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利用者:M-sho-gun/作業場/Rachmaninoff

en:Sergei Rachmaninoff 2024-06-08 13:49

ru:Рахманинов, Сергей Васильевич

セルゲイ・ラフマニノフ[編集]

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ
1921年
基本情報
出生名 Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов
生誕 1873年4月1日
ロシア帝国 ノヴゴロド県ロシア語版 スタロルースキイ郡ロシア語版 セミョノヴォ
死没 (1943-03-28) 1943年3月28日(69歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス郡 ビバリーヒルズ
学歴 モスクワ音楽院ピアノ科
モスクワ音楽院作曲科
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家
ピアニスト
指揮者
担当楽器 ピアノ
活動期間 1892年 - 1943年

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフСерге́й Васи́льевич Рахма́нинов, ロシア語: [sʲɪrˈɡʲej vɐˈsʲilʲjɪvʲɪt͡ɕ rɐxˈmanʲɪnəf]、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[注釈 1]1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家ピアニスト指揮者

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ラフマニノフ(1885年)

1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、ロシア帝国ノヴゴロド県ロシア語版セミョノヴォ[注釈 2][注釈 3]で下級貴族の家に生まれた。家系はモルダヴィア公シュテファン3世の孫で "Rachman" の愛称で呼ばれた "ヴァシーリー" の子孫という伝承を持つ[3][4]

ラフマニノフ家は音楽家の素養を持つ家系で、父方の祖父アルカディ・アレクサンドロヴィチロシア語版ジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニストだった[3][5]。陸軍の将校だった父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチもアマチュアのピアニストで、彼はピョートル・ブタコフ将軍の娘リュボーフィ・ペトローヴナと結婚し、その際に妻の持参した5つの地所を手に入れていた。夫妻は3男3女を儲け、セルゲイはその第3子であった[6][7][8]。父親は音楽の素養のある人物だった[注釈 4]が、受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれたころには一家はすでにかなり没落していたという。

1877年、セルゲイが4歳になった後、一家はセミョノヴォから180 km離れた豊かな自然に恵まれたオネグの地所に移り住み、セルゲイは9歳まで同地で過ごした[9]。その後セミョノヴォの地所は1879年に売却された。

4歳のセルゲイは母リュボーフィからピアノと音楽のレッスンを受け始めた[9]。自分が弾いたパサージュを1度聴いただけで完璧に再現する息子を見て、母は彼の音楽の才能に気づいた。父ヴァシーリィは息子のためペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナツカヤを招き、セルゲイはラフマニノフ家に住み込んだ彼女からレッスンを受けた。後にセルゲイは歌曲『12のロマンス』(作品14)の第11曲「春の水」をオルナツカヤに捧げている[8]

父ヴァシーリィはセルゲイにページ軍ロシア語版[注釈 5]に入って軍人の道に進んでもらいたかったが、その為の資金が捻出できず、逆に借金返済のために5つの地所を次々と売り払っている状況だった[10][11]。1882年、ついに父は破産してオネグの地所も競売にかけられ[7]、一家はペテルブルクに移住した[12]。1883年、オルナツカヤの紹介で奨学金を得てセルゲイはペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。その年の暮れ、妹ソフィアがジフテリアで亡くなり、まもなく両親は離婚し、父は家族をおいてモスクワに去った[13]。この頃、セルゲイは宗教教育に熱心な母方の祖母ソフィア・アレクサンドロヴナ・ブタコワに連れられてよく教会に通っており、そこでロシア正教の奉神礼の聖歌や鐘の音に影響を受けた[14]

1885年、声楽の才能に恵まれ、チャイコフスキー作品を紹介するなどセルゲイに大きな影響を与えていた[15]姉イェレナが悪性貧血により17歳で亡くなると大きな喪失感に襲われ[16]、祖母の勧めでヴォルホフ川沿いの保養所で療養した[17]が、音楽院の授業にも身が入らなくなって不登校となり、さらに試験でカンニングを行って、一般教養の試験で落第してしまう[18]。この時期、彼はモスクワ音楽院で行われたコンスタンチン大公ら著名人も臨席する演奏会で演奏の披露もしていたが、春季試験で落第したことでオルナツカヤは母に、セルゲイはこのままでは進級できないと警告していた[17]。悩んだ母は、セルゲイにとって従兄にあたるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し[19]、厳格な指導で知られるニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった[20]

音楽家としての出発[編集]

ズヴェーレフとその弟子たち

1885年秋、ラフマニノフはズヴェーレフ邸に移り、以降の約4年間をここで過ごし、その間に同門のアレクサンドル・スクリャービンと親しくなった[21]。ズヴェーレフは、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。2年後、音楽院初等科を修了したラフマニノフはルビンシテイン奨学金を得て[22]高等科に進み、アントン・アレンスキー和声を、セルゲイ・タネーエフ対位法を学び、のちにはジロティにもピアノを学んだ[23][24]。またステパン・スモレンスキイ正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは1889年に作曲のための時間が欲しいこと、作曲のために屋敷のピアノを使わせて欲しいとズヴェーレフに願い出て彼の不興を買った[25][26]。ズヴェーレフ邸を出ることになったラフマニノフは父方の伯母の嫁ぎ先にあたるサーチン家に身を寄せた[27]。ここで隣のスカロン家の末娘ヴェラに初めて恋をするが、彼女の母親に交際を反対され、文通も禁止されたたため、ヴェラの姉ナターリヤと文通をするようになった[28]。それらの手紙の中にはラフマニノフの初期の作品が書かれているものがある[20]

1990年からは夏にはタンボフ県ロシア語版イワノフカにあるサーチン家の別荘ロシア語版を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となり、ロシアを離れるまで毎年訪れていた[29]。イワノフカの牧歌的な環境はラフマニノフの創作意欲を刺激し、1891年7月に完成させジロティに献呈した『ピアノ協奏曲第1番 嬰へ短調』(作品1)をはじめとする多くの作品が同地で生まれている[30][31]

1891年、ジロティが8月(学年度末)にモスクワ音楽院を離れることを知らされ、他の講師の教えを受けたくないラフマニノフは音楽院に卒業試験の繰上げ受験を希望した。その時点で試験までの準備期間が3週間しかないことなどからジロティも院長のワシーリー・サフォーノフも難色を示したが、ラフマニノフは卒業生から試験の傾向を教えてもらうなどの対策を講じ、同年7月に優秀な成績で合格し、その3日後には作曲科への編入試験にも合格した[32]。ピアノ科卒業時には大金メダルを贈られた。金メダルは通例、首席卒業生に与えられてきたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛び抜けて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは小金メダル)。しかし、卒業後の休暇を過ごしていたイワノフカでマラリアに罹患し、年の後半を療養に費やした[33][34]

1892年1月、ラフマニノフは初の単独演奏会で『悲しみの三重奏曲第1番 ト短調』を初演し、3月17日には『ピアノ協奏曲第1番』(第1楽章のみ)を初演した[35]。作曲科卒業試験の繰上げ受験の希望も認められ、卒業制作としてアレクサンドル・プーシキンの叙事詩『ジプシー』に着想を得たオペラ『アレコ』を17日間で書き上げた[36][31]。『アレコ』は5月にボリショイ劇場で初演され、チャイコフスキーから絶賛された[37]。ラフマニノフ自身は、この初演は「間違いなく失敗する」と思っていたが公演は大成功をおさめ、劇場側は後に彼の終生の友となるフョードル・シャリアピン主演での再演を決定した[20][38]。『アレコ』でラフマニノフは史上最高の成績をおさめ、それまでタネーエフとアルセニー・コレシェンコロシア語版にしか与えられていない大金メダルを授けられてモスクワ音楽院作曲科を卒業した[20]。卒業試験の委員を務めていたズヴェーレフからは金時計を贈られ、和解を果たしている[39]。5月29日、音楽院から卒業証書が発行され、正式に「自由芸術家」(プロの音楽家)として活動する資格を得た[40]

