小早川四郎
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小早川四郎 こばやかわ しろう | |
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小早川八郎(1913年頃撮影) | |
生年月日 | 1871年9月11日 |
没年月日 | 1957年2月10日(85歳没) |
所属政党 | 研究会 |
称号 | 勲二等瑞宝章 |
配偶者 | 小早川式子 |
子女 | 養子・小早川元治 |
親族 |
父・毛利元徳(貴族院議員) 兄・毛利元昭(貴族院議員) 義兄・三条公輝(貴族院議員) 弟・毛利五郎(貴族院議員) 弟・西園寺八郎(貴族院議員) 甥・毛利元道(貴族院議員) 甥・西園寺公一(参議院議員) |
在任期間 | 1898年4月15日 - 1922年3月23日 |
小早川 四郎(こばやかわ しろう、1871年9月11日(明治4年7月27日[1]) - 1957年(昭和32年)2月10日[1][2])は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧姓・毛利[1]。
略歴
[編集]元長州藩主・毛利元徳の四男として生まれる[1][3][4]。兄小早川三郎の死去に伴い、その死跡を1883年5月24日に継承した[1][3][5][注 1]。1884年7月8日、男爵を叙爵[1][3][4][5][6]。
慶應義塾幼稚舎(同窓に広沢金次郎、九鬼隆輝が居る)を経て[7]、1885年(明治18年)2月、ドイツ帝国に留学し、1897年(明治30年)8月に帰国した[2][4][5]。その後、宗秩寮審議官、侍従次長、宮中顧問官などを務めた[2][3]。
1898年(明治31年)4月15日、貴族院男爵議員補欠選で当選し[8][9]、研究会に所属して活動し、1922年(大正11年)3月23日に辞職するまで4期在任した[2][10][11]。
栄典
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大日本華族大鑑』157頁では5月21日。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 霞会館 1996, p. 608.
- ^ a b c d 衆議院 & 参議院 1990, p. 71.
- ^ a b c d 人事興信所 1943, p. コ36.
- ^ a b c 筒井住蓮 1911, p. 157.
- ^ a b c 杉謙二 2011, p. 561.
- ^ 『官報』第308号.
- ^ 柳田泉 1935, p. 438.
- ^ 貴族院事務局 1947, p. 9.
- ^ 『官報』第4437号.
- ^ 貴族院事務局 1947, p. 30.
- ^ 『官報』第2890号.
- ^ 『官報』第4101号, 「敍任及辞令」.
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]参考図書
[編集]- 『大日本華族大鑑』筒井住蓮編、都通信社、1911年。
- 『人事興信録:第14版上』人事興信所編、人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』(昭和21年12月増訂)貴族院事務局、1947年。doi:10.11501/1653722。
- 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』衆議院・参議院編、大蔵省印刷局、1990年。
- 『平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 『華族畫報:下』杉謙二編、吉川弘文館、2011年。 - 華族画報社大正2年刊の複製。
文献
[編集]- 柳田泉『明治初期の飜譯文學』春秋社〈明治文學叢刊〉、1935年。
官報
[編集]- 『官報』第308号、1884年7月9日。
- 『官報』第4437号、1898年4月19日。
- 『官報』第2890号、1922年3月24日。
- 『官報』第4101号、1926年4月28日。
関連文献
[編集]- 慶應義塾大学 編『福沢諭吉書簡集第4巻』岩波書店、2001年8月23日、92頁。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 小早川家初代 1884年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |