利用者:Licsak/sandbox/信楽高原鐵道列車衝突事故

信楽高原鐵道列車衝突事故
事故現場跡と慰霊碑とそこを走る車両
事故現場跡と慰霊碑とそこを走る車両
発生日 1991年(平成3年)5月14日
発生時刻 10時35分頃(JST)
日本の旗 日本
場所 滋賀県甲賀郡信楽町(現・甲賀市信楽町)黄瀬
座標 北緯34度55分14.2秒 東経136度5分16.2秒 / 北緯34.920611度 東経136.087833度 / 34.920611; 136.087833
路線 信楽高原鐵道信楽線
運行者 信楽高原鐵道
事故種類 列車衝突事故
原因 代用閉塞の不適切な使用・誤出発検知装置の誤作動
統計
列車数 3台(信楽高原鐵道車2台・JR車1台)
死者 42人
負傷者 614人
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犠牲者追悼法要当日の慰霊碑(2012年撮影)

信楽高原鐵道列車衝突事故(しがらきこうげんてつどうれっしゃしょうとつじこ、信楽高原鉄道事故[報道 1]信楽列車事故[注 1]とも)は、1991年(平成3年)5月14日信楽高原鐵道において発生した列車衝突事故である。

事故概要[編集]

1991年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現・甲賀市信楽町)黄瀬の信楽高原鐵道信楽線小野谷信号場 - 紫香楽宮跡駅間で、信楽貴生川行きの上り普通列車SKR200形4両編成)と、京都発信楽行きの西日本旅客鉄道(JR西日本)直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系3両編成)とが正面衝突した。先頭車のキハ58形は前部が押し潰され車体がほぼ真ん中で上方へ折れ曲がり、SKR200形は先頭車が2両目とキハ58形とに挟まれる形で原形を留めない程に押し潰された。JR西日本側乗客の30名、信楽高原鐵道側乗員乗客の12名(うち運転士と添乗の職員が4名)、両者合わせて計42名が死亡、614名が重軽傷を負う大惨事[1][2][3]となった。衝突した臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)[注 2]であったため、人的被害が非常に大きくなった。

背景[編集]

世界陶芸祭セラミックワールド しがらき'91 の膨らみすぎた来場者数[編集]

滋賀県甲賀郡信楽町に事故前年の1990年6月に開設された滋賀県立陶芸の森(以下、陶芸の森と略す)で国際的イベントが企画された。滋賀県では初の国際的イベントを開くことが陶芸の森の設立計画当初からあり、また国民休暇村の誘致合戦で近江八幡市と信楽町とが争った結果、近江八幡市に国民休暇村が誘致されたことから[4]、地域振興を名目に陶芸の森での国際的イベントとして「世界陶芸祭セラミックワールド しがらき'91」を大々的に開く構想が持ち上がった。開催にあたって実行委員会は会期37日間の想定来場者数を35万人と見込んでいたが、1990年6月、陶芸の森オープンとともに開催されたプレ陶芸祭は5日間の会期中、目標としていた30,000人を上回る31,000人の入場者数を記録した。一日の最高入場者数は6月3日(日曜日)の15,500人、最低は6月5日(火曜日)の2,800人であった。3日の日曜日には1,400台収容可能な会場の駐車場がほぼ満車になり、アクセス道路である国道307号線におよそ3kmにわたる渋滞が発生し、本イベント開催の課題とされた[資料 1]。なお本イベントでは渋滞対策としては会場北部の信楽町牧地先と南部の信楽運動公園とに一般来場者の駐車場を設け、会場と駐車場とを往復するシャトルバスを運行することとした。合わせて信楽高原鐵道信楽駅からもシャトルバスを運行し、来場者には鉄道利用を呼びかけることとした。

本開催となった1991年、会期中初めての日曜日である4月21日には入場者数24,000人を記録したのを皮切りに、NHK「ひるどき日本列島」にて4月22日から26日にかけて会場からの生中継の効果もあり4月28日には、4月29日には37,000人、5月3日には42,000人、5月4日には57,000人、5月5日には54,000人と、当時の町の人口、約14,000人の4倍を超える人が会場に押し寄せた。会期中の延べ来場者35万人、ピーク時の想定一日来場者数を2万人と見込んでいたところを、はるかに超える来場者数に実行委員会は「来場はできるだけ平日に、弁当持参で鉄道を利用して」と呼びかけるに至った。ゴールデンウィーク期間後も入場者数は減ることなく推移し、5月11日には入場者50万人を達成していた[5][報道 2]。なお最終的に、開催中止決定までの延べ入場者数は60万人にも達した[6]

余裕のない鉄道輸送計画[編集]

会場輸送計画の要である信楽高原鐵道には、想定延べ入場者数の25%にあたる約9万人の乗客輸送が実行委員会より要請されていた。期間中の想定ピーク輸送人員約9,000人/日に対し、会期前の乗客は平均して2,000人/日足らずだった信楽高原鐵道の輸送力は、手持ちの4両の車両(編成定員392人)すべて稼働させたとしても混雑度150%で毎時600人が限界であり、フルに稼働させても輸送力不足は明らかだった。そこで実行委員会は1990年3月に滋賀県知事名で、信楽高原鐵道・JR西日本の両社に対し協力を要請し、信楽高原鐵道はJR西日本の車両と運転士をともに借り受け[注 3]、毎時2往復、混雑度150%で片道毎時約1,000人の輸送力を目論んだ[7][注 4]。毎時2本の列車運行を実現するため信楽高原鐵道は行き違い場所のない旧来の線路設備に対し、路線の中間部に当たる箇所に列車交換のできる小野谷信号場を設け、運行本数をほぼ倍増する工事を約2億円掛けて実施した[8][9]。「世界陶芸祭セラミックワールド しがらき'91」開催期間中、信楽高原鐵道は4両連結の列車を仕立て[資料 2]、昼間時間帯はキハ58系2両ないし3両で構成されるJR西日本の乗り入れ列車と合わせて上り下りとも毎時2本の運行を確保した[10]。毎時2往復、混雑度150%で片道毎時約1,000人の輸送力は、線路容量をほぼ使い尽くすものであり、車両内には「信号所(小野谷信号場)で行き違う関係上、信楽駅での発車を絶対遅らせることができません[11]」と貼り紙が出されるくらいにタイトなダイヤだった。それゆえに見込みを大幅に上回った来場者の輸送で乗客の積み残しも発生した[報道 3]

信楽線の配線略図[編集]

事故当時の信楽線および貴生川駅の配線略図を示す。信楽線の列車交換は小野谷信号場以外では出来ず、また貴生川駅には信楽高原鐵道の着発線が1本しかなく、かつ、草津線には待避線がないことに注意されたい。

信楽線の配線略図・草津線貴生川駅の構内略図 凡例
0
0 Vvoie
0 Vvoie 至 柘植駅 (亀山駅方面)
0 Vvoie
0 Vvoie ←草津線
0 Vvoie 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 quaib quaib quaib quaib 0 0 0
0 Vvoie 0 0 信楽線↓ 0 0 小野谷信号場 0 ↓事故現場 0 0 quaib 0 0 0 0 0 0 courbebg voie voie voie voie voie voie voie butoird
0 Vvoie 0 0 0 0 courbebg voie voie voie voie bifbd voie voie voie voie bifbg voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie voie bifd 0 0 0 0 0 0 0 0 0
0 Vvoie 0 0 0 Mvoie 0 0 0 0 0 0 courbehg voie voie courbehd 0 0 0 0 0 0 quaih 0 0 quaih 0 0 0 quaih 0 0 0 0 courbehg bifbg voie voie voie voie voie voie butoird
0 Vvoie 0 0 Vcourbehd 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 Mvoie 0 quaih quaih quaih quaih 0 0
0 Vvoie 0 0 Vvoie 車庫 voieshd 0 0 信楽駅
0 Vvoie 0 0 Vvoie ←会社境界
0 VPN route route VPN ←虫生野踏切
0 Vvoie 0 0 Vvoie
0 Vvoie 0 0 Vbifbg
0 Vvoie 0 Mvoie Vvoie
0 Vvoie Mvoie 0 Vvoie
0 Vbifhd 0 0 Vvoie
0 Vbifbd 0 0 Vvoie
0 Vvoie Vcourbehg 0 Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vvoie
quaig Vvoie Vvoie quai Vbutoirb 貴生川駅
quaig Vvoie Vvoie quaid
0 Vvoie Vcourbebg
0 Vbifhd
0 Vvoie
0 Vvoie 至 草津駅 (大津・京都方面)



(側線等、事故原因には無関係な部分、本文中で言及しない部分については省略してある)

小野谷信号場は無人で運用することから信楽高原鐵道は、閉塞方式を票券閉塞式から特殊自動閉塞式に変更し、あわせて車両の進行により信号機分岐器とを自動で設定する自動進路制御装置も設置し、1991年3月16日より運用を開始した[注 5]。しかしCTCは設置せず、信号および分岐器の動作は列車の運行によってのみ決まるシステムであったことが、後述のJR西日本による方向優先テコの無断設置の遠因になった。