卒業後、ピアノ教師として月15ルーブルの収入を得ながら[41]作曲を続けていたラフマニノフは、グートハイル社と500ルーブルの出版契約を結び、『アレコ』『チェロとピアノのための2つの小品』(作品2)『6つのロマンス』(作品4)が同社から初版された[39]。しかしグートハイルからの入金が遅れがちなため新たな収入を求めて1992年10月8日(ユリウス暦では9月26日)、モスクワ電気博覧会にピアニストとして出演し、『幻想的小品集』(作品3)から「前奏曲 嬰ハ短調《鐘》」を初演し、50ルーブルの出演料を得た[39][42]。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった[43][44]

1893年、『交響的幻想曲《岩》』(作品7)を完成させ、ニコライ・リムスキー=コルサコフに献呈した[45]。その年の夏はハリコフ県ロシア語版ウクライナ語版の別荘で友人たちと充実した時間を過ごし、『組曲第1番《幻想的絵画》』(作品5)『サロン的小品集英語版』(作品10)を作曲した[46][47]。9月にはアレクセイ・プレシェエフロシア語版がロシア語訳したウクライナドイツの詩に曲をつけた歌曲集『6つのロマンス』(作品8)を出版した[48]。モスクワに戻ったラフマニノフは、交響詩『岩』のヨーロッパ公演ツアーの指揮をチャイコフスキーに依頼し、快諾を得た。しかし11月6日、『アレコ』公演のため訪れたキエフでチャイコフスキーがコレラで死去したとの報を受ける[49]。ラフマニノフはその日の内に追悼曲『悲しみの三重奏曲第2番 ニ短調』(作品9)の作曲にとりかかり、約1ヶ月で完成させた[50][51]

挫折~指揮者の道へ[編集]

チャイコフスキーの死以降、ラフマニノフは低迷期に入った。彼は創作意欲を失い、客足が落ちてきた『アレコ』はボリショイ劇場の演目リストから外されてしまった[52]。彼は収入を得るため、大嫌いなピアノ教師の仕事を再開した[53]。1895年後半にはイタリアのバイオリニスト、テレジーナ・トゥーアイタリア語版とのロシア横断ツアーを始めたが、彼が「興がのらない」と途中で打ち切ってしまったため、出演料を得られなかった。懐に窮したラフマニノフは、音楽院卒業の際にズヴェーレフから贈られた金時計を質入れしている[54]

この年の1月、ラフマニノフは教会の礼拝で耳にした聖歌に刺激を受けて『交響曲第1番 ニ短調』(作品13)を構想し、先述のツアー出発前の9月に完成させた[54]。ラフマニノフは『交響曲第1番』に全身全霊で取り組み、曲の完成後は「初演を聴くまでは他の曲は書けない」というほどの虚脱状態となった[55]が、1896年10月に預かっていた大金を列車の中で盗まれてしまい、その弁済資金を捻出するため仕方なく作曲活動を再開し、数ヶ月をかけて『6つの合唱曲』(作品15)『楽興の時』(作曲16)などを完成させた[56]

ラフマニノフ(1897年)

1897年3月28日、ペテルブルクで行われたロシア交響楽演奏会において『交響曲第1番』が初演されたが、記録的な大失敗に終わった。ツェーザリ・キュイは、この曲を「エジプトの七つの災い」に例えて、「地獄の音楽院では称賛されるだろう」と酷評している[57]。ラフマニノフ自身は失敗の原因はアレクサンドル・グラズノフの指揮にあると思っていた[58]。指揮について言及した同時代の批評は少ないが、ラフマニノフと親しかった批評家アレクサンドル・オッソフスキーは回想録の中で、グラズノフが碌なリハーサルもせずオーケストラをまとめ切れていなかった可能性と、他に2曲の初演が含まれていた当日のプログラム構成の問題点を指摘しており、またサーチン家の人々はアルコール依存症のグラズノフが当日も酒に酔っていたと証言している[59][58][60]。他に、ペテルブルクがラフマニノフの属したモスクワ楽派とは対立関係にあった国民楽派の拠点だったことの影響などが指摘されている。ラフマニノフは同年5月の手紙で『交響曲第1番』について、初演の失敗や酷評については「気にしていない」としながらも、「(曲自体に)私自身が満足できなかったことに、深く傷つき、落ち込んでいる」と書いている[61]。この曲はラフマニノフの存命中は二度と演奏されることはなかったが、1998年に四手ピアノ曲に編曲されている[62]

この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、3年間ほとんど作曲ができない状態に陥った。後に彼は当時を振り返って「脳卒中患者のように長い間、手と頭が不自由になっていた」と表現している[62]。再びピアノ教師として生計を立てていた[63]が、幸運にも実業家サーヴァ・マモントフが主宰するモスクワ私設オペラロシア語版の第2指揮者に就任できたため、以降は演奏活動に勤しんだ。指揮者デビューは1997年10月12日の公演で、演目はサン=サーンスサムソンとデリラ』だった[64]。この歌劇団でシャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。彼の結婚式にも介添人の1人として立ち会っている。

1898年にはシャリアピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

久々に作曲も試み、1999年の2月末までに2つの短いピアノ曲(『幻想的小品集』『フゲッタ』)を完成させている。その2か月後には初めてロンドンを訪れて指揮と演奏を披露し、好評を博した[65]。しかし同年夏以降、再び鬱状態となり、歌曲『運命』(作品21-1)を完成させて以降は作曲から離れ、ロンドン再訪もとりやめた[66]

同年、彼の落胆を心配した伯母の仲介により、レフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリアピンを伴ってトルストイ宅を訪ね、『運命』を披露した。しかしこのベートーヴェンの『交響曲第5番』に基づく作品は老作家の不興を買い[注釈 6]、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。[68][69]

回復~復活、作曲家としての成功[編集]

ラフマニノフ(1900年初め)

1900年、作曲を試みては放棄を繰り返し、自暴自棄に陥っていたラフマニノフは、伯母の勧めで、サーチン家の知人の精神科医ニコライ・ダーリの治療を受けることになった[70]。ラフマニノフは1月~4月にかけての毎日、ダーリから睡眠・気分・食欲を改善して作曲意欲を向上させるよう構成された催眠療法と支持療法による治療を受けた[71]。結果、夏には「新しいアイデアが湧き始め」て、作曲を再開した[72]。1901年4月に完成した『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)はダーリに献呈されている。『ピアノ協奏曲第2番』は1900年12月22日にラフマニノフ自身の演奏とジロティの指揮で第2・第3楽章が披露された後、1901年11月9日に全曲が初演され、大成功を収めた[73]。この作品でラフマニノフは初めてグリンカ賞を受賞(以降、計4回受賞)し、1904年には500ルーブルの賞金を授与された[74]

作曲家として成功したラフマニノフは1902年、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚した[75]。4月に作曲した『12の歌曲集』(作品21)には妻に捧げた「ここは素晴らしい」(21-7)や、後に自身でピアノ独奏曲にも編曲した「ライラック」(21-5)といった作品が含まれている。当時いとこ同士の結婚はロシア正教会の教会法で禁止されていたため皇帝の許可証が必要であり、またラフマニノフは普段から教会に通わず、告解も受けていないため式には神父の立ち合いが必要とされていた[76]。伯母の奔走により許可証を得て、神父については双方の父親が軍人であることから因果を含められるモスクワ郊外の兵営内の教会を使うことにし、ジロティとチェリストのアナトーリー・ブランドゥコーフが立会人を務め、5月12日にささやかな結婚式を挙げた[77][78]。夫婦にはイワノフカの2軒の別荘のうち小さい方が贈られ、新婚旅行は3カ月をかけてヨーロッパを横断した[75]。帰国後、夫婦はモスクワに住み、ラフマニノフは聖カタリナ女子大学とエリザベート学院での音楽教師の仕事を再開した[79]

