利用者:Jashu/試し書き/日本エアシステム
株式会社日本エアシステム(Japan Air System; JAS)は1971年から2004年まで日本航空、全日本空輸(全日空)とともに日本の三大航空の一翼を担った航空会社。1988年までの社名は東亜国内航空(Toa Domestic Airlines; TDA)。航空会社コードはJAS/JD、コールサインはエアシステム(Air System)。なお、東亜国内航空時代の航空会社コードはTDA/JD、コールサインはトーアドメス(Toa Domes)であった。
2004年4月1日に株式会社日本航空ジャパンに商号変更し、日本航空ブランドの国内航路会社に転換された(日本エアシステムの事実上の消滅)。2006年10月1日に、株式会社日本航空インターナショナル(旧商号は日本航空株式会社)に吸収合併され、名実ともに消滅した。
概要
[編集]社名 | 株式会社 日本エアシステム JAPAN AIR SYSTEM CO.,LTD |
設立 | 1964年4月15日(日本国内航空) |
本社所在地 | 東京都大田区羽田空港三丁目5番1号(JAS M1ビル) |
事業内容 | 定期航空運送事業・不定期航空運送事業 航空機・付属品の売買・修理・賃貸業 |
代表者 | 代表取締役社長 船曳 寛眞(1995年6月~2004年3月) |
従業員数 | 約6000人(内乗務員約2000人/2004年3月31日まで) |
資本金 | 約615億円(2004年4月1日まで) |
主要株主 | 東京急行電鉄株式会社 日本航空株式会社 近畿日本鉄道株式会社 ※いずれも2002年10月の日本航空との経営統合以前。 |
航空会社コード | JAS/JD |
無線呼出名称 (コールサイン) |
Air System エアシステム |
拠点空港 | 東京国際空港 |
主要子会社 | 日本エアコミューター 北海道エアシステム ハーレクィンエア |
歴史(日本航空との経営統合以前)
[編集]東亜国内航空
[編集]東亜国内航空(Toa Domestic Airlines/TDA)は、広島に本社を置き大阪・伊丹空港を拠点にローカル線を中心に運航していた東亜航空(TAW)と、東京・羽田空港を拠点に幹線と準幹線、ローカル線を運航していた日本国内航空(JDA)の2つの航空会社の合併によって1971年5月15日に発足した(存続会社は日本国内航空)。
なお、日本国内航空自体も、日東航空(1952年7月4日設立)と富士航空(1952年9月13日設立)、北日本航空(1953年6月30日設立)という地域内ローカル線を中心に運行していた3社が、運輸省の指導による合併の結果1964年4月15日に設立されたものであった。同社は幹線を運行していたこともあり、大型ジェット機のコンベア880やボーイング727を導入するなど積極的な動きを見せていたものの、日本航空と全日本空輸という大手2社に阻まれ苦戦し経営不振に陥っていた。当時、運輸省は日本航空の国内線網を拡充させる意図もあって、日本航空+日本国内航空という図式を描いていた。しかし、吸収合併を望まなかった日本国内航空首脳陣は東亜航空との合併を決断し、後に政府による了承を得た。[1]
この合併により、国内航空会社は日本航空、全日本空輸と東亜国内航空のの三大航空会社体制になり、1972年にはこの3社に対して運輸省より事業(路線)割り当て(いわゆる45/47体制)が行われ、東亜国内航空は国内準幹線とローカル線の運航が割り当てられることになった。
商号変更
[編集]その後も日本の航空業界では45/47体制が続いていたが、1985年にこれが廃止されることになり、東亜国内航空にも国際線や国内幹線への就航が可能になった(注:国内幹線に関しては、便数は希少ながら1975年以降、段階的に3路線の定期運航に参入していたが、本格的参入はこれ以降)。翌1986年にはこれを受けて国際チャーター便の運航を開始したものの、その後アジア諸国への国際線定期就航をする際に、社名の「東亜」と言う単語が大東亜戦争(太平洋戦争)時に使用した「大東亜共栄圏」をイメージさせるとして、また国際定期便を運航するにあたり「国内」という名称がそぐわなくなることから、東京-ソウル線就航に先立つ1988年4月に日本エアシステムへと商号を変更した。
なお、英語の社名の略の「JAS」の読みは当初は「ジェイエイエス」だったが、1990年代後半ごろから「ジャス」に変更されている(当初は日本農林規格との混用を避ける意味であえて「ジェイエイエス」と読んでいた物と思われる)。中国語表記は「日本佳速航空」で、「佳速」は「ジャス」の当て字である。
日本航空との経営統合
[編集]この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
しかし、45/47体制が廃止されたものの、引き続き採算の合わないローカル線を中心に運行する状態が続いていたことや、バブル景気前後に無理な国際線進出を行ったこと、JASとして初めて運輸省から代表取締役社長に就任した元運輸省海上保安庁長官の故眞島健氏が短期間で辞任したこと、同様に元運輸省の松尾道彦氏がバブル景気破綻などの影響により社長に就任できなかったこと。高コスト体質や労使問題の改革が進まなかったことなどから経営的には苦しい状態が続き、親会社の東京急行電鉄も経営状態が苦しい状態なかで本業以外の整理を行うこともあり、2001年に、国際線ネットワークに強みを持つものの国内線のネットワークが弱いために国内路線の拡張を望んでいた日本航空との経営統合に両社が合意した。
