小早川政景
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 未詳 |
死没 | 未詳 |
別名 | 四郎[1]、美作四郎[1] |
戒名 | 定心[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 土肥氏、竹原小早川氏 |
父母 | 父:小早川茂平[1] |
兄弟 | 舟木経平[1]、経家、雅平[1]、政景、赤川忠茂 |
妻 | 千代鶴(小早川季泰の娘) |
子 | 覚生尼、小早川景宗[1]、養子:小早川長政 |
小早川 政景(こばやかわ まさかげ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。竹原小早川氏の初代当主。小早川茂平の四男。
生涯
[編集]政景の父・小早川茂平は承久の乱で鎌倉方として軍功を挙げ、本拠地・安芸国沼田荘(広島県三原市)などの他に、新たに安芸国都宇竹原荘(広島県竹原市)の地頭職を得ていた。
正嘉2年(1258年)7月19日、政景は父・茂平より安芸国都宇竹原荘・梨子羽郷の一部などを分与され、 竹原荘に移り住み木村城を築城した。以来、竹原小早川氏はこの地を本拠地とし、代々受け継いでいくこととなる。
政景は京都にも在住し、幕府・六波羅探題へ忠勤を励み、正応元年(1288年)、新たに備前国裳懸荘(岡山県瀬戸内市邑久町虫明)の地頭職を得ている。 正応2年(1289年)、子の小早川景宗・小早川長政(養子)と孫娘・姫石女の三人に所領を分配し、景宗に家督を譲るが、娘・覚生尼と景宗の家督争いとなり、家中は混乱することとなった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『小早川隆景のすべて』 新人物往来社編
- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 下村効『日本中世の法と経済』 続群書類従完成会
- 竹貫元勝『日本禅宗史』 大蔵出版