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利用者:Omaemona1982/下書き4

チャールズ1世
Charles I
イングランド王
スコットランド王
在位 1625年3月27日 - 1649年1月30日
戴冠式 1626年1月2日(イングランド王)
1633年6月8日(スコットランド王)
別号 アイルランド王
グレートブリテン王(非公式)

出生 1600年11月19日
スコットランド王国の旗 スコットランド王国ダンファームリン
死去 (1649-01-30) 1649年1月30日(48歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国ホワイトホール宮殿
埋葬 1649年2月7日
イングランド王国の旗 イングランド王国ウィンザー
配偶者 ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス
子女 チャールズ2世
メアリー・ヘンリエッタ
ジェームズ2世
ヘンリエッタ・アン
家名 ステュアート家
王朝 ステュアート朝
父親 ジェームズ1世/6世
母親 アン・オブ・デンマーク
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チャールズ1世Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)は、イングランドスコットランドアイルランドの王(在位:1625 - 1649年)。ピューリタン革命の際に議会軍に敗れ、処刑された国王として知られる。

概要

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1600年スコットランド王ジェームズ6世1603年同君連合でイングランド王ジェームズ1世に即位)の次男として生まれる。1612年に兄ヘンリーが薨去したことで王位継承者となり、1616年にイングランド皇太子に与えられるプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)に叙された(幼年期)。スペイン王女マリアとの結婚を狙っていたが失敗し(スペイン王室との結婚交渉)、その後対スペイン主戦派となり、フランスとの同盟を推進して、同盟の証としてフランス王女ヘンリエッタ・マリアと結婚した(対スペイン主戦派としてフランス同盟推進)。

1625年に父王の崩御によりチャールズ1世として即位し、父王時代からの寵臣初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズを重用したが、議会からの政府批判が高まっている時期の即位であった(即位)。


生涯

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幼年期

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幼少期のチャールズ皇太子(1605年、ロバート・ピーク英語版画)

1600年11月19日、スコットランド王ジェームズ6世(当時はイングランド王位継承以前)の次男として、スコットランドのダンファームリンに生まれた[1]。母は父の王妃アン・オブ・デンマーク(デンマーク王フレゼリク2世の娘)[2]

同年12月23日スコットランド貴族爵位オールバニ公爵、オーモンド侯爵、ロス伯爵英語版アードマノック卿英語版に叙された[3]

幼児期は小児麻痺を患っていた[4]

1603年3月24日にイングランド女王エリザベスが崩御し、父ジェームズ6世が同君連合でジェームズ1世としてイングランド王に即位した[5]

1605年1月6日イングランド貴族爵位ヨーク公爵に叙された[3]1611年4月24日にはイングランドの最高勲章ガーター勲章の受勲を受けた[3]

ヘンリー1612年11月6日に薨去するとともに、王位継承者に与えられるスコットランド貴族爵位ロスシー公爵とイングランド貴族爵位コーンウォール公爵位に叙された。さらに1616年11月4日にはイングランド皇太子に与えられるプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)とチェスター伯爵に叙された[3]

スペイン王室との結婚交渉

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チャールズ皇太子の肖像画(1615年アイザック・オリヴァー英語版画)

1621年イングランド議会が招集されるとヨーク公として貴族院議員となり、その指導的メンバーの一人となった[6]

父王ジェームズ1世は、ヨーロッパ大陸で発生した三十年戦争への参戦に消極的だったが、スペインに占領されたプファルツの原状回復には前向きだった。しかし議会はその費用を認めなかったので実施は不可能だった。そんな中チャールズは自分とスペイン王女マリアの婚約話を進めることで、スペイン王に持参金としてプファルツ回復を認めさせることを企図した[7]