1903年2月、『ショパンの主題による変奏曲』(作品22)を完成させた[79]。5月14日、長女イリーナが誕生[80]

ボリショイ劇場(1905年)

1904年、ラフマニノフは2年契約でボリショイ劇場の指揮者に就任した。彼は楽団員に厳しい規律を課し、常に高いパフォーマンスを要求し、神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽団員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた[81]。彼はリヒャルト・ワーグナーに影響され、現代まで続くオーケストラピットでの楽団員の配置や立って指揮をするスタイルを採用した先駆者のひとりとなった。指揮者だけでなくソリストとしても舞台に立ち演奏を披露した[82]。1906年1月には自作のオペラ『けちな騎士ロシア語版』と『フランチェスカ・ダ・リミニロシア語版』をボリショイ劇場で初演した[83]

1905年に入るとロシア第一革命に影響された楽団員による賃金と待遇の改善を求める抗議が頻発するようになり、もともと政治に興味のないラフマニノフは指揮者の仕事への情熱を急速に失っていった[84]。1906年2月、ラフマニノフは指揮者を辞任した[85]。その後、家族を連れてイタリアへの長期旅行に出かけたが、妻と娘が病気に罹ったため、イワノフカへ戻った[86]。音楽教師の職も辞めていたため、間もなく金銭的な問題に直面した[87]

ドレスデン滞在、最初のアメリカ公演[編集]

1906年11月、作曲に適した静かな環境を求めて、政治的に混乱するロシアを離れ、家族とともにドイツドレスデンに移った[88]。ラフマニノフ夫妻はこの町を気に入り、夏休みをイワノフカで過ごす以外はロシアに帰国せず、1909年まで滞在した[89]。時折起こる憂鬱や無気力・無関心に悩まされながらも[90]、ラフマニノフはこの地で12年ぶりに交響曲の作曲に着手する[91]

1907年、ラフマニノフ一家はロシアに一時帰国するが、5月にラフマニノフはセルゲイ・ディアギレフが企画したロシア音楽の演奏会に参加するため単身パリを訪れ、演奏会では『ピアノ協奏曲第2番』と前奏曲『鐘』を演奏し大喝采を浴びた[92]。また同地で見たスイスの画家アルノルト・ベックリン同名絵画複製画に着想を得て交響詩『死の島』(作品29)の作曲を始める[93](1909年完成)。

同年に完成させた『交響曲第2番 ホ短調』(作品27)は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛をもって迎えられ、この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞し、賞金1,000ルーブルを得た[94][95]。同年にはアムステルダムウィレム・メンゲルベルクとの共演で『ピアノ協奏曲第2番』を演奏した。

『ピアノ協奏曲第3番』を校正するラフマニノフ(1910年、イワノフカ)

1909年、ドレスデン滞在中のラフマニノフは、アメリカマックス・フィードラーボストン交響楽団の1909 - 1910年シーズンの公演に指揮者・ピアニストとして客演することになった[96]。同年夏にはイワノフカで、アメリカ公演のために『ピアノ協奏曲第3番 ニ短調』(作品30)を作曲し、ヨゼフ・ホフマンに献呈した[97]

1909年11月4日、マサチューセッツ州ノーサンプトンスミス大学で初のアメリカ公演を行い、11月28日にはニューヨークで自らソリストを務めウォルター・ダムロッシュ指揮するニューヨーク交響楽団との共演で『ピアノ協奏曲第3番』を初演し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演で同曲を演奏した[98][99]。アメリカ公演ではピアニストとして19回、指揮者として7回舞台に立った。公演は大成功をおさめアメリカでの人気も高まったが、ロシアや家族から長い時間離れて過ごしたため、新たな長期ツアーの依頼は断っている[100]

1910年2月に帰国すると、皇族が会長を務めるロシア音楽協会の副会長に就任した[101]。同年後半、『聖金口イオアン聖体礼儀』(作品31)を作曲するが、教会からは伝統的な奉神礼音楽の形式に則っていない、として演奏を拒否された[102]

1911年~1913年にかけてモスクワ・フィルハーモニー楽団の常任指揮者を務め、楽団の知名度を高め、観客と収入の増加に貢献した[103]。1912年には次女タチアナが生まれている。同年12月、ある音楽家がユダヤ人という理由でロシア音楽協会の要職から外されたと聞き、抗議のため副会長を辞任した[104]

このころ、ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集『14のロマンス』(作品34)の作曲を始めた[105]。この歌曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された『ヴォカリーズ』(作品34-14)が収められている。

音楽協会を辞め、心身ともに疲弊していたラフマニノフは、作曲の時間づくりと休暇を兼ねて家族とともにスイスを訪れ、1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。ラフマニノフは家族の住む家とは別にスペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住んだ[106][107]。そこに届いた匿名の手紙に書かれていたコンスタンチン・バリモントが翻訳したエドガー・アラン・ポーの詩に触発され、その詩に基づく合唱交響曲『』(作品35)を作曲した[108]。この休暇は腸チフスに感染した娘たちを診せるため、ラフマニノフ一家が信頼するドイツ人医師のいるベルリンへ移ったことで終わり、その6週間後に一家はモスクワに戻った[109]。その年の暮れ、合唱交響曲『鐘』はサンクトペテルブルグでラフマニノフ自身の指揮で初演された[110]

1914年1月、ラフマニノフはイギリスへ演奏旅行に出かけ、熱烈な歓迎を受けた[110]。しかし出発直前にラウール・プーニョがモスクワで心筋梗塞の発作により客死したため、以後のラフマニノフは一人旅を怖がるようになった[109]。7月28日に勃発した第一次世界大戦では、貴族高等女学校の音楽教官という公職についていたため軍隊に招集はされなかったが、戦争を支援するための慈善演奏会を定期的に行っていた[111]

1915年1月には奉神礼音楽の大作『徹夜禱』(作品37)を作曲した[112]。戦争支援の慈善演奏会を兼ねたモスクワでの初演は好評で、すぐに4回の公演予定が組まれた[113]

1915年4月、スクリャービンの訃報が届くと、ラフマニノフは困窮するスクリャービン夫人を救うため、スクリャービン作品だけを演奏するピアノ演奏会を開き[114]、初めて聴衆の前で自作品以外の曲を演奏した[115]。同年の夏、フィンランドでの休暇中にタネーエフの死を知り、大きな喪失感を味わった[116]。同年暮れには『14のロマンス』が完成し、終曲の「ヴォカリーズ」は彼の代表作のひとつとなった[117]

母国を離れて[編集]

ペテルブルクで2月革命が始まった1917年2月8日、ラフマニノフはモスクワで傷病兵のためのピアノ演奏会を開いていた[118]。2か月後に彼がイワノフカに戻ると、町は混乱の中にあり、屋敷も社会革命党によって押収されていた[119]。2週間後、ラフマニノフはイワノフカを去り、二度と訪れることはなかった[120]。間もなく屋敷は共産党に接収され、廃墟と化した[121]。6月、ラフマニノフはジロティにロシアを出国するビザの手配を頼んだが、上手くいかなかった。ラフマニノフは家族と比較的平穏なクリミアに移り、9月5日にヤルタで行った演奏会がロシアでの最後のステージとなった、十月革命の進行するモスクワに戻ると、家族を守るため自警団の活動に参加しながら、『ピアノ協奏曲第1番』の大がかりな改訂作業を行った[122][123]