日本航空との経営統合は、以下の形で進められた。
- 2002年10月1日 - 日本航空株式会社(現在の株式会社日本航空インターナショナル)と日本エアシステムが株式移転し、持株会社を設立(株式会社日本航空システム:JALS)。旅客数において世界第6位、営業収入において世界第3位の航空連合となった。
- 2003年4月1日 - 日本航空と日本エアシステムの両社が運行していた国内路線を、どちらか一方のみの運行に統一した。
- 2004年4月~6月 - 日本航空便と日本エアシステム便を、日本航空便に統合。および、これを反映した商号変更(日本航空株式会社→株式会社日本航空インターナショナル、株式会社日本エアシステム→株式会社日本航空ジャパン、株式会社日本航空システム→株式会社日本航空)。国際線と国内線の整理のもと、日本エアシステムの便名コード「JD」ならびに日本エアシステム(JAS)のブランドが終了した。
- 2006年10月1日 - 株式会社日本航空インターナショナル(旧:日本航空株式会社)による株式会社日本航空ジャパン(旧:株式会社日本エアシステム)の吸収合併。
この経営統合が、実際には経営状況が良好で規模も大きい日本航空優位に進む中で、経営統合当初に掲げられた「対等の立場での経営統合」が、当時日本エアシステム社員の顔を立てるためのお題目にすぎなかったと当事者間により評されているのも事実である。また、この経営統合が進められる中で、社内では両社の出身者同士の不協和音が現場から役員に至るまで起き始めた。
当初から「対等の立場」といえる経営統合だったのか
[編集]この経営統合に際しては「対等の立場」の建前がとられた。しかし、日本エアシステムと日本航空とでは規模やブランド力の差があまりにも著しいうえ、日本エアシステムは国内線のネットワークと機体などの資産こそ持つものの3000億円とも言われる負債を抱える状態であった。持株会社の社名も、「航空」「システム」と、両社の社名が採り入れられたが、これすら、「対等の立場」というよりもむしろ、「日本航空」に「システム」が後付けされた印象となった。機体の塗装は、この経営統合にあわせ、日本航空、日本エアシステムともども共通の新デザインに一新されたが、このデザインは、明らかに日本航空側のデザインとカラーをほぼ継承したもので、日本エアシステムのデザインは部分的にさえ継承されなかった。さらにグループの呼び方にいたっては経営統合当初から「JALグループ」「日本航空グループ」と表現された。[2]これらから、経営統合当初から既に日本航空優位の経営統合となっていたと見ることができよう。
トラブルと不協和音が招いた「JALブランド」の失墜
[編集]日本航空優位に経営統合が進む中で、ほぼ全ての業務システムやマニュアルが日本航空のものに変更されたため、旧日本航空出身者にとっては基本的に現状維持であった一方、旧日本エアシステムの社員は一からそれを学ばなければいけなくなったが、この過程で、国内線、国際線、貨物の各事業のいたるところでトラブルが発生した。これら度重なるトラブルを通じて、旧日本航空・旧日本エアシステム両社の顔を立てながら、日本航空側への業務移管を性急かつ強引に行おうとしているという構造的問題が露呈した。
2003年4月1日からスタートした日本航空便と日本エアシステム便の統合では、国内線を担当することになった日本航空ジャパン(日本エアシステムから商号変更)の運航となった路線(東京~広島線など)では旧日本航空が設置していたボーイング747・777対応の地上機材(トーイングカーなど)が撤去されたため、最大でもエアバスA300での運航(日本エアシステムのボーイング777は幹線にしか使用されていなかったため)となり、輸送力が大きくダウンするという弊害を引き起こした。
莫大な債務を抱えていた日本エアシステムであったが、客室乗務員やパイロットなど一部の職種の給与水準は競合他社(日本航空を含む)に比べ高かった。経営統合後、日本航空と同じ給与水準に下げられる方針が打ち出され、これに対して労働組合を中心に頑強に抵抗したところ、総合職社員の多くがリストラ対象となり、あえて遠隔地へのいわゆる“いやがらせ転勤”をさせられた。本社の管理職であり、関西の社員が持家を所有しているのを分かっていながら北海道や沖縄に、また北海道の社員は逆に関西へと転勤を命ぜられ、またそれらの移動先が本社の社員さえ知らない無名の関連子会社・下請け会社への異動である場合も多く、結局多くが辞めざるを得ない状況となった。給与水準の一元化が実現しないことについては当時、社内外、特に株主から大きな批判を呼んでいたが2006年10月の吸収合併にあわせて実現している。