信楽線の信号システム[編集]

事故当時の信楽線は、閉塞が貴生川駅--(単線区間1)-〈小野谷信号場〉-(単線区間2)--信楽駅という構造になっていた。単線区間では、当然のことながら、どちらか一方向にしか列車を走らせることはできない。そのため単線区間の1と2では、信楽方向(→方向:下り)に列車を進行させるか、貴生川方向(←方向:上り)に進行させるかが自動的に設定され、 列車の運行に従って自動的に信号の現示と分岐器の操作が行われる仕組みになっていた。この機能により小野谷信号場は無人のまま、両端駅である信楽・貴生川 の両駅の出発信号機の操作だけで行き違いができるシステムとなっていた。小野谷信号場には安全側線がないことから進入許可の現示は警戒信号(黄黄の2灯)[注 6]であり、出発信号機の制御点まで列車が進行しかつ、信号所に入りその先の単線区間の閉塞が確保できたら出発信号機が進行信号を出す仕様になっていた。無人信号場であることから、信楽駅から運転士に連絡を入れるよう求める黄色の回転灯[注 7]も設置された。なお近江鉄道[注 8]では単線自動閉塞の信号システムがすでに稼働しており、黄色の回転灯も近江鉄道のシステムに倣ったものである[12]

例えば事故時のように貴生川と信楽から同時に列車が発車し小野谷信号場ですれ違う場合であれば、貴生川駅発の列車、信楽駅発の列車双方に青信号を出すと単線 区間1が信楽方向(→方向:下り)に、単線区間2が貴生川方向(←方向:上り)に切り替わり、それぞれの駅を列車が出発できる。そして両列車とも単線区間 を通って小野谷信号場に到着すれば、逆に単線区間1が貴生川方向(←方向:上り)に、単線区間2が信楽方向(→方向:下り)に切り替わるので、2つの列車 は信号場ですれ違って目的地に向かうことができる。注意すべきは小野谷信号場には下り上りともに場内信号機出発信号機との間に反位片鎖錠[注 9]が設定されていたことである。この設定により後述の方向優先テコの操作が、列車の進行により信楽駅の出発信号機を赤に固定させてしまった。

貴生川駅構内はJR西日本の管轄であるため、信号システムはそのほとんどが信楽高原鐵道側であるものの、貴生川駅の連動装置の変更が必要になることからJR西日本および信楽高原鐵道の両社で分担して設計・施工されることとなった。それぞれ別々の会社に設計・施工を依頼し[注 10]、かつ認可通りの設備で連動試験を行っている[注 11]。しかし試験後の両社の無認可改造ならびに設計の相互レビューの不徹底が、信号システムの相次ぐトラブルそして、正面衝突事故につながっていくことになる。

事故経過[編集]

事故当日の列車運行[編集]

事故前の沿線の信楽町では1991年(平成3年)04月20日から「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」が開催されており、JRの直通快速が平日は1往復、休日は2往復設定されていた。JR西日本の乗り入れ列車は平日・休日とも2本であり、朝方に京都・大阪から草津線を経由して信楽高原鐵道信楽線(以下信楽線)に入線し、昼間は信楽線内を快速として貴生川駅 - 信楽線間を運転、夕刻に京都・大阪にイベントの帰宅客を乗せて戻るダイヤだった[注 12]。信楽高原鐵道の列車とJR西日本の2本の乗り入れ列車とで、イベント開催中の昼間帯は毎時上り下り2本ずつのネットダイヤが組まれていた。

事故を起こした下り直通快速501D列車はJR西日本から最も早く乗り入れる列車であり、始発の京都駅から大混雑していた(JR西日本の車掌は大津駅出発後、大津駅5分遅れ、乗車率260%と輸送指令に報告を入れている)。途中駅での客扱いはほとんどできないどころか、乗車早々に気分の悪くなった女性の乗客2人が緊急避難措置として乗務員室にて休み、うち1人が草津駅で途中下車するほどだった[13]。また大混雑ゆえに乗客の乗降にも支障をきたすほどで遅延は解消の見込みが立たなかった。しかしこの遅延は当列車だけに限らず、別の日でも起きていたためこの日だけが特別に混雑していたわけではなかった。一方で衝突相手になった信楽高原鐵道の上り普通534D列車は草津線の電車を利用した客を出迎えるため、自社で保有する4両すべて連結して出迎えに行った。したがって上り列車には信楽高原鐵道の関係者のほかは麓の公立病院への見舞いに行った乗客など、わずか15名が乗車するに留まっていた。ただ終着駅の貴生川駅ではワンマン運転による客扱いならびに車内精算を行う関係上、乗客は前部車両に固まって乗車していた。

事故当日の列車運行(時間軸)[編集]

列車片方ずつの記述では相互関係は理解し難いので時間軸上に起きた事象を並べることとする。

事故当日の互いの列車の運行状況(時系列)
時刻 下りJR直通快速 9930D(501D) の運行状況 上り信楽高原鐵道普通列車 (534D) の運行状況 亀山CTC・貴生川駅その他の動き
9時30分 京都発9930D(501D)が京都駅を発車。
乗客が多く200%以上の混雑率で発車(5分おくれ)。
--- ---
--- 車内での体調不良者2名を車掌室に移す。
その後うち1名は草津駅にて下車する。
--- ---
--- 大津駅出発後、車掌が260%の乗車率だと連絡を入れる。 --- 運輸指令を通じ亀山CTCが直通列車の遅れを受け取る。
9時42分ごろ 大津 - 草津間を走行中。 --- 下り531D列車のため貴生川駅の信楽線下り出発信号機を操作。
9時46分ごろ 大津 − 草津間を走行中。 下り531D列車が貴生川駅を出発(2分おくれ)。 ---
9時51分ごろ --- 下り531D列車が貴生川 - 小野谷信号場間を登坂走行中。 亀山CTCにて方向優先テコを操作。
10時10分ごろ 草津線内を走行中。
線内は各駅に停車していた。
下り531D列車が信楽駅に到着(3分おくれ)。
車庫よりの1両を増結し、折り返し534D列車となる。
---
10時14分より前 --- 上り534D列車を出発させようと信楽駅出発信号機を操作したが進行現示にならず。 信楽高原鐵道の業務課長が代用閉塞の採用を決定。
信号の継電器室の調査を技師にさせる。
小野谷信号場に要員2名を軽トラックにて派遣。
10時17分ごろ 9930D 貴生川駅に到着。混雑のためほとんど客扱いできず。 信楽駅で定時に出発できず出発待ち。 貴生川駅にて信楽線下り出発信号機操作。
10時19分ごろ 貴生川駅を5分おくれで到着したのを停車時間を5分のところを2分に縮め出発。 ---
出発時刻については信楽駅には伝えられず。
10時25分ごろ 貴生川から小野谷信号場に向け登坂走行中。 11分おくれで指導員を乗せ信楽駅を出発。 ---
10時31分ごろ 小野谷信号場を場内・出発信号機の進行現示に従い通過。 雲井駅近辺を走行中 ---
10時35分 両列車が正面衝突 ---

事故発生[編集]

事故の一報は10時37分ごろ、複数の目撃者によって警察および消防になされた。現場近くの国道307号線を走行していた乗用車の観光客は、事故を目撃するや同乗者を救助のため現場近くに降ろし、近くの民家の電話を借りて110番通報をした。また現場そばの陶芸窯で作業をしていた陶芸家も甲高い汽笛と衝突音を耳にし、音のする方を見ると列車が正面衝突しているのを目撃した。その直後、負傷者が国道によろめきつつ出てきたのを目にし119番通報をしたのがそれぞれの第一報であった。さらに10時39分に地元の女性から119番通報があり、10時41分にはJRの車掌が事故現場近くの民家の電話を借り119番通報を行った[14]。また小野谷信号場に向かっていた信楽高原鐵道の職員も事故直後に現場を目撃し、信楽駅に無線で事故の一報を伝えている。たまたまJRの世界陶芸祭しがらき号と信楽高原鐵道の列車写真とを車で撮りに来ていた鉄道愛好家は事故現場に遭遇し、その前後のことをブレービー倶楽部に寄せ出版している。その鉄道愛好家は事故直後の写真を撮影したとともに救助にも当たった。JRの直通列車の乗客に対し、床下のドアコックを開ければ扉が開くことを伝え、乗客から運転台にあった消火器を渡してもらい、衝突車両の先頭車床下から出ていた火を消し止めた。その後、降りてきた乗客を線路脇に誘導していたが、信楽高原鐵道の事故列車に乗り込んでいた青年から声が掛かり、乗り込んで救助を試みるが座席に挟まれ動けなくなっている負傷者に声を掛けるのが精一杯だった[注 13]

