小早川貞平
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 |
天授元年/永和元年2月19日[1] (1375年3月21日)[2] |
別名 | 道祖鶴丸[1]、四郎左衛門尉[1] |
戒名 | 成就寺佛心本明 |
官位 | 左衛門尉、備後守[1] |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 安芸国守護 |
氏族 | 沼田小早川氏 |
父母 | 父:小早川宣平[3] |
兄弟 |
小早川資平[1]、小早川師平、小早川貞平、小泉氏平[1]、 小坂将平、浦氏実(浦氏祖)[1]、生口惟平[1]、小早川俊平 |
子 | 小早川春平[1]、土倉夏平[1]、東房平[1]、篠原尚平、真良貞康[1]、近宗広平[1]、徳光時平、江良承順 |
小早川 貞平(こばやかわ さだひら)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。沼田小早川氏の当主。
生涯
[編集]元弘3年/正慶2年(1333年)、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣。東国へ落ち延びていく六波羅探題の一族郎党400人余りが、近江国番場蓮華寺で自刃する現場までつき従うが、その場を脱出し本領・安芸国沼田荘まで逃げ帰っている。貞平は当時16歳であったと伝わる。
建武4年/延元2年(1337年)3月12日、 従五位下・備後守を賜る。暦応4年/興国2年(1341年)10月10日、安芸国沼田荘内安直などの所領を、父・宣平(のぶひら)より譲り受ける。
正平6年/観応2年(1351年)6月12日、安芸国守護職に補任される[1]。天授5年/康暦元年(1379年)、康暦の政変に際して、安芸国矢野城、同国天野城攻めに室町幕府軍主力とし参陣した[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。