂政を設ければよいのではないか。それ以外の公的行為については、適宜ほかの皇族の方が代行すればよいのではないか[5]
  • 今回が先例になってしまうと、そこには能力主義の要素が入ってきてしまって血筋ということと少し違う要素が入ってくる。そうなると以後の天皇のあり方を制約することになりかねず、皇位を継いでいく方にいろいろな意味で負担になりかねないのではないか。例えば御持病とか障害を持っているので私はやめなければいけないかと思ってしまうというようなことで、例えば事実上の退位の強制のようなことが起きかねない。[5]
  • 大日本帝国憲法下の皇室典範に関して言えば、国民統合の手段として天皇を超越的な存在としたために上皇は不可だということになったので、これは現状の参考にはならないだろうというように思う。[5]
  • 三笠宮が指摘していることは、天皇に自由を認めないというのは奴隷的拘束であるというようなことを言っている。[10]
  • 天皇が言ったからということで動くと、これは憲法に抵触するで、政府としての独自の提案理由を持たなければならない。それと同じことけれども、憲法に国事行為の臨時代行の制度と摂政の設置が書き込まれてあるのに、これをあえて使わない合理的な説明があるのかという点。[11]
  • 国民の総意という文言については、現在の国民世論あるいは現在の国民代表である国会議員の意思ととってはならない。憲法2条の規定などを総合すると、国民の総意とは歴史的なもっと言えば過去、現在、未来の国民の意思、すなわち伝統だと位置づけ、理解をせざるを得ない。したがって、国民世論に左右されてはならない。あるいは国民世論に左右されると決定的な瑕疵を残してしまう。[11]

天皇の終身在位[編集]

  • 天皇の終身在位は明治の初めに皇位継承の原則として採用されて、今日まで来た。これは過去の長い歴史を反省してそのような弊害をなくすために採用したわけで、[12]たとえ幾つになったとしても、存在することが大事である。[13]
  • なぜ終身在位ということが明治になって定められたか、ほとんど学校の教育でも教えられていないし、メディアもそのことについて説明しているものはあまりない。国民の世論あるいは心情という点を言えば、確かに世論調査では8割以上に達しているかもしれないがこれに流されていいのか。[12]
  • 終身天皇がよい一番大きな理由は、安定性を求めるところにある。過去の事例を見ますと、譲位が政治的に利用されてきたことが多々ある。現在、我が国はそのようなことはないと多くの人が思っているが、国というものはどのような国際状況になるかわからない。日本国として大事なことは、日本国の基本的な形を安定した形で維持することであり続けていくことである。[7]
  • 昭和天皇は最後まで天皇として存在し続けた。[7]

課題[編集]

  • 天皇の崩御継承あるいは終身在位というのは残酷な制度。国民も病状の推移に一喜一憂し、津々浦々まで自粛の波が覆って国民生活にも少なからぬ影響が続く。[14]

現行制度のまま[編集]

  • 現行制度なくなられたら次の第1位の方が継ぐということで、皇位継承に関する不安定要因が全くない。または現行制度でも天皇の公務負担の軽減というのは可能である。[5]
  • 天皇の問題について国論が一致せず、あるいは与野党が一致せずの場合、近代憲政史上では極めて遺憾な処理が行われまして、それが歴史に禍根を残した。なので与野党一致するまで見送りが相当ではないか。たとえ天皇の切望といえども政府が無条件に対応するような問題ではない。[8]
  • 野党が足を引っ張り政争の具にする可能性が高い。 [8]
  • できるだけ引き延ばして、今の程度なら何もせずにもう1~2年様子を見る。今上天皇が自分で御自覚しておられるほど、天皇は心身にはそんなに異常を来しておられるようには思えない。[8]
  • 我が国の伝統的な統治形態は「君民共治」であり、天皇個人の意向によって政治が左右されるものではない。「承詔必謹」という場合の「詔」とは、正当な手続を経てオーソライズされた国家意思のことであり、天皇個人の思いではない。さらに、移ろいやすいその時々の世論に流されたりしてはならない。[11]

公務量の見直し[編集]

  • 公務のうち、国事行為は憲法で規定された天皇の職務なので維持されるべき。それ以外の公的行為は義務ではないので、天皇の年齢や健康状態により、減らしたり、取りやめたり、ほかの皇族が代行することが可能。 なお、国事行為以外の公的行為の質や量については、皇位継承の安定性を考えると、個々の天皇のお人柄とか健康状態に応じて範囲が定められるべきであって、その判断は現状どおり、最終的には内閣の助言と承認によるべき。[5]
  • 一応総量を規制して、その範囲でできることをやる。例えば何年かおきにやってもいいとか柔軟な形がとれると思うので、総量規制した上でその中でできる範囲でやっていくというほうが長続きするのではないか。[5]
  • 個々人の天皇の状況・体調に応じてその時その時に変えれば良い[5]
  • 公務を減らすことで国民の税負担も軽減される。こういった形で今上天皇に説明すれば理解を得やすいのではないだろうか。[15]
  • 訪問先あるいは行事の主催者の意向によって天皇ではなく皇族方に依頼していただくという方向に変えていくべき。[15]
  • 我が国は地震、台風、集中豪雨等に見舞われる機会は非常に多い。また、各種の大会も以前と比べてかなり御出席いただくケースが増えているように思う。から、御公務の範囲、御負担を縮小するということが考えられるとしたら何があるかと言われると、この辺が検討対象となり得るのではないか。[16]
  • 現在の御公務は今の天皇夫妻がずっと築き上げてこられた。それは御自負のとおりだと思うが、それは天皇一代限りのこととして考えるしかないのではないか。それと、間口を広げられすぎたのは過宮内庁のお役人の怠慢である。 [8]
  • 憲法上の公務として国事行為については、その全てを天皇がみずから行う必要がない。文書への署名というようなものは自分で書く以外ないと思うが、それ以外の単なる儀礼的な行為は大幅に削減できるのではないか。[17]
  • 今上天皇のお考えを尊重すべきであり、その軽減が強制となるようなこととなってはいけない。軽減の内容、つまり、御公務の軽減の内容がお気持ちにかなうのであれば軽減を図るべきであり、軽減すべきでないということはない。[18]

課題[編集]

  • 宮内庁もこれまで何度も天皇の公務削減を提案したが、天皇は難色を示されてた。象徴としての責任感によるもので、今後、削減したり途切れさせたりするべきではないという考えなのではないか。[14]
  • 関係者の間で調整して、それまでスキーム化して、これは切りましょう、あれは切りましょうとどこかの主体が、行政なりあるいは政府なり国会がスキームを作るというのはものすごく難しいのではないか。[14]

臨時代行制度[編集]

国事行為の臨時代行に関する法律
第一条  
日本国憲法第4条第2項の規定に基づく天皇国事に関する行為の委任による臨時代行については、この法律の定めるところによる。
第二条  
天皇は、精神若しくは身体の疾患又は事故があるときは、摂政を置くべき場合を除き、内閣の助言と承認により、国事に関する行為を皇室典範 (昭和二十二年法律第三号)第十七条 の規定により摂政となる順位にあたる皇族に委任して臨時に代行させることができる。
  • 当面の天皇の負担軽減策として、時期あるいは項目を限って活用することなどが可能。 [5]
  • 「国事行為の臨時代行に関する法律」の第2条で、「天皇は、精神若しくは身体の疾患又は事故」というところに「高齢」という文言を入れる。そのときは国事行為の「臨時」という文言を削除する[12]
  • これは御高齢の天皇の代行としてはふさわしい。この規定をあるいは拡大して、公的行為にとりましてもこの規定を拡大して御老齢の代行措置として対応したらいいのではないか。[8]
  • 天皇がみずから行う必要がある国事行為の負担が過重であるということが判明した場合には、国事行為の一部を臨時代行に委任するということは可能であろうと思いる。高齢により全てをみずから行えなくなったことを国事行為の臨時代行に関する法律の第2条1項で言っている「事故」に読み込むということは解釈上可能。[17]

課題[編集]

  • 論理的に考えると、象徴としての行為は象徴としての地位に伴って行われる行為である。したがって、理論的には象徴行為の委任ということはあり得ない。 国事行為の場合には委任はできるが、象徴行為の委任というのは理論的には不可能。それを支えるような活動をすることはあるかもしれないが、 象徴としての行為として他の方々がされることは理論的にはできない。[9]
  • 摂政や臨時代行が置かれる期間が数カ月間から数年間の短い期間であり、また、天皇がいずれ復帰されるということを前提として設置されるのであれば、天皇の権威が損なわれるものではない。ただ、御高齢により摂政や臨時代行を置くことになる場合、天皇が国事行為に復帰されることは想定されおらず、また、設置期間も崩御までの長期にわたることが想定され、どなたが象徴かわかりにくくなるなど、天皇の権威が低下するおそれがある。[18]

摂政[編集]

日本国憲法第4条第二項
天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
同第5条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
皇室典範第十六条  
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く
(前略)天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられる。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはない。 — 第125代今上天皇おことば宮内庁
  • 退位せずとも高齢化の問題への対処は摂政でできるはずで、もしご高齢を天皇の責務免除の条件として認めるのであれば、それで問題はすむ。皇室典範の摂政設置要件「天皇が精神、身体の重患、重大な事故により」の中に「高齢により国事行為ができない場合」を加えるか、あるいは解釈を拡大、緩和して摂政を置かれるのがよい。[5]
  • 皇室典範第16条を「精神若しくは身体の重患ないし重大な事故又は高齢により、国事に関する行為をみずからできないときは、摂政を置く」と改正する。つまり、摂政を置くことによって、いわば御存在ということから来る天皇の象徴としてのありようを支えることになるのではないか。[12]
  • 皇室典範どおりに天皇は年号も変えずにそのまま宮中にとどまってになってお祈りをし、皇太子殿下が摂政になるのが一番いい。 [19]
  • わざわざ伊藤博文たちが王位継承権のある皇族の中から摂政を選べと言ったのは、藤原氏みたいな者と摂政が宮中の祭儀を行えないからである。王位継承権のある方ならば代理してもおかしくない。昭和天皇が摂政を言われなかったのは「お休みになっても大丈夫よ」と申し上げる方が脇にいなかっただけの話である。[19]
  • 摂政と天皇で国民の目で象徴天皇はどちらだという危惧が起こるという説については今上天皇の名前が残る上、年号もそのままであり、今上天皇は今、皇室の中で国民と国のためにお祈り続けているから問題ない。[19]
  • 皇室典範第16条2項に「又は御高齢」という五つの文字を加えることでそれは可能になる。[7]
  • 天皇はこれを摂政ではだめなのと言っていたがなぜだめなのか誰か直接聞くべき。摂政制度を活用することで、祭祀に関しても国事行為に関しても御公務に関しても、負担は減る。また次の世代の天皇皇后両天皇としての心構えを体得していくことも可能。[7]
  • 摂政という形であったとしても、御負担が軽減されてもっとお心安らかにゆったりとお過ごしになれる環境が整えば、どうしても譲位する必要はない。[7]
  • 摂政や臨時代行は象徴ではないから、象徴的行為を行い得ない。しかし、それが天皇のあるべき姿だというのは、憲法の要請するところではない。現在の天皇の抱いている天皇の理想像で将来の天皇の考えを縛ることは好ましいことではない。非国事行為はその時々の天皇がみずからの責任により決定して行うべき。[17]

課題[編集]