混乱の中、ラフマニノフにスカンディナヴィアでのピアノ演奏会開催の依頼があり、ロシアを離れる口実を探していた彼はこれを快諾した[124]。12月22日、家族とともに列車でペテルブルクを発ってフィンランド国境へ向かい、そこからそりと列車を乗り継いでヘルシンキへ向かった。ラフマニノフは小さなスーツケースに詰め込めるだけの荷物を入れていたが、その中には未完となったオペラ『モナ・ヴァンナ英語版』第1幕の草稿とリムスキー=コルサコフのオペラ『金鶏』の楽譜があった。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった。12月24日、一家はスウェーデンストックホルムへ到着した[125]

ラフマニノフとシュトルーヴェ(1918年)

1918年1月、ラフマニノフは家族とデンマークコペンハーゲンに移り住み、友人の作曲家ニコライ・シュトルーヴェロシア語版に紹介された家に居を構えた[126]。借金を抱えていたラフマニノフは、作曲の仕事だけでは不安定なため、演奏活動を主な仕事にすることにした[127]。しかし演奏活動をメインに据えるには彼のピアノ演奏のレパートリーは自作が殆どだったため、新しい曲の習得と練習を行った。同年2月~10月にかけてスカンディナヴィア各地で演奏を披露した[128][129]

この演奏旅行中、ラフマニノフの許にアメリカからシンシナティ交響楽団の指揮者就任など3件の依頼が入った[128]。1909年のアメリカ公演ではあまりいい思い出がなく、慣れない国での活動に不安を感じたラフマニノフは依頼をすべて断ったが、間もなく経済的に繁栄するアメリカで活動した方が収入が増えるのではないかと考えるようになった。アメリカまでの旅費は映画製作者のアレクサンドル・カメンカ英語版から借りて工面した[128]ほか、ピアニストのイグナーツ・フリードマンから2,000ドルを支援されるなど友人やファンからの金銭的支援も受けた[127]。1918年11月1日、ラフマニノフ夫妻は客船「ベルゲンスフィヨルド英語版」でノルウェーオスロを発ち、11日後にニューヨークに到着した。ラフマニノフ到着のニュースが広まると、彼が滞在するシェリー・ネザーランド・ホテルの外には多くの音楽家、芸術家、ファンが集まった[128]

アメリカに到着したラフマニノフはピアニストのダグマー・ド・コーヴァル・リグナー英語版を秘書兼通訳として雇った[130]。ヨゼフ・ホフマンから紹介された数人の代理人の中から、ラフマニノフはチャールズ・エリスと契約し、エリスは早速1918 -1919年シーズンの36件の公演契約をまとめた。渡米後初の演奏会は1918年12月8日、ロードアイランド州プロビデンスで開かれ、この時のラフマニノフはスペインかぜからの回復途上にあったが、アメリカ国歌『星条旗』のピアノ編曲版などを披露した[131][132]。渡米直後から、多くの楽器メーカーからピアノの提供依頼が来たが、彼は唯一金の話をしなかったスタインウェイ社と契約し、その後も生涯にわたり緊密な関係を続けた[133][134]

レッドウッドの巨木の前に立つラフマニノフ(1919年、カリフォルニア)

1919年4月に一連の公演が終了すると、ラフマニノフは家族とともにサンフランシスコで休暇を過ごし、以降、西海岸で休暇を過ごすことは彼の習慣となった。演奏活動で安定した収入を得たラフマニノフは、すぐに上流中産階級の暮らしを手に入れることができ、使用人付きの邸宅に住み、高級スーツをあつらえ、最新モデルのスポーツカーを乗り回す贅沢を楽しんだ[135]。一方で、ニューヨークのアパートメントではロシアからの客人を迎え、ロシア人の使用人を雇い、ロシアの生活習慣を続けることでイワノフカの雰囲気を再現するようつとめた[136]。英語もある程度話すことはできたが、手紙は常にロシア語で書いていた[127]

1920年、ビクタートーキングマシン(現在のRACレコード)と録音契約を結ぶ[133]。その年の夏、休暇を過ごしていたニューヨーク州ゴーシェン英語版でシュトルーヴェが事故死したことを知らされると、ロシアに残る人々を支援するための口座を開設し、家族や友人、学生や困窮する人々に定期的に金銭や食料を送るように手配した[137][138]

1921年初頭、ラフマニノフはロシアへの一時帰国を申請した。渡米後の彼が帰国を望んだのはこの一度だけであるが、彼が右こめかみを痛めて手術を受けたため[注釈 7]、帰国は実現しなかった[137]。退院後、ハドソン川を見下ろすマンハッタンのアッパー・ウェスト・サイド、リバーサイド・ドライブ33番地にアパートメントを購入した[137]

1922年5月、ラフマニノフはロンドンでの演奏会のため渡米後初めてヨーロッパを訪れた[139]。公演後、ドレスデンまで足を延ばしてサーチン家の人々と再会し、アメリカに戻ると5か月間で71公演をこなす1922 - 1923年シーズンのツアーの準備に入った[140]。このツアーではスーツケースを持ち歩くのが面倒になり、貨車1両を借り切ってピアノと衣装や生活用品一式を運んだ[141]

1924年、ボストン交響楽団の指揮者就任を依頼されるが、断っている[127]。その翌年、身重の長女イリーナの夫ピョートル・ヴォルコンスキーが急死すると、ラフマニノフは娘たちの名を冠した自分とロシアの作曲家の作品を専門に扱う出版社TAIR (Tatiana and Irina) をパリに設立した[142]

セナール荘での時間、最後の作曲[編集]

ロシア出国後は作曲活動はきわめて低調になった。渡米から亡くなるまでの24年間でラフマニノフが完成させたのは僅か6曲だけで、他は過去作品の改訂や演奏会向けにピアノ曲へ編曲があるだけである[143]。これは多忙な演奏活動のために作曲にかける時間を確保できなかったのみならず、故郷を喪失したことにより作曲への意欲自体が衰えてしまったためでもあった[144]。旧知の仲であるニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」ことを理由に挙げたという。それでも1926年には演奏活動を1年間休んで、1917年から始めていたロシア出国後初の作品となる『ピアノ協奏曲第4番 ト短調』(作品40)とレオポルド・ストコフスキーに献呈した『3つのロシアの歌』(作品41)を完成させた[145][146]

同郷の音楽家たちとの交流を好んだラフマニノフは、1928年にピアニストのウラディミール・ホロヴィッツと知り合った[147]。彼らは互いの演奏会で客演するなど親交を深め[148]、ホロヴィッツはラフマニノフ作品の最大の支持者となり、特に『ピアノ協奏曲第3番』を最も気に入っていた[149]

1930年、練習曲集『音の絵』(作品33, 39)のオーケストレーションを担当したオットリーノ・レスピーギに曲のイメージや背景を教示している[150]。1931年、『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されたソビエト連邦政府の文化政策を批判する記事の署名者に名を連ねた[151]ことでソ連側から激しい反発を受け、以後1933年までラフマニノフ作品はソ連国内で演奏禁止とされた[139]

1932年、スイスのルツェルン湖畔のヘルテンシュタインに土地を購入し、そこにセルゲイ (Sergei) 、ナターリヤ (Natalia) 、ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったセナール荘ロシア語版(Villa Senar) 呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした[152][139]。ラフマニノフは1939年までここで夏を過ごし、娘や孫たちとルツェルン湖でのボート遊びを楽しんだ[152]。『パガニーニの主題による狂詩曲』(作品43)と『交響曲第3番 イ短調』(作品44)は1934年と1936年にここで作曲された。

