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茅野満明
かやのみつあき
生年月日 (1874-03-20) 1874年3月20日
出生地 日本の旗 日本山梨県北巨摩郡篠尾村

在任期間 1932年8月16日 - 1936年8月15日
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茅野 満明(かやの みつあき、1874年(明治7年)3月20日 - 没年不詳)は、明治時代後期から昭和時代前期に活躍した日本政治家実業家。釧路商業会議所(後の釧路商工会議所)の発起人。第5代官選釧路市長

概要[編集]

山梨県北巨摩郡篠尾村に生まれる[1][2][3][4]。函館の金物商人の進藤榮太郎によって北海道の事情を伝えられたことをきっかけに[2]、普通学修了の後、1890年(明治23年)5月に畜産業の経営を目的に釧路に渡来し、白糠郡庶路村の釧路共同牧場に実務見習いとして入った[1][2][3]1892年(明治25年)に独立し、十勝国大津村長臼に牧場を開く[1][2][3]

1899年(明治32年)、畜産業を経営する傍らに、資本金4千円(現在の1,520万円ほど)で大津艀合資会社を創立、業務執行社員となって運送業を始めるも、1年余りで退社[1][2]

1901年(明治34年)から1902年(明治35年)の2年間は漁業に勤しみ、を狙うも漁況は芳しくなく経験の乏しさも相まって失敗[1][2]。直後に米穀雑貨商も営むがこちらも2年で倒産[1]。順調だった畜産業も、度重なる失敗により経営が立ち行かなくなった[1][2]

1904年(明治37年)11月には釧路に戻り、三上氏を説得して三上運送合資会社(三上運送株式会社の前身)を創立し、支配人となって2年間勤める[1][2]。1907年(明治40年)の釧路函館間幹線鉄道の開通(十勝線の全通による旭川-釧路間の開通)が目前に迫った頃に三上氏から引き留められつつも独立し[4]、同年3月に茅野運送店を開いた[1][2]

1910年(明治43年)夏には釧路町会(現在の釧路市議会)議員の補欠選挙にて大多数の票を獲得して議員となった[2]。同時期に釧勝北運送同盟会(後の北海道東部運送業信用組合[3])の副会長を務めていた[2]。町会議員となってからは後進や知己の後援に徹して表面に立たなかったとされる[4]

その後も、東京の草野氏が有していた茂尻矢の製軸工場を譲り受ける形で[4]買収、更に厚岸町真龍に厚岸製軸株式会社を創設して監査役に就任すると、どちらの製軸会社も第一次世界大戦時中の好景気に乗じて巨利を得た[1][4]

1920年(大正9年)3月に釧路区長の林田則友の主唱によって市政施行と共に商業会議所の設立認可が機運を見せ、茅野を発起人総代として1922年(大正11年)に期成会が組織され、1923年(大正12年)5月には茅野以下293人で設立を申請、1924年(大正13年)11月27日に釧路商業会議所の設立が認可された[5]

1922年には釧路管内公認運送店組合長(後の東部公認運送店[4])を務めていた[1]。また、都市計画書ならびに港湾調査委員として町勢区勢の伸展に貢献した[1]

釧路市長時代[編集]

第4代釧路市長である佐藤国司は、市長時代に直立不動予算と呼ばれる財政整理を提案していた。その方法の1つに市債の低利借換と償還年限の延長によって負担の均衡を図るものがあり、茅野もこれについて協力していた。一方で、第3代釧路市長である酒井隆吉が売却を目論んでいた給水岸壁を佐藤が釧路臨港鉄道株式会社に貸付けたことについては、自身が同社の重役であり、また売却派であったことからも反対の立場にいた[6]

1932年(昭和7年)8月16日、第5代釧路市長に就任。当年度の予算は、前年度に比較して歳入の過大見積と見られるものがあった。この時の市税収入が、茅野の任期中最悪のものであり、翌年度には第二次の財政整理を断行することになった。省庁との2ヶ月の交渉の末に市債240万円、償還期間40年の均等償還という法外な低利長期借換を成約させ、給水岸壁も釧路臨港鉄道株式会社に売却した。例外的な市債償還に加え、基本財産でもある給水岸壁を売却したことで、内務省大蔵省からは事前監督の措置を取られることになり、売却についても茅野が会社の重役であったことから批判を浴びた[6]

