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利用者:Nux-vomica 1007/sandbox4

ミャンマー内戦(ミャンマーないせん)は、ミャンマー(ビルマ)における内戦である。同国では、1946年ビルマ連邦独立直後より、多くの武装勢力が70年以上にわたりミャンマー軍(ビルマ軍)との戦闘を繰り返している。ミャンマー内戦は、しばしば世界最長の内戦として言及されることがある。

概要[編集]

ミャンマーはビルマ人を多数勢力とする多民族国家であり、同国政府の公式見解によれば、国内には135の民族が居住している。イギリス統治時代、植民地政府はビルマ人とその他の少数民族を分割統治しており、このことは後にミャンマー(ビルマ)が国民意識を形成しようとする上で大きな障害となった。第二次世界大戦中の形式的独立を経て、正式にイギリスから独立することとなったビルマは、国内少数民族に自治権を与えることを認めるパンロン協定を締結した。反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)のリーダーであり、独立を主導したアウンサンが暗殺されたこともあり、同国憲法において、少数民族の権利が十分に保証されるようにはならなかった。パンロン協定においても権利が認められなかったカレン人系勢力はビルマ政府に対する敵愾心をつのらせていき、また、AFPFLの一員であったビルマ共産党(CPB)も政府と決別するに至った。

1946年ビルマ連邦独立直後より、同国では反政府勢力による軍事蜂起がはじまった。内戦の最初期において、政府と戦闘していた主な組織は、AFPFLから除名されたおよび、国内少数民族のカレン系勢力であるカレン民族同盟(KNU)の軍事部門であるカレン民族解放軍(KNU)であった。さらに、1949年には国共内戦を経て、雲南省に追い詰められた中国国民党の残党が、国境を接するシャン州に侵入した。ビルマ初代首相であるウー・ヌはこうした状況に対処することができず、一時ビルマ軍ネ・ウィンに政権を譲った。この軍政は一時的なものであったが、1962年には、ネ・ウィン率いる軍部がクーデターをおこして政権を奪取した。

ビルマ連邦あらためビルマ連邦社会主義共和国はそれまで限定的ではあるが認められていた少数民族の権利の多くを剥奪し、このことを契機として国内の多くの少数民族が蜂起した。

背景[編集]

ミャンマーの民族構成[編集]

ミャンマーの民族言語地図(1972年)。

ミャンマーは、総人口の7割を占めるビルマ人と、残りの3割を占める少数民族から構成される多民族国家である[1]エスノローグは、ミャンマーで話されている言語として115言語を挙げ、うち93語がシナ・チベット語族、13語がオーストロアジア語族、6語がタイ・カダイ語族、2語がインド・ヨーロッパ語族、1語がオーストロネシア語族に属するとしている(残りの1語はビルマ手話英語版[2]。その民族構成について、信頼できる統計資料は存在しないものの、マーティン・スミス(Martin Smith)は同国の主要民族の人口を以下のように推計している[1]

ミャンマーの民族構成 (1991年)
民族名 推計人口
カチン人 500,000 - 1,500,000
カレンニー人(カヤー人) 100,000 - 200,000
カレン人 2,650,000 - 7,000,000
チン人英語版 750,000 - 1,500,000
ビルマ人 29,000,000
モン人 1,100,000 - 4,000,000
ラカイン人 1,750,000 - 2,500,000
シャン人 2,200,000 - 4,000,000

ミャンマーの7つの有力少数民族は、それぞれ自らの州を有している。1948年のビルマ連邦独立時にはカチン州カレンニー州シャン州およびチン特別区(1974年よりチン州)が設けられ、1951年にカレン州、1974年にモン州ラカイン州が新設された。ミャンマー政府は1990年代より、ビルマ人を含めた「8大民族」と、その下位分類である135の民族グループを自国の原住民族とみなしているものの、その分類基準は統一されたものではなく、疑義も多い。たとえば、この分類において、言語的にはカレン系であるパオ人英語版や、モン・クメール語派の言語を話すワ人パラウン人は、居住地にもとづき、(タイ・カダイ語族に属するシャン語を話す[1])シャン人の下位分類とされる。一方で、カチン州に居住するシャン系グループであるカムティ人英語版も、言語にもとづきシャン人の下位分類とされている[3]。『シャン・ヘラルド英語版』はこの分類を再検討し、ミャンマー政府が認定する135の民族サブグループには実際には同一民族の別氏族などが重複して数え上げられているなどとして、実際にはこの分類は59民族を列挙するものであること、タマン人英語版など、同分類から漏れている民族も存在することなどを指摘している[4]

