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利用者:赤井彗星/執筆中/岡山県の歴史/

本項では、岡山県の歴史について記述する。

歴史[編集]

古代[編集]

現在の中国山地四国山地が誕生したのはおよそ6千万年前の秋吉造山運動の頃と考えられている。その後も日本列島全体で大規模な地殻変動を繰り返し、中国山地や吉備高原の部分が隆起、瀬戸内海の部分が陥没し、約百万年前に現在の様相を形作った。この頃、本州九州朝鮮半島と陸続きになっており、瀬戸内海においてもまれにナウマン象化石が出土するなどしている[1]

縄文時代[編集]

岡山県の地域に人類が居住し始めたのは洪積世前縄文時代の頃であると考えられている。倉敷市下津井の鷲羽山遺跡や田ノ口の竪場島遺跡、玉野市日比の宮田山遺跡などにおいてサヌカイトを原料とするなどが発見されている。ただし、彼らが居住していた頃は本州とユーラシア大陸が陸続きとなっており、大陸系諸民族の一派にすぎず、今日の日本の民族や人種とはかかわりがないとする説もある[2]

洪積世末期、日本と朝鮮半島が切り離され、現在の瀬戸内海へ水が流れ込み、海を形成しはじめ、住民の生活様相は一変する。それまでは狩猟民族としての活動痕跡しか残されていなかったものが、この期を境に漁撈民族としての活動痕跡が残されるようになった。また、魚を煮炊きする為の土器も発明され、特に県南の遺跡で数多く発見されている。

弥生時代[編集]

弥生時代の直前、紀元前3世紀頃になると西日本では急激な人口増加に伴う深刻な食糧不足に直面することとなる。赤磐郡の前池遺跡ではドングリアワヒエといった食材を蓄えた食糧庫の遺跡などが発見されており、狩猟、漁撈のみでは生活が立ち行かなくなった事を指し示している。そのため、大陸より伝えられた稲作の技術や青銅器鉄器などはたちまち西日本全域に伝播し、弥生文化が幕を開けた。稲作農耕の始まりと共に集落では指導者的な人物が現れ始め、社会を形成していった。農耕地や農民を求めて居住地点間での争いなども始まり、族長が支配する「くに」の原形となるものも出来始めた。これらの様子は中国の『漢書』に「楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる、、、」などとはっきりと記されている。その後倭国大乱の後に出来た邪馬台国を盟主とする30の族長国家による連立政権が完成する。『魏志倭人伝』の解釈によってそのうちのひとつ投馬国が岡山の吉備地方にあったのではとする研究者もいるがはっきりとはしていない[3]

古墳時代[編集]

古墳時代ヤマト王権を作り上げ、日本列島を掌握した大王の来歴については諸説[4]があり、はっきりとした事が分かっていないため、この頃、岡山を支配していた吉備豪族についても詳しい事は良くわかっていない。『日本書紀』においては崇神天皇の頃に孝霊天皇の皇子である吉備津彦が遣わされ、武渟河別と共に出雲振根を征服。応神天皇の時代に吉備国を割譲し、親族にそれぞれ分け与えたとの記述がある。このことから、吉備に誕生した豪族、吉備氏は天皇家と親密な関係にあった氏族であるとする説が最も有力となっている[5]

4世紀末、畿内に誕生した政権は朝鮮半島へ軍を進め、新羅百済を制圧、高句麗へと攻め込んだ。この政権による朝鮮半島の支配は6世紀頃の欽明天皇の時代まで続き、日本へ朝鮮半島の文化を取り入れるきっかけとなった。海を隔てた半島の支配のために必要となった水軍兵力を捻出したのが当時岡山地方に誕生していた吉備豪族であるとされている[6]。吉備豪族は朝鮮から多くの渡来人や朝鮮文化を持ち帰り、当時の榊山古墳などからは朝鮮半島の古墳慶尚北道忠清南道などから出土した帯鉤と類似したものが発見されている。

この時代の吉備地方は良質の砂鉄を産出し[7]、多くの鉄製の武具、木工具などが作られた。また、の産地としても知られ、石敷の炉に丸底の土器を並べ、炭火で海水を炊くような高度な製塩施設跡が児島牛窓から多数発見されている。これらの地方備前備中備後平安時代の『延喜式』においても主要な塩納国として記載されており、かなりの期間において全国屈指の製塩産地であった事が伺える。

5世紀後半になると吉備豪族は畿内の政権に対し、度々反乱を繰り返すようになるが、悉く失敗に終わり、次第にその勢力を弱めていくこととなる。同時期より吉備地方における古墳は竪穴式の大掛かりなものから横穴式の簡素な古墳へと移行し、数も無数に発見されている事から、この頃吉備豪族の権威は地に落ち、代わりに取って代わる有力な長が複数この地へ出現した事を示唆している。6世紀半ば、欽明天皇の時代になると大臣蘇我稲目を吉備へ遣わせ、白猪屯倉と児島屯倉を設け[8]、吉備地方の製塩生産を抑え込んだ。これが決定的となり、大化の改新を待つ事無く、吉備豪族は消えていった。