1932年10月、ラフマニノフはピアニストデビュー40周年ツアーを始め、演奏会場には今はアメリカ在住のロシアの友人たちから祝福の手紙や花が届けられた[153]。しかし当時のアメリカは不況のただ中にあったため[注釈 8]、公演は小規模なものが多かった[153]。1933年のヨーロッパ公演では60歳の誕生日を友人たちや音楽仲間と祝い、その夏はセナール荘に引きこもった[153]

1936年には関節炎の療養のためフランスのエクス=レ=バンを訪れた[154]。1837年、セナール荘で振付家ミハイル・フォーキンと『パガニーニの主題による狂詩曲』を題材としたバレエの構想を語り合った[155][注釈 9]。1938年、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された慈善演奏会で、BBCプロムスの創始者でラフマニノフの崇拝者であったヘンリー・ウッドの求めに応じ、『ピアノ協奏曲第2番』のソリストを務めたが、ラジオというメディアを嫌っていたラフマニノフは、演奏がラジオ放送されないことを条件に出演を引き受けた[156]

1938 - 1939年シーズンのツアーは公演数も43回と少なく、その殆どがアメリカ国内で開催された。続けて行われたイングランドでのツアーが終わると、ラフマニノフはパリに住む次女タチアナの許を訪れ、そのままセナール荘で休暇に入ったが、床で滑って大けがを負い、暫く演奏が出来なくなった[157]。負傷の癒えたラフマニノフは、1939年8月にはルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第1番』と自作の狂詩曲を演奏した[158]。これが彼がヨーロッパで披露した最後の演奏となった。2日後に第二次世界大戦が迫るパリに戻り、8月23日にヨーロッパを離れるまで家族水入らずの時間を過ごした[159][160]

アメリカに戻ると、自身の全米デビュー30周年を記念した演奏会の一つとして、1939年11月26日と12月3日にニューヨークで開かれた演奏会でユージン・オーマンディ指揮するフィラデルフィア管弦楽団と共演した[161]。12月10日に行われた最終公演では、1917年以来となるラフマニノフ自身の指揮と演奏で『交響曲第3番』と前奏曲『鐘』が披露された[162]。同じ時期にフィラデルフィアアカデミー・オブ・ミュージックにおいて『ピアノ協奏曲第1番』『ピアノ協奏曲第3番』『交響曲第3番』を含む大規模なレコーディングを開始した[163]

ラフマニノフは、1940年の夏をニューヨーク州ロングアイランドにあるハンティントンの地所で静養して過ごした[164]。この間に彼が完成させ、最後の作品となった『交響的舞曲』(作品45)は1941年1月に彼の見守る前でフィラデルフィア管弦楽団により初演された[161]。この年の半ば以降、ナチス・ドイツに対するソ連の戦いを支持し、演奏会の収益の多くを赤軍に寄付している[165]

最後の日々[編集]

ビバリーヒルズに残るラフマニノフの旧宅
ケンシコ墓地のラフマニノフが眠る墓。八端十字架が建てられている

1942年初頭、腰痛神経痛、高血圧、頭痛に悩まされていたラフマニノフは、医師から温暖な土地への転住を勧められた[166]。2月にはフィラデルフィアでの最後のレコーディングが終了し[163]、妻の勧めもあり5月にはカリフォルニア州ビバリーヒルズ、タワーロードのアパートメントに仮住まいし[161][166]、6月にはホロヴィッツの自宅に近い同市内エルム・ドライブ610番地[注釈 10]を購入し、移り住んだ[167][160]。この家にイーゴリ・ストラヴィンスキーを招き、戦争で荒廃するロシアやフランスにいる互いの子供たちについて語り合っている[168][169]

1942年7月、ハリウッド・ボウルでの演奏会を終えたラフマニノフは主治医のアレクサンドル・ゴリツィンに来シーズンを最後に演奏活動から身を引き、作曲に専念する意思を示した[170][161]。健康状態が悪化する中、10月12日に始まったツアーは、批評家たちからは好評を得た。1943年2月1日、ラフマニノフ夫妻はアメリカに帰化し、ニューヨークで行われた帰化を祝う式典に他の220人の帰化市民とともに出席した[145]。その後のラフマニノフは咳と背中の痛みに悩まされ、医師からは温暖な土地での療養を勧められたが、ツアーの続行を選んだ。しかしフロリダへの移動中に倒れ、残りのツアーをキャンセルして列車でカリフォルニアへ戻り、救急車で病院へ運ばれると、医師から悪性黒色腫との診断を受けた。ナターリアは彼を自宅へ連れ帰り、フランスから長女イリーナを呼び寄せた[171]。2月11日と12日のハンス・ランゲ指揮するシカゴ交響楽団と演奏した『ピアノ協奏曲第1番』『パガニーニの主題による狂詩曲』が最後のオーケストラとの共演となり[172]、2月17日にノックスビルテネシー大学で開かれたリサイタルがピアニストとして最後の公演となった[173][174]

1943年3月に入ると、ラフマニノフの健康は急速に悪化した。食欲がなくなり、常に腕と脇腹が痛み、息苦しさが増した。70歳の誕生日目前の3月26日に意識を失い、2日後の3月28日に69歳でビバリーヒルズの自宅で死去した[175]。葬儀はロサンゼルスシルバーレイク英語版地区ミッチェルトリーナ通りにあったロシア正教の生神女教会で営まれた[176]。ラフマニノフは遺言でスクリャービン、タネーエフ、チャイコフスキーが眠るモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが、戦争中という状況と彼がアメリカ国籍を有していたことから実現できなかった[177]。6月1日にニューヨーク州ヴァルハラ英語版ケンシコ墓地に埋葬された[注釈 11]

音楽[編集]

作曲家として[編集]

作風[編集]

チャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ音楽院でタネーエフに学んだことから、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲んでおり、西欧の音楽理論に立脚した堅固な書法を特徴とした。一方で、作曲を志した時期には五人組に代表される国民楽派とモスクワ楽派との対立が次第に緩和されつつあったため、親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築いた[178]。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられる[179]

作品に特徴的に見られる重厚な和音は、幼いころからノヴゴロドやモスクワで耳にした聖堂の響きを模したものといわれる[14]。半音階的な動きを交えた息の長い叙情的な旋律には、正教会聖歌やロシアの民謡などの影響が指摘される。グレゴリオ聖歌の『怒りの日』を好んで用いたことでも知られ、主要な作品の多くにこの旋律を聴くことができる[180]

すべての作品は伝統的な調性音楽の枠内で書かれており、ロマン派的な語法から大きく外れることはなかった。この姿勢はロシアを出国した以後の作品でも貫かれた。モスクワ音楽院の同窓で1歳年長のスクリャービンが革新的な作曲語法を追求し、後の調性崩壊に至る道筋に先鞭をつけたのとはこの点で対照的だった。

ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。

私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。

自身が優れたピアニストだったこともあり、ピアノ曲については特に従来から高く評価されてきた。ロシア的旋律に共通する息の長い旋律を、減衰曲線しか描かないピアノの音で表現するという相反する要素を、夥しい数の音符を用いて書き切った作風はロマン派的な意味での「歌う楽器」としてのピアノ書法の完成者といえる。ただし作曲者は卓越した技巧と大きな手を持っていたため、一般の弾き手にとっては困難な運指や和音が多く存在する。ピアノ協奏曲の第2番第3番前奏曲音の絵などのピアノ独奏曲は今日のピアノ音楽における重要なレパートリーとなっている。

メロディには第2拍から始まるものが、ほかの作曲家と比べてかなり大きな割合を占めている(2分の2拍子の場合だと半拍遅れ)。

評価[編集]