  • 大正10年11月、大正天皇は数年前から国会開会にあたってのお言葉が読めなくなるなど病状が悪化してため皇太子である裕仁親王(昭和天皇)が20歳で摂政に就いた。ただ、天皇の側近の日記には、侍従長が皇室会議の決定を報告し、天皇が書類の裁可に使う印籠を引き取ろうとすると、大正天皇がこれを拒否したことが記されている。さらに大正天皇は侍従長の退室後、侍従武官長に「侍従長がここにあった印を持ち去ってしまった」と訴えたという。昭和天皇は約5年間、摂政を務められたが、父の政務を奪ったという自責の念を感じていたとの指摘もある。昭和天皇は昭和63年9月に大量吐血されて重体となったが、翌年1月の崩御まで摂政は置かなかった。参与会議に出席した元宮内庁参与の三谷太一郎氏は「天皇は大正天皇の例は望ましくないとの考えで、その悲運に同情的であられた」と振り返る。[20]
  • 一部報道では、裕仁天皇が皇太子殿下であられた大正10年、摂政となられた状況を昭和天皇も快くみておられず、今の天皇様は皇太子としてそのことを聞きしっていたからという理由を漏れうかがった。大正天皇とその周辺と摂政の宮とその周辺との関係が必ずしもよくなかった。今上天皇がそれを危惧されてるのが事実だとして、しかし、だからといって天皇のそのような個人的なお気持ちを現行の法律より優先して良いことだろうか。[21]
  • そもそも今の天皇がさらにご高齢になられ、新たに特別立法その他で譲位を認め上皇となられる場合も、摂政の宮を置かれる場合と、はたしてその二つから生まれる結果に違いはあるのか。[21]
  • 上皇とその周辺と新天皇とその周辺との関係が摂政設置の場合の人間関係より良く行くかといえばその保証はない。[21]
  • 皇室典範の条文にある趣旨から考えて、高齢という理由だけで設置するのは難しいのではないか。しかし、医学的に国事行為の遂行が困難と判断されるような状態になった場合には設置できるのではないか。[5]
  • 摂政宮を置くときの病状報告が宮内省から発表されているがこれは客観的に今、私たちが読んでもかなりひどい。摂政宮を置くために天皇その人の健康状態がすぐれないということをメッセージとして国民に伝えるときの、いわゆる常識の枠というのを逸脱しているのではないかというような形で説得が行われた。[10]
  • 摂政という立場で天皇の国事行為の天皇の政務を代行して、ただ判を押すマシーンなのか。あるいは摂政自身が意思を持った摂政自身の国事行為なのか。それは法的な解釈が分かれるところで、摂政の位置づけというのは、 性格づけというのはかなり微妙な問題があるし、難しい。[10]
  • 摂政宮を置くために、摂政の性格が曖昧なために機能しない面がある。[10]
  • 終身在位を帝王学の骨子と習った昭和天皇にとって、摂政を置く、あるいは政務代行というのは耐えられないほどの苦しさだったのだと思う。それを今上天皇は実態的に実見している、見ているということが言えるのではないか。[10]
  • 人道的視点で見た場合のこういった問題点というのは、天皇その人にとってみれば、その人しかわからない心理、その人しか心の底にある感情はわからないわけだから、その人たちの気持ちというものを忖度するのは私たちには限界がある。ゆえに、 摂政を置くとするならば、もっと天皇御自身の意思あるいは歴史的な検証、特に近代日本、そういうものを緻密に行う必要がある。[10]
  • 少なくとも古代末期からは、武家政権の時代を含めて、 摂関政治だとか院政といった変則的な政体がもたらして政治に混乱を与え、あるいは南北朝時代のように戦乱まで巻き起こしたこともある。過去124回の皇位継承のうちに譲位は57回から46%。 明治になってそれが反省されて、明治憲法においては、要するに天皇が崩御されるということのみを皇位継承の原因とした。それは現憲法下における皇室典範でも、生前退位を認めずに皇位継承の原因を崩御に限ったという意味では、明治において過去の弊害に鑑みて一つの原則を立てたということの意義は大変大きいものがある[12]
  • 摂政は不可。 重患に陥った天皇の尊厳が傷ついた、大正天皇の例が思い浮かぶ。 皇族摂政は、聖徳太子、中大兄皇子、草壁皇子の3人だけで、昭和天皇まで1200年以上皆無。 摂政は象徴ではない。活動も不完全になる。中途半端な立場で本人も周りも苦労される。昭和天皇も苦労されたと聞いている。 祭祀の核心部分は、摂政はできない。とりわけ新嘗祭がそうだと言う。 機能停止した天皇と摂政の並立でも「象徴の二重性」は弊害があるのではないか。 超高齢化社会で天皇・皇族も御長命の時代である。三笠宮100歳、香淳皇后97歳、高松宮妃92歳、昭和天皇87歳、秩父宮妃85歳。摂政が長引けば皇室の機能不全が深刻化するおそれがある。[14]
  • 現行の憲法・典範でも摂政は「象徴」ではない。主に天皇の意思能力がほとん失われたときに置かれるもので、機能を失った象徴と摂政宮が併存する状態が続くことになる。それに、摂政を置くためには大正天皇のときのように容赦ない病状悪化の発表は避けられず、御本人の人間としての尊厳にかかわる事態となる。 摂政は法的にも国事行為は代行できても、天皇の意思に基づく公的行為がそのまま直ちにできるというわけではない。伝統至上主義の立場からは「天皇は祈りを捧げておられるだけでいい」「機能を失われても御存在自体が重要」との考えもあるかもしれない。しかし、超高齢化時代となって、天皇の伝統の中核とされている新嘗祭が不完全なまま長年月経過すること、天皇と摂政の「象徴の二重性」が出来することも考慮に入れるべきではないか。[14]
  • 摂政はあくまで王権の代行的措置として古くから位置づけられていた。飛鳥、奈良時代は中継ぎ女帝のときは摂政を必ず置いた。その摂政は皇族、皇太子摂政であり皇太子摂政というように言うが、平安時代では摂政は10歳以前の幼い幼帝と病中の天皇のときに置かれる。これは准摂政というようにしているが、誰がなるのかというと太政大臣クラスの重臣。平安時代から人臣摂政になるが、それ以前は皇族摂政。御老齢ゆえの摂政というのは歴史上例がない。[8]
  • 摂政を置くケースとして「御高齢のとき」を加えることは無理がある。なぜならば、憲法が「摂政」のほかに「国事行為の代行」を定めた意味を考えると、「国事行為の委任」は「天皇の御意思がはっきりしている場合」「摂政の場合は、天皇の御意思がむしろほとんどおありにならないような場合」というように根本的な違いがあるというのが従来の政府解釈だからである。 それゆえ、たとえ御高齢になられても、天皇の御意思がはっきりしている場合に摂政を置くことは、本来の趣旨と矛盾する可能性がある。[9]
  • もし天皇の御意思がはっきりしている状態で摂政が置かれ、天皇が御公務から離れられた場合には、国事行為の臨時代行と違って、長期間にわたる可能性も高く、「国民統合の象徴」が事実上分裂するおそれがある。[9]
  • 昭和天皇実録でも拝見したが、なかなか摂政としてのお立場と皇太子としてのお立場というのは切り分けがなかなか難しいようである。そういう難しさを長く続けていくというのは相当問題があるのではないか。[22]
  • 摂政を置くということは、皇室典範16条の解釈としては無理ではないか。皇室典範は摂政を置くかどうかを天皇の意向とは無関係に皇室会議で決定するということを想定しており、天皇がどの程度国事行為を行い得るかをみずから判断し得るというような場合は想定していないと解される。ゆえに、天皇の意向に基づいて摂政を置くことができるというようにするためには、皇室典範の改正が必要。憲法5条はそういう皇室典範の改正をすることは禁止していない。 [17]
  • 特に外国との関係で、摂政や臨時代行では例えば今上天皇が全く御活動をできないわけではないような場合に、国賓への対応を摂政などがなさるのは、 相手国の受け止め方などがやはり天皇による御接遇の場合とは違うのではないかと考えられる。また、外国御訪問も天皇の場合と摂政の場合とでは相手国の対応や印象が異なるのではないか。[18]
摂政・国事行為代行資格者[編集]
2021年(令和3年)12月1日現在
日本における摂政就任資格者[摂政就任順位 1]
順位 名・身位 生年月日 性別 備考 皇位継承
順位
1 秋篠宮文仁親王
 (皇嗣)
1965年昭和40年)11月30日(58歳) 男性 皇室典範第17条1項1号
皇嗣
1
2 常陸宮正仁親王 1935年(昭和10年)11月28日(88歳) 男性 皇室典範第17条1項2号
親王及び
3
3 皇后雅子 1963年(昭和38年)12月9日(60歳) 女性 皇室典範第17条1項3号
皇后
4 上皇后美智子 1934年(昭和9年)10月20日(89歳) 女性 皇室典範第17条1項4号
上皇后
5 愛子内親王 2001年(平成13年)12月1日(22歳) 女性 皇室典範第17条1項6号
内親王及び女王
6 佳子内親王 1994年(平成6年)12月29日(29歳) 女性
7 彬子女王 1981年(昭和56年)12月20日(42歳) 女性
8 瑶子女王 1983年(昭和58年)10月25日(40歳) 女性
9 承子女王 1986年(昭和61年)3月8日(38歳) 女性

脚注

  1. ^ 摂政 - 宮内庁”. 宮内庁. 2019年9月15日閲覧。
  2. ^ 皇室典範第17条1項柱書
  3. ^ 悠仁親王の成人は、2024年令和6年)9月6日(2004年/平成16年4月1日以降の生まれのため18歳の誕生日)の予定である。
    なお、2022年(令和4年)4月1日に施行された成人年齢引き下げは皇族にも適用される。

退位(譲位)[編集]

皇室典範第四條  
天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
  • 天皇は世襲の身分と象徴の役割を代々継承される至高の存在であるから、「国事行為」も「公的行為」も「祭祀行為」も自ら担当できる体力・気力・能力を有する皇嗣、つまり皇位の継承者が確実におられなければ、安定的に続くはずがない。[6]
  • 「生前退位」表現はよくなく、一般的な「生前退位」であれば、かつてあったような弊害も心配される。しかしながら、今上天皇が提示しているのは、御自身の高齢化を理由とする個別的な「高齢譲位」であるから、余計なことを心配する必要がない。むしろ、それによって天皇の地位と象徴の役割を次の世代に譲り渡し、代々継承していける可能性を開くことができる。[6]
  • 今回は御高齢を唯一の理由として譲位の意思を表明されたのから、過去にあったような譲位に伴ういろいろな弊害というものは一切ありえない。[6]
  • 譲位により上皇や院政の弊害が生じるとか、恣意的、強制的な退位があり得るといった心配は国民主権下でのコンパクトな象徴天皇制が定着し、高度な情報化社会が進んだ現代では考えにくい。皇位継承候補者が数多くいて、院を含め大勢の皇族、公家集団がそれぞれに荘園などの経済力を保持し、武力集団、寺社勢力との関係も絡んで権力闘争が起きやすかった時代のような不安定化は杞憂。[14]
  • 後期高齢者くらいで線を引いた後、これを超えてなおかつ御活動にさまざまな支障に直面されたのを踏まえて、天皇のお気持ちを相談しつつ皇室会議の側から発議するというようなやり方しかないのではないか。[14]
  • ヨーロッパの王室を見ても、引退されたクイーンなりキングが影響力を発揮して二重性が生じているなどという例はあまり聞いたことがない。[14]
  • 退位か否かの最終的な認定は第三者機関というか、皇室問題について責任を持っている皇室典範の規定による皇室会議が医師その他の専門の知識を有する人の意見を聞いた上で、その要件に合致するかどうかの認定を行うということにすべきではないか。[16]
  • いつから退位をするかについては、法律等で定められる要件を満たしているかどうかを皇室会議が認定する。さらに、天皇の御退位の意思を皇室会議のほうで御確認して、そのことを内閣に通告する。これを受けて内閣が必要な措置を講ずる。[16]
  • 摂政制度はしょせん天皇の国事行為その他を代わって行われるという制度だから、受ける側とすると天皇自身、天皇自身の対応と少し違った受け止め方をされるのではないか。だから、所詮天皇の代理という受け取り方にならざるを得ない。もし天皇としての国事行為はもちろん、公的行為も新天皇に引き継がれるのであれば、全ての行事を新天皇がしたほうが国民の立場からもわかりがいいのではないか。[16]
  • 天皇自身に高齢を理由とした退位の意思があることを皇室会議で確認し「内閣の助言と承認」を要件とすれば良い。[23]
  • 皇位継承の安定性確保のためには避けたほうがよい。しかし、皇位継承の安定性が多少とも損なわれる可能性を承知の上で、国民の意志として、天皇の意向である生前退位を認めるのであれば、それを否定すべき理由はない。ただし、その場合は、有識者会議が国民に必要な情報提供を行った上での世論の動向が判断の根拠となるべき。[5]
  • まず日本の史上、退位ないし譲位の実例が多々ある。飛鳥時代から江戸時代までは、むしろそれが一般的であった。しかし、明治の皇室典範は、井上毅らの作成した草案に、終身在位を原則としながら、譲位も容認する但し書きをつけていたが、総理大臣の伊藤博文が、退位による過去の弊害を強調し、削除させてしまった。しかしながら、明治の中ごろはもちろん、終戦直後の70年前でも、現在のような超高齢化社会の到来を予想することは、ほとんど不可能だったかと思われる。[6]
  • 譲位の導入は、その時々の天皇が考える多様な象徴観にかなった皇位の継承のあり方に対応できるよう、選択の幅を広げようとするためのものである。新天皇や後代の天皇は、御自身の象徴観により、その具体的なあり方を考えになると思われ、多義的な内容を持つ象徴について、その時々の天皇のお考えに沿った象徴の姿を描くことができるようにするために譲位を導入することは意義があるということになる。[18]
  • 現行制度のほうが、多岐にわたる象徴像に対応できない仕組みとなっている。[18]
  • 代替わりにあたっては譲位の儀式も行われると思われ、また、即位の礼や大嘗祭など、さまざまな儀式を通して天皇の地位やそれに伴う権威が前天皇から新天皇に移ることとなり、象徴の二重化、権威の二元化ということが避けられないということはないと考える。[18]
  • 御高齢や御体調といった譲位の客観的な要件を満たしていることを前提とした上で、一つ、天皇が譲位の意思や譲位の時期を表明することによって、その時点での政治状況を勘案して、政治的な影響を及ぼすことがないことを内閣が確認し、承認することとする。天皇御本人の意思による譲位であって、政治的な背景により強制譲位でないことが明確となるよう、天皇が譲位を希望することを表明する。こうした一連の手順を踏んだ後に譲位について国会の同意を得ることを要件とすることなどが考えられる。[18]
  • 譲位については、恣意的な譲位を回避できるような仕組みをつくるべき。例えば天皇よりお若い皇位継承資格者がいる中で、天皇が御高齢となり、譲位の意思を持つ場合に譲位ができるような仕組みであれば、皇位継承に支障はない。[18]
  • 一方的に言うのではなくて、しかるべき地位にある人が天皇に直接会う。そこでよく意思を確認して、それを内閣へ持ち帰って協議をする。法律の中にそういう規定を設けて、天皇の意思を確かめる規定を置く。[18]
  • 今上天皇御自身が、ただ在位をしているだけで全く自分の意思も何も伝えられなくなるような状態というのは必ずある。なるべくならとにかく御健康で、しかも御高齢で御自分の意思でそういうことを言うようなときに言っていほうが、はたから見てどうにも仕方のない状態になるから、もう強制的に譲位させるというような甚だ悲惨な状態になるようなことのないように、やはり高齢化社会と天皇制というものについて、基本的に医学的な見地から、政治的な見地から十分検討されることが必要[18]
  • 直近で譲位されたのは1817年の第119代光格天皇であり、 これまで58方が譲位をされており、このうち上皇となられたのは55方であ ること、譲位の年齢を見ると、30歳未満は全体の43%、40歳未満は全体 の71%、50歳を超えて譲位された例は6方しかおらず、圧倒的に若いうちに譲位されていること、上皇が実質的に政務をとった院政期は11世紀後期か ら13世紀前期までのわずか4代であり、年数にすると150年足らずという 限られた期間であり、歴史全体を見て、上皇がいるからといって常に弊害が生じていたということではないこと、また、この限られた期間についても、当時 は天皇や上皇に政治権力があった時代のことであり、現行憲法下でこうした弊害が出ることは考えられないことについて補足説明があった。上皇が権力をふるった白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の時代は、そのために上皇 になったわけであり、詔勅とは違う形で院宣を出し、院庁をつくるという、最 初から実質的な権力をつくる意図があったわけだから、そのことを現代の憲法 の下で機能している象徴天皇制と結びつけていくのは、歴史解釈上相当な飛躍 があると思うので、現在の時点では問題にならないのではないか。[24]
  • 前近代における譲位というのは、多くの場合、天皇の位の継承を意識的にコントロールしていく。自分が元気なうちにぜひ自分の目当ての後継者に譲っていくという継承関係をコントロールしたいという意識によって行われてきたもので、「治天の君」と呼ばれる政権を握っている院、上皇にとって、より望ましい将来的見通しを確保するために行われてきたもの。また、譲位した天皇の位置づけは天皇に準ずる存在とみなされていて、潜在的には天皇と同等の政治的権利を持つと認識されていた。 そのような経緯があるので、前近代の譲位は非常に政治的な行為と言ってよい。だから、明治時代に作られた皇室典範が譲位の可能性を排したという判断には一定の意義があった。。ただし、今日の制度では天皇の地位はあくまで象徴であって、継承順位もあらかじめきっちり定められているので、ここに政治的な操作が入り込む恐れは少ないのではないか。[25]
  • 「天皇の退位」の判断の責任は、皇室会議ではなく、最終的には政府や国会が負うべきではないか。さらに、三権の長や天皇の親族である皇族によって構成される皇室会議に、「天皇の退位」の判断という国政に関する包括的な権能を付与することは、三権分立の原則や天皇の国政関与禁止を定める憲法の趣旨に鑑み、不適当なのではないか。[26]