イギリスと日本によるビルマ統治[編集]

ラングーン市街(1900年)

1885年11月、それまでビルマを支配していたコンバウン朝第三次英緬戦争に敗れ滅亡し、同地域はイギリス領インド帝国ビルマ州として大英帝国の版図に置かれることとなった[5]。イギリス政府は植民地統治の枠組みとして、国勢調査のもと、ビルマの民族の文化の違い、境界線、居住区を明確にした[6]。植民地政府はビルマ人が住む平野部を管区ビルマ(英語: Ministerial Burma)、少数民族が多く住む山岳部を辺境地域(英語: Excluded areas)として分離した[5][7]

前者の管区ビルマにおいては、インド総督の任命するビルマ州知事が直接統治をおこない、首都ラングーンに置かれた植民地政庁を中心に、管区から村落までがトップダウン式に管理される官僚的支配が貫かれた。これにともない、王朝時代の政体は一切が廃止された[8]。一方で、後者の辺境地域、すなわち東部のカレンニー人、東北部のシャン人、北部のカチン人、北西部のチン人をはじめとする少数民族が住む、丘陵・山岳地帯は、間接統治の対象となった[9]。シャン・カレンニー地域ではツァオパー英語版(saohpa)ないしソーブワー(sawbwa)とよばれる在地首長の権威が認められたほか、カチン・チン・ナガといったその他の少数民族の住む地域でも首長の地位が温存された[10]。辺境地域には厳しい移動制限がくわえられ、両地域の意思疎通はほとんど不可能であった。この政策は、独立国家としてのビルマの国民統合に悪い影響を与えた[11]

1942年の日本軍によるビルマ侵攻英語版を通して、ビルマの覇権はイギリスから日本に移り変わった。これに際して、日本軍が支援したのが、ビルマ系の独立勢力である、タキン党こと「我らバマー人連盟」である。1930年代ごろに成立した同組織は、イギリス植民地当局との直接対決を通じた完全独立を目指し、盛んに反英運動をおこなっていた。この組織には、のちにビルマの独立を主導するタキン・アウンサンも参加していた。1941年日本軍のビルマ謀略機関である「南機関」を率いる鈴木敬司は彼を説得したのち、タキン党員のいわゆる「30人の同志英語版」に軍事訓練をほどこしたのちビルマ独立義勇軍英語: Burma Independence Army、BIA)を設立させた。BIAは日本軍のビルマ攻略に参与し、1943年には日本の強い影響のもと、バー・モウを首相とする、形式上の独立国である「ビルマ国」が成立した[12]

一方で、タキン党内においても日本軍への協力をよしとしない勢力は、抗日の立場をとった。ビルマ共産党英語: Communist Party of Burma、CPB)および人民革命党英語版英語: People's Revolutionary Party、PRP)はいずれもタキン党内の結社勢力として結成された。CPBはアウンサンを書記長として1939年に成立し、日本軍との協力関係を結ぼうとする以前の彼は中国共産党との連携を図っていた。また、PRPも、その発端の詳細は不詳であるものの、PRP設立の直後に成立した[13]。CPBは秘密結社であり、その結成メンバーの多くがタキン党の幹部でもあるという性質上、初期にはほとんど活動していなかったものの、1942年にタキン・ソー 英語版が再興させた[14]。ソーは1941年、タキン・タントゥン英語版とともにインセイン宣言(英語: Insein Manifesto)を発表し、ファシズム勢力との対決のためイギリスとの一時的に協力することを主張した。タントゥンはビルマ国の土地・農業大臣をつとめながらもCPBに協力しつづけ[15]、1944年にはピャーポン郡区英語版での第1回共産党大会を成功させた。タキン・ミャ英語版らによるPRPも、CPB同様に共産主義の影響を強く受けた組織であったが、PRPは対英協力をおこなおうとするCPBを批判した[14]

AFPFLの発足から独立まで[編集]

馬上から演説するアウンサン(1940年代)

インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年、ビルマ国の国防大臣をつとめていたアウンサンは、これ以上の対日協力に意味はないと判断した[16]。抗日運動の展開という共通の利益のもと、ビルマ国軍・CPB・PRPの3勢力は反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)として団結した[14]。AFPFLは1945年3月27日より抗日武装蜂起を開始し、5月には連合国司令官の指揮下に入った[17]。同年中に日本軍は敗退し、アウンサンはイギリス領ビルマ政府総督レジナルド・ドーマン=スミス英語版との交渉を開始した。隣接するインドで独立運動が激化していたことも影響し、当時のイギリス首相であるクレメント・アトリーはビルマに対して大幅な譲歩の姿勢をとった[18]1947年1月27日には、両者の間でアウン・サン=アトリー協定(英語: Aung San-Attlee Agreement)が調印され、1年以内のビルマの完全独立ないし自治領化が認められた[19][18]。また、同年2月12日にはアウンサンと少数民族の代表によりパンロン協定が締結され、辺境地域の内政における完全な自治権および、自治州の連邦からの離脱権が認められた[20]

一方で、AFPFLに所属していたビルマ共産党の間では、指導者同士の間での軋轢が生じていた。1945年7月20日におこなわれた第2回ビルマ共産党大会においては、資本主義と共産主義の融和をはかるブラウダーイズム英語版の導入が図られたが、これに反発するタキン・ソーは赤旗共産党英語版を分派させた。タントゥン率いる多数派である白旗共産党はAFPFLに残留し続けたが、赤旗共産党は連盟を追放された。1946年9月には公務員の手当問題を契機としてゼネラル・ストライキが発生し、イギリス政府はこれを収めるべくAFPFL構成員を行政参事会に加えいれることにした。白旗共産党は当初これに応じたものの、赤旗共産党からの日和見主義であるとの攻撃を受け、これに反対するようになった。白旗共産党は「植民地主義者の大手品」とAFPFLを激しく攻撃し、1946年10月10日には白旗共産党も連盟を除名されるに至った[14]

また、国内の少数民族であるカレン人も態度を硬化させつつあった。キリスト教を受容し、英語を解するものも多かったカレン人は強い自民族ナショナリズムを有しており、カレン民族協会英語版は植民地期ビルマで最初に結成された政治団体として知られている[21]

カレン人の蜂起と[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 加藤昌彦ミャンマーの諸民族と諸言語」『ICD news : 法務省法務総合研究所国際協力部報』第69巻、2016年、8-26頁。 
  2. ^ Myanmar | Ethnologue Free” (英語). Ethnologue (Free All). 2024年2月1日閲覧。
  3. ^ 角田彩佑里・和田理寛「ミャンマーの「ダウェー人」をめぐる民族分類と民族主義」『アジア・アフリカ地域研究』第20巻第2号、2021年、195-229頁、doi:10.14956/asafas.20.195 
  4. ^ 135: Counting Races in Burma」『Shan Herald』、2012年9月15日。2024年2月1日閲覧。オリジナルの2014年1月5日時点におけるアーカイブ。
  5. ^ a b 根本 2014, pp. 863–885.
  6. ^ 松島 2020, p. 86.
  7. ^ 松島 2020, p. 87.
  8. ^ 根本 2014, pp. 865–909.
  9. ^ 根本 2014, pp. 875–879.
  10. ^ Zaw 2019, pp. 68–69.
  11. ^ 根本 2014, pp. 879.
  12. ^ 根本 2014, pp. 2220–2420.
  13. ^ Smith 1994, pp. 56–57.
  14. ^ a b c d 大野徹「ビルマ共産党の足跡」『アジア研究』第21巻第3号、1974年、1-26頁、doi:10.11479/asianstudies.21.3_1 
  15. ^ Smith 1994, p. 61.
  16. ^ 根本 2014, pp. 2533.
  17. ^ 佐久間 1993, p. 13.
  18. ^ a b 根本 2014, pp. 2912–2917.
  19. ^ Lintner 1985, p. 406.
  20. ^ Smith 1991, p. 78.
  21. ^ 根本 2014, pp. 1317.

参考文献[編集]

  • Maung, Zaw (2019). “Political regimes and foreign policy in Myanmar” (English). PhD Doctorate (The University of New South Wales). doi:10.26190/unsworks/3873. http://hdl.handle.net/1959.4/64883. 
  • Lintner, Bertil (1984). “The Shans and the Shan State of Burma”. Contemporary Southeast Asia 5 (4): 403–450. ISSN 0129-797X. https://www.jstor.org/stable/25797781. 
  • Smith, Martin (1991). Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity. London and New Jersey: Zed Books 
  • 佐久間平喜『ビルマ(ミャンマー)現代政治史』勁草書房、1993年。ISBN 978-4-326-39866-9 
  • 根本敬『物語 ビルマの歴史 - 王朝時代から現代まで』(kindle)中央公論新社、2014年。ISBN 978-4-12-102249-3