経営統合により期待されたリストラやコスト削減は遅々として進まず、前述のような旧日本エアシステム社員や彼らの所属する労働組合の抵抗、旧日本航空経営陣の怠慢といった社員間不協和音が発生し、それは営業トラブルが積み重なる形となって「JALブランド」は失墜へと発展していった。乗客が減少し、全ての社員の給与が10%カットされる結果となった。旧日本航空の社員の中だけでなく株主からも、「赤字会社を巨大な債務とともに吸収する必要があったのか」、「なぜ吸収合併された側のリストラが進まないのか」との疑問の声が上がり、「再度分割案までありうる」と週刊誌などでは揶揄されている。2006年10月に名実ともに吸収合併が行われた今、「JALブランド」の信頼回復も含め、抜本的な経営建て直しがスピーディーに行われることが必要不可欠である。
10月の完全一社化に伴い、急速な旧日本エアシステム社員の退職が進んでいるが、その方法として上記の「いやがらせ転勤」の他、「今退職すれば通常以上の退職金を与える。もし退職しなければ異動を命ずる。」という方法も取られている。そのため、旧日本エアシステム社員の早期退職は一層加速している。
急がれた機体塗装のJAL化
[編集]日本航空の旧塗装機材がまだまだ残る中、旧日本エアシステムの機材の塗装はいち早く新しい塗装に塗り替えられた。最後まで旧日本エアシステムの塗装が残っていた機材について、エアバスA300-B2/B4が老朽化と機材統一を目的に2006年3月に定期便から退役し予備機として保存されていた3機はアメリカへ売却、マクドネル・ダグラスMD-81が同年4月に新塗装となり、2006年10月の吸収合併を前に、旧日本エアシステムの塗装を持つ現役機材は日本から姿を消した。
現在、旧日本エアシステムの塗装を見ることができるのは、北方漁船博物館のYS-11と、トルコやアメリカへ渡った4~5機のA300のみである。
アメリカへ売却されるA300の3機は、日本エアシステムのロゴだけが消された状態で、2006年夏前から羽田空港に残っていたが、同年の夏中に空輸された。
現在、完全な日本エアシステム塗装の機体は、「みちのく北方漁船博物館」でのみ見ることができる状況だが、月刊エアライン2006年12月号によると、アメリカインディアナ州グリソム(Grissom)航空博物館で元日本エアシステムのYS11の復元計画があるという。このYS-11-120(製造番号2035、JA8676)は、日本国内航空で「くまの」として親しまれ、東亜国内航空・日本エアシステムで活躍した後、1995年にNASアビエーションが、1996年にKFSアビエーションが購入し、インディアナ州グリソム空軍基地にフェリーされた。当地では隊員の研修などに使用された後、隣接する博物館で保存されることとなった。当機は、日本エアシステム時代のロゴや機体番号は消去され、プロペラと中後部座席が撤去されているものの、ギャレーやラバトリーは日本エアシステムの文字が残存しているほど状態が良好であり、「レッド&グリーン」と呼ばれる旧塗装がそのまま残っているため、「日本エアシステム」として往時の姿に復元される予定である。この計画に対し日本航空は資金・資材の支援はしないものの、復元のための資料を提供する予定である。
運航機材
[編集]- 日本国内航空・東亜航空時代はそれぞれが多種多様な機材を揃えていたが、両社とも晩年は保有機の統一化が進み、1971年の東亜国内航空発足時は旧東亜航空から移管した若干数のデハビランドDH114・タウロンを除いて保有機の大半がYS-11となり、この後1年は2機種のみでの運航となった。
- 東亜国内航空初のジェット機運航は、日本国内航空時代に日本航空にリースしていたボーイング727の返却を受け、1972年8月に羽田~大分線に投入した時だった。しかし、同社その後のジェット化推進に際しては、旅客定員がほぼ同数で経済性の高いダグラスDC-9が選定されたため、同社ジェット化の先陣を果たしながらもボーイング727の運航は1年半余りの短期間に終わった。
- その後は徐々にダグラスDC-9シリーズの保有を増やすと共に、機材の大型化を図りエアバスA300の導入を進めたほか、1980年代以降は日本エアコミューターへのローカル線運航の移譲を進めると共に、YS-11も日本エアコミューターなどの子会社へ移籍していった。
- 商号変更に伴い国際線進出をねらった日本エアシステムは国際線運用機材としてDC-10-30を発注するがすでにメーカーが製造ライン閉鎖を決定していた為、日本エアシステムが入手できた機材は本来軍用か貨物用に使用される予定だった機材を民間用にしたものであった。
- 日本航空との統合時、日本エアシステムが運行していた機種で特に目立つのはエアバスA300、ボーイング777、マクドネル・ダグラスMD-90などであった。またエアバス機を主力としていたため、日欧貿易においてヨーロッパからの大口輸入の象徴的存在とされていた。
- ボーイング777導入に際しては、国際線の拡大が図られていた頃、一旦はボーイング747-400の導入を決定、9機を発注したものの、財政難から断念、"導入延期"となり、機体のコストや運航上の経済性を重視しボーイング777へ発注を切り替えた、という経緯がある。
日本エアシステム時代
[編集]- エアバスA300-B4-2C
- エアバスA300-B2K-3C
- エアバスA300-622R
- ボーイング777-200
- マクドネル・ダグラスDC-9-41
- マクドネルダグラスDC-10-30
- マクドネル・ダグラスMD-90-30