開いた扉から降りた客の中には事故現場の写真撮影や動画撮影をするものも居たが、自力歩行できた負傷者は事故現場から約800m離れたところにある紫香楽病院に殺到した。

事故発生の一報は世界陶芸祭の会場にも伝えられたが、開催は続行された。ただ事故により信楽線が不通になったため、軽傷の乗客はバスで会場に向かうことができ、また会場内の鉄道利用客は急遽仕立てられたシャトルバスで貴生川駅まで向かうこととなった[注 14]

救出活動[編集]

事故当時、甲賀郡消防本部の特別救助隊、救助隊員は現場から約9km離れた野洲川の河川敷にて訓練中だったが、事故の一報を聞きそのまま事故現場に急行した[15]。また信楽町消防団あてには有線放送電話で出動要請が流され、事故現場に集まっていた。事故の重大性から近隣の病院にも出動・応援要請が出され、医師・看護師が現場にてトリアージおよび救急処置を行った[16][17]。応援の医師・看護師ならびに救急隊は後発隊の活動により先遣隊と早期の到着隊が一度先に帰ったが、再び出動要請を受け別人または同一人物を再派遣し、現場の部隊と交代している[18]。臨時のヘリポートが作られ、医療関係者同乗のもと滋賀医科大学医学部附属病院など、重傷者のヘリコプターによる遠距離の搬送も試みられた[19]

救助活動は難航を極めた。現場は見通しの悪い急カーブであり、衝突した車両はカーブ外側に傾いた状態でかつ、双方の車両ががっちりと噛みあった状態で衝突していた。信楽高原鐵道の先頭車は「Ω」状に押しつぶされており、JRの気動車は真っ二つになり先頭が天に屹立する状態だった。その一方で台車は線路直上に転がったままだったことから台車が地上に降りるときの障害となった。衝突時には大音響とともに煙も上がったことから一般人も複数人、駆けつけており、事故直後から救助活動等にあたった。車両から出火も見られたことから事故を知って駆けつけた一般人も含め複数人が消火器でエンジン部からの出火を消し止め、エンジンその他には警戒筒先(あらかじめ出火しそうなところに用意しておく放水用筒先)を用意して火災を防いだ。また気動車であることから双方の車両には軽油が燃料として積んであることから火花の散るエンジンカッターが使用できず、車両にはしごを掛け救助隊が手作業でバールやボルトカッターなどでの救出が油圧式スプレッダーの到着まで実行された。ドアコックは早期に開放されれいたため出入口扉は開いており、強化ガラス製の窓ガラスも割られていたことから、窓から脱出・救出を試みたケースも少なくなかった。乗客も含む周囲の協力で軽症者は近くの紫香楽病院に向かうことが出来たが、車体や座席、ボックス席にあるテーブル等が救出の邪魔となったり、それがもとで圧死したケースも少なくなかった。バールやボルトカッターではどうすることも出来ず、車内に閉じ込められたまま点滴等、救急医療をするケースも、「頑張れ!」と声だけしか掛けられなかったケースもあった。

事故現場の救急活動は混乱を極めたが、各スタッフの使命感の高さもあって、早期に収拾が図られた。重傷者のヘリコプターによる搬送もその一つである。

救急搬送には救急車の絶対数が足りず、やむなくパトカーの先導で一般車両(トラックなど)が病院まで搬送することも行われた。

車両の引き離しが完了し、最後に信楽高原鐵道の運転士の遺体が収容され、42名すべての遺体の収容を終えた。収容完了は翌日に入った5月15日、01時30分であった。

受け入れ病院も事故の一報を聞き、当日の外来診療を中止し、救急搬送の受け入れ体制を整えた。

車両引き離しのため重機が入れるように周囲の立木は切られ、ワイヤを架ける電柱を建てた上で車両を引き起こし、大型クレーン車により引き剥がす措置が取られた。

事故処理の関係で国道307号線は通行規制が事故処理後も続いた。マイカーで会場まで来場するには、事故現場での通行規制は、渋滞情報を国道1号線や国道8号線にも渋滞表示看板の掲示を求めていたこともあり、会場への足は事実上すべて絶たれたかたちとなった。

原因[編集]

代用閉塞取扱の手続き無視と誤出発検知装置の誤作動[編集]

発 端は、信楽駅から貴生川駅行きの上り普通列車534D列車を発車させようと、信楽駅の制御盤で出発信号機を青信号にしようとスイッチ(テコと呼ばれる)を 操作したにもかかわらず、赤信号のまま変化しなかったことである。このとき下り列車が正しく信楽駅に到着しているにもかかわらず下り運転方向表示が点灯し たままだった[20][21]。分岐器を調べたが線路は開通しており信号トラブルを疑ったため信楽高原鐵道は保守要員として詰めていた信号システム会社の社員に点検を命じるとともに、代用閉塞である指導通信式の採用を早々に決定。小野谷信号場で対向列車であるJRからの直通列車と行き違いを実現すべく、誤出発検知装置[注 15]を頼りにして、指導員となる職員を添乗させ普通列車を11分遅れの10時25分ごろ発車させた[22][23]。この列車には指導員役の職員の他、当日の午後から安全管理などの査察に来る予定だった近畿運輸局の係官を貴生川駅まで出迎えに行くために常務、おそらくは指揮を執るべく乗り込んだ業務課長[注 16]、夜勤明けで自宅に帰る予定だった運転士の計4人が乗り込んだ[24]。事故で本務運転士も含め、添乗した4人すべての計5名が死亡し、信楽高原鐵道の乗務員で生存したのは車掌1名のみだった。

代 用閉塞を開始する場合、閉塞区間の両端に駅員を配置し、対向列車の抑止と閉塞区間に列車が居ないことを確認しなければならない。この場合は少なくとも対向 列車501Dが小野谷信号場で停車し、代用閉塞の使用を運転士に通告した上で出発を抑止したことを、小野谷信号場に到着した閉塞責任者から信楽駅の運転主 任に伝達され確認した後でなければ534D列車は出発させてはならなかった。しかし事故当時、代用閉塞に必要な要員は車で小野谷信号場に差し向けたもの の、その到着を待たずに列車を発車させてしまった。これにより刑事裁判においても代用閉塞に必要な措置を取らなかったことにより事故を招いたとして当事者 は刑事罰を受けた。

しかしながら改修した信号システムはトラブル続きだった。貴生川駅の出発信号機を青信号にできないトラブルは4月8日、4月12日の2度、事故当日と全く同じ、信楽駅で出発信号機を青信号にできないトラブルはゴールデンウィーク中の5月3日に もあった。しかも5月3日のケースは事故時の列車と全く同じ534D列車で起きていた。この時は代用閉塞への変更すら行わず、誤出発検知装置を頼りに10 時20分ごろ534D列車を出発させていた。対向列車であるJR西日本からの直通列車は小野谷信号場で停車して事無きを得、業務課長は小野谷信号場まで列 車に添乗し、自ら手動で分岐器の操作を行って列車を行き違いさせていた。さらにその一時間後の下り列車も代用閉塞に必要な運転通告券の交付を受けず、小野 谷信号場に居合わせた業務課長の口頭での要請のまま、小野谷信号場から信楽駅まで運転させていた。なお5月3日のこの列車の運転手が事故当日のJR西日本 乗り入れ快速501Dの運転手であった[25]。 事故当日も業務課長が上り534D列車に乗り込んだことから5月3日と同様の解決法を取ろうとしたものと考えられるが、運行中厳禁されていた信号継電器室 での作業結果での作業も相まったと考えられ、5月3日には有効に作用したこの手法によっても対向の下り臨時快速列車を停車させることができず、両者が正面 衝突するに至った。

小野谷信号場の下り出発信号機が赤にならなかった理由について、信楽駅構内の信号固着の修理のために同駅の継電器室 (信号機器室)において行われていた、運行時間中の信号装置の点検作業が指摘されている。小野谷信号場の出発信号機は先の装置により一度は実際に赤に変え られたが、その作業の影響により、再び青に戻ってしまったと見られている[26][27]。事故検証において信楽駅とともに小野谷信号場の誤出発検知装置も調べられたが誤出発検知はされていず、列車は青信号で通過したものとみられる[28]

事故後、警察は実際に車両を動かして信号の動作検証を行った。信楽駅における出発信号機の青信号が出せない現象は、方向優先テコの操作、小野谷信号場の下り場内信号機(貴生川駅側)と下り出発信号機との間の反位片鎖錠[注 17]の関係、小野谷信号場下り場内信号機の制御接近点の変更工事が複合して発生した現象だと鑑定されたが[29]、事故当日、小野谷信号場の下り出発信号機が誤出発を検知しながら青信号になった理由については検証で再現できず、継電器室でのジャンパー線による人為的接続の想定ケースを列挙するにとどまった[30][注 18]

両社の無認可改造[編集]

事故の発端となった信楽駅の信号不具合の遠因は、信楽高原鐵道とJR西日本がそれぞれ別個に近畿運輸局の認可を得ずに行った信号制御の改造と、両社の意思疎通の欠如にあった。