課題[編集]

  • 源氏物語を読んでも、譲位しても仕事は減るが、さほど自由になれるものではない。元天皇であった方には、その権威と格式が伴いる。そのために皇室が二派に割れるとか勢力争いが起きやすくなる。そうなると、配偶者の一族とかその方の実家、その人が属している省庁とか企業とかの政治介入や影響も無視できなくなる。企業でも社長が会長職に退いても次の社長と問題が生じる場合がままあるのと同じ。元天皇は一般市民になることはできない。しかし、たとえ仕事ができなくなったり、出歩くことの難しくなられた天皇が在位のままゆったりと暮らし、お住まいの中で「とこしへに民やすかれと」と祈ってもらうのが有り難い。天皇と国民の相互の信頼と敬愛は変わらない。[5]
  • 平成4年4月7日の参院内閣委員会の宮尾宮内庁次長の答弁を紹介すると、要するに退位は否定する。その理由として次の三つを挙げる。まず歴史上いろいろな弊害があった。上皇・法皇の存在。二つ目は、必ずしも天皇の自由意思に基づかない退位の強制 があり得る。3番目は、恣意的な退位は現在の象徴天皇、つまり、国民の総意に基づいて 天皇の地位が法的に基礎づけられている、そういう象徴天皇にそぐわない。これが政府の 答弁として一貫してきている。もう一つつけ加えるのは、論理的に退位を認めるならば相対的に不就位の自由も認めなければ首尾一貫しないが、当時の皇室典範の審議の中で不就位の自由を主張した者は一人もいない。血統による地位の継承において不就位の自由を肯定したならば、その確認のために空位あるいは不安定な摂位という事態が生じ、そもそも天皇制度の基礎を根底から揺り動かされることになる。[12]
  • 戦後、日本の良識のある方と言う有名な大学の学長、最高裁判所の長官、あるいは有名な保守思想の人まで、今上天皇は敗戦の責任あるいは戦争の責任を負われて退任したほうが皇室のためにはいいのではないかということを実際新聞とか何かにも言っていた。ところが、昭和天皇は、明治天皇が決めた皇室典範どおり絶対に譲位するとは言わなかった。歴史を振り返ったときに、戦前も戦中も戦後も元首であった天皇が変わらなかったということは日本の統一に大きな傷はつかなかったということになり、非常に日本の自信の元になっている。[19]
  • 世論の87%が退位を支持するといってもいかに重大なる結果をもたらすかは普通の国民は考えが及ばない。[19]
  • 特例法の制定であろうと、皇室典範の改正であろうと、退位の制度化はすべき。天皇と前天皇が共存することで国民の混乱を招きかねず、憲法が定める象徴としての国民統合の機能が低下するおそれがある。天皇の制度そのものが不安定になってしまう懸念がある。安易な退位の制度化は法律全体の体系性を損ないかねない。[15]
  • 歴史を振り返れば、譲位はたびたび政治的に利用されてきた。そのようなことは現時点の日本では考えられないと多くの人が言うが、考えられなくとも、100年先、200年先にはどうだろうか。国のあり方については、長い長い先までの安定を念頭に置いて、あらゆる可能性を考慮して、万全を期すことが大事。目の前の状況や視点に過度な影響を受けることは回避すべき。[7]
  • 平安時代に入って日本では太上天皇のほうが現役の天皇よりも圧倒的に権威と権力が移っているということがあった。この点で日本には独特の伝統があり、それを踏まえた象徴天皇であるので、そういうことを考えずに今のまま前天皇というような扱いを作ると、国民の目がどちらに向くか。それは新天皇ではなくて退位された前天皇のほうに向く可能性がある。そうなると権威の分裂ということがあり得る。これはゆゆしき事態であるとともに、天皇の権威自体をおとしめることにもなりかねない。[8]
  • 今上天皇の退位そのものに反対であり、このままの在位を望む。 現行の憲法・皇室典範は、天皇の御生前での退位を積極的に排除している。 自由意思による退位容認は、次代の即位拒否と即位後短期間での退位を容認することになり、皇位の安定性を一気に揺るがし、皇室制度の存立を危うくする。退位は、明治以降封印してきたパンドラの箱を開け、さまざまな困難な問題を生じさせる。[11]
  • 退位を実現させるとしても、憲法が規定する国事行為の委任、臨時代行や摂政設置をあえて採用しない合理的説明が困難である。 退位を実現するための皇室典範改正や特別措置法の政府としての提案理由がない。 合理的説明ができず、提案理由が明確でない法律によって退位を実現すれば、憲法上の瑕疵が生じ、同時に、次代の天皇の即位にも憲法上の瑕疵が生ずる。 皇位の正統性に憲法上の疑義を生じさせるような事態を招いてはならない。 この件は、すぐれて国家の制度の問題であり、制度を維持・存続・安定化させるためにどのような措置が必要かという冷静な検討がなされなければならない。 今上天皇の御意向に寄り添うことが、我が国建国以来の制度を毀損し、結果として天皇を傷つけることになる可能性も視野に入れる必要がある。 事柄の性質からして、国民を対立させたり、与野党の政争の具にすることは避けなければならない。[11]
  • 公務ができてこそ天皇という理解は、「存在」よりも「機能」を重視したもので、天皇の能力評価につながり、皇位の安定性を脅かすということである。[11]
  • 政府としての合理的説明ができないならば、 憲法上瑕疵のある退位となり、次代の天皇の即位にも憲法上瑕疵が生じ、天皇の正統性に問題ありとなる。 他の問題であればともかく、皇位の正統性に憲法上の疑義を生じさせてはならない。 そうなれば、取り返しのつかない事態となる。 さらに、退位後の御活動によっては、国民統合の象徴の二元性を招き、国民を分裂・対立させる。場合によっては、次の天皇から国民の心が離れ、敬愛の対象たり得なくなる可能性がある。[11]
  • 天皇が政治的権能を有しない現行憲法下では、そのような弊害は少ないかもしれない。しかし、天皇の権威を利用すべく、恣意的に天皇を退位させたり、即位させたりしようとする者が出てくるおそれはある。 さらに、譲位制度を採用した場合には、「国民統合の象徴」に分裂を招きかねない。譲位制度の下、先帝と新帝が同時に存在することになれば、先帝を慕う国民と新帝を支持する国民に微妙な心理的溝が生じ、「国民統合の象徴」が分裂してしまわないか懸念される。[9]
  • 皇室典範とは別の独立した法律を制定して譲位を認める方法についてが、このような法律は、憲法2条に違反すると思われる。 なぜなら、同条では「皇位は(略)皇室典範の定めるところにより、これを継承」するとなっており、憲法2条の明文に反するだけでなく、あえて憲法が「皇室典範」によると定めた、その重みを無視することになるからである。それゆえ、皇室典範とは別の独立した法律を制定し、それに基づいて譲位し、「皇位の継承」を行うことはできないと思われる。さらに、皇室典範4条は、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定め「終身制」を採用している。にもかかわらず、皇室典範以外の法律で、終身制を否定するのは明らかに矛盾であり、このような法律を制定することはできない。[9]
  • 譲位制を採用すれば、男子の皇位継承権者の数はさらに減少することになる。[9]

退位後の待遇[編集]

呼称・継承[編集]

  • 古来の例では、譲位に際して儀式が行われている。まず、その段階で今上天皇から譲位の「おことば」を述べられる。 ついで、皇位の継承に不可欠な剣璽、宝剣と神璽を、皇嗣の皇太子殿下に直接渡す。さらに、それで践祚されたことになる新天皇から前天皇に尊号を奉られる、という三つの要素を実行されることになるかと思われる。同時に政府が新しい元号を制定し公表する。7世紀の終わりごろ、文武天皇に皇位を譲られた祖母の持統女帝が、初めて「太上天皇」と称され、それが701年の大宝律令に明文化されている。したがって、今後も正式には太上天皇、ないし通称の「上皇」とする。 また、皇后天皇は現行典範により「皇太后」と称されることになる。その皇太后の敬称は「陛下」であるから、上皇の敬称も「陛下」以外にはありえない。その身分と序列は、即位される新天皇が最上位から、内廷皇族、天皇の御家族であるが、もちろん高齢ゆえに譲位されるのであるから、再び皇位を継承したり摂政に就任する資格はあり得ない。また、宮中の行事、例えば新年の歌会始や講書始などに出られる序列は、天皇・皇后、その次に上皇・皇太后という並び方になるかと思われる。[6]
  • 譲位後の御所は江戸時代までは、天皇の内裏近くに上皇用の「仙洞御所」が用意されていた。そのような御所を譲位されるまでに、しっかり準備していただきたいと存じる。 ただ、今上天皇は既に4年前、御自身の喪礼について、なるべく国民に負担をかけないように、可能な限り簡素化することを要望された。したがって、譲位後の御所についても、費用の節約を求められるかと思われるが、この点は、外国王室における前国王・前女王の住まいなども参考にしながら、遜色のないものにする。[6]
  • 前天皇、前皇后、元天皇、元皇后の公的行為等に関する法律(または閣議決定)の要綱[5]
    • ①前天皇、前皇后、元天皇、元皇后は、公的行為は行なわない。ただし、皇族全員あるいは成年皇族全員が参加することが慣例となっている儀式や行事には参加してもよい。
    • ②前天皇、前皇后、元天皇、元皇后は、名誉職等の役職には就任しない。
  • 住まいは「仙洞御所」と呼び、御活動は他の皇族方と同様の位置づけ扱いとし、皇室経済法上の内廷皇族とすべき。活発な活動を展開され、象徴の二重性が出ることを心配する方もいるが、宮廷費で適切な制約が確保されればよいし、高齢の両天皇もそのような院政めいた「老後」は考えになっていない。ただ、おのずから活動がなかった香淳皇后の皇太后宮職や、ほかの宮家と違って、当直体制に必要な侍従、 女官、侍医、大膳などの職員の配置は配慮されるべき。かつての皇太后宮職よりは大ぶり、今の東宮職よりは小ぶりといったところではないか。[14]
  • 退位された後は太上天皇と称するのが慣例。ただし、これは日本独自の考え方で、諸外国は異なる。中国は皇帝はやめればただの人である。[8]
  • 天皇が崩じた際には大喪の礼を行うとの皇室典範の規定がありますが、退位をされた天皇が崩じた際にも大喪の礼を行うとしてよいかどうか。その規模や内容はどうするか。この点の検討も必要である。[11]
  • 譲位後の天皇は、下記の点から、皇室の構成員として、天皇皇族とは異なる新たな御身位とされることがふさわしいと考える。
    • 我が国の歴史上、譲位後の天皇は皇親(皇族)ではなく、太上天皇という御身位となることが原則であったこと。
    • 譲位後は、皇族が有する皇位継承資格(男子のみ)、摂政就任資格、皇室会議の皇族議員となる資格はお持ちにならないことがふさわしく、こうした資格を有する皇族とは性格を異にする点があること
    • なお、天皇や皇族とは異なる新たな御身位とされることは、皇室という憲法が定める特別なお立場の方々の中での御身位の在り方の問題であり、憲法上の問題はない。
  • 譲位後の天皇は、我が国の歴史に鑑み、「太上天皇(だいじょうてんのう。だじょうてんのう)」又は「上皇(じょうこう)」と称することがふさわしいと考える。なお、歴史の教科書等では「上皇」と記される例が多く、上皇の方が、一般的でありなじみやすいと思われる。 宮中での公式のお立場は、天皇に次ぐことになるのではないか。 敬称は、その立場の点からも、歴史的観点からも、「天皇」がふさわしい。[27]退位後の天皇の処遇については、出家と仏門への帰依を示す「法皇」を用いるのは妥当でなく、 在俗の太上天皇(略して「上皇」という)として皇族の地位を保持し、敬称は「殿下」とするのが望ましい。その皇族としての活動については、新天皇が職務として行う国事行為と準国事行為はなしえず、高齢による執務不能を理由として退位するという仕組みをとる以上、その他の公的行為からもすべて退くのが筋。[28]
  • 譲位後の天皇、皇后の称号は、古代の「養老儀制令」では譲位後の天皇は「太上天皇」と称すると規定されていて、同令には「皇太后」という言葉が見え、明文で定義されているわけではないが、天皇譲位後の皇后を指していることは明らか。次に、現行皇室典範では、第5条に「皇太后」の言葉があります。この現行法と古代法 の重なり合いから考えて、譲位後の天皇は「太上天皇」、略せば「上皇」、皇后は「皇太后」と称するべき。[29]
  • 退位後の天皇陛下の称号については、基本的に上皇、太上天皇でよいのではないか。[30]
  • 「太上」というのは無上とか至上という意味で、大和言葉で言えば「おほきすめらみこと」。つまり天皇を意味する「すめらみこと」の上に「おほき」を加えて、さきの天皇に対する敬意を示した名前づけになっている。 一般には、太上天皇を略して上皇と言ったり、出家された後は法皇と呼ぶ。よく使われるのは、上皇の御所を院と言っているので、通称として上皇のことを院と言うということもある。現在の、天皇という称号との関係で、天皇にさらに上がつくのは上下の関係が出てしまうので、「上皇」ということで収めておくのがよい。太上天皇の太上とか無上というのは、本当に天皇より上位だから太上がついているわけではなく、あくまで敬意を払っての言葉である。ある種の美称、褒める言葉ということでついているのだと思っているので、その点を説明した上で、「上皇」と言いならわしているうちに根づいてくれれば、上と天とどちらが偉いのか判別しがたくなってくるだろう。[25] 
  • 皇后の称号、上皇のお后の称号は、前近代においては結婚の形態も違い、内親王の扱いも違うので、皇室に関わる女性の扱いが現代とは全く違う。なので、天皇と上皇の配偶、お連れ合いの扱いには一定した基準が見られないという問題がある。女性に対する最上位の待遇で院に準ずるものとして、女院というのもあるが、ただ、現在使用するのはなじまない。だから皇太后が妥当ではないか。 ただ、現在使われている皇太后という称号は崩御した天皇の皇后なので、単独の存在を意味する。それに対して、例えば現在の天皇が退位の後、夫婦としての単位を重視するのであれば、現行の皇太后とは立場が異なることになる。より適当な称号があれば、そちらをつかうのがよい。[25]
  • 呼称によって、古代と同様の機能が期待されたり、生じたりするわけではないのは、律令官制の「大蔵省」と、近代の「大蔵省」が同じではなかった例からも明らか。[29]
  • 「養老儀制令」には、「太上天皇」の敬称についての規定はない。それは「太上天皇」という呼称そのものが尊号、すなわち敬称の意味を含んでいたためと考えられる。『皇室制度史料』(太上天皇一)の解説では、「譲位せられた天皇を尊び称するのを本義とする」と書かれている。そして、明確に、尊号として用いられるようになるのは、第52代嵯峨天皇が第53代淳和天皇に譲位されたときから。[29]
  • 天皇譲位後の皇后の敬称については、「養老儀制令」では「皇太后」の敬称は「殿下」となっている。ちなみに、「皇后」も「殿下」。ところが、現行皇室典範の第23条では、既に「太皇太后及び皇太后」の敬称は「陛下」と規定されている。これは旧皇室典範第17条に「天皇太皇太后皇太后皇后ノ敬称ハ陛下トス」とあったのを引き継いだもので、近代に始まった新例。この規定を現時点で改めるべき合理的理由はない。したがって、天皇譲位後の皇后の敬称は、当然「陛下」。となれば、太上天皇の敬称も、当然、「陛下」ということになる。 太上天皇の敬称を「陛下」としても、「権威の二重構造」が生じるとは思えない。[29]
  • 敬称は、これは陛下とする。[25]
  • キングの場合は例えば、ベルギーのアルベール国王、スペインのファン・カルロス国王、この2人の場合は御自身の御体調という面もあるのですが、ほとんど出ていない。特にアルベールの場合は2014年、7月21日がベルギーの建国記念日なのだが、大体そのときは前国王でも出て来るものなのだが、もう2014年から3年連続で出ていない。パオラ王妃、奥様のほうももう出ていない。日本の場合もどうしても上皇という名前は歴史的にも天皇より格が上のような時代あったから、その点でも上皇になられるというときには、あまり御公務はほとんどなさらない。もしいわゆる公的行為について、これまで以上に外にお出になりたいという場合であったら、ベアトリクス女王的に親王というような形になるかもしれない。敬称は上皇になられれば陛下(Majesty)、親王のような存在になられれば殿下(Highness)。これは皇太后も同じということになりますので、天皇皇后両陛下の御公務のあり方とも関係してくる。[30]
  • 歴史上、上皇が二人いたような場合は例えば白河天皇などというのは、亡くなってからので、存命の間は新しく譲位された方は新院とお呼びしたり、あるいは御所の名前で仮にお呼びしたりしていた。[25]
  • 皇后陛下が「皇太后」と呼ばれることは皇室典範で決まっているから、それとの対応で「太上天皇」と申し上げる以外にはない。敬称についても、皇太后を「陛下」とお呼びすることが決まっているから、太上天皇も「陛下」とお呼びする以外にはない。ただ、歴史上の言葉は、時代によってその中身がかなり変遷する。その意味で「太上天皇」も新しい時代の感覚で、その称号を受けとめればいいのではないか。歴史的にいえば、太上天皇そのものが尊号なので、陛下という敬称は要らないのだが、これも今日の感覚に合わせて、「太上天皇陛下」でよいのではないか。[29]
  • 大宮様というような言葉遣いは、歴史物語とか少しフィクショナルな立場で使われる大和言葉であり、公式の記録は漢語を使い、和様漢文が使われている。[31]
  • 男系継承を根拠に天皇位が成り立っている以上は、息子が父に敬意を払うという関係を否定することはできない。ですから、天皇と上皇との関係には非常に微妙なものがあるという点を十分踏まえた上で、周囲が補佐しなければいけない。[31]