- マクドネル・ダグラスMD-81(DC-9 Super80)
- マクドネル・ダグラスMD-87
- 日本航空機製造YS-11
- ビーチクラフトB200スーパーキングエアー
- ヒューズ369HS
- アエロスパシアルAS350B
契約のみ未導入
[編集]- ボーイング747-400 (計画・契約のみ)
- ボーイング777-300 (正確には日本エアシステム機として導入されているが、新生JALの塗装で引き渡され、型式番号末尾のカスタマーコードも機体引渡し時からJASの89ではなくJALの46となっているためこの項にて記す。)
東亜国内航空時代および以前
[編集]固定翼機
[編集]NAL日東航空
[編集]- パイパーPA-18カブ
- デハビランドDHC-2ビーバー
- デハビランドDHC-3オター
- グラマンG44スーパーウィジョン
- グラマンG73マラード
- コンベアCV-240
- デハビランドDH114-1Bへロン
- デハビランドDH114タウロン
- ビーチクラフトD-50ツインボナンザ
- エアロコマンダー500A
- セスナ170
- セスナ170B
- セスナ172
- セスナ172B
- セスナ172C
- セスナ172D
- セスナ175B
FAL富士航空
[編集]- ビーチクラフトC-18Sツイン・ビーチ
- ビーチクラフトC-50ツインボナンザ
- ビーチクラフトD-50ツインボナンザ
- パイパーPA-23アパッチ
- コンベアCV-240
- デハビランドDH114-1Bへロン
- デハビランドDH114タウロン
- セスナ172
NJA北日本航空
[編集]TAW東亜航空
[編集]- デハビランドDH104-1Bダヴ
- デハビランドDH114タウロン
- コンベアCV-240
- ビーチクラフトD-18(C-18S)
- ビーチクラフトC-50ツインボナンザ
- YS-11
- セスナ170B
JDA日本国内航空
[編集]- パイパーPA-18カブ
- パイパーPA-23アパッチ
- グラマンG44スーパーウィジョン
- ダグラスDC-3A
- ノール262A-14
- コンベアCV-240
- デハビランドDHC-2ビーバー
- デハビランドDH114-1Bへロン
- デハビランドDH114タウロン
- コンベア880-22M
- ボーイング727-100
- YS-11
- セスナ170
- セスナ170B
- セスナ172B
- セスナ172C
- セスナ172D
- セスナ175B
- セスナ195
TDA東亜国内航空
[編集]- コンベアCV-240
- デハビランドDH114-1Bへロン
- デハビランドDH114タウロン
- ボーイング727-100
- YS-11
- DC-9-31(米国からリース)
- DC-9-41
- DC-9-51(米国からリース)
- DC-9-81
- エアバスA300B2K-3C
回転翼機(NAL・FAL・NJA・TAW・JDA・TDA)
[編集]- 川崎BK-117
- ベル47J
- 川崎ベル47G-2
- 川崎ベル47G-2A
- 川崎ベル47G-3B-KH-4
- ベル214B
- 川崎ヒューズ369-HS
- ヒューズ36P
- 富士204B/B2(ベルエアクラフト)
- エアロスパシアルAS-350B
- シコルスキーS-76A
- シコルスキーS-62J
最優秀オペレーター賞
[編集]日本エアシステムは、エアバス機を特に安全に運行・整備しているとして、エアバス・インダストリー社より
- 1989年3月「1987~1988年度A300型機最優秀オペレーター賞」
- 1996年6月「1995年度A300B3/B4型機最優秀オペレーター賞」
を受賞した。
塗装
[編集]日本エアシステム運航機は塗色の多様さで有名であり、デザインの多くは虹をイメージしたもので「レインボー・デザイン」と呼ばれた。
- 東亜国内航空時代、当初の塗装はオレンジを基調とし、窓枠にはオレンジライン、尾翼に気流をデザイン化した社章を施した物であった。その後1974年に本格的に導入されたマクドネル・ダグラスDC-9に、「レッド&グリーン」と呼ばれた尾翼を赤と緑に塗り分け、その2色のラインを窓枠まで延長した形の新しいデザインが施され、YS-11も徐々にこの塗装へ切替、7年にわたり同社のコーポレートカラー的役割を果たした。
- レインボーカラーへの切替に端を発したのは、1981年から導入したエアバスA300に、エアバス・インダストリー社のデモフライト機に使用されていたカラーを気に入った役員が譲り受けを申し入れた事であったが、実際に導入したところ社内及び一般客双方から好評で、「東亜国内航空」のイメージは、同社初のワイドボディ機である同機の導入と共に一新される形となった。
- このカラーが好評だった事を受け、続いて導入されたマクドネル・ダグラスMD-81にはエアバス色からオレンジを抜いた類似のカラーが施され、既存の保有機も順次同様のカラーに変更され、「日本エアシステム」への社名変更2年後の1990年頃までに「レッド&グリーン」カラーは子会社保有機の一部を除き一掃された。オレンジを抜いた理由は、機体の大きさに合わせたという説と、マクドネル・ダグラス社がエアバス塗装を拒否したという説があるが、DC-10ではオレンジを抜いていないエアバス塗装そのままだったので前者の説が有力である。