折しも駐マドリード大使の初代ブリストル伯爵英語版ジョン・ディグビー英語版がスペインはチャールズ皇太子とマリアの結婚に前向きであるという報告を送ってきていたため、チャールズ皇太子はこれを信じ込み、1623年2月に父王に相談することなく、初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズを伴って独断でスペイン・マドリードへ渡った[7]。しかし即位したばかりのスペイン王フェリペ4世は父フェリペ3世以上にプロテスタントに不寛容であり、イングランドがプロテスタントの国教を放棄しない限りは妹とチャールズの結婚を許す気はなく、ただ結婚交渉を長引かせてイングランドを三十年戦争の枠外に置いておこうとするのみだった。結局チャールズがいくら譲歩を重ねてもプファルツ回復を持参金とする確約を得られなかった。半年ほどスペインに滞在した後、1623年9月に何一つ成果なく帰国した[8]

対スペイン主戦派としてフランス同盟推進

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チャールズ皇太子の肖像画(1623年頃、ダニエル・マイテンス画)

スペインからの帰国後にはチャールズとバッキンガム公は対スペイン主戦派となった。戦争や議会招集に消極的だった父王ジェイムズ1世を説得し、1624年2月に議会を召集して議会を通じてジェイムズ1世を対スペイン戦争へ引き込もうとした[9]

フランスとの同盟無くして父王が戦争に踏み切る可能性は皆無だったので、チャールズはフランスとの軍事同盟を探った。またチャールズにとっては花嫁を探さなければならない時期でもあり、スペイン王室との婚姻の可能性が途絶えた今、それはフランス王室以外にはありえないことも衆目の一致するところだった[9]

しかしフランス王ルイ13世は妹ヘンリエッタ・マリアアンリ4世の王女)とチャールズの結婚の条件としてイングランドにおけるカトリックへの寛容を求めてきた。これに対してバッキンガム公はフランスに対してはカトリックへの寛容を約束しつつ、国内の議会においては強硬なプロテスタントであるピューリタンが多数を占めている関係から国内向けには「カトリックへの寛容は皇太子妃の家庭内に限定される」という二枚舌の説明を行った[10]

1624年2月に招集された議会では貴族院議員として対スペイン戦争に反対する大蔵卿ミドルセックス伯爵英語版ライオネル・クランフィールド英語版への批判を主導した[11]

1624年末にようやくイングランドとフランスの同盟が成立。同盟の締結に伴ってイングランドから遠征軍が大陸へ派遣されたものの、この軍は疫病で自滅したので英仏同盟はすぐに不安定になった。しかし同盟の証たるヘンリエッタとの婚約は予定通り行われた[10]

即位

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1625年3月27日にジェームズ1世が崩御し、チャールズ皇太子がチャールズ1世としてイングランド王・スコットランド王・アイルランド王に即位した[3][2]。6月にはヘンリエッタと結婚したが、フランスからカトリック信徒を王妃に迎えたことはピューリタンのエリザベス朝的愛国主義の感情に反するものであり、当初より不評まみれだった[6]

1625年3月の即位から1628年8月のバッキンガム公暗殺まで、父王時代からの重臣バッキンガム公を引き続き重用したが、国王やバッキンガム公に対する議会の不満は高まりつつあった。当時の議会の招集は不定期であり、財政難の国王が特別税の承認を得られると思った時に召集し、形勢が不利になってくると解散するという一方的運営が行われていた。しかしエリザベス朝時代の議会は女王が議長を通じてほとんど意のままに議事を導いていたのに対し、ステュアート朝がはじまった頃からは議長の権威が低下し、さらに委員会制度が活用されるようになったことで反政府派が議会内で力を拡大させていた[12]

1625年の議会

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王庫は財政難を極めており、ただちに議会から特別税の承認を受ける必要があったため、即位間もない1625年6月にも議会を招集した[13][6]

このチャールズ治世下最初の議会において、チャールズのトン税・ポンド税英語版[注釈 1]徴収権は、下院においては一年限定でしか認められなかった。国王は最初に召集した議会において生涯にわたるトン税・ポンド税徴徴収権を認められるのが恒例だったため、これは異例であった。先王ジェームズ1世が議会の同意を得ずに輸入品課徴金を徴収していたこと、チャールズ1世がいまだ若年であることがその理由とされたが、実際の背景は、インフレのため特別税の価値が低下していたので長期にわたってトン税・ポンド税を認めてしまうと国王が議会を必要としなくなってしまうという懸念があったためである。一方貴族院の方は慣例に反するとして下院の一年限定案を拒否し、結局チャールズは議会の同意を得ないままにトン税・ポンド税徴収を強行するようになった[6]