やがて大化の改新が起こり、都は飛鳥から難波へと移され、新しい律令国家が声高に叫ばれるようになると、地方豪族は土地や人民を私有する事を禁じられた。地方豪族はすべからく郡司という政府の下級官僚として位置付けられ、都より国司が派遣され、地方の富は都へ吸い上げられる中央集権的な国家が誕生した。吉備豪族は消えたとはいえ、吉備地方のその豊穣な地は都から見れば非常に危険な存在であり、壬申の乱以降、都は吉備国の切り崩しに本格的に取組み始めた。大宝律令に先駆けて吉備国を備前国備中国備後国に分割し、さらに713年には備前の北部を美作国とし、4つの国へと分割し、支配した。

平安時代[編集]

山上憶良が『貧窮問答歌』で謡ったように、平城京の栄華とは裏腹にこの時代の地方の生活は凄惨たるもので、岡山地方でもそれは例外ではなかった[9][10]。これら地方が重税や飢饉にもがき苦しんだ原因は平城京という豪華すぎる都や、この時期に実施された蝦夷征伐熊襲征伐などにあった。

対照的に律令国家に服属した元吉備豪族の多くは地方官僚の地位を与えられ、都の文化を受け入れ、賀陽氏秦氏のように頭角を現す豪族もいた。741年聖武天皇国分寺国分尼寺の設営を発令すると競って寺院の建設をはじめ[11]、寺院の名目で自分の墾田を開き、私服を肥やしていった[12]

また、中央集権主義の時代から、立身出世を志して都へ進出する豪族も存在する。代表的な豪族として吉備真備吉備斐太都和気清麻呂が挙げられる。彼らは吉備由利和気広虫といった美女と名高い美貌を持った自身の娘を天皇の侍女として遣わせ、出世の手引きをさせるなどしていた。

鎌倉時代[編集]

鎌倉時代に入ると日本では仏教(鎌倉新仏教)が盛んに声を挙げる様になる。岡山地方では、備中国から栄西臨済宗を興し、美作国から法然浄土宗を興した[13]室町時代に入ると金川城城主松田氏の働きによって備前地方では日蓮宗が広まったが、こちらも天台宗・真言宗の牙城を崩すには至らなかった[14]

最澄空海が平安初期に天台宗・真言宗を日本に伝えて以降、どのようにして岡山地方へ伝播したのかについては諸説あるが、平野邦雄は、和気清麻呂の氏寺高雄山寺で最澄・空海が立宗していた頃から既に関わりを持っていたとしている。

源平合戦[編集]

戦国時代と宇喜多氏[編集]

江戸時代[編集]

明治時代[編集]

大正時代と米騒動[編集]

戦後の復興[編集]

年表[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 後楽園岡山県立博物館より。
  2. ^ 近藤義郎『古代の日本』
  3. ^ 柴田一『岡山の歴史』
  4. ^ 畿内に起こった豪族が統一したとする定説の他、北九州の豪族が畿内へ侵攻し、統一したとする原田大六の説、朝鮮半島から渡来した騎馬民族が立てたとする江上波夫の説など。
  5. ^ ただし、間壁忠彦など日本書紀の伝承に対し批判的な見解をもつ考古学者もいる。
  6. ^ 『日本書紀』において吉備豪族が任那救援の将軍に任命された事が記されている。
  7. ^ ただし奈良時代に入るとその生産量は激減する。
  8. ^ 屯倉とは天皇直轄地のことを指す。
  9. ^ 歴史研究家藤井駿747年頃から美作国で飢饉が度々発生していると指摘している。
  10. ^ 766年、備前国の国司であった石川名足は、政府に対し「田畑は痩せ、百姓は貧窮し、度々の悪疫・早魃で往還の役に耐えられぬ」事を理由に治めていた藤野郡に加増するよう申し立てを行っている。
  11. ^ この時代の寺院跡は少なくとも備前国に18、備中国に19、美作国に11発見されている。(間壁忠彦『古代吉備王国の謎』)
  12. ^ 寺院の田地は墾田制の対象外として免税された。
  13. ^ ただしこれらはその頃全盛であった天台宗真言宗の影に隠れ、大きく盛り上がる事は無かった。
  14. ^ 谷口澄夫の研究によれば江戸時代前期の岡山藩内寺院1044寺のうち六割以上が天台宗・真言宗の寺院であったという。この事からも天台宗・真言宗が伝来して以降ずっと岡山地方ではそれらの宗派が大きな勢力を持っていたと言える。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]