- 続いて1996年から導入のマクドネル・ダグラスMD-90には映画監督・黒澤明が手がけた全7種のデザインが施され、同監督の代表作品名をもじって「七人の侍」の異名でも呼ばれた。また、黒澤明はこの塗装をデザインした後ほどなくして亡くなっており、一種の遺作とも言える塗装であったため、JAL塗装への変更が進められるなかでこの塗装の存続を求める声が数多くあり、一部では「『Kurosawa』と塗装されてある機材は残存するのではないか?」とも言われたが、他の機体同様塗装変更が進められた。現在、日本航空のホームページでは故黒澤側の許可が得られず、この機体を旧塗装として紹介することができず、必ずしも両者の関係が良好であるとは言えない状況となっている。
- 更に1997年から導入のボーイング777では、黒澤明も審査委員を務めたインターネットなどによる一般公募によって北海道千歳市の中学生が考案した虹色の帯を機体にロールした形のデザインが選ばれ、就航後は「レインボーセブン」の愛称で親しまれる様になる、等徐々に「虹の翼」のイメージを確立していった。なお、この塗装になった理由として、ボーイング社が自社の飛行機にエアバス社のコーポレートカラーである「レインボーカラー」をベースにした塗装を施されるのを嫌ったということがあげられる。現在は消滅したが、世界唯一の左右非対称デザインであった。
アドカラー
[編集]日本エアシステムは、本格的なアドカラーを国内航空会社としては始めて導入し1997年から1998年にかけて、大塚製薬のポカリスエットをイメージした塗装のエアバスA300「JAS・ポカリスエット号」を運行していた。また機内においても、ジャワティーの他にポカリスエットを提供していた。
その他
[編集]日本の漫画家松本零士氏の作品である宇宙海賊キャプテンハーロックに登場する宇宙戦艦「アルカディア号」にちなんでDC-9型機に「アルカディア号」と塗装し、「当日にならなければ行き先がわからない。行き先不明の旅。」というミステリーフライトのキャンペーンを展開していた。
- ピーターパンフライト
近畿日本ツーリストとの共同企画による国際プログラム・チャーター。DC-10-30(JA8551)にダイアナ妃が名誉総裁を務める「ピーターパンこども基金」との協賛しピーターパン塗装を施した。余談だがピーターパンの周囲にあった星屑だがこれはステッカーで対応した為、飛行の度に剥がれその都度、修復していた為、当時の整備ハンガーには星のステッカーが多量にあったと言われている。
- フレンドリーバード
機材としては経年機となっていたA300(JA8472)に施された創立30周年記念の塗装。
当時の番組企画で短期間だけBoeing777(JA007D)に施されたステッカー。
就航路線
[編集]日本エアシステムの就航路線も参照。
国内線
[編集]東亜国内航空時代は45/47体制の元、運輸省の指導の下ローカル線や国内準幹線を中心として運行していた。45/47体制の撤廃後は国内線幹線や近距離国際線にも進出したものの、依然としてその多くは採算が取りにくい国内準幹線やローカル線が中心であった。1980年代以降はエアバスA300を幹線や準幹線を中心に、マクドネルダグラスDC-9シリーズを準幹線やジェット機乗り入れが可能なローカル線を中心に、日本航空機製造YS-11型機をローカル線を中心に運行していた。
また、一部離島路線や地方発着ローカル線の一部は、日本エアコミューターなどの子会社がYS-11型機やサーブ340型機を使って運航していた。
就航先(一部)
[編集]- 新千歳空港
- 函館空港
- 旭川空港
- 青森空港
- 秋田空港
- 仙台空港
- 新潟空港
- 東京国際空港
- 名古屋空港
- 信州まつもと空港
- 関西国際空港
- 大阪国際空港
- 南紀白浜空港
- 徳島空港
- 福岡空港
- 長崎空港
- 鹿児島空港
- 那覇空港
北九州空港
国際線
[編集]国際線就航時には、将来的にアメリカ本土やヨーロッパの主要都市への就航も考えられていた。しかしバブル景気の崩壊や湾岸戦争の勃発による乗客の減少や、成田空港の発着枠制限といった厳しい現実に阻まれた。
特に一旦は定期運航を実現したシンガポール、ホノルル線などは、成田空港の発着枠に制限があったことや、競合他社によって発着枠の獲得の妨害にあったためにデイリー運航が不可能で、ツアーに利用しづらく、旅行会社に敬遠されがちで、そのために採算が取れなかった事が早期撤退を余儀なくされた一因と言われている。なお、これらの中長距離路線を運行するために、1988年にマクドネルダグラスDC-10-30型機を導入した。
一方、日本航空との経営統合までは中華人民共和国の各都市への運航に尽力し、特に日本航空や全日本空輸が就航していない中華人民共和国の地方都市(西安・広州・昆明等)への運航に活路を見出していた事、また韓国の首都であるソウルへのデイリー2便運航がドル箱となっていたのも特徴的であった。
就航先
[編集]定期便はすべて、成田国際空港及び関西国際空港発着だった。他にも福岡空港や広島空港などの地方空港からのチャーター便もあった。