またチャールズがイングランド国教会からカルヴァン主義を排除しようというアルミニウス主義者を支持しているという事実が議会内の宗教対立を顕在化させた。アルミニウス主義とは1563年にイングランド国教会が採択したカルヴァン主義の予定説(救いは人間の行いに関係なく、神の一方的意思によって、しかも世界創造の時点で予定されていた者にだけ与えられるとする説)を批判して人間の意志を強調したプロテスタントの一宗派だが、聖職者の権限は直接神に由来するとし、また聖礼典など儀式の重要性を説いて教会を外面的に美化してその威厳を示すことに努めたため、強硬なカルヴァン主義者のピューリタンからは、教義と儀式重視によってカトリック回帰を狙っていると批判されていた[15]。チャールズのアルミニウス主義支持を懸念した第2代ウォリック伯ロバート・リッチらプロテスタント議員が議会で政府見解の表明を迫ったが、議会で宗教論争が起きたのは1580年代以来のことだった[16]

また議会は国王に財政引き締めを要求し、特に国王側近バッキンガム公の責任を追及した。チャールズはバッキンガム公弾劾を避けるために1625年8月に議会を解散した。結局、最初に可決した特別税14万ポンド以外の課税は承認されないままの解散となった。これは国王が要求していた額の七分の一にすぎなかった[17]

1626年の議会

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バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ

対スペイン戦争について議会内ではエリザベス朝時代のように海上決戦でスペインを倒すべきとの論が強かったため、バッキンガム公は自分に対する批判を覆すべく、1625年10月にも艦隊をカディス遠征英語版に出撃させた。議会は戦争のための特別課税を承認していなかったので、王妃ヘンリエッタの持参金によって遠征の費用が賄われたが、集めることができた兵士の大部分は浮浪者や懲役囚であり、補給も十分ではなかったため、失敗に終わった[18]

このカディス遠征の失敗とドイツの傭兵指揮官ペーター・エルンスト2世・フォン・マンスフェルトドイツ語版伯爵の指揮するプファルツ奪還軍の敗北により、バッキンガム公批判はさらに高まった。またフランスに貸し付けていた艦隊がユグノー(フランスのプロテスタント)弾圧に利用されたことで反フランス感情も高まった。チャールズとバッキンガム公もフランスが積極的にスペインと戦わないことにいら立っていたので1625年末に至って外交方針を転換し、経済的対立を続けていたオランダと協定を結ぶとともにフランスのユグノーを援助する方針に切り替えた。これは議会多数派がこれまで主張してきた外交方針そのものだったからチャールズとバッキンガム公としては議会の支持を得られると踏んで1626年2月にも再び議会を招集した。しかし議会のバッキンガム公に対する拒絶感は強くなっており、カディス遠征失敗をはじめとするバッキンガム公の失政と腐敗の追及ばかりが行われた。下院は国王にバッキンガム公を罷免させるべく特別税の承認を渋ったので、6月に議会が解散されるまでに承認された特別税は必要額の三分の一だった[19]

またチャールズとバッキンガム公は議会運営を円滑にしようとエドワード・コークトマス・ウェントワースら反政府派の代表的な庶民院議員を庶民院議員との兼職を禁じられているシェリフに任じることで庶民院から排除したために反発を招いた。貴族院においても第21代アランデル伯爵トマス・ハワードや初代ブリストル伯爵ジョン・ディグビーらを議会活動から遠ざける処置をとったので、貴族院の怒りもかった。補助金を得られないばかりか、国王と国民代表の距離が広がっていることを顕在化させただけに終わった[20]