JRからの直通列車が貴生川駅に着くのが遅れ、信楽駅から貴生川駅に向かう列車の方が早く小野谷信号場に到着した場合、小野谷信号場への到着で貴生川駅 - 小野谷信号場間の運転方向が貴生川方向(←方向:上り)に切り替わり、上り列車が貴生川駅まで到着できてしまう。すると遅れて着いた直通列車は貴生川駅で足止めされてしまい、単線であるJR草津線を走る他の列車にまで影響を及ぼす事態となる[注 19]。 この問題の解決策について関係会社間での小野谷信号場の信号システムの仕様の打ち合わせ時にJR西日本側から、小野谷信号場の上り出発信号機を抑止する機 能の実装として、亀山CTCに方向優先テコを設置するという提案がなされた。しかし会議に同席した信楽高原鐵道側の信号システムの設計会社から、JR西日 本が信楽高原鐵道の信号機を操作するという信号設備のタブーを指摘され、その場で方向優先テコを設置案は取り下げられた。それを受け、会議では運行管理権 の原則どおり、JR西日本亀山CTCセンター(亀山CTC)と信楽駅間との直通電話の設置と、信楽駅からの操作で上り列車を小野谷信号場に抑止するボタンを設置し取り扱うという合意を得た[31]

JR西日本が当初提案した方向優先テコ設置は一旦取り下げられたはずだったが、後日JR西日本は当初案通り、信楽高原鐵道に無断でかつ、運輸局の認可を受けることなく亀山CTCに方向優先テコを無届出で設置した[32][33][注 20][注 21]。またJR西日本は方向優先テコにより機能を果たせるとして、信楽高原鐵道が工事担当する信号メーカーの工場へ指示し、先の合意を実行するための信楽駅の制御盤上の抑止テコを外させた[34][35]。ところがJR西日本が設置した方向優先テコは信楽方向(→方向:下り)に運転方向を設定しなければ機能しないものであった[36]。そのため亀山CTCの運転指令員は一度貴生川駅の出発信号機を青にし、運転方向が信楽方向(→方向:下り)になったのを確認した後に方向優先テコを入れ、その後、貴生川駅の出発信号機を再び赤にする操作を強いられた[注 22]

一 方で信楽高原鐵道も検査合格の日である1991年3月8日に無認可改造を行った。小野谷信号場は峠に位置するため、場内信号機手前の地点にあった信号制御 点では上り・下り双方の列車とも急勾配を登り切る前に減速を余儀なくされる(場内信号機の定位は赤信号のためATSが作動し、登坂中に一旦ブレーキ操作を しなければならない)。急勾配に加えカーブによる速度制限もあり運転士の間からクレームが付いたため[注 23]、 両方の単線区間において両端駅から小野谷信号場への方向設定が行われた時点で小野谷信号場の場内信号機を警戒信号にするよう改造を行った。さらに信楽駅到 着の列車の進入をスムーズにするために、認可された信号制御システムは信楽駅手前の地点通過により場内信号機に進入許可を出すものであったものを改造し、 小野谷信号場 - 信楽駅間の進路が信楽方向(→方向:下り)であれば信楽駅の場内信号機が進入許可を出すように改造した[37][38][39][注 24]

両社の無認可改造は、両社間での相互チェックを経ることはもちろん、結線図・連動図表の交換すらしなかった。しかも両社とも「小規模な工事」だとして自社内での連動会議・結線会議も十分に行われることは無かった。

こうした両社の無認可改造の結果、貴生川駅 - 小野谷信号場間に列車が在線中に亀山CTCで方向優先テコを扱うと、その機能により小野谷信号場で一度反位になった下り線場内信号機が定位に戻らないこと から、反位片鎖錠の関係にある出発信号機は反位のまま戻らなくなった(ただし列車在線中は赤信号)。その結果、列車の進行につれて方向優先テコの信号が信 楽駅にまで伝播し、貴生川駅から信楽駅に至るまで運転方向が下りに固定されてしまうという、JR西日本の意図しない結果になった。このため事故当日の信楽 駅の信号機も、方向優先テコを引かれた状態で先行した下り列車によって設定された運転方向が信楽駅到着後も解除されず運転方向が下りのまま固定されてし まった。したがって、逆向きの上りである信楽駅の出発信号機は赤のまま変わらなくなってしまった。

事故当日が5月3日の再現であれば、仮 に信楽駅から上り列車が出発信号機の赤信号を無視して発車しても誤出発検知リレーが作動し、小野谷信号場の下り出発信号機が赤になるはずであった。しかし 5月3日の時とは異なり、継電器室での作業により誤出発検知信号が途切れてしまった。運転方向が下り(小野谷信号場から信楽駅方向)のまま在線状態はクリ アされていたため、自動進路制御装置の機能によりJRの直通列車は小野谷信号場を青信号で通過し単線区間に入り、信楽発の列車と衝突することになった。よ しんば誤出発検知装置が正常に機能したとしても、信楽駅からの上り534D列車の出発が遅れ、誤出発検知装置が作動する前に下り501D列車が小野谷信号 場に先着していれば、もはや対向列車は止めるすべは無い。強引な上り列車の出発が時間的に間に合わなかった可能性を刑事裁判での判決は指摘している。

異常時の運用方法の未整備・教育訓練の不足[編集]

特 殊自動閉塞に改修前の信楽線は全区間が一閉塞の票券閉塞式であり、自動閉塞を前提とした代用閉塞の必要性は極めて低かった。このことから信楽高原鐵道の従 業員は異常時における代用閉塞の訓練を受ける必要性の認識が薄く、閉塞区間が増えた設備改修後に必要なはずの代用閉塞の実地訓練を行わなかった。行き違い 設備を追加する改修工事に着手したのが1990年5月、竣工検査が世界陶芸祭の開催直前である1991年3月であり、ハード面だけでなく運用細則などソフ ト面においても文字通り突貫工事であった。しかも信楽高原鐵道の要員不足からJR西日本の乗務員に対する乗り入れ教育訓練においては、信楽高原鐵道で講習 を受けたJR西日本の電車区・車掌区のそれぞれ区長・助役が、乗り入れる乗務員の教育訓練を代行するものであった[注 25]。 それ故にJR西日本の現業員には信楽高原鐵道の運転取扱心得の教育をはじめ、信楽高原鐵道特有の線路・信号設備、運転取扱、指揮命令系統など十分に周知徹 底されず、特に異常時における運転整理の手順については詳細を学ぶ機会は無かった。異常時の訓練は最後まで行われないまま放置され、JR西日本の運転士・ 車掌にとって異常時におけるマニュアルは事実上、無い状態であった。そして異常時は都度、信楽高原鐵道に聞くようにという泥縄的なものだった。前述のよう に運用開始後に信号トラブルに直面した後も、正規の指導通信式による代用閉塞の取り扱いを行わないまま運転させていた。いずれの機会においても改めて代用 閉塞の訓練を実施することは無く、むしろ形式だけの代用閉塞どころか、ダイヤのみに頼る閉塞無視の運転が信号故障時の運転の実際であった[40]

報告・情報伝達体制の未確立[編集]

信 号システムの供用開始前からトラブルはあったものの上層部への報告は無かった。また閉塞取り扱い違反や信号故障、列車遅延ならびに運休について、所轄の運 輸局への報告が義務付けられているにもかかわらず、必要な報告を両社は怠った。輸送力増強の要請を受けた直後からJR西日本と信楽高原鐵道とは乗り入れに あたり会合の場を持ち、乗り入れに必要な契約は交わしたものの、写しを現業部門に交付することもなく、また、契約の詳細に至るまで乗務員に周知徹底される ことはなかった。それに加え両社の運転取扱心得の比較対照も行われなかったことが裁判において指摘されている。教育訓練の拙さもあり、JR西日本の運転士 に対しては信楽高原鐵道線内での運転取扱心得はJR西日本のものと同じという言葉を信じさせられたままの者も居た。教育訓練が不十分な中で信号トラブルが 相次いだのだが、彼らは信楽高原鐵道の信号トラブルも、また、職員の代用閉塞取扱の規定違反も上役に報告すること無くその場限りとなってしまっていた。

運 転指令と各列車間の連絡手段について、JR西日本の乗務員には列車無線の周波数が違うことから、信楽駅ならびに対向する信楽高原鐵道の乗務員相互に無線通 話ができないことから列車無線機は信楽高原鐵道線への入線時に電源を切り、代わりに車載の可搬式の列車電話を使うこととされた。ところが小野谷信号場で赤 信号のまま待たされた運転士が、実際に連絡用の列車電話機を使おうと線路に降りて接続箱を見つけたものの、箱が施錠されていて使えなかった。そればかり か、信号の停止措置がとられないまま、小野谷信号場にて赤信号を表示していた上り出発信号機が突然、青信号に変わり直後に赤信号に戻るという現象を現認し たにもかかわらず、その異常事態が報告されることは無かった[41][42][注 26]