コードシェア運行
[編集]ノースウエスト航空やKLMオランダ航空、中国南方航空と日本国内の主要路線や成田-アムステルダム線(KLM機材での運行)などの国際線のコードシェア運行を行っていた他、マイレージの提携も行っていた。現在ワールドパークスでは日本航空インターナショナルの路線でマイルを加算することはできないが、日本航空インターナショナルの路線で特典旅行することはできる。
サービス
[編集]東亜国内航空時代より、ブランドイメージと規模で優先していた競合2社との差別化に苦慮していた日本エアシステムは、この状況を打破するためにいくつかの独創的なサービスを導入しており、それらのサービスを目当てに日本エアシステムを選択するファンや旅行者・出張者も多かった。また、以下のようなサービスを日本で最初に導入している。
- ヘアヌードのある雑誌の搭載を取りやめ。
- 半額運賃の国内線割引運賃を設定。
- 女性優先トイレを設置。
- パソコン通信(現在のインターネット)で国内線予約、空席・運行状況の情報提供を開始。
- 機体1機ごとにスペシャルマーキングを塗装(史上初)。
- 本格的な広告マーキングを塗装。
- インターネットで機体デザインを募集。
- 国内線3クラスシートを導入。
- 日本で最初に全席個人用テレビ付き座席を実現。
- コンビニチケットレス予約サービスの設定。
- バースデー割引の制定。
飲み物
[編集]飲み物に関しては、航空会社として唯一飲料会社の大塚製薬と提携し、同社の主力製品であるジャワティやポカリスエットなどを搭載していた。他にも暖かいスープ、お茶やカゴメの六条麦茶、ジュースなどを搭載していたが、人気商品はジャワティとコンソメスープ(日本航空やエア・ドゥのものより薄めで飲みやすいとの評価があった)であった。
ビジネスクラス
[編集]成田―ホノルル線の就航に伴ってDC-10型機に導入されたビジネスクラス。後のスーパーシートの前身と言えるが、形態は日本航空のそれに類似する。機内食もエコノミークラスより豪華であり、主に和食を中心としたものの他、軽食も提供された。なお、ホノルル空港のラウンジはクラスに関係なく利用が可能であった。
スーパーシート
[編集]ボーイング777のスーパーシート導入に合わせ、1997年4月1日からA300-600R型機において、スーパーシートを導入。座席数は一機あたり12席、ピッチ102cm、幅47cm。レインボーセブンとの違いは、フットレストが手動、テレビも天井のCRTビデオモニターであった。バゲージ・チェックイン・ラウンジ(ラウンジのない空港では空港内売店で使用できる商品券)・機内食などのサービスはレインボーセブンのものと同じであった。
ボーナスシート
[編集]1997年4月1日から機体最後尾にエンジンが搭載されていたDC-9-81、MD-81、MD-87、MD-90型機に導入された格安座席。「窓が無い」、「エンジンがうるさい」、「座席がリクライニングしない」と不人気であった機内最後尾の5~7席の運賃を、通常運賃の50%としたもの。事前購入割引ではなく定額料金であった。当クラスを含むと4クラスとなる。
チャイ・ランメニュー
[編集]2001年より、香港を代表する映画制作会社、ゴールデン・ハーベストの副社長兼プロデューサーで、フジテレビの人気テレビ番組「料理の鉄人」にも特別審査員として度々出演するなど、食通としても有名な蔡瀾(チャイ・ラン)が監修した機内食が成田-香港線で提供されていた。
民族衣装
[編集]2001年に、関西国際空港-昆明線のみの限定サービスとして、客室乗務員が中華人民共和国雲南省の少数民族の衣装を着用して機内サービス行うサービスを提供した。
フローラルルーム(女性優先トイレ)
[編集]客室乗員部乗務室長(当時)の吉田千鶴子氏の発案により、1996年3月に国内航空会社として初めて設置された女性優先化粧室。ドライフラワーのハーブが香るトイレには、コロンやハンドクリーム、ウェットティッシュなどアメニティグッズなどが設置されていた。まれに書籍などで「女性専用トイレ」と表記されることがあるが、あくまで「優先」であり男女とも利用可能であった。
機内誌
[編集]日本エアシステムは、機内誌として「ARCAS」(アルカス)を搭載し、他に機内販売の案内などを搭載していた。
3クラスシート
[編集]日本エアシステムは東亜国内航空以降初のボーイング機となるボーイング777シリーズを導入すると共に、同様にボーイング777を導入している他の2社との格差をつけるべく、日本エアシステムの最大の売りである独自のサービスを重視することとなり、国内線初の3クラスシートを導入することを決定した。これら3クラスの全ての座席には、液晶テレビモニターが設置され映画やゲームをを楽しむことができ、これも国内線初の試みであった。
これらのエンターテイメントサービスは、JAL便への統合に際して3クラス廃止・機内改装によって廃止、また全ての機材からプログラム自体が削除されていたが、一部未改装のまま運行されている機材については、日本エアシステム時代のゲームなどがそのまま残されているという。(2006年末現在)
全席にテレビを設置するなどこれらのサービススピリッツは、現在も元JAS職員が経営陣を勤めるスターフライヤーで受け継がれている。