高まる反政府運動

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1626年議会が思い通りにいかなかった後、チャールズは議会から特別税の承認を受けることを諦めて国民から直接徴収しようと企むようになり[21]強制借用金[注釈 2]を徴収したり、地方で軍隊を強制宿泊させたりしはじめたが、これは「議会の同意なき私有財産制侵害」として国民の間に強い批判を巻き起こした[23]

抗議のため強制借用金の支払いを拒否して逮捕される者が続出し、1626年暮れには裁判官の中からも強制借用金の違法性を訴える者が現れ始めた。このような状況であったから強制借用金では予期したような収入は得られなかった[21]

1628年から1629年の議会と「権利請願」

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結局、1628年3月には治世下三度目の議会を招集することを余儀なくされた[12]

ちょうどこの頃、王座裁判所で強制借用金支払いを拒否して逮捕されたサー・ジョン・コーベットら5名の裁判が行われていたが、この判決の中で裁判所は強制借用金を合法とは認めなかった。これに不満を抱いた法務次官が判決を勝手に改竄して裁判所が強制借用金を合法と判決したかのように見せかけた。議会は法務次官による判決の改竄に驚愕し、「イングランド人の自由が恣意的課税・恣意的逮捕によって脅かされようとしている」という意識を強めるに至り、改めて臣民の自由を確認する法律を制定する準備を開始した。それが「権利の請願」であった。「権利の請願」は、議会の同意なき課税の禁止、恣意的逮捕からの臣民の自由、軍隊強制宿泊の禁止、民間人への軍法適用禁止などを内容とする[24]

当初チャールズは「権利の請願」を認めることを渋っていたが、財政困窮が深まる中で議会と全面対立するわけにはいかず、結局1628年6月7日に承諾を与えた。しかしこの際にチャールズは「議会の請願は法律ではない。それを忠実に守ることは国王の名誉であり威厳にふさわしいことだが、国王の勅語や意思を超えてまでそれを拡大しないことは臣民の義務である。(略)したがって事態は『請願』以前と全く同じである」と注意を促したという[25]

この「権利の請願」の成功と議会休会中の1628年8月に起きたバッキンガム公暗殺で議会は沸き立ち、ジョン・ピムやエリオットら進歩派議員たちは宗教問題で国王批判を強めた[25]。貴族院がそれに慎重な姿勢を取ったことで両院の距離が広がる中、チャールズはその隙をついて議会を解散させることを決意したが、1629年3月2日に議会解散の詔旨を伝えようとした下院議長ジョン・フィンチが反対派議員から押さえつけられ、エリオットの国王批判決議文が採択される騒ぎになった。チャールズはこれに激怒し、エリオットなど9名の議員を逮捕させた。この一件は国王の権威が地に堕ち、革命の時が近づいていることを如実に示す光景だった[25]

議会無視の親政「ロード=ストラフォード体制」

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1629年3月の議会解散後、チャールズは今後議会を招集しない決意を固め、1640年に至るまで議会無視の親政を開始した。その専制政治を支えたのは、コモン・ローに否定的な王権神授説の信奉者であるカンタベリー大主教ウィリアム・ロードとアイルランド総督トマス・ウェントワース(後のストラフォード伯爵)であったため、この親政体制を「ロード=ストラフォード体制」と呼ぶ[26]

親政体制はバッキンガム公時代に低下していた枢密院会議を顧問官や定例会議の回数を増やし、枢密院に常任委員会を設置することで行政の活発化を図った[27]。また地方社会の再生を目指して、ロンドン在住のジェントリや主教に帰郷命令を出し、ロンドンの拡大も抑制するため、許可なくロンドンに在住している者に罰金を科した。治安対策にも力を入れ、居酒屋、ホームレス、タバコなど社会不安の温床とされた物の取り締まりを強化した。1631年には既存の社会規制法令を集大成して、その実施要領を定めた『社会規制勅令集英語版』を刊行している[28]