さ らに事故前の5月7日には亀山CTCの指令員が出発信号機のテコを定刻になっても引かずまた、運転士も出発信号機の赤信号を見落としたまま発車してしまい ATSが動作して停止した。貴生川駅を出てすぐのところにある虫生野踏切が閉鎖されていないことから誤出発だったと運転士は認識し、貴生川駅員の誘導によ り列車を後退させたが、すでに対向列車が小野谷信号場に接近しており再出発できず、この列車を運休とした[43][注 27]。列車の運休は所轄の運輸局への事後報告が必要であるにもかかわらず、両社はその前の5月3日にあった信楽駅での信号取扱ミスによる遅延ともども、近畿運輸局に運休の報告はせずうやむやにしてしまっていた[44]。これまで数々の代用閉塞取扱の規定違反や種々の不具合を眼前にしつつも報告を上げなかったことについてJR西日本の、情報収集および報告体制の不備による過失を認定している。

信楽高原鐵道の社内事情と押し寄せる乗客[編集]

信楽高原鐵道は第三セクターで あり経営陣が県・町出身者であったことから鉄道そのものに全く知識はなく、経営陣の運行保安に対する意識の低さや知識が欠如していた。開催直前に非常勤に 退いていた鉄道主任技術者が退職、その補充要員をスカウトすることも、社内で信号システムの技術者を迎えることも無く、会期中の信号システム施工業者の技術者駐在で済ませる[45][46]ほどに信楽高原鐵道には人員・予算ともに余裕が無い状態だった。こと代用閉塞の実施には多くの人員が必要になるが、会期前の打ち合わせから人員が事実上確保できないほどだった[注 28]

加えて事故当時は「世界陶芸祭」の来場客輸送に追われていた。会期中の昼間は小野谷信号場での交換を必ず行うネットダイヤであり、背景に記述したとおり定時運行は来場客輸送には絶対の条件だった。臨時の人員に加え、信号システムの保守に来ていた技術者まで動員して乗客をさばいていた[47][48]ほどに信楽駅は混雑しており、社内の指揮命令系統は実質上、乗り入れについての交渉窓口に立った業務課長が実質仕切っていた状態だった[注 29]。 このため5月3日と事故当日の両日とも、代用閉塞を手順通り行うには人員が全くの不足状態であった状態での予期せぬ信号トラブルであったため信楽駅は事実上パニック状態であった。しかも事故当日は、厳禁されていた運行時間中の信号系の修理に着手。代用閉塞での運転を決定して小野谷信号場まで人を車で派遣したが道路の渋滞により小野谷信号場までたどり着けなかった。信楽高原鐵道は代用閉塞の準備が整わないまま上り534D列車を発車させ、おそらくは継電器室での作業により誤出発検知装置が機能を失って対向列車は小野谷信号場を越え、正面衝突事故になった。

裁判[編集]

刑事裁判[編集]

1992 年12月3日、滋賀県警察本部は事故当日の信楽高原鐵道の駅長と運転主任の2名、同じく事故当日に信号の修理を続けた信号設備会社の技師1名を逮捕し、こ の事故で信楽高原鐵道の車両に乗り込み死亡した3名を被疑者死亡として書類送検した。その一方でJR西日本の関係者は遺族会の告訴・告発にもかかわらず不 起訴処分となった[注 30]。事故の直接原因は信楽高原鐵道の列車運行規程違反であったことは疑いの余地がなく、逮捕された信楽高原鐵道の社員2人と信号設備会社の社員1人が、業務上過失致死傷罪などで大津地方裁判所から執行猶予付きの有罪判決を言い渡され確定した[判決文 1]

また、これとは別に近畿運輸局の認可を受けずに無断で信号設備を改修したとして、信楽高原鐵道とJR西日本の双方が鉄道事業法違反に問われ、先に確定していた。この刑事記録が後述の民事裁判で遺族弁護団の手に渡り、民事裁判で活用されることとなった[49]

民事裁判[編集]

刑事裁判ではJR西日本の関係者は起訴されず、遺族は失望の念を禁じ得なかった。また遺族の要請に応じ4度にわたり信楽高原鐵道・JR西日本合同で事故説明会を開催したが、信楽高原鐵道は社長の出席があったもののJR西日本の角田社長は出席にに応じなかった[50]こと、とりわけ第1回の事故説明会の開催直前にスクープされた月刊誌プレジデントの記事[51][52]の質問に対してJR西日本側の回答の歯切れが悪く遺族の心証を害したこと、しかも一周忌法要でのJR西日本角田社長の発言が遺族の心証を逆撫でしたこともあり、遺族会は特にJR西日本の法的責任を明らかにすべく、1993年10月14日、信楽高原鐵道及びJR西日本の両社を相手取って提訴した[53]

1999年(平成11年)3月29日、大津地方裁判所で両社の共同不法行為を認め、両社に対し過失認定判決が下された[判決文 2][54]。信楽高原鐵道は控訴せず、JR西日本のみが控訴したが2002年(平成14年)12月26日、大阪高等裁判所はJR西日本の控訴を棄却。改めて同社の過失が認定された。JR西日本は上告せずその結果、信楽高原鐵道とJR西日本の両社の過失を認定する判決が2003年1月10日に確定した[判決文 3][55][56][注 31]

補償金の分担[編集]

信楽高原鐵道は3億円の賠償保険契約(車両損害保険を含む)を締結していたが、保険金の額はイベント開催で乗客が増加することが見込まれたにも関わらず増額されなかった[57][資料 3]。 補償費用を信楽高原鐵道単体で支弁することが資金面からほぼ不可能だったことから、JR西日本・信楽高原鐵道・信楽町・滋賀県の四者で協定を結んだ。JR 西日本・信楽高原鐵道は、犠牲者補償にかかる費用と事故復旧にかかる費用とを協力して立て替えることにし、信楽高原鐵道に対しJR西日本は社員の応援、当 面の費用の立替を行うことに合意した。また信楽町・滋賀県は職員の応援の他、信楽高原鐵道への資金面の応援を文面にじませた上で[注 32]応援を行うことにした。この協定により犠牲者の補償に関しては信楽高原鐵道・JR西日本が双方折半して支払いを行うこととし、責任割合が確定した時点で事故復旧等費用とともに清算することとなった。

民事裁判の終結を受け補償金の総額は確定したものの、その負担割合についてはJR西日本・信楽高原鐵道双方で折り合いがつかなかった。2004年4月19日、JR西日本は大津簡易裁判所調停を申し立て、合計17回、調停の場を持ったが調停不成立に終わった。それを受け、2008年(平成20年)6月14日、JR西日本は信楽高原鐵道と、同鉄道に出資している滋賀県甲賀市に対し、先に四者で結んだ協定を根拠としてに約25億3000万円の支払いを求め大阪地裁に訴訟を提起した[報道 4]。 その内容は、被害者や遺族への補償に関係した費用等約55億7000万円のうち、JR西日本の責任割合を1割とし、JR西日本が過分に支払った額を返還す るよう求めたものだった。裁判においてJR西日本は、事故の責任の大半が信楽高原鐵道側にあるためと主張してきた。この訴訟を受けて信楽高原鐡道の北川啓一顧問らはJR西日本の主張に対し、これまでの裁判でJR西日本にも責任があると指摘し、その主張は責任を認めていないも同然であると非難[報道 5]滋賀県嘉田由紀子知事は、「被災者補償も(JR西日本と信楽高原鐵道側の)折半負担で終了しており、さらに負担することは県民の理解が得られない」とコメントした。

2011 年4月27日、大阪地裁は、過失割合についてJR西日本側が3割、信楽高原鐡道が7割とし、費用を精査した上でJR西日本に信楽高原鐡道への約11億 1400万円の賠償請求権を認める一方で、JR西日本と滋賀県・甲賀市との間には損害担保契約が締結されていなかったとして、滋賀県や甲賀市に対する請求 を棄却する判決を言い渡した[判決文 4][報道 6][報道 7][報道 8]。 判決ではJR西日本側の過失を3割としたことについて、信楽高原鐡道の見切り発車を最大の過失とした上で、訴訟の争点となったJR西日本が設置した方向優 先てこについて、現場を混乱に陥る原因であると改めて指摘した。またJR西日本の運転手は小野谷信号所に待機しているはずの対向列車がいないことを認識し ていたにもかかわらず、小野谷信号場下り出発信号に従ったJR西日本の運転士の注意義務違反も改めて認定した。その他、JR西日本の信号システムに関する 注意義務違反、教育・訓練の義務違反、報告義務及び報告体制確立義務違反も同時に認定している。なおJR西日本に請求権を認めた約11億1400万円につ いては、JR西日本が請求根拠とした約55億7000万円のうち人件費などを控除した約50億円のうち、JR西日本が過分に負担した費用部分である。

こ の判決を受け訴えた側のJR西日本は控訴しない方針を示し、また信楽高原鐡道はも2011年5月10日、臨時取締役会と臨時株主総会を開き控訴しない方針 を決定・公表。判決は確定した。同時にJR西日本は、裁判で認められた信楽高原鐡道への賠償請求権を放棄することを表明した[報道 9][報道 10][報道 11][報道 12][報道 13]

影響[編集]

