利用者:Littlefox/サンドボックス
国号
[編集]「日本」という国号の表記は、太陽崇拝と相俟った中央集権的発想に基づくもの[要出典]、また日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来しているのではないかとされる[1]。本という漢字が使われているのは、太陽が登るとされる扶桑の木の本という意味であるという解釈もされる。憲法の表題に「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」と示されているが、国号を「日本国」ないしは「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。
由来
[編集]「日本」の表記が定着する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国・倭」と称される国家があった。新羅本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭国」と「日本国」とはどのような関係かというと、日本書紀によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[2]。旧唐書は、「倭国」と「日本国」を併記した上で、日本国は倭国の別種とし、倭国が日本国に改名した可能性と元小国の日本が倭国を併合した可能性について記している。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の安倍氏に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は劉徳高や郭務悰、司馬法聡らの使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[3]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[4][5]。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である[6]。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[7]。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[8]。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[9]。後代に成立した『旧唐書』[10]、『新唐書』[11]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[12]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[13]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、事実なら日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[14]。
『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である[15]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた日本書紀の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[16]。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[17]。
日本語での発音
[編集]「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている[18]。雅語で「ひのもと」と読むこともある[19][20]。
「日本」の国号が成立する以前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。日本書紀は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとするが、旧唐書など、これを疑う立場もある[21]。
同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[22]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[23]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[24]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年(昭和9年)には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した[18]。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)、ほか日本放送協会、ニッポン放送、日本武道館、日本体育大学などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本オリンピック委員会などがある。なお、(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、以下の通り。
- 「ニホン」
別称
[編集]古くから多様である。
- 和語
-
- 「葦原中国」(『古事記』、『日本書紀』神代)
- 「豊葦原(とよあしはら)」
- 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)
- 「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)
- - 「葦原」は、豊穣な地を表すとも、かつての一地名とも言われる。
- 「秋津島」
- 「大倭豊秋津島」(『古事記』)
- 「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)
- - 「秋津」は、「とんぼの島」の意。孝安天皇の都の名「室秋津島宮」に由来するとされる。
- 「師木島」(『古事記』)
- 「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)
- 「敷島」
- - 「しきしま」は、欽明天皇の都「磯城島金刺宮」に由来するとされる。