宗教政策ではプロテスタントでありながら反カルヴァン主義的なアルミニウス主義に基づき、説教よりもミサなどの儀式を重視する政策がとられた。国教会内部でその政策を推進したのが1629年にロンドン主教、1633年にカンタベリ大主教となったロードであった。ロードはそれまで国教会の支配的教義であったカルヴァン主義の予定説、聖書中心主義、安息日遵守主義のいずれにも否定的であり、アルミニウス主義者を続々と国教会の要職に取り立てた[28]


しかし親政を行ううえで問題となったのは財政だった。議会の承認を必要としない課税方法を発見して歳入を確保しつつ、歳出を出来る限り減らさなければならなかった。まず最大の財政負担となっている三十年戦争から手を引くべく、1628年にフランス、ついで1630年にスペインと講和した(当然両国からは何も得られなかったので、これは200万ポンドの戦費を費やして何一つ得る物はなかったことを意味した)[29]。また1628年に大蔵卿となったリチャード・ウェストン英語版(後の初代ポートランド伯)の主導のもと、1629年から1632年にかけて王室経費を含む諸経費の節約も実施された[29]

歳入の面ではトン税・ポンド税など関税の増収を図ったり、勅許状を販売したり、カトリック教徒に対する罰金を強化したり、王室御料林の権利侵害への罰金を新設するなどして、1630年代半ばには100万ポンドの歳入を確保できた[30]

特に金がかかる海軍の建艦費の補填には船舶税英語版[注釈 3]を徴収して賄おうとした[32]。1634年に最初に船舶税の徴収が行われたときには比較的平穏に行われたが、翌1635年には適用範囲を内陸部に拡大させると、その合法性をめぐって激しい議論を巻き起こすことになった。1637年のジョン・ハムデンの支払い拒否運動にかかる裁判では裁判官の間でも船舶税が合法か否か意見が分かれた。結局12名の裁判官のうち7名の裁判官の賛成という僅差で船舶税は合法と判決されたものの、国民の課税反対運動はますます盛り上がり、ロンドンや東部諸州をはじめとして全国に広がり、1639年から1640年になるとほとんど全国において課税が拒否されるに至った。この時の状況を歴史家C.ヒルは「ブルジョワジーはストライキに入った」と表現している[33]


ロードがカンタベリー大主教に就任すると国教会の立て直しのため、教会領の調査を実施して教会領を長期に借地に出すことを禁じたり、俗人に寄託された教会の禄の買戻したり、十分の一税を増収するなど教会財政の安定を目指したが、教会財政の困窮の度合いはこんな小手先の増収ではどうにもならないほどだった[34]。改革が不可能と分かるとロードは強権をもって国教会体制の維持を図ろうとするようになり、ピューリタンの説教を禁止し、牧師の仕事を祈祷書朗読だけにしようとした。これを批判したピューリタンには鞭打ち、耳切り、鼻削ぎなどの処罰を行って弾圧した[34]


[35][36]





チャールズ1世は父同様に王権神授説を信奉し、議会と対立した。1628年、議会に「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズは、一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。

清教徒革命へ

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チャールズ1世の処刑

この間チャールズは、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードの助言で国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。ロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会長期議会)。1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦ピューリタン革命)。

内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、王党派が各地で打ち破られた。1646年5月、チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。一旦は脱出したものの、1648年11月に再び議会軍に投降した。

1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿バンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズは斬首された。

人物

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発生に障害があったため、演説は短いことが多かった[6]