甘美でロマンティックな叙情を湛えた作品の数々は一般的な聴衆からは熱狂的に支持された一方、批評家や一部の演奏家からはその前衛に背を向けた作風を保守的で没個性的とみなされ、酷評されることが多かった。ロシアに在住していたころから、ヴャチェスラフ・カラトィギンやレオニード・サバネーエフといった批評家からの徹底した批難の対象だった。この傾向は没後も続き、『グローヴ音楽辞典』の1954年版では、「単調なテクスチュア」「つくりものめいた大げさな旋律」と一蹴され、「彼の存命中にいくつかの作品が享受した圧倒的な人気は長くは続かないだろうし、音楽家によって支持されたことはかつてなかった」と切り捨てられた。

ハロルド・C・ショーンバーグはこうした風潮を非道なまでのスノビズムだとして批判し、「作曲家に関して重要なのは、いかに個性を発揮したか、いかによく自己を表現したか、着想がどれほど強固か、であり、これらの点でラフマニノフは大半の作曲家よりも優れている」と主張した[181]デリック・クックが「演奏家や聴衆からの熱狂的な支持ゆえに、プッチーニとラフマニノフは否定的な評論の集中砲火にもかかわらず我々の音楽体験の中に生き続けている」と述べた[182]ように、『グローヴ音楽辞典』1954年版の予言は現実のものとならなかった。『ニュー・グローヴ音楽大辞典』の1980年版においては、彼の音楽の特性は「顕著な叙情性、表現の幅広さ、構成における独創性、オーケストラの豊かで特徴的な色彩のパレット」と記述された。近年はそれまで演奏される機会の多くなかった作品にも光が当たるようになってきており、熱烈な愛好家もその数を増している。

2014年5月20日、ロンドンのサザビーズにて、ラフマニノフ本人による直筆の楽譜が出品、120万ポンドで落札された。楽譜は、交響曲第2番で320ページに及ぶもの[183]

演奏家として[編集]

ピアノ演奏[編集]

ラフマニノフとピアノ

ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である[179]。彼は身長2メートルに達する体躯と巨大な手の持ち主で[184]、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターヴ半上のソの音を鳴らすことができた)。また指の関節も異常なほど柔軟であり、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターヴ上のドを押さえ、さらに余った親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたという[185]。恵まれたこの手はマルファン症候群によるものとする説もある[186]

ロンドンで彼のピアノ演奏にたびたび接した音楽評論家の野村光一は「彼のオクターヴは普通の人が6度を弾くときぐらいの格好」になったと証言している。野村はさらに続けて次のように述べている[179]

ラフマニノフの音はまことに重厚であって、あのようなごつい音を持っているピアニストを私はかつて聴いたことがありません。重たくて、光沢があって、力強くて、鐘がなるみたいに、燻銀がかったような音で、それが鳴り響くのです。まったく理想的に男性的な音でした。それにもかかわらず、音楽はロマンティックな情緒に富んでいましたから、彼が自作を弾いているところは、イタリアのベルカントな歌手が纏綿たるカンタービレの旋律を歌っているような情調になりました。そのうえにあの剛直な和音が加わるのだから、旋律感、和声感ともにこれほど充実したものはないのです。

ラフマニノフは楽譜を恣意的に取り扱う傾向という点においても19世紀以来のヴィルトゥオーソの伝統を受け継ぐピアニストであり、彼の楽曲解釈は当時から物議を醸すことがあった。アメリカの音楽評論家、ウィリアム・ジェイムズ・ヘンダーソンがラフマニノフによるショパンの『ピアノソナタ第2番《葬送》』の演奏について述べた次のような言葉[158]からも、そうした機微を窺うことができる。

彼は作曲家であるばかりではなく、本物のピアニストである—コンポーザー・ピアニストではなく。この日の3つめの曲目はショパンの変ロ短調のソナタだった。この傑出した名人は、この曲を全く独自のやり方で演奏した。彼は全ての旧習を投げ捨て、作曲者の指示を翻案さえした。ここに示されたのはラフマニノフによる原作の翻訳だった。それも素晴らしい訳文だった…。 この変ロ短調ソナタの解釈は—葬送行進曲さえも違った弾き方だった—、権威ある論証に裏付けられ、聴き手に議論の余地を与えなかった。その論理はつけ入る隙がなく、計画は論破できないもので、宣言は威厳に満ちていた。われわれはラフマニノフと同じ時代に生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという運命のめぐり合わせに、ただただ感謝するほかはない。それは天才が天才を理解した一日だった。このような場には滅多に立ち会うことができるものではない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである。

指揮[編集]

ピアニスト、作曲家としての業績の大きさゆえに今日一般に見過ごされがちだが、ラフマニノフは指揮者としても大きな足跡を残している。マモントフ・オペラやボリショイ劇場で、彼は優秀なオペラ指揮者として信頼を置かれていた。演奏会においても自作のみならずチャイコフスキーやボロディン、リムスキー=コルサコフの作品などで、音楽評論家のユーリイ・エンゲルからアルトゥール・ニキシュグスタフ・マーラーエドゥアール・コロンヌにも比肩し得る「生まれながらの天才的指揮者」と評された。ロシアを出国後、1918年にアメリカに渡ったのも、結局受諾しなかったもののボストン交響楽団から演奏会の申し出を受けたのがひとつのきっかけだった。ロシア出国後にピアニストとしての活動に重点を置くようになってからも指揮活動を行っており、自作の交響曲第3番などの録音も残している。

録音[編集]

ビクター社の広告(1921年)

ラフマニノフが演奏活動を行ったのはすでに録音技術が実用化されていた時期のことで、現在でも録音によってその演奏に接することができる。決して数は多くないものの、その録音は資料的価値のみならず、演奏としても非常に貴重なものである。彼はまず1910年代にエジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードと契約し、録音を行った。彼は自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを望んだが、おそらく単純な不注意のためエジソンレコードは未承認の録音を販売してしまい、ラフマニノフの怒りを買った。これを機に彼はエジソンレコードを去り、以後はビクタートーキングマシン社(のちのRCAビクター社)と契約を結び[133]、多くのレコードを生み出した。

RCAからCDで発売された『ラフマニノフ全集』(10枚組、日本盤発売1992年、再発売1997年)は、エジソン社とRCAに残されたすべてのラフマニノフの演奏による音源を復刻したもので、4曲の協奏曲、交響曲第3番、交響詩『死の島』、多くのピアノ作品、歌曲を含む。フリッツ・クライスラーとの共演によるグリーグヴァイオリンソナタ第3番』などの室内楽曲の録音、自作以外のピアノ作品の演奏も含まれている。これらのいくつかは、ナクソスその他のレーベルでも復刻されている。

これらアコースティック録音のほかに、ピアノロールにも演奏の記録が残されている。はじめは1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったラフマニノフだが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、「みなさま、私はたった今、私自身が演奏するのを聞きました!」と述べたと伝えられる。アムピコのための録音は、1929年ごろまで続いた。

人物[編集]

生真面目で寡黙な性格だったとされる。彼の人格形成には、幼いころの一家の破産や両親の離婚、姉との死別などが影響したと指摘される。敬愛したチャイコフスキーの急逝も彼の性格に影を落とした。決定的だったのは交響曲第1番の初演の失敗で、友人に宛てた手紙には「ペテルブルクから帰るときに自分は別人になった」とまで書いている。特にロシアを出国してからは限られた人にしか心を開かなくなり、イーゴリ・ストラヴィンスキーからは「6フィート半のしかめ面」と評された[187]。その一方でシャリアピンの持ち寄るアネクドートにはいつも腹を抱えて笑っていたとも伝えられる。

イワノフカの別荘

1902年に作曲した歌曲『ライラック』作品21の5は広く愛され、ラフマニノフのロマンスを象徴する存在となり、ライラックの花は彼の存在と深く結びつけられるようになった。彼の愛したイワノフカの別荘の庭にもライラックは咲き乱れていた。匿名の熱烈な崇拝者からコンサート会場など彼の行く先々に白いライラックの花が届けられるという謎めいた現象が生じたこともあった[注釈 12]