スーパーシートは、1997年4月1日からB777型機において導入されたファーストクラス。料金は追加料金¥4000。座席数は一機あたり12席、ピッチ約107cm、幅53cm。2-2-2の6アブレスト。最大角度25度のリクライニング・ランバーサポートは電動であり、フッドレストはレッグレストに収納されていた。座席には「レインボービジョン」(テレビ)のコントローラーが設置されており、チャンネルの切り替え、ゲームの操作、読書灯、キャビンクルーの呼び出しなどを操作できた。スーパーシートの乗客は、チェックインを専用のカウンターで行い、搭乗前に下記の「レインボーラウンジ」でくつろぐことができる。また朝・昼・夕の時間帯には国内線としては豪華な機内食が提供された。16時以降に出発する便ではワインのクォーターボトルがサービスされた。機内食の出ない時間帯では軽食として弁当か菓子のどちらかを選択することができた。機内では、コートや上着を専用のクローゼットに預かってもらえる他、スリッパと靴ベラもサービスされていた。到着後は、専用のタグをつけた手荷物が優先的に引き渡された。予約は専用電話「レインボーコール」で受け付けた。JAL便に統合後はクラスJとして¥1000で座れるようになった。
レインボーシートは、1997年4月1日より、国内線の普通席とスーパーシートの間に設定された中間クラスである。料金は追加料金¥1000(就航当初は¥2500)。座席数は一機あたり38席、ピッチ97cm、幅45cm。2-4-2の8アブレスト。ボーイング777のみで提供され、スーパーシートと違い空港のラウンジや専用カウンターなどのサービスは省かれていたものの、ゆったりしたシートを安価に利用できることもあり固定ファンが多かった。また、手荷物の優先や専用電話などはスーパーシートと同様であった。なお、日本航空になっても同じコンセプトのサービスが「クラスJ」の名称で継続されている。 詳しくはレインボーシートを参照。
レギュラーシート
[編集]国内航空会社で初めて全席にテレビモニターが設置されたエコノミークラス。ボーイング777型機の2-5-2の9アブレストは、日本航空や全日本空輸にはない独自のものであった。
レインボーラウンジ
[編集]主に「スーパーシート」を利用していた乗客に対し、日本エアシステムは羽田・札幌・福岡など主要空港で「レインボーラウンジ」と呼ばれるラウンジサービスを行っていた。落ち着いた内装のレインボーラウンジには、専門の係員が配置され、軽食やドリンクのサービスを行っていた。現在、レインボーラウンジは、日本航空の「サクララウンジ」となって利用されている。
マイレージ
[編集]他の2社と同様にマイレージサービス「JASスカイメリット」を導入していたものの、自社の国際線ネットワークが小さかったために国際線の特典航空券の選択肢が少なかったことなどから、ノースウエスト航空やKLMオランダ航空とマイレージの提携を行っていた。末期にはコンチネンタル航空との間でもマイレージ提携に向けた交渉が始まっていた。併せて同じ東急グループ傘下の東急ホテルズや東急リゾート、東急TOPカードなどとも提携していたのが特徴であった。
また、マイルの有効期限が他の2社に比べて長いことや、貯めたマイルは誰でも使用可能なこと、他社との競争が熾烈な幹線で多くマイルが貯まる点も特徴とされていた。カード自体のデザインも、ファンや利用者には人気であった。
広告
[編集]他の2社同様に夏季には沖縄(奄美諸島)キャンペーンや北海道キャンペーンを行った他、他の寄港地や貨物部門での広告キャンペーンも行われた。また、1990年頃、「ハートフルJAS」というコピーが用いられた時期に和田アキ子、ホノルル線就航時に中村吉右衛門といった著名人をテレビCMに起用した事もあった。
キャンペーンガール
[編集]- ジョディ・マッケンジー(1979年)
- 稲光朱火(1980年)
- 石川優子(1981年)
- 松本真実(1983年)
- 財前直見(1984年)
- ジーナ・ナナ(1985年)
- シュリー・アスンシオン(1986年)
- 武市幸子(1987年/俳優・高松英郎の長女)
- 西田ひかる(1988年)
- 坂井泉水(1989年/'89フルロードキヤンペーン/蒲池幸子名)
- 坂井泉水(1989年/JASカーゴ/蒲池幸子名)
- 坂井泉水(1990年/JASカーゴ/蒲池幸子名)
- 及川麻衣(1991年)
- 川島令美(2000年~2001年)
その他
[編集]- 和田アキ子(1990年/ハートフルJAS)
- 中村吉右衛門(1991年/ホノルル線就航)
- 平賀雅臣(1997年/レインボーセブン就航)
- 山口智子(2001年/バースデー割得)
- 山口智子(2001年/ウルトラ割得)
- 山口智子(2002年/ウルトラ割得ジャンプ)
- 沢田研二・田中裕子(2002年/結婚記念日割得)
株主
[編集]設立当初から東京急行電鉄が大株主として君臨しており、事実上の東急グループの1社であった。しかし1990年代に入り東急グループ自体が深刻な経営不振に陥り、一傘下企業の経営不振の解消にまで手が回らなかったことが、同社が経営不振から立ち直れないまま日本航空への吸収合併へと至った原因のひとつであるとみられている。