経費[編集]

  • 経費はオランダではベアトリックス王女(前女王)の経費はマキシマ王妃よりも多い。理由はやはり今の公務をものすごく担当されているという部分がある。ベルギーでは王室費の8%くらい(92万3000 ユーロ)があてられている。フィリップ国王の妹、アストリッド王女は32万ユーロぐらい、末の弟のロラン王子の場合も30万ユーロぐらいだから、御夫妻の3分の1ぐらい。やはり前国王夫妻ということに対する権威とか格付といったものについて、このような金額になっているのだろう。上皇、皇太后となった後にかなり公務が少なくなったという場合には、かなり経費は少なくて済む。その場合も、一方で、ほかの皇族方と格付が違うのではないかということで内廷費の中に盛り込むのが妥当なのではないか。これはほかの王室、ヨーロッパの王室とほぼ同じようなケースになる。[32]

補佐機関[編集]

  • 補佐機関をどうするか。生活費の区分、額はどうするか、という問題はまず、補佐機関は内廷に設置し、二重構造の問題への配慮から公務には原則としてたずさわられないことを前提に、その職務を考えるべき。そして、補佐機関の名称は「東宮職」との統一性から考えて、「院宮職」はどうか。歴史的には、太上天皇や太皇太后、皇太后を指す言葉として「院宮」という言葉があった。 費用については、皇室経済法第4条で、「太皇太后及び皇太后」にも内廷費が充てられていることから、「太上天皇」についても内廷費が充てられるべき。 金額については、公務には原則としてたずさわられないとしても、前天皇としての品位が保たれる額とすべき。[29]
  • 御退位後の補佐の機関は今後の御公務のあり方がどうなるのかということによる。かなり御公務を減らすということであれば、現在のような宮内庁の体制はもとより、奥向きのいわゆる侍従、女官といったような方々の数はもうかなり減らすことができる。むしろ新しい天皇皇后両陛下のほうにそういった方々をどんどんときちんと当てていってということは可能になってくる。イギリスはPrivate Secretary、秘書官というのは各王族一人一人についているがそういった存在が日本には直接的な存在はいないが、宮内庁の一部がそれを担当、それから、侍従、女官の一部がそれを担当しているような職掌。エリザベス皇太后は本当に超人的な方で、本当に最晩年、101歳まで生きていたが、最晩年までずっと公務していて、99歳のときも実は年間38件以上の公務をしていた。ですから、女官もそれほど女王陛下とかマーガレット王女やアン王女と遜色ないぐらい、たくさん補佐する方がついていた。[32]
  • 外国には補佐する機関の組織名は特にない。それぞれの宮廷で分かれておりますので、特定の名前はない。  席次は大体第3位。オランダでいうと国王、王妃、そしてベアトリクス前女王というような順番に大体なっている。イギリスの場合も大体エリザベス女王、エディンバラ公でエリザベス皇太后というようなケースが普通だった。[32]
  • 退位後の上皇と后の補佐、経費は侍従職の中に上皇と后のための部局を設ければよろしいのではないか。その部局の名称として、院務職というものを挙げた。予算は内廷費からの支出。格下げと映る措置はやはりするべきではない。[31]
  • 歴史的には上皇の下には院庁という家政機関が置かれて、そこに院司と呼ばれる職員が付属していた。その院庁とか院というところには独自の資産があったために、上皇が不在の際にも後院庁という役所が置かれてそれらを管理していたという歴史的経緯がある。[31]

葬儀と墓[編集]

  • 葬儀とお墓のは天皇と同様の待遇とするべき。天皇を経験した方が儀礼上、現任天皇より低い待遇を受ける、例えば宮家並みにするというようなことは考えられない。現在宮内庁が陵墓を管理しているが、崩御時に現任天皇であったか否かは問われていない。御葬儀の簡素化という話もでているが現任天皇でないからという理由で簡素化するのではなく、上皇の考えによってとか、あるいは皇室全体の儀礼の簡素化の方向性の中でということで行われるべき。[31]
  •  葬儀については、現行皇室典範は第25条で「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と規定しているのみ。しかし、旧皇室喪儀令では、第1章第1条において、「太皇太后及び皇太后」の葬儀も「大喪」とされていた。この規定からの類推で、「太上天皇」についても「大喪」とすべき。[29]
  • 古代の律令には天皇の葬儀に関する規定はありません。律令そのものが天皇は法を超越した存在と見ているからだと言われている。したがって、葬儀については歴史的な記録から推測するしかありませんが、歴史上、最初に太上天皇と称されたのは持統天皇ですが、『続日本紀』の大宝2年、712年12月の条では、持統天皇の葬儀を「喪葬之事」と書いており、内容は従来の天皇のものと変わらなかったようである。ちなみに、古代の用語では、「喪」は遺体を葬るまでの儀式を意味し、「葬」は遺体を葬るときの儀式を意味している。平安時代から近世まではほとんどの天皇が譲位して、上皇として崩御している。それらの葬儀を大喪と考えないと葬儀については歴史の断絶となってしまうように思う。[29]
  • 大喪儀は1年以上かかるような非常に大変なものだがこれは今上天皇のおことばもあって簡略化できるのではないか。ただし、大喪の礼については、やはり行ったほうがよろしい。これまで半世紀以上にわたって天皇、皇后ともに世界中を回られて、あるいは世界中から賓客を迎えられて大変な知己をもっているので、世界中から弔問に訪れたい、そういう機会がなければいけないだろう。その機会、いわゆるState Funeralに当たるものが恐らく大喪の礼であろうというようなことでこれは設けて、そうしないといろいろなその時々に対応しなければならない。[32]
  • 埋葬の場所、陵、これは陵にするべき。[32]
  • 墓所については、『延喜諸陵式』(お墓の記録簿のようなもの)では、譲位後の天皇と皇后も「陵」とされています。現行皇室典範27条でも、「太皇太后及び皇太后」を葬る所を「陵」と規定している。したがって、「太上天皇」についても「陵」とすべき。ただし、その規模については、考慮の余地がある。[29]

退位後の活動[編集]

  • 天皇が上皇になって自由に外国旅行をするとか、外国人記者や外交官やお友達がいろいろ聞きに行くとかして問題発言が生じる可能性はある。すでに先日のビデオが問題発言のように解釈されている。フランスの『ル・モンド』は国際的に信用度の高い新聞が、今回の退位問題について、実に歪んだ報道をしている。時間がないからそこはこのような解釈をするフランス人記者が第一の問題で、外国人記者をそのような解釈をするよう示唆した日本の傾向的な新聞記者や学者が第二の問題が、このような政治的主張をしたととられる天皇の異例のおことばがやはり第三の問題で、このような国際的な誤解が生じる[33]
  • 退位後の御処遇については、憲法の規定に鑑み、国民統合の象徴が退位した方のほうに実質的に移ることがないような方策を講じるべき。[34]
  • あくまでも高齢による引退であるべきだということので、もう完全に引退していただくというのが事実上そういう形になるというのがよいだろう。これは名称に関しても上皇ではなくて前天皇、元天皇というのを使っている。[34]
  • それは譲位後の御活動とも関係することである。今上天皇は、高齢ゆえに象徴天皇としての役割を全て皇太子殿下に譲渡されるのから、新天皇のお務めに直接関与されるはずがない。おそらく大部分の「私的行為」であろうと見られる。 しかし、その「私的行為」も、それぞれかなり大きな意味を持っており、例えばハゼなどの御研究は、国際的にも高く評価されておりる。また、御趣味のチェロなども芸術文化の奨励に貢献しておられる。したがって、このようなことが上皇御所でも十分できるようにする必要がある。さらに、御在位中は自由になさることが難しかった私的な御旅行や御所への御招待なども、可能な限り実行していただく。[35]
  • 御高齢とかあるいはその他の法律に定めている要件に該当した場合に天皇の意思に基づいて御退位されるわけから、退位された天皇は、国事行為はもちろんが、 公的行為も行わないということを原則とすべきではないかと考える。 [36]
  • 憲法上の象徴としての立場、皇位は新天皇に譲られるべき。一部でも残ってしまうと何のために退位されたのかということになる。天皇としての権威というか、 そういうものを新天皇に譲られる。前天皇は前天皇であられたということは間違いないわけけれども、憲法上の地位、役割はやめられた天皇には全てなくなるということをはっきりさせたほうがよい。 [36]
  • 象徴天皇制度において、上皇が天皇と相並び立つようなお立場になる御活動はふさわしくないと考える。ただ、基本的には、上皇の行為は、制度上象徴である天皇が象徴としての行為を天皇自ら行われている状況の下で、制度上象徴としての地位にないお立場で行われる行為であることから、摂政設置による場合のような「制度上の象徴(天皇)」と「象徴的行為を行う非象徴(摂政)」 とが分離することによる権威の二分化のような混乱が生じるおそれはないと考える。皇室を構成される方として、上皇の御活動にも非政治性、非営利性が求められると考える。 ただ、上記の制約はあるものの、そもそも、上皇となられる方がどのようにお振る舞いになるか は、御本人のお考えによるべきものであり、あらかじめ、私などがこのようにあるべきと申し上げることは事柄の性格上ふさわしくないと考える。 行為分類論の観点から言えば、国事行為はなさらないが、上皇というお立場による公的な意義を有する行為はあると考える。(私的なお立場の行為があることは言うまでもない)。 [37]
  • 権威の二重構造、象徴の二重性を避けるには天皇の御活動の内容をどうするかだと思う。皇族も公務を担われるが、一度天皇の位につかれた方が、公務を継続されるのは、意味が違う。しかも、今回の場合は、御健康その他の理由でお退きになるわけですから、公務に原則としては関わられないということを前提として、御活動の内容を考えていくというのがよい。[38] 
  • 国際親善、宮中晩餐会、外国から見えた客の接遇は天皇の公的行為に位置づけられているものなので、関わられないことを原則とすべき。
  • オランダの女王陛下の譲位の場合は、母のユリアナ女王、祖母のウィルヘルミナ女王、その3代にわたって譲位があった。最初のウィルヘルミナ女王が1948年に譲位されたときには、今後は家長というのはもう娘夫婦である。同じようにベアトリクス女王もそうであるということで、自分は一介のプリンセス、王女に戻って、より自由に活動、公務を続けたいということがあった。ユリアナ女王の場合もやはりそうで、80代の半ばまで非常に活躍、御公務されて、現在のベアトリクス王女、前女王も2013年に御退位された後も、実は今でも来年で80歳を迎えるが国王夫妻に次いで3番目に忙しい。65以上の団体の長、名誉会長、名誉総裁をされて世界中を飛び回っている。[32]
  • 上皇として譲位をされるということであるならば、こういった重祚・摂政・皇室会議の議員といったものにおつきにならないほうがいい。国事行為の臨時代行は、日本の場合も皇太后はこれになることができるが、例えばイギリスのエリザベス皇太后(現在の女王陛下のお母様、いわゆるクイーンマザーと呼ばれた)も彼女も国事行為の臨時代行をなさって、ずっと精力的に活動されていたが、ただ、その場合はジョージ6世が亡くなったケースだった。[32]
  • エリザベス皇太后のように今後外遊をするべきではない。むしろ国賓として海外から来る方を上皇、皇太后としてもてなす。ただしその場合、象徴の二重性という点でいうと、やはりこれは国際親善なので、むしろ宮内庁が言っているように「外交」ではないということになっているので、当然主人公、主役、いわゆる主なホスト役としては現役の天皇皇后両陛下、それを補佐する形としての上皇、皇太后というような存在。オランダの場合もそうで、やはり国王と王妃がきちんとホスト、ホステスとして迎えて、ベアトリクス前女王がそれを補佐する。ロイヤルファミリーの一員であるプリンセスとして補佐するという形になっていますので、名前はもしかしたら上皇とか皇太后になるかもしれないが、同じく皇太后ということでいうと、エリザベス皇太后もやはり主人公といいますか、家長であるエリザベス2世女王とエディンバラ公がもてなすのを補佐する。いわゆるロイヤルファミリーの一員として補佐するという形をきちんとしいたので、その点、参考にすればよいのではないかと思う[32]。  ベアトリクス前女王の場合は、まだこれだけ積極的にお動きになる理由の一つは継承者で、現在、皇太子になってらっしゃる国王夫妻の長女カタリナ・アマリア王女というのはまだ2003年の生まれで、今年で14歳。こちらも3人姉妹だが、まだお小さいので、多分成人以上に達して自分たちの公務、いろいろな団体、チャリティー団体ですとかいろいろなものが引き継げるような年齢になるまではできる限りやりたいというような、どれだけロイヤルファミリーが充実しているかではないか。[32]
  • 国際親善についてはぜひとも可能な限りでよいので、継続していただきたい。長年親善を積み重ねてこられた、これは非常に大きいと思い。[32]
  • 退位後の活動がどの程度あるのかわからないが、格を下げるということではなくて、例えば負担が軽くなるように調整を加えるということはあるだろう。[31]