聖金口イオアン聖体礼儀』(1910年)と『徹夜禱』(1915年)という正教会奉神礼音楽の大作を作曲しているが、決して熱心な正教徒というわけではなかったとされる。その彼がこうした宗教音楽の大作を創作したことは同時代人には驚きをもって受け止められたという。ただし『聖金口イオアン聖体礼儀』や『交響的舞曲』の手稿には彼自身の手で「完成、神に光栄」と書きつけられている。

気前のよさでも知られ、ロシア出国後にピアニストとして成功し豊かな収入を得るようになると、革命後の混乱の中で困窮する芸術家や団体を金銭的に支援することを惜しまなかった[137][138]。彼の援助を受けた団体には、マリインスキー劇場の合唱団や、ロシアに在住していたころから縁のあったモスクワ芸術座などが含まれる。またソビエト連邦ナチスの侵攻を受けて窮地に立たされた際には、ソ連政府を支援するためのチャリティー・コンサートを開催した[165]

貴族の出身で革命後は国外での生活を選択したラフマニノフだが、革命前の1905年には「自由芸術家宣言」に署名して帝政ロシア当局から目をつけられたという一面もある。この年はボリショイ劇場で不穏な動きがあり、指揮者を務めていたラフマニノフも危険人物の1人とみなされた。ロシアを出国したあとは、亡命ロシア人たちのグループによる政治的な活動からは距離を置いていた。晩年にはヨシフ・スターリンが帰国を迎え入れようとする計画もあったと言われる[188]

一時期、レフコという名の愛犬を飼っていた。

最先端の機械に興味があり、開発者を助けるためにヘリコプターで有名なシコルスキー社に5,000ドル(今日の約10万ドル)の投資をした。また自動車が好きで、1912年には妻のために初期のガソリンエンジン車(Leigh Company製)を購入した。本人も運転がうまく高速で走ることを好んでいた。当時のロシアにはほとんど車はなかったが、メルセデスやブガッティなど、速度の出るスポーツ車を購入して自ら高速ドライブを楽しんだ。

交友関係[編集]

作曲家[編集]

チャイコフスキーを熱烈に崇拝していたことはよく知られる。チャイコフスキーから『アレコ』や幻想曲『』(作品7)を称賛されたことを生涯誇りとした。2台のピアノのための組曲第1番『幻想的絵画』(作品5)はチャイコフスキーに献呈された。1893年にチャイコフスキーが急逝すると、追悼のために『悲しみの三重奏曲第2番』を作曲した[50][51]。これはかつてチャイコフスキーがニコライ・ルビンシテインを偲んで『ピアノ三重奏曲』を作曲したのに倣ったものである。

『交響曲第1番』の初演を指揮したアレクサンドル・グラズノフとはその後も交流が続いた。初演の翌年の1898年にはグラズノフの『交響曲第6番』を四手のピアノのために編曲している。

モスクワ音楽院で同窓だったスクリャービンとは作風が対照的で、ラフマニノフには彼がせっかくの才能を浪費しているようにしか考えられなかったといわれるが、それでも音楽家として互いに信頼し尊敬し合う仲だった。1915年にスクリャービンが亡くなるとラフマニノフは追悼演奏会を開催した[114]。彼はスクリャービンの前衛的な作品をもプログラムに含めることを厭わなかったが、この2人はピアニストとしての奏法も対照的で、楽曲解釈をめぐってはスクリャービンの支持者から反発を受けた[注釈 13]。ラフマニノフが残したスクリャービン作品の録音は『前奏曲 嬰ヘ短調』のみである。ただし、最晩年の『ピアノ協奏曲第4番』ではスクリャービンの影響が指摘されている。

スクリャービンと同じく当時のロシアを代表するピアニスト、作曲家だったメトネルとも親しい間柄だった。ラフマニノフは『ピアノ協奏曲第4番』をメトネルに、メトネルも自身の『ピアノ協奏曲第2番』をラフマニノフに、それぞれ献呈した。メトネルはラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』の第1楽章第1主題を聴くと「ゆるやかな鐘の音とともに、ロシアがそのおおきな体いっぱいに立ち上がるような気が」すると述べた。ラフマニノフはメトネルのおとぎ話ホ短調作品14の2「騎士の行進」を「奇跡」と評した[189]

演奏家[編集]

ジロティ(左)とラフマニノフ

従兄のジロティはモスクワ音楽院入学のきっかけを作ったのみならず、その後も生涯を通じてラフマニノフと深く関わり続けた。ナターリヤとの結婚式ではジロティが花婿の介添人を務めた[77][78]。『ピアノ協奏曲第1番』と『10の前奏曲』(作品23)はジロティに献呈され[30]、『ピアノ協奏曲第2番』の初演はラフマニノフのピアノとジロティの指揮により行われた[73]

モスクワ音楽院時代からの演奏家の友人にはユーリ・コニュスアナトーリー・ブランドゥコーフパーヴェル・パプストアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルなどがいる。ラフマニノフはそれぞれと演奏家として共演したり、作品を献呈したりしている。のちにラフマニノフの次女はコニュスの息子と結婚した。

シャリアピン(左)とラフマニノフ

シャリアピンとはマモントフ・オペラで出会って以来、終生の友情を結んだ。カンタータ『』のバリトン独唱パートやオペラ『けちな騎士』『フランチェスカ・ダ・リミニ』の主役はシャリアピンを想定して作曲されたものである。

ロシアを出国後に親交を結ぶようになったピアニストとしてベンノ・モイセイヴィチがいる。1919年のモイセイヴィチのアメリカデビュー演奏会にラフマニノフが聴衆の1人として立ち会ったことから両者の交流が始まった。ラフマニノフはモイセイヴィチによるピアノ協奏曲第2番などの演奏を自分よりも優れていると称賛した[190]

アメリカでラフマニノフと親交を結んだもう1人のピアニストがウラディミール・ホロヴィッツである。ホロヴィッツは1928年のアメリカデビューの4日前にラフマニノフと初対面を果たし、ピアノ協奏曲第3番を2台のピアノのための版で演奏した(ホロヴィッツがソロを弾き、ラフマニノフが伴奏パートを受け持った)[191]。のちにラフマニノフはこの曲の演奏をホロヴィッツなどより若い世代のピアニストに委ね、自分では演奏を避けるようになったという[192]

その他の芸術家[編集]

ラフマニノフがチャイコフスキーと並んで崇拝した芸術家がアントン・チェーホフだった[注釈 14]。ラフマニノフは1893年にチェーホフの短篇小説『旅中』に着想を得た幻想曲『』(作品7)を作曲した。1898年にはシャリアピンとの演奏旅行で訪れたヤルタでチェーホフと出会い、直接の親交を結んだ。初対面の際にチェーホフがかけた「あなたは大物になります」という言葉を、彼は生涯の宝物とした。チェーホフの没後の1906年には戯曲『ワーニャ伯父さん』のセリフを元に歌曲『わたしたち一息つけるわ』(作品26-3)を作曲した。

マリエッタ・シャギニャンとは、彼女が “Re” というペンネームでラフマニノフに手紙を送ったことから交際が始まった。彼女はその後もしばらくは匿名で手紙を交わしたが、のちに彼女の正体はラフマニノフの知るところとなり、両者は直接会うようにもなった。ラフマニノフの自宅でメトネル夫妻を交えて会食したこともあった。1912年には彼女の選んだ詩を元に歌曲集(作品34)を作曲し、第1曲『ミューズ』をシャギニャンに献呈した[105]。ラフマニノフの死後、マリエッタ・シギニャンはラフマニノフと1912年2月~1917年7月まで交わした15通の手紙をまとめて出版した[194]