この事故の後、鉄道会社間相互で行われる直通運転に対して鉄道車両と運転方法の安全性など鉄道運転業務面の問題点が指摘されるようになった。また、この事故の遺族の運動により、鉄道の分野での事故調査委員会が初めて設けられるようになった。

鉄道会社間の直通運転[編集]

有田鉄道などでは従来行ってきたJRへの定期列車乗り入れを廃止した。

また、鹿島臨海鉄道JR東日本の間における「ビーチイン大洗ひたち」号(当初予定の大洗までの直通を水戸駅での接続・乗り換えに変更)など、臨時列車におけるJRと私鉄第三セクター鉄道間の直通運転も、不測の事態への対処がしにくいということで、事故を契機に多くが中止された(投資の割に利用客が少ないという、費用対効果の面もあったとされている)。

さらに直通運転に関しては、周到な用意と訓練を行うことが求められるようになり、また従来は直通運転の相手先まで乗務員がそのまま乗務していることもあったが、事故後は自社線のみ乗務することが多くなった。

この乗務の一例を挙げると、2005年日本国際博覧会(愛知万博)の輸送では直通列車に関し、愛知環状鉄道線JR東海中央本線高蔵寺駅にて業務交代を行った。開催のダイヤ改正の前は実際に、昼間にハンドル訓練をJR東海と愛知環状鉄道の社員(運転士・車掌)で211系113系313系を使用して行った。また、事故当時、同じ近畿地方の第三セクターの北近畿タンゴ鉄道では、乗り入れ時に運転士の交代を行っている例として、マスコミの取材を受けていたことがあった(JR宮津線時代から山陰本線との乗り入れ運転が多く、この事故後も特急は北近畿タンゴ鉄道(現・京都丹後鉄道)・JR双方が相手側線区との乗り入れを継続して行っている)。

事故後の信楽高原鐵道と信楽町[編集]

信楽高原鐵道ではこの事故後、全線不通となった信楽線に代わり代行バスを運転した。当初は運賃は無料だったが同年6月に代行バスの走行実態にあわせダイヤ改正を行うとともに信楽線乗車時と同じ運賃を徴収することとした[58]。しかし警察の事故検証に続き、運輸省からの安全対策も求められたことから列車の運行再開は難航した。一方で利用者からは、代行バスでは降雪時、国道307号線が凍結で遅延が懸念されるだけでなく通行困難も予想されると不安を訴えられたことから、「世界陶芸祭」に対する輸送力強化のために多額の費用をかけ新設した小野谷信号場は本事故を契機に使用中止とし、貴生川駅 - 信楽駅間全線を一閉塞とした従前のスタフ閉塞に戻すことにした。そして1991年12月8日、運行が再開された[59][60]。2015年現在もこの一閉塞運行は続けられており、このため小野谷信号場使用当時は1日26往復、最小27分であった運転間隔が現在は1日15往復、最小1時間間隔となっている。

事故により2両の車両が廃車された(JR車も1両が廃車)。補充のため1992年7月に同型車両が1両増備され、さらに犠牲者遺族の安全対策の要望を取り入れたSKR300形車両が1995年11月に導入された。

信楽高原鐵道はまた、20名いた職員のうち事故により一挙に5人を失った。信楽高原鐵道は1991年11月15日に臨時株主総会を開き、信楽町長と兼任していた社長の杉森一夫が退任、副社長だった北川啓一が社長に昇格、専任で会社指揮にあたることとなった。さらにJR西日本から技術者や運転士などの派遣を受け、計34名の体制で12月8日の運行再開に臨んだ[61]

「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は会期を5月26日まで残していた。事故当日に現場を弔問した滋賀県知事の稲葉稔知事は犠牲者に弔意を示し、事故翌日の5月15日を休催とすることを決めコメントした。同時に5月16日以降は団体客の予約もあり開催の意向も表明したが、事態の重大さから翌5月16日に開催中止を決定した[62][報道 14]。その後信楽町長は犠牲者を悼み一年間は喪に服すると宣言。7月に予定されていた第40回信楽陶器まつりの開催中止のほか、信楽町内の各種イベントの自粛を決めた。追悼ムードから隣の水口町も花火大会の自粛を決めることとなった。

開催中止に伴い前売入場券の払い戻しが開始されたが、払い戻しを受けず「同封した前売り券の払戻金を慰霊祭の供花代にあててください」と払戻金をそっくり寄付される方もいた。その他「美しい自然の中を走る高原鐵道を無くさないでください。より安全な、みんなに愛される鐵道を再開させて下さい。殉職された五名の鐵道職員のためにも」などと、事故対策本部には190通を超える激励の手紙、1,832件30,317,441円の義捐金が寄せられ、義捐金は合同慰霊祭の場で遺族に贈られた[63]

事故直前の1990年の決算で185,000円の黒字と、ごくわずかながら営業黒字を計上していた信楽高原鐵道だったが[64]、事故の補償で巨額の補償金支払いに迫られた信楽高原鐡道は、滋賀県および信楽町(当時。合併により甲賀市となった)から20億円あまりの貸付金にて補償活動にあたった。また無利子貸付の基金の受け入れにより、基金の運用益から貸付金を返済する支援が実施されたが金利低迷で実らなかった。県・市からの安全対策経費の補填も2004年より実施されたが一連の裁判の終結後、信楽高原鐵道は2012年2月に自力再建を断念し、被害者補償のために借り入れた資金 について、借入元の滋賀県と甲賀市に対し、債権の放棄か減額を求めて調停を申し立てる事態になった。翌2013年2月に滋賀県と甲賀市は債権放棄で受諾す る特定調停が成立[報道 15][資料 4][資料 5]。その後、2013年(平成25年)4月1日、地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく鉄道事業再構築実施計画により上下分離方式に移行した。信楽高原鐵道が信楽線の第二種鉄道事業者となり、線路や車両等の鉄道施設を無償譲渡された甲賀市が第三種鉄道事業者となった[資料 6][資料 7]

車両の見直し[編集]

この事故により信楽高原鐵道車はSKR202とSKR204が、JR車はキハ58 1023がそれぞれ廃車となった。このほか、信楽高原鐵道の事故車両であるSKR200形[注 33]富士重工業製のレールバスLE-Carシリーズ)についても問題となった。同車は本来バス向けの車体構造や部品を多数用いて大幅な価格低減[注 34]および、徹底的な軽量化による燃費向上を実現した車両で、日本国有鉄道(国鉄)の赤字ローカル線(特定地方交通線)を引き継いで発足した日本各地の第三セクター鉄道各社がこぞって導入していた。

しかし、1960年代の国鉄設計で鈍重、言い換えれば頑丈なキハ58系と 正面衝突し、原形を留めないほど無残に大破したレールバスの姿は、鉄道業界に大きなショックを与えた。乗用車との衝突による踏切事故のような、比較的小規 模な衝突事故などは考慮して設計されたが、鉄道車両同士の正面衝突のような大規模な事故までは想定していなかったのである。そこへさらに極端な軽量化を 図ったレールバスに、衝突事故時の安全性は全く期待できなかった。もともと想定寿命の短い車両ではあったが、日本におけるレールバス(LE-Car)は1990年代後半頃には大半が淘汰されるに至った。本事故以降の代替車は、より「本来の鉄道車両」に近い設計への回帰が進み、大半が鉄道車両的設計の「LE-DC」となった。

報道各社の救助活動の阻害[編集]

事 故現場には警察のヘリコプターの他、報道各社のヘリコプターも乱れ飛んだ。そのヘリコプターの爆音が現場で救出・処置にあたる救急隊の指示の声を聞こえに くくさせ活動を阻害した。また報道関係者が列車内にまで入り込んで取材活動をしたり、事故現場直近の紫香楽病院に殺到するなど、救出活動の阻害行為が複数 の救助当事者より指摘された[65]。なお報道ヘリの活動については阪神・淡路大震災およびJR福知山線脱線事故においても再び指摘されることとなった。

なお当時はヘリコプターによる患者搬送は一般のヘリコプターでは不可能であったが、現場近くの臨時ヘリポートから山向こうの滋賀医科大学附属病院までヘリコプターによる重症者の搬送が行われた。搬送は奏功したが、受け入れ先のヘリポート不備、代替ヘリポートの使用困難等から課題を残した[66][注 35]

その他[編集]

  • 1997年(平成9年)4月30日信楽駅敷地内に事故に関する資料を展示した「セーフティーしがらき」がオープンした[67][68]。これは「事故を風化させたくない」という遺族の要望を受けたもので、一般も見学できるこのような施設が鉄道会社の敷地内にあるのは異例である。また非公開ではあるものの、事故車となったSKR200形の車両の一部や事故関連の部品などは、信楽高原鐵道が保管している。
  • この事故が起こった5月14日の夜には大相撲力士横綱千代の富士貢が現役引退を表明したため、マスコミテレビ局各社にとっては事故の報道と横綱引退報道が合わさる形となり、多忙をきわめた一日となった。

参考図書[編集]