摂政[編集]

  • 譲位した天皇が摂政になった例はない。[39]
  • 今回の問題の限定性から考えても、二重構造の問題から考えても、摂政への就任は認められるべきではない。[39]

重祚[編集]

  • 重祚は認められるべきではない。[29]
  • 重祚は歴史的に見ても非常に異例なことで、古代に2例あるだけなので、考えなくてよい。[31]

皇族会議[編集]

  • 「皇室会議」自体が現行皇室典範によって始められた新制度で、この度の譲位容認は、終身在位制の例外を設けるという、これまた歴史上初めての事態であることと、そして、天皇が長期にわたってその役割を果たせなくなることが予想される場合という限定事態への対応であることが前提。また、二重構造の問題も考慮すべき。そうだとすれば、譲位した天皇は、当然に「皇族」とされるべきだと思うが、今回の前提から考えて、原則として、譲位後は公務を担われるべきではなく、あくまで背後から新天皇をお支えいただくべき。この点から見て、皇室典範第28条第3項では、皇族議員の資格要件は「成年」に達しているということのみで、形式的には譲位した天皇についても就任は可能と言えるが、実際には、認めるべきではない。[29]
  • 皇室会議については、皇族の範囲をどのように設定するかが問題になる。現在、天皇は別格として皇族に含まれないことになっており、上皇も天皇に準じて皇族外とするか、あるいは皇族とは皇室メンバーのうちの天皇以外の方と考えるのかでまた違ってくるが、議員就任ということは現実的には考えないほうがよい。[31]

今上天皇退位後の秋篠宮[編集]

  • 秋篠宮については皇太弟というのがわかりやすい。その際には、一般の宮から皇太弟に移行する何らかの儀式のようなものが必要。 補佐の機関や経費については、現行の皇太子御一家と同様の御待遇として東宮職による補佐というのがよろしい。現在の秋篠宮家は本来なら一家が全員で皇太弟家に移行していくのが筋。少なくとも秋篠宮と妃は皇太弟家に移行して、次の天皇になるのにふさわしい待遇を受けるべき。さらに、未成年の悠仁親王も御一緒に行かれるのが自然である。既に成年に達している内親王のお二方については、秋篠宮家に残っていただくという選択もあり得る。[31]
  • 歴史上は天皇の弟を皇太子をするケースもあった。宮家の御当主が天皇になられる場合にも、その方の息子が代わって宮家を継ぐとか、御当主ではなくて御当主の息子を天皇の養子にして皇嗣にするようなことが行われていた。また、跡継ぎとして皇太弟という言葉は、史料上は使われている。ただ、あまりその辺は気にしていないようで、例えば叔父を皇太子にするというケースもあったりする。実際の血縁関係はとりあえずとして、年の離れた弟とか甥を現天皇の養子にする、養子関係を結ぶということが頻繁に行われていた。現行は養子をとれないことになっている上、跡継ぎにするためだけに養子をとるというのもいかがかという現代的な家族観もあるので、事情が違っている。[32] 
  •  現行皇室典範第8条では「皇嗣たる皇子」を「皇太子という」と書かれているのみ。  まず、最初の「皇嗣」の意味ですが、現行皇室典範の第4条では、天皇が崩じたときは「皇嗣」が直ちに即位すると規定されている。他方、現行皇室典範の第2条第1項では、「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。」として、「皇長子」から「皇伯叔父及びその子孫」までが列挙され、さらに、第2項では、それ以上の「最近親の系統の皇族に、これを伝える」と規定されています。したがって、「皇嗣」は、天皇崩御の時点で皇位継承順位第1位の立場にある皇族を意味し、「現天皇の子」には限定されていない。ということは、現行皇室典範は「皇嗣」に続く「皇子」の意味を「現天皇の子」と解することで、「皇太子」を「皇位継承順位第1位の立場にある現天皇の子」と定義していると考えられる。このように、「皇子」を「現天皇の子」と解し、「皇太子」を「皇位継承順位第1位の立場にある現天皇の子」に限定することは、旧皇室典範を解説した『皇室典範義解』によれば、旧皇室典範第15条によって始まった。逆に言えば、近世までは「皇太子」も「皇子」も現天皇の子には限定されていない言葉だった。 歴史上、兄弟での皇位継承は23回、姉から弟への継承も入れれば24回ありましたが、現天皇の弟を「皇太弟」と称した最初の例は、第52代嵯峨天皇が第51代平城天皇の「皇太弟」となられたとき。これは『日本後紀』に書かれてる。ただし、それ以降でも必ず「皇太弟」と称されたわけではない。 以上の経緯を踏まえて、嵯峨天皇以降の「皇太弟」の用法と、明治以降の「皇太子」の限定的用法を踏襲し、皇室典範を改正して「皇太弟」の規定をつけ加えるというのも一つの方法ではある。しかし、皇室典範第8条の「皇嗣たる皇子」の「皇子」を「現天皇の子」に限定する近代の用法を改め、「歴代天皇の子」を意味する古来の用法に立ち返れば、第8条は「皇位継承順位第1位の地位にある皇族を皇太子という」という意味になり、この解釈変更を「特例法」に盛り込めば、秋篠宮を皇太子とすることが可能となり、必ずしも皇室典範の改正の必要はないのではないか。[40]
  • 律令制以降、法律上では「皇子」は男女の区別なく現天皇の子を指すことになった。今日でいう皇族は「皇親」と呼ばれ、天皇の子供または兄弟を意味する「親王」と、それ以下5世までを指す「王」に分けられていた。これを規定しているのが養老継嗣令ですが、必ずしもこの規定どおりに呼ばれてたり、運用されていたわけではない。[29]
  • 補佐機関については、皇太子殿下が即位されたならば、秋篠宮殿下を皇太子として、速やかに、内廷に東宮職を置き、現在の皇太子殿下と同様に遇するべき。[29]
  • 東宮となられれば、秋篠宮という呼称は解消すべき。[29]
  • 『日本後紀』で嵯峨天皇が平城天皇の皇太弟となったときに、この皇太弟を所管する職、東宮職に類するものは宮内卿藤原朝臣園人が任命されている。 「皇太弟傳と為す」と書かれていたので、職を設置したと思う。[29]
  • 秋篠宮が東宮となった場合に、その名前を残したまま、東宮職の補佐を受けられるのは適当ではない。やはり、秋篠宮の名称は解消して、東宮と申し上げるのが適当ではない。[29]
  • ドイツはErbprinz、これは継承する王子、いわゆる王位継承者第1位という意味の称号を与えられていた。日本ではこういった場合、皇太子と訳す場合が多いがハプスブルクのフランツ・フェルディナント大公の場合は帝位継承者。ただこれは皇帝の甥だったから。割と近いものでは、デンマークで、当時のフレデリク9世の弟でありましたクヌーズ王子。デンマークも1953年の憲法改正までは男子しか継げませんでした。実はフレデリク9世には女の子3人しかいないということで弟君のクヌーズ、Arveprinsというのはデンマーク語でいうErbprinz、いわゆる王位継承の第一人者、皇太子と訳されても構わない、そういう存在だった。ただ、1953年、実は当時のデンマークの社会状況、実際、議会、上下両院を通過して国民投票もやり、やはりもうそういう時代ではないということで女性継承が53年の憲法で認められましたので、それで現在のマルグレーテ2世女王陛下、1972年にフレデリク9世が亡くなった後にお継ぎになった。だから、もう53年の時点でArveprinsというのは事実上なくなって3人の王女の次、だから第4位に退かれて、その後はもうマルグレーテ陛下の一族ということになっていった。これも先ほどから言っているとおり、皇室典範を変えるということになりますと、これと同じようなケース。悠仁親王が将来的にもし天皇をお継ぎになるというような方向でもしいくのであれば、これは長い目で見て早いうちから皇太子という称号も考えるべきではないか。中世ドイツのような、憲法改正までのデンマークのような、そういうようなケースと近いというように思う。[32] 
  • 今ある東宮のほうに移られるべき。経費も現在皇族費のほうから出ている。6,700万円ぐらい出ていると思うが、これも現在の皇太子御一家に近いようなものにしていくべきであろうし、これを補佐する組織、侍従、女官も含めて、そういったような人々というのもちゃんと充実させていくべき。[32]
  • 王弟とかそういった存在が置かれる、あるいは皇太子と呼ばれたケース、やはり中東に多い。ついこの間いたサウジアラビアのサルマン国王も皇太子でしたし、王弟としてサウジがそう。ヨルダンが確か今のアブドラ国王のお父様、フセイン国王がまだアブドラ国王、小さいときに弟のハッサン王子が確かしばらく皇太子という名前で、それで息子のアブドラさんがお継ぎになるときに皇太子をアブドラにかえて国王になられて、アブドラもしばらくは弟を皇太子に据えられて、今のフセインを最近は皇太子にされたというようなケースがある。割と中東ではそういう王の弟、王弟をしばらく皇太子として、それを継ぐかどうかは別として、王弟という名前、皇太子として称号を与えるということで、国内外に対してきちんとするということはある。[32]
  • 皇太弟と皇太子では、皇太子としないと立場上、外国に行かれるようなときにな接遇のあり方がかなり違ってくる。しかも、継承者であるかどうか。皇太弟であっても、もちろん日本の場合、現状でいくと継承者なわけだが、それが明らかになっているかどうか。英語で何と言うのか難しいのだが、それが当てはまるようなこと。いわゆる英語で言うと Hereditary Prince、継承するプリンスであるということになる。ただ、最近はそういう人はなかなかいないので、昨今のいわゆる外遊なさる、公式訪問なさる、あるいは実務訪問でも、そういったときに外国がどういうようにしてその方を接遇すればいいか、最初戸惑うようなことは出てくる可能性はあるかもしれない。[32]

皇室典範改正[編集]

  • 憲法第2条は、皇位継承について「皇室典範」で定めよと指定している。[41]
  • 皇位継承が政治利用される危険を防ぐために、そのルールは一般法の形で明確に定めておくべきであり、特定の皇位継承にしか適用されない特別法の制定は好ましくない。[42]
  • 特別措置法は、恒久法よりは退位の連鎖が起きにくくなる可能性があるかもしれませんけれども、いずれにしろ前例となるため、実質は恒久制度化とあまり変わらない。[5]
  • 退位ということがいきなり生前退位を容認するのではなくて、例えば80歳、85歳、いろいろな年齢で切って、そのときそのときに天皇ご自身の意思と国民の特に政府を中心とする政治の第三者機関との間の調整というのを行っていく必要がある。[10]
  • 第4条に「天皇が崩じたとき」とありますのを続ける一方、その後に、「又は皇室会議の議により退いたときは」とつけ加え、両方を承けて、「皇嗣が、直ちに即位する」という修正案である。 ここで、「皇室会議の議により」という条件を入れましたのは、現行の皇室典範第3条 に、「皇嗣」の変更も「皇室会議の議により」と定められておりる。したがって、それと並んで重い譲位の問題は、皇族2名と三権代表8名の10名の議員から成る皇室会議で厳密に審査し決定するようにしておくことが、必要であり妥当。
  • 明治の皇室典範は、長い歴史を踏まえて定められたと強調する方もおられますが、皇室制度の成文法化、これ自体が新しいことだった。成文法化に大きな役割を果たした岩倉具視、当時、最高の法制家であった井上毅、柳原前光も譲位や太上天皇を想定して典範原案を作りました。しかし、伊藤博文がかなり強引に終身在位を決めた経緯があった。[14]
  • 法律は一般法でなければならないという原則はそもそも日本国憲法の基本原理の例外を定めております天皇制に対しては適用されないと解している。憲法は法律について一般法であるべきだとは考えていない。措置法律も、他の憲法原理、例えば平等原則などに反しない限り許されると考えているからである。[17]
  • さまざまな象徴のあり方にも対応できるよう、現在、崩御に限定している皇位継承原因について選択肢を広げるために譲位を導入しようとするものである。特定の能力を期待するのではなく、その時々の天皇が望ましいと考える象徴のあり方を実現できるような仕組みとして、皇位継承原因に譲位を崩御に追加することが望ましいと考えているところである。[18]