文学者としてはこのほかにマクシム・ゴーリキーアレクサンドル・ブロークイヴァン・ブーニンと親交があった。ゴーリキーはラフマニノフの作品を聴いて、「彼は静寂を聴くことができるんですな」と感嘆したと伝えられる[158]

コンスタンチン・スタニスラフスキーをはじめとするモスクワ芸術座のメンバーとも交流があった。1908年に開催されたモスクワ芸術座の10周年記念行事では、当時ドレスデンに滞在中で参加できなかったラフマニノフがスタニスラフスキーに宛てた手紙形式の祝辞を歌曲に仕立て上げ、それをシャリアピンが歌うという一幕があった。

女優のヴェラ・コミサルジェフスカヤとも親しかった。1910年に彼女が天然痘のために急逝すると、ラフマニノフは追悼のために歌曲『そんなことはない』(作品34-7)を作曲した。

作品[編集]

前奏曲嬰ハ短調作品3の2、再現部

作品番号で45の作品が残されているが、そのうちの作品39までがロシア革命(1917年)前に書かれている。完成された作品として3曲の交響曲、4曲のピアノ協奏曲、2曲のピアノソナタを含む多数のピアノ曲、管弦楽曲、合唱曲、歌曲、オペラがある。すべての作品はイギリスの楽譜出版社、ブージー・アンド・ホークスが版権を持っている。ラフマニノフの完全な全集を作る試みがロシア本国で始まった[195]が、中断中である。

調性としては短調が非常に多く、特にニ短調を好んで用いた。また、前述のとおり「怒りの日」がしばしば使われている。

管弦楽作品[編集]

  • 交響曲 ニ短調 (1891年)
    • 単一楽章。第1楽章だけで、あとは未完。「ユース・シンフォニー」と通称される。
  • 交響曲第1番 ニ短調 作品13(1895年)
  • 交響曲第2番 ホ短調 作品27(1906年 - 1907年)
    • 第3楽章の甘美なメロディーは広く知られる。
  • 交響曲第3番 イ短調 作品44(1936年)
    • 遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚である。自作自演による録音も存在する。
  • 幻想曲『』作品7(1893年)
  • ジプシーの主題による綺想曲作品12(1894年)
  • 交響詩『死の島』作品29(1909年)
  • 交響的舞曲 作品45(1941年)

ピアノと管弦楽のための作品[編集]

  • ピアノ協奏曲第1番 嬰ヘ短調 作品1(1890年 - 1891年、初稿と改訂稿がある。)
  • ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18(1900年 - 1901年)
    • その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでももっともポピュラーな作品のひとつ。映画『逢びき』『旅愁』『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。
  • ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 作品30(1909年)
    • 第2番に知名度では劣るものの、高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲。技術的・音楽的要求においてピアノ協奏曲の中で最難関のひとつとも言われている。
  • ピアノ協奏曲第4番 ト短調 作品40(1927年、初稿と改訂稿がある。)
  • パガニーニの主題による狂詩曲 イ短調 作品43(1934年)
    • 変奏曲の形態を取った狂詩曲。第18変奏は反行形で作曲され、ラフマニノフならではの叙情性に溢れており特に有名。

室内楽曲[編集]

ピアノ曲[編集]

ラフマニノフのピアノ独奏作品の演奏は極めて難しく、2020年の現在をもってしても全ピアノ作品の録音に成功したピアニストは、マイケル・ポンティルース・ラレードウラディミール・アシュケナージハワード・シェリーイディル・ビレットセルジオ・フィオレンティーノ[196]アルトゥール・ピサロの7人しかいない。

声楽曲[編集]

オペラ[編集]

ラフマニノフを扱った作品[編集]

エフゲニー・ツィガノフ主演の映画。ただし、本編最後にロシア語で「まったくの創作で事実とは無関係」と書いてある通り、評伝データとしての価値はない。

回想・評伝[編集]

  • 『ラフマニノフの想い出』沓掛良彦監訳、平野恵美子・前田ひろみ訳、水声社、2017年。12名の回想記
  • ソコロワ 『ラフマニノフ その作品と生涯』佐藤靖彦訳、新読書社、1997年、新版2009年。
  • マックス・ハリソン 『ラフマニノフ 生涯、作品、録音』森松皓子訳、音楽之友社、2016年。
  • 一柳富美子『ラフマニノフ、明らかになる素顔』「ユーラシア・ブックレット」東洋書店、2012年。 
  • ユリイカ 詩と批評 特集ラフマニノフ』2008年5月号、青土社
  • ニコライ・バジャーノフ『伝記 ラフマニノフ』小林久枝訳、音楽之友社、1983年、新版2003年。

その他[編集]

小惑星(4345) Rachmaninoffロシア語版はラフマニノフにちなんで命名された[197]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 姓はRachmaninoffRachmaninow, Rakhmaninovなどと表記されることがある。名も同様に、SergeySergeなどとも表記される。ラフマニノフ自身は欧米でSergei Rachmaninoffと綴っていた。[1]
  2. ^ 生地であるセミョノヴォは現在は消滅しており、地域はノヴゴロド州スタロルースキィ地区ロシア語版ザルチスコエロシア語版の一部となっている。
  3. ^ 生地は従来オネグとされてきたが、教会の洗礼の記録からセミョノヴォで生まれたことが判明している[2]
  4. ^ 父ヴァシーリイは幼い子供たちにピアノを弾いて聴かせるのを習いとし、後にラフマニノフは父が演奏した曲を元に『V.R.のポルカ』という作品を作曲している。
  5. ^ 未成年の貴族(ページ)で構成された部隊で、当時のロシア帝国における官僚・士官養成機関も兼ねていた。
  6. ^ 晩年のトルストイは宗教的な回心を経て独自の芸術観に到達しており、ベートーヴェンなどの音楽に対して否定的な立場をとっていた[67]
  7. ^ このときの手術では症状は改善せず、数年後に歯科治療をうけてようやく回復した[137]
  8. ^ ラフマニノフ自身も株取引と投資に失敗して損失を出していた[153]
  9. ^ このバレエは1939年にロンドンで初演され、ラフマニノフも娘たちとに観劇している[155]
  10. ^ 位置情報北緯34度4分48秒 西経118度23分59秒 / 北緯34.08000度 西経118.39972度 / 34.08000; -118.39972 (エルム・ドライブ610番)
  11. ^ 1958年に第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したヴァン・クライバーンは、凱旋帰国する際にアレクサンドル・ネフスキー大修道院の構内にあるチャイコフスキーの墓から土を持ち帰り、ラフマニノフの墓前に供えた。
  12. ^ この贈り物は国外にいる時にも届けられ、革命後に彼がロシアを離れた後にも続いた。添えられた短い手紙には「Б. С.」(おそらくは白いライラックを意味する Белая Сирень のイニシャル)とのみ署名されているのが常だったが、1918年にフョークラ・ルソという女性が自ら名乗り出て、この時初めて贈り主が判明した[158]
  13. ^ スクリャービンは軽くやわらかなタッチを特徴とするピアニストで、明確な打鍵により楽曲の骨格を明瞭に浮かび上がらせるラフマニノフの演奏スタイルはスクリャービン作品の本質を貶めるものと受け取られた。
  14. ^ ラフマニノフはチェーホフとチャイコフスキーについて次のように述べている[193]。「かれ(チャイコフスキー)は、わたしがかつて出会ったもっとも魅惑的な芸術家、人物のひとりでした。…わたしは、あらゆる点でかれに似ていたもうひとりの人に出会いました。それはチェーホフでした。」

出典[編集]

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