  • 網谷りょういち『信楽高原鐵道事故』日本経済評論社、1997年10月20日。ISBN 4-8188-0953-5 
  • JR西日本信楽高原鐡道列車衝突事故犠牲者遺族の会『信楽列車事故 JR西日本と闘った4400日』現代人文社、2005年5月30日。ISBN 4-87798-259-0 
  • 滋賀災害看護研究会『信楽高原鉄道列車衝突事故救護活動報告書』滋賀災害看護研究会、2001年9月。 
  • 佐野眞一『ドキュメント「信楽高原鉄道事故」』プレジデント社〈雑誌プレジデント〉、1991年10月、430-439頁。 
  • 鈴木哲法 著、京都新聞社 編『検証信楽列車事故 鉄路安全への教訓』京都新聞出版センター、2004年2月26日。ISBN 4-7638-0530-4 

注釈[編集]

  1. ^ (遺族会 2005)、(鈴木 2004)
  2. ^ 乗客・乗務員合わせ、JR西日本側716名、信楽高原鐡道側15名、計731名(鈴木 2004, p. 76)。キハ58系3両の定員252名から計算するとすし詰め状態を通り越した大混雑だったことが解る。
  3. ^ 運転士には信楽線の運転経験を持つもの8名が選ばれた。(鈴木 2004, p. 75)(網谷 1997, pp. 102–105)
  4. ^ 滋賀県職員を主とする滋賀自治体問題研究所の機関誌『しがの 住民と自治』1991年6月 臨時増刊号によると、輸送要請は前記数値をも上回る毎時1,800人だったとの記述が当時の県議会議員より寄せられている。
  5. ^ 特殊自動閉塞式は線路に連続した軌道回路が無いことに注意。列車の在線は閉塞区間両端の短小軌道回路と状態を記録する保持リレーによって知らされる。
  6. ^ 当初の設計では信号制御点通過時において次区間の閉塞を確保できたら場内信号機も青信号にする設計だった。ところが試運転中に運転士から上り列車の小野谷信号場への進入時に青信号であると分岐器の通過が危険だとして、上り場内信号機については進入許可は常時警戒信号にする改造提案がなされ、無認可で改造された。#両社の無認可改造にある信楽高原鐵道の改造の、計5件のうちの一つである。
  7. ^ しかしJR西日本の運転手は回転灯が点灯した時の扱いはおろか、回転灯の存在そのものも運転士に周知していなかった。
  8. ^ 第三セクターである信楽高原鐵道の母体の一つである。
  9. ^ 場内信号機が反位(停止以外)の場合、出発信号機が定位(停止)から反位(進行を示す信号)には転換できるが、反位から定位(停止)に復位できない。
  10. ^ 信楽高原鐵道の分担分は西武鉄道系の会社が請け負い(近江鉄道は西武鉄道グループの一員である)、JR西日本の担当分はJR西日本の関連会社が請け負った。(網谷 1997, pp. 208–209)(佐野 1991, p. 435)
  11. ^ JR 西日本は信号設備竣工検査直前の1991年3月5日深夜から6日早朝にかけ連動検査を行い、自主検査のチェック表を信楽高原鐵道の信号設備の竣工検査に来 た検査官に渡している。しかし肝心の自主検査のチェック表が未決裁でかつ、項目漏れが約80箇所にも及ぶずさんなものであった。検査合格後の3月16日に 方向優先テコの実装の不備が発覚し、後に補償金負担割合を巡る民事裁判においてもこれらの事実が認定された。
  12. ^ 『JR時刻表』1991年5月号ほかに時刻表がある。(網谷 1997, p. 154)にて当時の時刻表が引用されている。
  13. ^ その内容と取材とを合わせたものが(網谷 1997, pp. 25–28)、(網谷 1997, pp. 44–53)に記されている。なお本記事の記述は参考文献による。
  14. ^ (網谷 1997, pp. 247–248) - JR直通列車に乗った乗客の体験談の記述がある。
  15. ^ 列車が赤信号を無視して発車した場合、対向する出発信号機を赤に変えて衝突を防ぐ装置。
  16. ^ 当人は事故で死亡したため推測は避けるべきだが、(佐野 1991, p. 433)のところで著者の佐野は、全く同じケースだった5月3日のトラブルのことを挙げている。
  17. ^ 小野谷下り場内信号機が反位の場合、小野谷出発信号機が反位から定位に復位できない。
  18. ^ 刑事裁判の判決文では上り534Dが誤出発検知装置の2つの短小軌道回路を踏んだ時には下り501D列車(世界陶芸祭号)はすでに小野谷信号場に到着したとされ、もはや下り列車を抑止することはできなかったと結論づけている。
  19. ^ 貴生川駅は信楽線の着発線が1本しか無く、草津線のホームも2面しか無いため直通列車を貴生川駅で抑止すると貴生川駅での草津線の列車交換が不能になり、行き違い駅の大幅な変更を余儀なくされる。
  20. ^ JR西日本では当時、鉄道電気設計監理者が選任されていたため設計監理者の確認を受ければ、運輸局へは届け出だけで済んだ。しかしこの改造についてJR西日本の鉄道電気設計監理者の確認すら受けなかった。したがって実質無認可工事である。
  21. ^ 補償金分担を争う裁判では連動図表・結線図の相互不交換を指摘し、方向優先テコの無断設置をJR西日本の不法行為として採用している。
  22. ^ 事故当日も出発列車がないにもかかわらず貴生川駅の出発信号機を青にし、直後に取り消している(鈴木 2004, pp. 88–89)と書いている。一方、(佐野 1991, p. 436)の記述では、先行列車である下り531D列車の出発時刻である9時44分に方向優先テコを引き、10時7分に戻しまた、10時8分に引き直したとある。出発列車が無いのに貴生川駅出発信号機を青にするのを覆い隠すべく先行列車を使って方向優先テコを引いたとも言える。
  23. ^ 貴生川駅から小野谷信号場に向かう上り坂では最大33‰の勾配と急カーブとが連続し、曲線制限及び抵抗も加わってフルノッチでも40km/hを出せなかった。降雨や落葉でレールの粘着係数が下がるとスリップして均衡速度はもっと下がり、定時運行に支障をきたすほどだった(鈴木 2004, p. 141)。
  24. ^ こ の改造で小野谷信号場上り出発信号機と上り場内信号機との反位片鎖錠は撤去された。また小野谷信号場上り場内信号機の制御に信楽駅の出発信号機を参照させ る改造も行い、計5点の改造を無認可で信楽高原鐵道は行った。これらの改造は信楽高原鐵道からJR西日本に知らされることはなかった。なおこの改造は、設 備の供用開始が迫っていたことから信号制御点の移設に必要なケーブルは手配不能だったゆえの付け焼き刃的改造であり、配線を変更した工事業者の「もし元に 戻せと指示されたら、2時間もあれば十分、元に戻せる程度の配線変更」だとの供述がある。(鈴木 2004, p. 93)(網谷 1997, p. 235)
  25. ^ 後に補償金の分担をめぐる裁判において、区長・助役ではなく打ち合わせ時に同席していたJR西日本の指導運転士が代わりに教官を務めていたことが明らかになった。
  26. ^ 鉄道事故等報告規則により閉塞が確保されないままなされた青信号現示は地方運輸局への速報および書面による報告義務がある(第4条)。これらの報告は第一義的には信楽高原鐵道がなすべきこととは言え、裁判においてはJR西日本の情報収集体制の不備を繰り返し指摘されている。
  27. ^ 後述の補償金の分担を巡る裁判において、この事実の記載が判決文中にある。
  28. ^ 事前の乗り入れ会議にて、業務部長自ら人員不足で代用閉塞に係る人員を用意することを渋っている。最終的には代用閉塞に必要な人員は信楽高原鐵道で用意するとしたが、代用閉塞の実行時は事故時も含め手順違反を繰り返している。なお事故当日小野谷信号場に向かった職員2名のうち1名は泊まり明けだった(鈴木 2004, pp. 35–36)。
  29. ^ 列車の運転主任は業務課の社員が輪番で勤め、当番でない社員は出札・集改札業務に従事していた。
  30. ^ うち方向優先てこについてのマニュアルの改ざんについては犯罪の存在が認められるとした上で起訴猶予処分となっている。(遺族会 2005, pp. 68–70)
  31. ^ マスコミには年内に控訴しない旨、記者会見を開いたが、遺族関係者は会見以前に電話で知らされたにとどまった。判決確定を受け、JR西日本の社長が正式に謝罪したのは判決確定後3ヶ月経った2003年3月15日のことである(遺族会 2005, pp. 171–175)
  32. ^ 実際には財政援助制限法の制約もあり滋賀県と信楽町は、犠牲者への補償金にあてる直接の貸付と、その貸付金の返済を行うための基金運用資金の無利子貸付を行った(影響の項を参照)。
  33. ^ なおSKR200形はLE-Carの雰囲気を残したLE-DCの採用第一号だったが、その後の車両はより鉄道車両的な構体を持つ鉄道車両になった。
  34. ^ 1両約5000万円。補償金分担裁判の判決で記述がある。
  35. ^ 滋賀医科大学のグラウンドに臨時ヘリポートを用意し救急車搬送も含め計7名を受け入れた。臨時ヘリポートからストレッチャーで搬送するにはグラウンドの不整地により搬送に支障をきたしたことから、ヘリポートで救急車に乗り換えて搬送する手段を取った(看護研究会 2001, pp. 39–42)。なお滋賀医科大学附属病院にヘリポートが完成するのは2014年6月11日のことである。(附属病院にヘリポートが完成しました。”. 2015年7月3日閲覧。

