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涌井安太郎
[編集]涌井 安太郎(わくい やすたろう、1909年(明治42年)8月5日 - 1996年(平成8年)7月19日)は、昭和・平成期のキリスト教社会運動家。神戸における生活協同組合運動に尽力した人物。元日弁連副会長の勅使河原安夫(1924年 - 2017年)は弟(四男)。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]宮城県仙台市、現青葉区の商家に六人きょうだいの長男として生まれる。近所にプロテスタント系の教会(現仙台ホサナ教会)があり、父の奨めで日曜学校などに通う。1926年仙台商業学校(現仙台商業高等学校)を卒業し、東京の貿易会社鈴鹿商店に入社。
20歳で神戸に転勤になり、兵庫教会で受洗。1931年神戸YMCAに学生キリスト者運動(SCM)の研究会を発足し、同時期賀川豊彦に出会う。1933年神戸青年伝道団を組織し、若松日曜学校と称するセツルメント運動を行う。この頃、井上富栄と知り合う。1935年「神戸消費者組合」(神戸購買組合から改称)に主事として入所。組合長は実業家で神戸市会議員でもあった福井捨吉で、賀川の自宅を本拠地としていた。涌井は主に家庭会の運営や機関誌『新家庭』の編集に携わる。1936年井上富栄と結婚、1938年1月25日長女蕗子、1940年2月19日次女協子、1942年2月11日長男紀夫、1944年3月17日三女純子誕生。家族は仙台に疎開し、単身神戸に残り兵庫県食料営団食料研究室に入る。1945年春に三井木船建造に入社するも、応召。仙台の連隊に陸軍二等兵として配属。
敗戦後郷里に疎開していた涌井のもとに「ショウヒクミアイ サイケンスル スグライシンマツ」という電報が届き、10月家族を連れて神戸に戻る。11月10日に小泉秀吉を組合長として再発足した神戸消費組合の専務理事として奮闘する。1948年待望の消費生活協同組合法が公布され、「神戸生活協同組合」へと改名したが経営の苦境が続く。1960年日本生協連代表としてICAローザンヌ大会(スイス)に出席。はじめての海外旅行であった。1962年4月神戸生協と灘生協(旧灘購買組合)が合併し、組合員四万六千人、供給高三十一億円の「灘神戸生協」が誕生、専務理事を務める。1974年 灘神戸生協副組合長となる。1976年 灘神戸生協を退職。兵庫県生活協同組合連合会会長理事に就任。
その後、頌栄保育学院院長、頌栄短期大学学長、神戸YMCA理事長、日の本学園副理事長等を歴任。1995年1月17日(火)午前5時46分52秒 阪神大震災被災。
1996年(平成8年)7月19日午前10時昇天。享年86歳。
エピソード
[編集]1979年(69歳)6月18日から3日間にわたってNHKラジオ第1放送の早朝番組「人生読本」に出演し、「こころの糧、くらしの糧」と題する講演を行った。本人が逝去した後製作されたCD『涌井安太郎昇天記念』にその放送音声と本人の愛唱讃美歌「神はわがちから」が収められている。
著書
[編集]1972年『星をめざして わたしの協同組合運動』
関連団体
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]https://next100.kobe.coop/history/index.php
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjace/01/0/01_01-10/_article/-char/ja/