- 「大八島」
- 「大八洲」(『養老令』)
- 「大八洲国」(『日本書紀』神代)
- - 古事記の国生み神話で、最初に創造された八個の島で構成される国の意。順に淡路島:四国:隠岐:九州:壱岐:対馬:佐渡:本州。
- 「磯輪上秀真国」「細矛千足国」「玉垣内国」(『神皇正統記』)
- 「大和」「大和国」
- 「瑞穂」
- 「浦安国」
- 「日出処」
- 漢語
- 「倭」「倭国」「大倭国(大和国)」「倭奴国」「倭人国」の他、扶桑蓬莱伝説に準えた「扶桑」[25]、「蓬莱」などの雅称があるが、雅称としては特に瀛州(えいしゅう)・東瀛(とうえい)と記される[26]。このほかにも、「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「若木国」「日域」「日東」「日下」「烏卯国」「阿母郷」(阿母山・波母郷・波母山)などがあった。
- 「皇朝」は、もともと中原の天子の王朝をさす漢語だが、日本で天皇の王朝をさす漢文的表現として使われ、国学者はこれを「すめみかど」ないし「すめらみかど」などと訓読した。「神国」「皇国」「神州」「天朝」「天子国」などは雅語(美称)たる「皇朝」の言い替えであって、国名や国号の類でない。「本朝」も「我が国」といった意味であって国名でない。江戸時代の儒学者などは、日本を指して「中華」「中原」「中朝」「中域」「中国」などと書くことがあったが、これも国名でない。「大日本」と大を付けるのは、国名の前に大・皇・有・聖などの字を付けて天子の王朝であることを示す中国の習慣から来ている[27]。ただし、「おおやまと」と読む場合、古称の一つである。「帝国」はもともと「神国、皇国、神州」と同義だったが、近代以後、"empire"の訳語として使われている。大日本帝国憲法の後、「大日本帝国」の他、「日本」「日本国」「日本帝国」「大日本国」などといった表記が用いられた。戦後の国号としては「日本国」が専ら用いられる[28]。
- 倭漢通用
- 江戸初期の神道家である出口延佳と山本広足が著した『日本書紀神代講述鈔』[29]に、倭漢通用の国称が掲載されている。
- 「倭国」
- 「和面国」
- 「和人国」
- 「野馬台国」、「耶摩堆」
- 「姫氏国」、「女王国」
- 「扶桑国」
- 「君子国」
- 「日本国」
- その他の言語
- 英語の公式な表記は、Japan(ジャパン)。形容詞はJapanese(ジャパニーズ)。略記は、JPNが用いられる。JAP(ジャップ)は、侮蔑的な意味があるので注意が必要である。Nippon(ニッポン)が用いられる例も見られ、具体的には、UPU等によるローマ字表記(1965年(昭和40年)以降)、郵便切手や日本銀行券などでNippon表記を用いている。略称は、NPNが用いられる。
- その他、各国語で日本を意味する固有名詞は、アン チャパイン(愛: an tSeapáin)、ヤーパン(独: Japan)、ジャポン(仏: Japon)、ハポン(西: Japón)、ジャッポーネ(伊: Giappone)、ヤポニヤ(波: Japonia)、イィポーニヤ(露: Япония)、イープン(泰: ญี่ปุ่น)など、特定の時期に特定の地域の中国語で「日本国」を発音した「ジーパングォ」を写し取った(日本語読みの「ジッポン」に由来するとの説もある)、ジパング(Xipangu/Zipang/Zipangu)ないしジャパング(Japangu)を語源とすると考えられる。
- 漢字文化圏においては、リーベン(中: rìběn; 日本)[30]、イルボン(朝: 일본; 日本)、ニャッバーン(越: Nhật Bản; 日本)[31]など、「日本」をそのまま自国語の発音で読んでいる。
- 固有名詞の一般名詞化
- 英語で陶器をチャイナというように、漆、漆器をジャパンという。
- 欧州発行の古地図上での表記
-
- 「IAPAN」1567年頃[32]
- 「JAPAN」発行年不明[33]
- 「IAPONIAE」1595年[34]
- 「IAPONIA」1595年[35]
- 「IAPONIÆ」1595年[36]
- 「IAPONIA」1598年[37]
- 「Iapan」1632年[38]
- 「IAPONIA」1655年[39]
- 「IAPON」発行年不明[40]
- 「Iapan」1657年[41]
- 「IAPONIA」1660年頃[42]
- 「NIPHON」1694年頃[43]
- 「IAPON」17世紀[44]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初[45]
- 「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃[46]
- 「IAPONIA」18世紀初[47]
- 「IAPON」1720-30年[48]
- 「IMPERIVM JAPONICVM」1727年[49]
- 「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃[50]
- 「JAPANIÆ REGNVM」1739年[51]
- ^ 吉村武彦 『古代天皇の誕生』(角川書店、1998)
- ^ 『日本書紀』巻之第一 神代上 第四段「日本、此云耶麻騰。下皆效此」(日本、これヤマトと言う。下は皆これにならえ)
- ^ 熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001年)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997年)など
- ^ 吉田孝 『日本の誕生』(岩波新書、1997年)
- ^ 天武天皇は、飛鳥浄御原令が成立する以前の686年に没している。
- ^ 神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年)など
- ^ 神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年)
- ^ 古田東朔「国号」節(「日本」項、『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年)
- ^ 『続日本紀』慶雲元年(704年)七月条に、粟田真人を執節使とする遣唐使が唐(大周)から帰国したとの記述がある。
- ^ 『旧唐書』列傳第149「東夷」、「倭國者、古倭奴國也。…日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰 倭國自惡其名不雅、改為日本。或雲 日本舊小國、並倭國之地。」