他の大株主としては東京海上火災や日本航空、京浜急行電鉄および国内主力行などであった。なお、東京急行電鉄は経営統合で日本航空の大株主の一員となり、現在も同じである。
子会社
[編集]航空会社の子会社は、ローカル線専門の子会社2社と国際線チャーターの運航を目的とした連結子会社を所有していた。日本航空に吸収合併された現在もローカル線専門の2社については当時の社名のまま現存しており、ハーレクインエアは人材派遣会社として名前だけ残している。
他にも整備や地上ハンドリング、グッズ販売企画などの子会社もあった。経営統合が進むなかで、旧日本エアシステムの総合職系社員の多くは子会社に移動させられ、持株会社や日本航空ジャパンには管理職以上はわずかとなったため(皆無ではない)、むしろ子会社に日本エアシステム色が継承されている。
航空会社
[編集]- 日本エアコミューター(JAC)
- 北海道エアシステム(HAC)
- ハーレクィンエア(HLQ)
整備・地上ハンドリング会社
[編集]- 日東航空整備(NTM)
- 東亜エアサービス(TAS)
- 北海道エアーサービス(HAS)
- 仙台エアーサービス(SAS)
- 金沢エアシステム(KAS)
- グランドエアーサービス(GAS)
地上支援機材・車両整備
[編集]- 日本エアモーターサービス(JAMS)
航空機部品・設備の保管・払出・輸出入
[編集]- ジェイエイエスメンテナンスサポート(JMC)
- ジェイエイエスエアクラフト(JASA)
予約業務
[編集]- SAS
- KAS
- エアロコミュニケーションサービス(ACS)
- 大阪エーシーエス(OSAACS)
- 福岡エーシーエス(FUKACS)
商事業務・空港売店運営・保険代理業
[編集]- ジェイエイエストレーディング(JTR)
- ジェイエイエス商事(JSC/商事業務/平成12年4月より以下社名)
- ジャスナイスウイング(商事業務・パッケージツアーの主催)
旅行業
[編集]- ジェイエイエス商事(JSC)
- ジェイトラベル東京(JTT)
- ジェイトラベル北海道(JTH)
- ジェイトラベル大阪(JOO)
- ジェイトラベル名古屋(JTN)
- ジェイエイエスカストマーサービス(JCS)
その他
[編集]- ジェイエイエス旭川リゾート開発(JARD/ゴルフ場経営)
- JAS香港(JASHKG/香港地区総販売代理店/旧名JASH.K.日本佳速航空香港有限公司)
事故
[編集]日本国内航空を経て東亜国内航空時代から墜落、全損事故を含む数回の重大事故を発生している。国内線の運行が主であったこともあり外国での事故はない。
- 1971年7月3日:丘珠発函館行き63便(日本航空機製造YS-11)が、北海道七飯町横津岳で墜落、68人が死亡するYS-11最悪の事故となった(ばんだい号墜落事故)。 原因の詳細は不明だが、事故当時濃霧であった事から着陸時に目測を誤ったのでは、とも言われている。
- 1979年7月21日:東京発南紀白浜行き381便(日本航空機製造YS-11)が、離陸後に後輪の左車輪が故障し、出せなくなった。同機は羽田に引き返し、前輪と後輪が右側のみの片輪で着陸を強行。着陸はスムーズであったが、速度が落ちると機体は脚のない左後方に大きく傾き、胴体を滑走路に激しく擦る半胴体着陸となった。機体は停止直前に滑走路上で胴体左下を中心に右方向へ回り、前後がほぼ逆に向いた状態で停止。幸いにも爆発や炎上等はなく、乗員乗客は全員無事。なお、この便には女優の由美かおるが搭乗していた。この機体の障害発生から実際の事故発生まで時間があったので、羽田空港には着陸の瞬間を伝えるべく多数のマスコミが詰めかけた。その結果、報道各局には同機の半胴体着陸の模様が映像記録として残されている。また当時28才の由美かおるが真白い上下のパンツスーツ、乳首スケスケのノーブラのイケイケのスタイルで事故機から降り立った姿にマスコミが駆け寄った。
- 1988年1月10日:米子発伊丹行き670便(日本航空機製造YS-11)が、米子空港からの離陸時に滑走路を逸脱し滑走路先の海中に突っ込み機体は破損し乗客8名が軽傷を負った。翼部の凍結による作動不良が原因。
- 1993年4月18日:名古屋発花巻行き451便(ダグラスDC-9-41)が、花巻空港への着陸時にハードランディングとなり滑走路に激突し大破炎上。乗員1名と乗客19名が重軽傷を負ったが奇跡的に死者はなかった。着陸直前にウィンドシアに遭ったことが原因。
- 2004年1月1日:鹿児島発徳之島行き979便(マクドネル・ダグラスMD-81)が、徳之島空港に着陸直後に左主脚を折損した。乗客1名が軽傷。機材故障が原因。日本航空との経営統合が進み、日本エアシステム便が日本航空便に統合再編される寸前のこの時期には、まるで後の連続トラブルを予知したかのようなトラブルや問題が多発した。
また、1966年8月26日に、日本国内航空所属のコンベア880が、貸出先の日本航空により羽田空港で訓練中、離陸直後に墜落炎上し乗員4名および運輸省航空局職員1名が死亡した(日本航空羽田空港墜落事故)。操縦ミスが原因。
脚注
[編集]- ^ 昭和46年度版運輸白書 III-第2章-第2節-2 航空企業の再編成
- ^ 共同持株会社設立によるJALとJASの経営統合について