課題[編集]

  • 退位について新しい皇室法の中でどういうように記述するか。皇室典範改正をめどとした皇室法の中でどういうようにするかというのは、退位ということがいきなり生前退位を容認するとかというのではなく、例えば80歳、85歳、いろいろな年齢で切って、そのときそのときに天皇ご自身の意思と国民の特に政府を中心とする政治の第三者機関との間の調整というのを行っていく必要がある。[10]
  • 改正すると退位の連鎖が起きないか。[5]
  • 何年もかけて最初の皇室典範を作ったぐらいの入念さで歴史を調べ、皇室の安泰を調べて改正なさるならば、それはそれで反対しない。しかし、これは今の今上天皇がお休みになりたいというのでは全然間に合わない。 [19]
  • 皇室典範そのものを改正する方法でありますが、譲位と関連する部分を全面的に 改正するのは簡単ではなく、時間もかかると思われる。また、恒久法である皇室典範の中に譲位の条件や譲位と関連する事柄を書き込んでしまうことについては、慎重な上にも慎重な配慮が必要である。[9]

皇室典範改正案[編集]

古川隆久[5][編集]

  • 第二条 改正せず(皇位継承順位に入れない) ※第四条のあとに以下の条文を挿入する(第五条~第七条)
  • 第五条 天皇は、第六条の規定にもとづき、皇室会議の議により、第二条に定めた順序に 従って譲位することができる。
  • 第六条 以下の要件をすべて満たした場合、内閣総理大臣は皇室会議に天皇の譲位を発議 することができる。
    • 一 高齢のみが理由であることを証明できること。
    • 二 年齢が満七十歳を越えていること。
    • 三 天皇自身が発意したことを証明できること。
    • 四 元天皇および元皇后の称号を持つ皇族がいないこと。
  • 第七条 譲位した天皇は前天皇となり、皇后は前皇后となる。 さらに次代の天皇が譲位した場合、前天皇は元天皇となり、前皇后は元皇后となる。
  • 第八条(現第五条、語句の削除と追加) 皇后 元天皇、元皇后、前天皇、前皇后、親王 〔中略〕を皇族とする。(皇太后、太皇太后は削除)
  • 第二十条(現第十七条) 摂政就任順位から「四 皇太后 五 太皇太后」削除(六を四 に繰上げ)(摂政に就任しない)
  • 第三十一条(現第二十八条、皇室会議議員の規定に第四項を追加) ただし、前天皇、前皇后、元天皇、元皇后は議員になることができない。
  • 第三十八条(現第三十五条、語句追加) 皇室会議の議事は、第三条、第六条、〔中略〕の 場合には、出席した議員の三分の二以上の多数でこれを決し、〔中略〕。

百地 章[9][編集]

  • まず、皇室典範の「附則」第4項に「天皇は、第4条にかかわらず、皇室典範に関する 特別措置法の定めるところにより、譲位することができる」といった趣旨の規定を置く。
  • その上で「皇室典範に関する特別措置法」を制定し、以下の趣旨の規定を定める。
    • 「天皇は、高齢により公務をみずからすることができないときは、その意思に基づき、皇室会議の議を経て、譲位できる。譲位があったときは、皇嗣が直ちに即位する」。
  • このような規定であれば、終身制が原則であり、譲位制はあくまで高齢で天皇としての務めが果たせないときに限定される。また、恣意的な譲位をいかにして排除するかということが最大の課題が、このような規定であれば「高齢により公務をみずからすることができない」という客観的条件、「天皇の意思に基づき」という主観的条件が示されており、しかも皇室会議の議を経ることになるから、とりあえず問題は解消するのではないかと思われる。 その上で、後日、皇室典範の改正を、その是非も含めて慎重に審議すべき。

特例法での退位[編集]

  • 今回の今上天皇の思いとを勘案して特例的な退位ということも不可能ではない。[13]
  • 特に急ぐことを理由にしてしまうと、ほかの選択肢もあるのに これを選ぶということになると、天皇の意向との関係で憲法に抵触する可能性があるのではないか。前例となることはどちらにしろ同じであるということで典範の改正が上策であろうと考える。やはり生前退位である以上、御本人の意思がどうなっているかということが必ず必須だろうと思うが、その中で憲法に抵触したり政治問題化を回避するためには、高齢のみを理由とするというのが一番単純明快でよいのではないか。一応70歳と出したのは、継げる方が限られているので一般社会の65歳よりは少し高目にした。私が御提案している場合は、理由が高齢のみので、国会の議決で決まる必要はないだろう。[5]
  • 退位もしくは譲位が必要になったならば、「単行の特別法を制定して、これに対処すればよい」という考えを、既に50年以上前に提示された方がおられる。しかも、それは新皇室典範を立案する臨時法制調査会の幹事を務めた宮内省の文書課長、後の宮内庁営繕部長の高尾亮一氏でありまして、昭和37年、1962年、内閣の憲法調査会に提出された「皇室典範の制定過程」と題する報告書の中で、はっきり述べておられる。[6]
  • 皇室制度に関心を持つ方々の中には、生前退位について否定的な意見を持っている方もおられる。したがって、将来にわたって御退位を認めるということについては結論を得るのに時間を要すると思われますので、この問題については多くの国民がその辺でいいのではないかという大方の合意が得られる方法として、早くこの問題について結論を得るためにも、当面の措置として皇室典範の特例とすることが適当ではないか。[16]
  • 特例法で定める場合においても、重要な事項、例えば御高齢という場合の年齢など は法律に書かないと、例えば政令に任されても政府としても困ると思う。だから、主要事項というか基本的な事項は法律で定め、細かいことになると政令以下の法令に委ねざるを得ない面があると思う。生前退位を許容するというのであれば、それは一番大事なことは年齢から、年齢については、法律で規定するべきではないか。そうすることが皇室制度の安定性のために必要ではないか。その上で、その年齢以上になっても天皇の健康状態なり御意思なりによって引き続き在位されるのであれば、それはもちろん天皇のお気持ちが大事。[16]
  • まず実行することは、今上天皇の譲位を実現するための対応を考えるべきで、具体的には、まず特別措置法で今上天皇の譲位を可能にし、引き続き皇室典範の改正による譲位制度導入の是非を議論すればよいのではないか。[18]
  • 特別措置法による場合であっても恣意的な譲位とならないよう、 個々具体の場合に天皇の御意見を確認し、また、天皇の御年齢、御体調といった客観的な状況や政治的影響の有無、国民の受け止め方などを確認の上、譲位の可否を判断し、特別措置法により対応することとすれば問題ない。[18]
  • 今回については、特別措置法で譲位を認めるということとしても、おことばの内容やこれまでの経緯を見れば譲位は恣意的なものでないと国民に受け止められることになると思われ、恣意的なお気持ちでないことや御高齢であることを御体調に鑑み、恣意的でない状況であることが織り込まれた内容の特別措置法を定めることとすれば、恣意的な譲位ではない譲位の先例となるのではないか。[18]

課題[編集]

  • 平成の天皇のこの四半世紀は充実した歳月であったと拝察いたしますが、今回のご発言の結果、もし超法規に近い「今の天皇に限り」などという措置が講ぜられるならば、悪しき前例となる。そのために125代続いた皇統が内から崩れるようなことになれば、皇室を護持してきた国民のいままでの努力は烏有に帰する。[5]
  • 特措法ははっきり言って中途半端。皇室典範の改正ということになると高齢のみということであれば、 そんなにごちゃごちゃした話にならないのではないか。ただ、急ぐということをあまり考えるのは、下手するといろいろな問題を引き起こすと思うので、 いざとなれば天皇がお疲れで休養をとる必要があるということであれば、現行制度でもとりあえずの対応は可能であるから、あまり急ぐかどうかということを論点にするのは、 国民主権の下で今回の問題を考えるという上ではあまり適切ではないのではないか。[5]
  • 例えば皇室の中で天皇の王位継承権に対する皇族の中の争いがありますし、皇位継承権のある方同士の争いでありますから、これはなかなか難しい。そうしますと、それなら代わりばんこにやればいいではないかなどと言った鎌倉幕府のおかげで、東西日本に空前の天皇が二人いるような時代が生じた。それは臨時措置法でやればいいではないかという方と通ずる。[19]
  • 憲法は皇位継承について「法の定めるところにより」とせず、特に国会の議決した「皇室典範の定めるところによる」と明示している。特別法は、特別法でどうにでもなる前例を作り、典範の権威・規範性を損なうのではないか。「王道」をいくべき。 高齢化に対応する譲位に論点を絞り、天皇の高齢、本人の意思、皇室会議での承認といった条件を付ければ典範本法の改正はさほど難事とは思えない。 典範や皇室経済法、宮内庁法など関係法令の小幅手直しが必要となる箇所は幅広く多いので特別立法になじまない。[14]
  • 皇太子不在となることへの対処は特別立法になじまない。天皇の真摯な問題提起をあたかも一人の天皇のわがままであるかのように扱い、しぶしぶ一時の「抜け道」を作る安 易な対処との印象を与えかねないのではないか。 世論も譲位容認が9割、将来の天皇にも適用が7割と圧倒的に典範改正を支持している。 当面は特別立法、将来は本法改正という2段階では、過去の経験から見て、当面の対処が済めば機運がしぼんで先送りとなるおそれがある。[14]
  • 現天皇は即位後朝見の儀で「日本国憲法と皇室典範の定めるところにより皇位を継承しました」と内外に即位を宣言された。次の天皇は「日本国憲法と皇室典範及び特別措置法により」と宣言されるのでしょうか。天皇の皇位継承にかかわることは、いかに急ぐにしても、やはり「王道」をいくべきではないか。[14]
  • 退位をどの天皇にも適用できる恒久制度として設けると、皇位の安定性を大きく揺るがし、皇位は不安定になる。国事行為の臨時代行や摂政設置という憲法上の制度をとらず、退位のための改正を行う政府としての皇室典範改正の提案理由がない。政府としての合理的説明ができないなら憲法上瑕疵のある退位となり、次の天皇の即位にも憲法上疑義が生ずる。 天皇の正統性に問題ありとなる。[11]
  • 法は消滅するが、退位を認めた前例となる。 そのため、将来の短期間での退位を排除する理由がなくなる。 皇室典範改正と皇位を不安定にする点では質的な差異はない。退位の要件を「高齢」とすることで短期間での退位は排除できると書いたが、しかし、「高齢」とは別の理由による退位も、別の特別措置法を制定することで可能になる。 政府としての新法、すなわち特別措置法の提案理由がない。 [11]
  • 構造的に高齢を理由とする執務不能というような事態は繰り返し繰り返し起こり得るわけ。それが分かっているのに、その都度、特例を設けるというのは、やはり妥当でないと考え、その時々にまた発言によってまた特例ということ自体が非常に不安定で、かつ外見からは、その発言によっていろいろな制度が左右されるという印象を与えかねないので得策ではない。 [22]
  • 長寿社会を迎えた我が国において、高齢の天皇の課題は今後も生じる。このような課題は皇室典範制定時には想定されていなかったのであるから、時代 の変化に合わせ、皇位継承事由を「崩御」のみに限定するという原則を見直し、退位制度も原則の一つとして位置付ける必要があるのではないか。その方 が安定的な皇位継承に資するのではないか。
  • 今上天皇に限ったものとする場合、後代に通じる退位の基準や要件を明示しないこととなるので、後代様々な理由で容易に退位することが可能になるのはないか。その場合、時の政権による恣意的な運用も可能になるのではないか。
日本の皇位継承順位令和元年(2019年5月1日 -
順位 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日 現年齢 今の天皇から見た続柄 摂政就任順位
   
第1位 秋篠宮文仁親王 あきしののみや ふみひと 男性 1965年11月30日
(昭和40年)
58歳 親等2/弟 / 上皇明仁第2皇男子 第1位
第2位 悠仁親王 ひさひと 男性 2006年09月06日
(平成18年)
17歳 親等3/甥 / 秋篠宮文仁親王第1男子
第3位 常陸宮正仁親王 ひたちのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
88歳 親等3/叔父 / 昭和天皇第2皇男子 第2位

退位後の新体制の課題[編集]

明治以降、皇位の継承は「崩御」よると定められてきたため。退位の儀式は新たに作ることになる。200年前の光格天皇の事例を参考にするのか。

  • 崩御に伴わない即位の儀式の日程をどう設定するか。
  • 退位後の今上天皇と皇后を支えるのに必要な人員お住まいの有り様。
  • 皇太子待遇になる秋篠宮文仁親王ご家族を支える職員の人員やお住まいの拡大。
  • 退位後の天皇と皇后の活動費・生活費の区分・金額をどうするのか。
  • 皇太子待遇になる秋篠宮とご家族の生活費の支出や区分・金額。現行は皇族ごとに規定した皇族費から支出。[43]

昭和天皇と退位[編集]

昭和天皇にも生前退位の問題があった。三度にわたって退位を願われた。1回目はA級戦犯の起訴に対応されるもので、それは終戦後間もな くの20年8月29日に、自分が責任をとって退位することによっておさめられないかとおっしゃられたのが、木戸内大臣に連合国につけ込まれて天皇廃止まで持っていかれると諌められたので控えた。2回目が、東京裁判判決の言い渡し日。これは昭和23年11月12日に、ここで戦争責任のけじめをつけようと考えたのだろう。しかし、占領政策の前途を危惧したマッカーサーが、吉田茂を通して反対したので見送られた。 最後は、昭和27年4月の対日講和条約の発効に際してのこと。ここで最後のけじめをつけたいと昭和天皇は願われたのが、それは最初の退位の御希望のときには諌めた木戸が勧めたのでしたが、天皇もそういうお気持ちであった。しかし、四囲の環境が許さず、結局天皇は退位を断念した。[12]