王位継承の家系図

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脚注

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注釈

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  1. ^ トン税・ポンド税とは、中世から近世にかけてイングランド議会から国王に補助金として許与された関税のことである。トン税は12世紀にはじまり、輸入される葡萄酒1タンごとに3シリングを課される。ポンド税は13世紀にはじまり、ぶどう酒と子弟取引所で扱われる羊毛などを除いたすべての輸入品・輸出品について評価額1ポンドにつき3ペンス課される。両税は14世紀半ばに統合され、1415年以降は国王即位後最初の議会においてその国王に終身で許与される慣習となった。国王の経常収入としては最大の物だったが、この17世紀ステュアート朝時代には議会や国民からの批判がかつてないほど高まっていた。1641年の長期議会でトン税・ポンド税法が制定され、両税徴収には期限が付けられることになった。アン女王時代の1710年に再び終身化されるも1787年に小ピットが主導した関税統合法で廃止となった[14]
  2. ^ テューダー朝と前期ステュアート朝の国王が富裕な臣民に課した強制的な借用金のこと。借用金なので返済するのが原則だが、次第に踏み倒しが多くなり、実質的に課税と変わらなくなってきたので「議会の同意なき課税」と見做されて批判が高まっていた[22]
  3. ^ 船舶税とは海軍力増強のために港湾都市や沿岸州に課せられた臨時の税金である。中世の頃からあったが、議会の承認を必要としなかったため、しばしば議会から批判の対象となり、実際に課税されることは稀だった。しかしステュアート朝の最初の王ジェームズ1世が1619年に諸港市に課し、ついでチャールズ1世が1630年代に濫用したことで国民の批判を集め、1641年の長期議会で廃止された[31]

出典

[編集]
  1. ^ 森護 1986, p. 406.
  2. ^ a b 森護 1986, p. 407.
  3. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Charles I Stuart, King of Great Britain” (英語). thepeerage.com. 2017年9月18日閲覧。
  4. ^ 森護 1986, p. 408.
  5. ^ 森護 1986, p. 393.
  6. ^ a b c d e 今井宏編 1990, p. 172.
  7. ^ a b 今井宏編 1990, p. 167.
  8. ^ 今井宏編 1990, p. 167-168.
  9. ^ a b 今井宏編 1990, p. 169.
  10. ^ a b 今井宏編 1990, p. 170.
  11. ^ ウァーモールド 2015, p. 46.
  12. ^ a b 浜林正夫 1971, p. 70.
  13. ^ 浜林正夫 1971, p. 72.
  14. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 764.
  15. ^ 塚田富治 2001, p. 71-72.
  16. ^ 今井宏編 1990, p. 172-173.
  17. ^ 浜林正夫 1971, p. 72-73, 今井宏編 1990, p. 173
  18. ^ 今井宏編 1990, p. 173.
  19. ^ 今井宏編 1990, p. 175-176.
  20. ^ 今井宏編 1990, p. 176.
  21. ^ a b 浜林正夫 1971, p. 73.
  22. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 4.
  23. ^ 今井宏編 1990, p. 177.
  24. ^ 今井宏編 1990, p. 177-179.
  25. ^ a b c 浜林正夫 1971, p. 74.
  26. ^ 浜林正夫 1971, p. 75-77.
  27. ^ 今井宏編 1990, p. 181.
  28. ^ a b 今井宏編 1990, p. 183.
  29. ^ a b 今井宏編 1990, p. 179-180.
  30. ^ 浜林正夫 1971, p. 79, 今井宏編 1990, p. 180
  31. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 686.
  32. ^ 浜林正夫 1971, p. 79, 今井宏編 1990, p. 181
  33. ^ 浜林正夫 1971, p. 79.
  34. ^ a b 浜林正夫 1971, p. 77.
  35. ^ 浜林正夫 1971, p. 75.
  36. ^ トレヴェリアン 1974, p. 121.

参考文献

[編集]
  • 今井宏編 編『イギリス史〈2〉近世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1990年。ISBN 978-4634460201 
  • 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人』みすず書房、2001年。ISBN 978-4622036753 
  • 浜林正夫『イギリス市民革命史』未来社、1971年。ISBN 978-4624110291 
  • ウァーモールド, ジェニー 著、西川杉子 訳『オックスフォード ブリテン諸島の歴史 17世紀 1603年-1688年』慶應義塾大学出版会、2015年。ISBN 978-4766416473 
  • トレヴェリアン, ジョージ 著、大野真弓 訳『イギリス史 2』みすず書房、1974年。ISBN 978-4622020363 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478 
  • 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年。ISBN 978-4469240900 

関連項目

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先代
ジェームズ1世/6世
イングランド王・アイルランド王
1625年 - 1649年
次代
チャールズ2世
スコットランド王
1625年 - 1649年