- ^ 『新唐書』列傳第145「東夷」、「日本、古倭奴也。…後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或雲日本乃小國、為倭所並、故冒其號。」
- ^ これらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を示すとする説がある。
- ^ 井真成墓誌は、中華人民共和国の陝西省西安市内工事現場で発見されたと、2004年10月に発表された。
- ^ 「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化 - 朝日新聞 2011年10月22日
- ^ 網野善彦『「日本」とは何か』(講談社、2000年)、神野志前掲書など。
- ^ 神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、故に日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。
- ^ 東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992年)や神野志前掲書など。
- ^ a b 第171回国会 質問第570号 日本国号に関する質問主意書 衆議院公式サイト
- ^ 万葉集で枕詞「日の本の」は「大和(やまと)」にかかる枕詞。日の本の大和の国の鎮(しずめ)ともいます神かも(goo辞書「ひのもと-の」[1])。日の出る本の意味から日本の異名。「ひのもとの末の世に生まれ給ひつらむ(源氏物語)」(goo辞書「ひのもと」[2])。また「日の本の国」は日の本に同じ。「日の本の国に忍辱(にんにく)の父母あり(宇津保物語)」[3]
- ^ 旧唐書には倭国・日本伝があり、「日辺にあるゆえに日本をもって名となす」(日本國者倭國之別種也、以其國在日邊、故以日本為名)とあり、これを「ニッペン」「ニッポン」の語源と推理する史家もいる。『律令時代の日本』今井欣一(PDF-P.194)
- ^ 『日本書紀』巻之第一 神代上 第四段「日本、此云耶麻騰。下皆效此」(日本、これヤマトと言う。下は皆これにならえ)
- ^ 岩崎小弥太 『日本の国号』(吉川弘文館、1970)、吉田孝 『前掲書』。
- ^ 吉田東朔「国号」節(「日本」項 『国史大辞典』、吉川弘文館、1990)
- ^ 小池清治 『日本語は悪魔の言語か? - ことばに関する十の話』 角川書店、2003。
- ^ 寺島良安『和漢三才図会』
- ^ 宮崎正勝「海からの世界史」角川選書、68頁。瀛州は、蓬莱や方丈ともに東方三神山のひとつである。
- ^ 「有漢、皇魏、聖晋、大宋」等。例外として「大元・大明・大清」があり、この3例のみ二文字で正式国名。
- ^ 日本国の公印である「国璽」では、明治時代に作製された「大日本國璽」が使用され続けている。
- ^ 『日本書紀神代講述』早稲田大学図書館蔵
- ^ 「rìběn」表記は中国標準語(または北京語)の場合。なお、中国語のアルファベット表記にはさまざまな形式があり、この場合の「ri(日)」も形式によって「rih」「jih」などとも表記される(en:Bopomofo#Comparisonを参照)。つまり、この子音は「r」にも「j」にも似た音であり、特に巻き舌をしない地域(台湾南部など)では「j」や「z」に発音が近い。一方、第2音節の「b」は「p」の無気音で、いわゆる濁音の「b」とは異なるが、アルファベットにはそれに相当する文字がないため、「b」が用いられる。「ě」はシュワーだが、英語などの曖昧母音とは性格が異なる、1つの独立した母音(「エ」と「オ」の中間のような音)である。この「bě」に相当する日本語の文字がないため、ここでは便宜上、「ベ」としてある。
- ^ ベトナムは、フランスの植民地になるまで漢字を使用していた時代の名残。ベトナム語大辞典などで実際の発音を確認できる。
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-3
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-4
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-5
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-6
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-7
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-8
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-9
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-10
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-11
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-13
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-14
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-22
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-23
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-24
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-25
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-26
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-27
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-28
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-29
- ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-31