天皇の権威[編集]

天皇は、日本の歴史上の存在、いいかえると、大日本帝国憲法や1946年憲法で定義され る以前から連綿として続いてきた。日本人もその長い歴史の中で、天皇のことを感じ考えてた。

法律面の話題ばかりでるがはたしてそれでいいのか。歴史的に国王にはキングという「世俗」secularの役割とプリーストと いう「聖」sacredの役割とがある。日本の天皇は伊勢神宮に祀られた神々を皇室の祖神と仰ぎ、神道の祭り事を行う大祭司である。その文化的伝統の継承者として、陛下は国民とともに祈り、先祖の霊を祀り、お勤めをはたしてた。

天皇がいまよりも国政に関係したと思われる明治天皇が、キングとプリーストの仕事のどちらを大切にされたか。日露戦争の翌、明治39年に、天皇にとり大切なことは何かを歌に詠んだ。「かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと」。 天皇家にとり「まつりごと」とは「祭事」が第一で、天皇は国民にとってまず神道の大祭司である。それだから「伊勢の宮居を拝みての後」に、「まつりごと」の第二である「政事」の面での仕事に国王として耳を傾けるとした。そこが大切でありまして、万世一系の世襲の天皇は、神道の文化的伝統の中心的継承者であり、それゆえに権力はないが権威が保たれてきたのである。

この日本の制度は、権力と権威を一身に担わねばならぬアメリカの大統領制よりよほど健全。政治とはとかく泥仕合になる。そのとき、大統領がスキャンダルの泥にまみれれば、国家の品位も地に落ちる。日本では首相が失脚し権力の座から転落しても、天皇の品位と権威は変わらない。

では、その天皇の権威というか国民にとって天皇様の有り難さは何に由来するか。天皇が日本の象徴であるのは、天皇家が日本国民の永生の象徴でもあるからで、一系の天子が代々続くことは、代々民族の命が続くことの象徴でもあるからと存じる。人は死んでもこの民族は続くと感じられるからこそ、有り難く尊い。また、それだからこそ皇統の維持が大切。 祖先と連綿とつながるというのは、天皇家も私どもも祖先の霊に祈るからである。 人は手を合わせるとき、家族始め生きている人の安寧、平和だけでなく、亡くなった父や 母や祖先のことも思い浮かべる。皇室が国民統合の象徴であるとは、生きている日本人だけの統合ではなく、死んだ祖先を含んだ上での統合ではないか。また、天皇、 皇后が戦場で死んだ人の霊を弔うと、有り難いのはそのゆえかと存じる。 伝統とは、生者と死者からなるデモクラシーで、それだからこそ私たちは心を込めて祈り、故人の声に耳を傾けるのではないか。そうした次第から、天皇様は続くこと、ということは、そこにましまして祈ってくださることに最も大切な意味がある。[21]

戦後の象徴天皇というのは、祈ることと国民と苦楽をともにして信頼をお互いに醸成することによって象徴天皇というのは確立された。これは今の今上天皇が非常にすばらしい方だからやり過ぎたことについてまことに天皇は立派に仕事をしたが、それを天皇の役割の規範と考えて、それが肉体的、精神的にできないときには退位するということをお話しになると、 それはかえって悪いことではないかと思う。人間、年をとるから、いつまでもそ のように外に出て御活躍する必要はないので、それはそういうことをしないといけないと いうようにマスコミが言うから皆さん思っているという節が非常に多い。だから、もう少しお休みいただいても、それで天皇の象徴としての意味が薄れるようなことはない。[21]

天皇は「存在されるだけで尊い」とか「御簾の奥で祈るだけでいい」と祭り上げることは、かえってかつてのような神格化や政治利用につながるおそれも出てくるのではないか。[14]

象徴とはなにか[編集]

象徴としての機能は一般的には天皇の行為あるいは言葉で示されることから国民が感得する、 いわば能動的な象徴機能が考えられる。そのわかりやすい例を挙げれば、戦後の全国御巡幸。それに続くその後のさまざまな機会を通して各地を回られて、国民との交流を図ると いうのが能動的な象徴機能。一般的にはそういうことで理解されている。

もう一つは、受動的な象徴機能。つまり、これは天皇がいらっしゃる、存在されるというところに発現される機能がある。昭和63年秋から64年1月までの111日間にわたった昭和天皇の御闘病という事態に直面して、多くの国民が御快癒を願うために行った記帳は皇居前と地方自治体と全国の神社寺院で行われ、2,000万近くあったのではないか。これはある意味ではものすごくドラマチックな事象、現象かもしれないけれども、そうした受動的な機能、すなわち存在されている、言葉や行為以外にそもそも象徴として存在されていらっしゃることによって果たされる機能というものも無視できないだろう。 [12]

歴代全天皇の御事蹟を「実録」などを見てもそれぞれ個性がある。当然、今上天皇は現在のようなあり方をされてきましたが、これからの方々がどうされるかは、それぞれ異なるはず。天皇はモノ、物体でなくヒト、人格から、それぞれ意思も理想も持っている。今の天皇がお考えの意思と理想と次の方のものは、もちろん世襲の伝統継承者としての根本は変わらないが、具体的な在り方は必ずしも一致しなくていいと思われる。問題は、象徴天皇としての役割をどう考えられ、どのように果たしていかれるのか、その御自覚に基づいて、それぞれ体現していかれるだろう。[6]

憲法の規定はともかくアメリカから押し付けられたようなものではなくて、君臨すれども統治せずというのは日本が幕末以前から千数百年の歴史、伝統がある。 平安時代から既にもう時間・空間の抽象的支配者ということで摂関家あるいは院、あるいは幕府、こういう権力主体から擁立されている存在。したがって、象徴の言葉もあれはGHQのシンボルを訳した訳語だと言われていますが、しかし、その前に歴史家からあるべき 天皇の姿として象徴という言葉を使っておりますので、日本人が使い始めた、学者が使い始めたという言葉で、そういう象徴天皇の言葉が定着するいきさつを踏まえた上で憲法上の象徴ということを理解すべき。[8]

日本国憲法では、天皇が「日本国の象徴」であるだけでなく「日本国民統合の象徴」でもあるとされていることである。つまり、天皇の御存在そのものが「日本国の象徴」であるというにとどまらず、天皇が「国民統合の象徴」とされていること、しか も国旗や国歌とは異なる「人格」が象徴とされていることから、そこに何らかの「国民統合のための具体的な行為・行動」が期待されていると考えることができる。[9]

象徴であることから、直ちに何らかの具体的な権能とか行為を導くような権限付与規定ではないと解釈しており、そういう意味で何らかの公務を積極的に基礎づけるとか、あるいは特定の待遇や行動規範を導いたりするものではない。[22]

天皇の役割とは[編集]

  • 御厨は、天皇は国民統合の象徴としての責務を、憲法に規定される国事行為だけでなく、各地で国民や国民の思いに触れる「旅」と表現され、自ら開拓してきた自負心をのぞかせたと書いていた。(日本経済新聞、8月10日)。その通りと存じる。天皇の御努力はまことに有り難いが、外へ出て能動的に活動せねばならぬとは特に今の天皇に強いお考えで、その天皇御自身で拡大された天皇の役割を次の皇位継承者にも引き継がせたいご意向に見受けられる。しかし、これは今の天皇の個人的解釈による象徴天皇の役割を次の天皇に課することになるのではないか。[5]
  • 天皇が祈ることは公務・役割は憲法の解釈の上ではなくて、歴史的にそうだったのではないか。神事を先としというのは順徳天皇のときからそういうことは記録されているわけで、明治天皇は戦後の天皇よりも国事に深く関係されたと思うが、一番国事に関係されたに相違ない日露戦争の翌年。そのときに先ほどのような歌を詠まれて、やはりまず神事である。祭事である。その次が政事だとおっしゃっているので、これは大切な教訓ではないかと思う。 皇后様も宮中に入られたころ、憲法にも書いてないが、その祈るということが自分の役目になるということを最初はあまり御自覚しておられなかったのではないかと思う。それがある年からそういうことをお話しになるようになった。[21]
  • 日本国の国家としてのまとまりと長い歴史を国民主権という日本国憲法の原則を踏まえつつ、目に見える形で示すことである。[5]
  • この象徴という言葉は、客観的に見ると、日本の国というまとまりを具体的に示しているのではないかと思う。これは端的に示しているのは、例えば総理大臣の認証式で辞令を渡している。これは民意の結果としてその総理大臣が選ばれているわけから、国民からの負託 ということを形の上で具体的に示している例だと思う。その象徴を世襲の天皇にやっていただくということになったということに関して言えば、客観的に見れば、日本の歴史の長さを端的に示すという形としてこういう形がとられているというように考えられる。 それは例えば企業とか学校でも長く続いているということが一つの売りになるように、 やはり日本の国の品格をあらわすような一つのやり方としてこれが我々の総意で選ばれているというように思う。そういうことを考えますと、皇室というのは民意を先導する というよりは、民意を反映した国家意志を天皇の行動や発言で示す存在であるというように考えられる。 [5]
  • 機関として決まっている今上天皇像と、それぞれの代の天皇が個人としてかくあるべしとお考えになる天皇像が違っていて、後半の部分は個々の天皇によって違ってよいのか。[13]
  • 今上天皇が話しているのは、象徴天皇という枠組みがあってそこへ私が入っていくというのではなくて、私がこれまで歩んできた道そのものが象徴天皇の公務としての役割を果たしてきて、それが象徴天皇だったのだという言い方をされていると思う。この論理は、妙な話が、はっきり言えば今の天皇の論理だと思う。この論理は次の天皇もまたそれが使えるわけである。私は先帝と違う形の道を歩む。それは政治的、法的に決まっている国事行為は別にして、その中で私の歩んできた、私がやろうとする象徴 としての行為はこういうことという間に、今の天皇と次の天皇、あるいはさらに次の天皇との間に大きなギャップが生じることは明らかに起こりうること。[10]
  • 平成という一つの元号の下で時代を天皇とともに歩んできたという国民の一体感が国の安定と調和を保ってきた。すなわち、同じ今上天皇がいつまでもいるという御存在の継続そのものが国民統合の要となっているのではないか。御公務をなされることだけが象徴を担保するものではないとあえて思量する次第。[12]
  • 新憲法案の起草原則を 示したGHQ最高司令官マッカーサー自身、「天皇は国家の元首であり、その地位は世襲である。Emperor is at the head of the State. His succession is dynastic.」ということ を認めておりる。したがって、象徴天皇とは、日本国を代表する元首の立場にあり、日本国民の統合を象徴する役割を担う存在だ、と解釈してよいと思われる。 しかも、留意すべきことは、「象徴」と言っても国旗のようなモノではなくて、意思のあるヒトだということである。そのヒトは、私どものような一般国民と異なりまして、 ヤマト朝廷以来、およそ2000年も続く皇統を世襲する格別な身分にあることを自覚され、 また国家と国民統合のために尽くす責任感と理想像を持っておられる至高の尊い人格であ り、それを常に目指しておられると見られる。こう考えてよいとすれば、象徴天皇の役割は、憲法でその地位を基礎づけている日本国民の総意に応えられるよう、国家と国民統合のため、自ら可能な限り積極的に「お務め」 を果たされることだと思われる。[6]
  • 天皇のお仕事というのは、昔から第一のお仕事は 国のため、国民のためにお祈りされることである。これがもう天皇の第一の仕事で、 これは歴代第一。だから、外へ出ようが出まいがそれは一向構わないことであるということを、あまりにも熱心に国民の前で姿を見せようとしている今上天皇の有り難い御厚意を、そうまでしなくても今上天皇としての任務を怠ることにはなりませんよと申し上げる方がいるべきだった。明治天皇の御製にも「民のため心のやすむ時ぞなき身は九重の内にありても」と。だから、宮中にあっても絶えず祈っておりますぞということで、これが私は天皇の本当のお仕事であって、あとはもうお休みになって宮中の中でお祈りくださるだけで十分なのと説得すべき方がいるべきだった。[19]
  • 権力から離れた次元で国民の尊敬やあたたかい気持ちの軸となる存在であり続けてきたのが皇室。天皇様は何をなさらずともいてくださるだけで有り難い存在であるということを強調したい。[7]
  • 天皇は神に近い存在から、鳥居の下をくぐらない。したがって、祈祷よりもはるかに時間、空間の抽象的支配者であって、国民を格付けする総本山であって、要するに抽象的支配者であるということの存在自体が重要なのであるから、お忙しい業務は皇太子や弟宮ら皇族に代行をお願いしても一向差し支え はないというように考えておりる。[8]
  • 『君主制の研究』の著者、佐藤功教授によれば、「象徴の社会的・心理的機能」 としては、二つの側面が考えられる。一つは「消極的・受動的機能」、もう一つは「積極的・能動的機能」である。この議論を踏まえるならば、天皇が「日本国及び日本国民統合の象徴である」という場合にも、「消極的・受動的機能」と「積極的・能動的機能」の二つが考えられましょう。一つは、人々が「天皇を見ることによって日本国及び日本国民統合の姿を思い浮かべることができる」という「消極的・受動的機能」である。この考え方は、後で述べる「天皇は御存在そのものが尊い」という議論に通じるところがあると思われる。 そして、もう一つは、日本国民が「天皇を通して統一への自覚と一体感を深める」という「積極的・能動的機能」である。しかも、国旗と違って「人格」が象徴とされていることから、その行為・行動を通して、積極的・能動的機能はより大きく働くことになりましょう。例えばあの東日本大震災の際に、今上天皇がビデオメッセージを出されたこと によって、国民は揺れ動く心を一つにし、国民としての一体感を高めることができたのではないか。また、天皇が全国各地を訪問され、被災地を訪れて被災者を慰められ る。そして、それを通して、国民が一体感を取り戻した。これが「象徴」の「積極的・能動的機能」ではないか。この考え方は、象徴としての行為・行動こそ、国民統合の象徴たる天皇にふさわしいとの考えに通じる。[9]
  • 天皇は、その存在自体が象徴であって、特段御活動なさらなくても象徴であるという意見がございますが、そのような考え方があることは承知しておりますけれども、さまざまな象徴論があってしかるべき。さまざまな象徴像や象徴観に対応できるような仕組みがあることが望ましいと考えており、そうした仕組みの一つとして譲位の導入も望ましいと考えているところである。[17]
  • 政党政治という観点から見ると、大正9年、1920年9月に、政友会の原敬首相が述べた「政府は皇室に累の及ばざる様に全責任の衝に当るは即ち憲政の趣旨にて、又皇室の御為めと思ふ。皇室は政事に直接御関係なく、慈善恩賞等の府たる事とならば安泰なりと思ふて其方針を取りつつある」という内容は、「慈善」を国民に寄り添うと考えるなら参考になる指摘なのではないか。[44]