1933年(昭和8年)以降は、満州事変によってインフレ景気が地方に浸透、特に釧路市では港湾修築の進捗に伴って増益するなど、市勢伸長の傾向を示した。市の財政にも好影響をもたらし、税収・水道収入・病院収入も順調に伸び、1934年(昭和9年)以降は黒字決算になり、総合病院はその余剰金で施設の充当も果たした[6]

1936年(昭和11年)8月15日、任期満了にて辞職。当年には行幸があったことなどで臨時支出も相当あったがそれでも黒字決算であった。一方、茅野には事前監督の烙印を押されたという評価が残った[6]

茅野の退任後、再び市長となった佐藤は、累積した市債の償還に奮起することとなった。

人物[編集]

寡黙でありつつも自信家であったとされる[2]

資金の許す程度に土地の占有に腐心していたとされる[2][4]

子供がおらず、家庭の寂漠を感じるかの様に園芸に熱心であった[2]

趣味は読書と乗馬[2]

茅野公園[編集]

茅野公園
所在地
座標 北緯42度58分7.8秒 東経144度25分10.0秒 / 北緯42.968833度 東経144.419444度 / 42.968833; 144.419444座標: 北緯42度58分7.8秒 東経144度25分10.0秒 / 北緯42.968833度 東経144.419444度 / 42.968833; 144.419444
面積 1.6ha
設計者 茅野満明
運営者 釧路市公園緑地課
現況 年中開放
設備・遊具 テニスコート、バーベキューコーナー
駐車場 あり
アクセス くしろバス「桜ケ岡2丁目」停留所
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1897年(明治30年)頃、和久清兵衛が春採村の西端に、を植えた。後に茅野が同地を買収して桜を補植し、1万3千余坪の花園を開いた[2]。これが茅野公園の始まりである。

1945年(昭和20年)の釧路空襲で焼け出された人々が、この公園に仮住まいし、桜の木を柱代わりにバラックを建てるなどして生活した。これによって樹木の損傷がひどくなり、桜が花をつけなくなってしまった。

その後、1962年(昭和37年)頃より地域住民による整備が始まり、1975年(昭和50年)には近隣の26の町内会と桜ケ岡老人クラブ連合会からなる「茅野公園を保存する会」が発足。

1978年(昭和53年)には公園用地として釧路市に寄贈し、1983年(昭和58年)9月には公園施設として植樹やベンチ、四阿、水飲み場、ジンギスカンコーナー、照明塔、温室、遊具を寄贈する。

1994年(平成6年)3月7日に近隣公園として供用を開始した。

現在でも約400本のエゾヤマザクラが咲く、花見の名所として親しまれている[7]


功績[編集]

鉄道運送業の公認制度の端緒として、また、北海道運送業界において革新を起こした、鉄道運送業の先駆者として評価される[1]


脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 渡邊源四郎 (1922年(大正11年)6月20日). 釧路の人物. 釧路日日新聞社. pp. 272-273. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909335/96?tocOpened=1 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 古川忠一郎 (1911年(明治44年)7月25日). 釧路人物評伝. pp. 28-30 
  3. ^ a b c d 金子信尚 (1923年(大正12年)9月30日). 北海道人名辞書. 北海民論社. p. 623. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936734 
  4. ^ a b c d e f g 渡邊源四郎 (1926年(大正15年)12月20日). 東北海道の人物. 釧路日日新聞. pp. 125-127. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020288 
  5. ^ 沿革”. 釧路商工会議所. 2020年1月17日閲覧。
  6. ^ a b c d 新釧路市史. 1. 釧路市. (1972.12-1975.9). pp. 770-771, 778-781 
  7. ^ 桜前線の最後を飾る、釧路の桜を見に行こう! | 基本情報”. 釧路・阿寒湖観光公式サイト SUPER FANTASTIC Kushiro Lake Akan (2017年3月5日). 2020年5月12日閲覧。

関連項目[編集]