出典[編集]

判例となった判決文[編集]

  1. ^ 大津地裁判決 2000年3月24日、判例時報1717号25頁
  2. ^ 大津地裁判決 1999年3月29日、判例時報1688号3頁、判例タイムズ1010号96頁
  3. ^ 大阪高裁判決 2002年12月26日 、平成11(ネ)1954、『損害賠償請求控訴』。、判例時報1812号3頁、判例タイムズ1116号93頁
  4. ^ 大阪地裁判決 2011年4月27日 、平成20(ワ)7450、『求償債権等請求事件』。

報道[編集]

  1. ^ 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (1ページ目)”. 産経新聞 (2011年4月27日). 2011年5月10日閲覧。 「JRに3割責任」信楽高原鉄道事故の負担金 大阪地裁判決 (2ページ目)”. 産経新聞 (2011年4月27日). 2011年5月10日閲覧。
  2. ^ “*”. *. (*) 
  3. ^ “*”. *. (*) 
  4. ^ JR西、信楽鉄道などを提訴──事故の補償負担増を要求”. 日本経済新聞 (2008年6月15日). 2011年6月19日閲覧。
  5. ^ 「補償負担割合、見直さず」 信楽鉄道事故で県など”. 京都新聞 (2008年6月26日). 2008年6月26日閲覧。
  6. ^ SKR控訴せず 信楽事故訴訟、関連裁判終結へ”. 京都新聞 (2011年5月10日). 2011年5月10日閲覧。
  7. ^ 信楽事故「JR西の責任3割」 大阪地裁、支払い命じる 朝日新聞 2011年4月27日
  8. ^ 苅田伸宏 (2011年4月28日). “信楽高原鉄道事故:JR西に責任3割 設備の無断設置一因--大阪地裁判決”. 毎日新聞. 2011年5月31日閲覧。
  9. ^ 柴崎達矢 (2011年5月10日). “信楽高原鉄道事故:SKR側が補償費受け入れ 控訴はせず”. 毎日新聞. 2011年5月31日閲覧。
  10. ^ 信楽事故訴訟、判決確定へ”. ロイター (2011年5月10日). 2015年6月27日閲覧。
  11. ^ 「信楽鉄道事故 責任7割判決 SKR受け入れ」『朝日新聞』2011年5月10日付夕刊、大阪第4版、11面
  12. ^ 「信楽事故訴訟 SKR控訴せず 事故20年 関連裁判終結へ 補償割合『7対3』」『京都新聞』2011年5月10日付夕刊、滋賀地方版第6版、1面
  13. ^ 「信楽訴訟 JR西 全債権を放棄」『京都新聞』2011年5月11日付朝刊、滋賀地方版第16版、1面
  14. ^ 開催中止を知らずに来場した客のため、「見学」と称して入場させる措置を取り、5月15日は計222人が会場を「見学」した“*”. *. (*) 。この日スタッフは全員、喪章を着けて対応にあたった。
  15. ^ 杉山淳一 (2014年11月28日). “杉山淳一の時事日想:たび重なる悲運を乗り越えて前へ進もう 運行再開の信楽高原鐵道に期待 (3/5)”. Business Media 誠. 2015年1月11日閲覧。

発表資料等[編集]

  1. ^ 広報しがらき1990年6月号, pp2-3
  2. ^ 広報しがらき1991年3月号
  3. ^ 参議院会議録情報 第120回国会 運輸委員会 第1号” (1991年5月30日). 2015年6月24日閲覧。
  4. ^ 信楽高原鐵道(株)の特定調停について” (pdf). 政策・土木交通常任委員会資料. 滋賀県議会 (2013年2月6日). 2015年6月28日閲覧。
  5. ^ 滋賀県議会 平成25年2月定例会 議第77号” (pdf). 滋賀県議会 (2013年2月14日). 2015年7月9日閲覧。
  6. ^ 議会 平成25年2月定例会 議第77号” (pdf). 甲賀市議会 (2013年5月1日). 2015年7月9日閲覧。
  7. ^ 地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく 鉄道事業再構築実施計画の認定について〔信楽高原鐵道信楽線〕” (pdf). 国土交通省 (2013年3月1日). 2015年6月28日閲覧。

書籍中の出典[編集]

  1. ^ (看護研究会 2001, p. 54)
  2. ^ (遺族会 2005, p. 20)
  3. ^ (鈴木 2004, p. 50)
  4. ^ (佐野 1991, pp. 438–439)
  5. ^ (網谷 1997, pp. 100–101)
  6. ^ (網谷 1997, p. 32)
  7. ^ (遺族会 2005, p. 108)
  8. ^ (佐野 1991, p. 435)
  9. ^ (鈴木 2004, p. 79)
  10. ^ (網谷 1997, pp. 102–106)
  11. ^ (鈴木 2004, p. 201)著書の記載のママ
  12. ^ (網谷 1997, pp. 181–182)
  13. ^ (鈴木 2004, p. 17)
  14. ^ (鈴木 2004, pp. 34–35)
  15. ^ (網谷 1997, p. 253)
  16. ^ (鈴木 2004, pp. 38–41)
  17. ^ (看護研究会 2001)
  18. ^ (看護研究会, 2001 & pp.7-11)
  19. ^ (看護研究会 2001)
  20. ^ (遺族会 2005, p. 22)
  21. ^ (網谷 1997, p. 21)
  22. ^ (遺族会 2005, p. 22)
  23. ^ (網谷 1997, p. 22)
  24. ^ (網谷 1997, pp. 128–129)
  25. ^ (遺族会 2005, pp. 129–131)
  26. ^ (鈴木 2004, p. 95)
  27. ^ (網谷 1997, pp. 200–202)、(網谷 1997, pp. 267–269)
  28. ^ (鈴木 2004, p. 47)
  29. ^ (遺族会 2005, p. 117)ただし記述に鑑定書の誤転記が見られるためその前の図解ページ(遺族会 2005, pp. 114–115)から欠落部を補った。なお平成4年12月の滋賀県定例議会において、滋賀県警の警察部長が同一の証言をしている。この事実は後の補償金分担裁判においても認定された。
  30. ^ (鈴木 2004, p. 95)
  31. ^ (網谷 1997, pp. 211–213)
  32. ^ (遺族会 2005, pp. 109–111)
  33. ^ (網谷 1997, pp. 213–214)
  34. ^ (遺族会 2005, pp. 111–112)
  35. ^ (網谷 1997, pp. 213–214)
  36. ^ (遺族会 2005, p. 112)
  37. ^ (網谷 1997, pp. 232–233)
  38. ^ (遺族会 2005, p. 113)
  39. ^ (鈴木 2004, pp. 92–93)
  40. ^ (遺族会 2005, pp. 117–120)
  41. ^ (遺族会 2005, pp. 117–120)、(遺族会 2005, pp. 124–131)
  42. ^ (網谷 1997, p. 153-184)
  43. ^ (網谷 1997, pp. 184–187)
  44. ^ (網谷 1997, pp. 184–187)
  45. ^ (佐野 1991, p. 433)、(佐野 1991, pp. 436–437)
  46. ^ (網谷 1997, p. 129)
  47. ^ (佐野 1991, p. 433)
  48. ^ (網谷 1997, p. 129)
  49. ^ (遺族会 2005, pp. 101–107)
  50. ^ (遺族会 2005, pp. 32–40)
  51. ^ (佐野 1991)
  52. ^ (遺族会 2005, p. 34)
  53. ^ (遺族会 2005, p. 86)
  54. ^ (遺族会 2005, p. 155)
  55. ^ (鈴木 2004, p. 218)
  56. ^ (遺族会 2005, pp. 167–175)
  57. ^ (網谷 1997, p. 210)
  58. ^ 広報しがらき 1991年6月号 p.3
  59. ^ 広報しがらき 1991年12月号 pp.2-3
  60. ^ (網谷 1997, p. 305)
  61. ^ 広報しがらき 1991年12月号 pp.2-3
  62. ^ (網谷 1997, p. 32)
  63. ^ 広報しがらき 1991年7月号 p.3
  64. ^ (網谷 1997, p. 81) 赤字前提の第三セクター鉄道にしては優良な成績だった。
  65. ^ (看護研究会 2001)
  66. ^ (看護研究会 2001, pp. 39–42)
  67. ^ (遺族会 2005, pp. 50–51)
  68. ^ (網谷 1997, pp. 294–295)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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