新天皇について[編集]

  • 国民としては同じようなイメージで新天皇の仕事の内容を期待するということは十分に考えられる。それについては2点あり、一つは、まず国民が例えば天皇のいろいろな公的行為 についてどこまで望んでいるかというのが実はあまりよくわかっていないのではないかと 思う。例えば絶対こういうケースが来てくれなければ困るとまで思っているのか。 そういう調査がまずされる必要が本当はあるのではないかというように思う。 もう一つ、やはりこの天皇というのは世襲という特殊な継ぎ方をするものだということである。なので、やはり継ぐ方によって いろいろ変化するということは避けられないことだと思うので、例えばこういう有識者会議の機会にそういうことを国民にわかっておいてもらう必要があるのではないか。[5]
  • 現状のままの公的行為を全て全身全霊でできてこそ天皇であるとする今上天皇の御認識は立派で有り難いことが、同じことを国民が期待すれば、次代の天皇に対する過剰な期待を招き、能力評価を行い、苦しめることになる。[11]

三笠宮の意見書[編集]

今から70年前の1946(昭和21)年11月3日。三笠宮崇仁親王が、新しく制定される皇室典範について意見を述べるために枢密院に「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」を提出した。そこには天皇の譲位についても述べていた。

(前略)之を崩御に限ることについては純粋に世襲天皇制だけを考へ皇位継承を廻つての色々の紛争を避ける為には崩御だけとするのもよいが新憲法基本的人権の高唱されてゐるに拘らず、国事国政については自己の意志を強行することも出来ないばかりでなく、許否権すらもない天皇に更に「死」以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」といふ精神に反しはしないか?
(中略)そこで将来そんな場合―勿論百年に一度位かも知れないが―天皇に残された最後の手段は譲位か自殺である。天皇が聡明であり、良心的であり、責任観念が強ければ強い程此の際の天皇の立場は到底第三者では想像のつかぬ程苦しいものとならう。個人に自殺を要求する様な法律はあり得べからざることであるから天皇に譲位といふ最後の道だけは明けておく必要がある。(中略)以上の自由をも認めないならば天皇は全く鉄鎖につながれた内閣の奴隷と化するであらう。 — 三笠宮崇仁親王、新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)

女性宮家創設[編集]

民進党野田佳彦幹事長は18日、今上天皇の退位を可能とする法律の制定に関連し、皇族女子が結婚後も皇族にとどまる「女性宮家」の創設も議論すべきだとの認識を示した。野田氏は東京都内で記者団に、「皇族減少に対応するため、女性宮家の議論も俎上に載せたい」と述べ、与野党協議で取り上げる考えを示した。

野田氏は首相在任中に女性宮家の創設を検討した経緯があり、この日は「女性宮家という言葉を入れるかどうかは別としても、考え方として残したい」と語った。民進党は昨年まとめた退位に関する論点整理で、女性宮家創設を可能とする皇室典範改正を求めていた。[45]

天皇の人権[編集]

今の憲法でも天皇制度が採用されている。一方、基本的人権の保障もあるという中で、婚姻の自由だとか職業選択の自由だとか、いろいろな形の権利が国民に保障されるものが、天皇及び皇族に対してだけは例外的に制限されている。つまり、天皇制度そのものをどうするかというような議論にまでさかのぼらざるを得ない。現憲法が君主制の一種を採用しているということであるならば、そのこと自体が既に基本的人権の埒外である。 つまり、天皇という制度を置いているのであれば、共和制と違って、それは国家の基本形態として埒外、つまり例外が最初から根本にある。その中でのことだったら、その例外の中での派生的な一つのこととして処理できるのではないか。 もし、ここで天皇制度を今の象徴天皇制、そのものを一から見直すというような議論になってくれば、現憲法を前提にしている限りにおいては、憲法14条にいう「法の下の平等」に基づく基本的人権の保障は天皇制度と共存するものであるべきだと考える。天皇の規定が憲法の首章に掲げられている所以である。[12]

有識者会議での質疑・応答[編集]

第2回[編集]

回答は宮内庁[46]

  • なぜ、天皇の公務が増加しているのか。
    • 平成13年に副大臣が設置され、認証官任命式で任命される認証官の数が増加したこと。国の数が増えたことにより外国大使の数が増えたこと、日本での定例的な国際会議が増加したこと等により、外国要人等と会うすることが増加していること 。慰霊の旅など外国訪問が増加していること 。の大きな自然災害が増え被災地被災地へのお見舞いが増加していることが挙げられる。
  • 御活動の見直しは何を基準にしているのか。
    • 特段の基準等はない。
  • 公務の中には官庁からの依頼で定例的に行われているものと、災害のお見舞いや慰霊の旅とどちらが見直されたのか。
    • 定例的な物に限られる。
  • 公的行為は、昭和天皇のときからずっと続いていた行為なのか。
    • 時間をかけて積み重ねてきたものであり、どこから始まったかを示すことは大変困難。
  • 昭和天皇が57歳のときに行われた行幸啓における御活動の件数が多いのはなぜか。
    • 活動件数125件については当時は交通事情が非常に悪かったため、1回の地方訪問で色々な地域を回られたことによるものである。
  • 宮中祭祀における式年祭はどれくらいの件数になるのか。
    • 年によっては全くない年もあり、平成27年は式年祭はなかった。
  • 取りやめた活動は代替わりしたときに復活するのか。
    • 復活は予定していないと思われる。
  • 昭和天皇の御闘病を逐一公表した理由は何か。
    • 明治天皇や大正天皇の崩御前における御容体の発表形式に倣ったものである。
  • 掌典職が平成の大嘗祭にどのように関与したのか。
    • 他の宮中祭祀と同様に、祭に直接従事し、例えば、悠紀殿及び主基殿に神座を設ける、あるいは、掌典長が悠紀殿及び主基殿で祝詞を申し上げる、神饌を準備し、悠紀殿及び主基殿に運ぶといったことを行った。
  • 「葬場殿の儀」で祭詞を奏する「祭官長」は掌典職か。
    • 「祭官長」は掌典職ではない。

第6回[編集]

回答は事務局[47]

  • 宮中祭祀は、天皇の行為の分類の上ではその他の行為に分類されるものであって、公的行為ではないという理解でよいか。
    • 政教分離原則があるという前提の中で、現在はその他の行為に分類されており、公的行為ではない。
  • 天皇が行っている公的行為を、天皇からの委嘱を受けて皇族の方が行った場合、象徴的な行為と認められるのか。
    • 皇族方の御活動のうち、例えばいろいろな式典等に参加される場合は御公務だが、それは天皇の象徴的行為の代行として行っておられるのではなく、皇族としての御公務という位置づけである。(宮内庁)
  • 少しずつ公務を譲ることは可能なのか。
    • 公務の削減はこれまでも取り組んできており、これ以上の削減は困難である、また、天皇陛下は重要な務めとそうでない務めがあるとはお考えになっていない。(宮内庁)
  • 秋篠宮が公務をする場合の経費は宮廷費が充てられるのか。
    • 宮廷費である。
  • 恣意的な退位を回避するため、陛下の健康状態について、客観的に医師の診断を出してもらうことは可能か。
    • 難しい。(宮内庁)

第7回[編集]

回答は事務局[24]

  • イギリスには退位の制度はないのか。
    • 退位の一般的な制度はないが、エドワード8世が退位した際に特別法を制定している先例があるので、法理論上は可能。
  • 退位理由として挙げられる「次代の準備ができている」という宣言は、どういう基準で、どのような形で認証されているのか。
    • 前国王の退位によって即位された新国王の年齢は、例えばオランダは46歳、ベルギーは53歳、スペインは46歳であり、働き盛りの年齢であることも考慮されているのではないか。(宮内庁)
  • 公務の削減は宮内庁の運用の問題ではないか。
    • 公務の見直しは考えていくが、天皇の御意思と客観的な情勢からして大幅に減らすことは現時点では困難であり、特に国民の気持ちや期待に応えていくという観点からは、各種世論調査を見ても、天皇陛下の被災地へのお見舞いや外国御訪問は国民が極めて重要だと考えており、こうした部分については減らすことは無理だと考えている。(宮内庁)

第8回[編集]

回答は事務局[48]

  • 委任は臨時だが、摂政は長期にわたり崩御まで続くという理解で良いか。
    • 摂政が置かれる場合は、天皇の意思能力がなくなっており、基本的には不可逆的である場合が想定されている。(事務局)
  • 摂政制度は国事行為の代理のためだけにあるものなのか。
    • 摂政は、憲法で規定されている国事行為の法定代理であり、天皇の公的行為を摂政が事実上行うことは考えられるが、その場合でも、あくまで摂政としての行為であり、象徴としての行為とはならないと考えられる。(事務局)
  • 摂政が置かれるような状況においては、天皇が憲法上の国事行為すらできない状況にあるのだから、公的行為ができるとは考えにくいという理解で良いか。
    • 公的行為は、天皇が自然人として、象徴としての地位に基づき行うものであり、象徴の地位にあっても意思能力が失われていれば自然人としての行為はできないので、天皇の公的行為は存在しないことになる。(事務局)

有識者会議開催状況[編集]

  • 第1回 平成28年 10月17日
  • 第2回 平成28年 10月27日
  • 第3回 平成28年 11月7日
  • 第4回 平成28年 11月14日
  • 第5回 平成28年 11月30日
  • 第6回 平成28年 12月7日
  • 第7回 平成28年 12月14日
  • 第8回 平成29年 1月11日 
  • 第9回 平成29年 1月23日
  • 第10回 平成29年3月22日
  • 第11回 平成29年4月4日

[49]

天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議出席者[編集]

有識者会議メンバー[50]
ヒアリング対象者
政府側

議事概要[編集]

座長の選任
構成員の互選により、今井構成員を座長に選任した。[3]
運営方法等
運営方法等 座長の指名により、御厨構成員を座長代理に選任した。[3]
庶務等
有識者会議の庶務は、内閣官房において処理する。 (2)
内閣官房は、必要に応じ、宮内庁内閣法制局その他関係省庁の協力を 求めるものとする。

脚注[編集]

  1. ^ 先代の第124代・昭和天皇崩御に伴い践祚した日。
  2. ^ ハフィントン・ポスト 安倍晋三首相「重く受け止める」、今上天皇の生前退位意向を受けコメント(全文)
  3. ^ a b c 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」
  4. ^ 今上天皇の御活動の状況及び摂政等の過去の事例
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 古川隆久 日本大学教授
  6. ^ a b c d e f g h i j k 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 所功 京都産業大学名誉教授
  7. ^ a b c d e f g h i 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録 櫻井 よしこ ジャーナリスト
  8. ^ a b c d e f g h i j k 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録 今谷 明 帝京大学特任教授
  9. ^ a b c d e f g h i j k 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第5回)議事録 百地 章 国士舘大学大学院客員教授
  10. ^ a b c d e f g h i 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 ノンフィクション作家の保阪正康
  11. ^ a b c d e f g h i j k 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第5回)議事録 八木 秀次 麗澤大学教授
  12. ^ a b c d e f g h i j 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 大原康男 國學院大學名誉教授 
  13. ^ a b c 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録 岩井 克己 ジャーナリスト
  15. ^ a b c 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録 笠原 英彦 慶應義塾大学教授
  16. ^ a b c d e f 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録 石原 信雄 元内閣官房副長官
  17. ^ a b c d e f 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第5回)議事録 高橋 和之 東京大学名誉教授
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第5回)議事録 園部 逸夫 元最高裁判所判事
  19. ^ a b c d e f g h 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録  渡部 昇一 上智大学名誉教授
  20. ^ 天皇はなぜ「摂政」を望まれないのか 過去64例、設置理由「幼少」が最多 産経ニュース
  21. ^ a b c d e f 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 平川祐弘 東京大学名誉教授
  22. ^ a b c 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第5回)議事録 大石 眞 京都大学大学院教授
  23. ^ 読売新聞 2016年12月1日
  24. ^ a b 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第7回)議事概要
  25. ^ a b c d e 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 本郷 恵子 東京大学史料編纂所教授
  26. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第8回)議事概要
  27. ^ 有識者会議ヒアリングレジュメ 園部 逸夫
  28. ^ 天皇の地位・公務等に関する意見 大石 眞(京都大学教授)
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録  新田 均 皇學館大学現代日本社会学部長
  30. ^ a b 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 君塚 直隆 関東学院大学教授
  31. ^ a b c d e f g h i 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 本郷 恵子 東京大学史料編纂所教授
  32. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 君塚 直隆 関東学院大学教授
  33. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 平川祐弘 東京大学名誉教授
  34. ^ a b 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 古川隆久 日本大学教授
  35. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第3回)議事録 所功 京都産業大学名誉教授
  36. ^ a b 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第4回)議事録 石原 信雄 元内閣官房副長官
  37. ^ 有識者会議ヒアリングレジュメ 園部 逸夫
  38. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 新田 均 皇學館大学現代日本社会学部長
  39. ^ a b 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 新田 均 皇學館大学現代日本社会学部長
  40. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第10回)議事録 新田 均 皇學館大学現代日本社会学部長
  41. ^ 皇室典範どこまで変えるべきか - 木村草太(首都大学東京教授)
  42. ^ 皇室典範どこまで変えるべきか - 木村草太(首都大学東京教授)
  43. ^ 読売新聞 2017年 1月24日p3
  44. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第9回)議事概要
  45. ^ 女性宮家の創設「議論すべき」…民進・野田氏 ヨミウリ・オンライン
  46. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第2回)議事概要
  47. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第6回)議事概要
  48. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第8回)議事概要 
  49. ^ [1]
  50. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議(第1回)議事概要