利用者:Omaemona1982/下書き6

ユダヤ人ヘブライ語: יהודים, 英語: Jews, ドイツ語:Juden, フランス語:Juifs, イタリア語:Ebreo, 漢語: 猶太)

歴史[編集]

古代[編集]

約束の地カナン[編集]

創世記』15章18節から21節によると赤く示した2つの川の間の土地が「約束の地」となる。

ユダヤ人の祖はイスラエル人(ヘブライ人)であり、ユダヤ教の原型はヤハウェ信仰である。『ヘブライ語聖書』(キリスト教の言う『旧約聖書』。ユダヤ教では『タナハ』とも呼ぶ)の『創世記』によると、民族の始祖アブラハムメソポタミアの都市ウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて西へ向かい、遊牧生活を送りながら「カナンの地」(現在のイスラエルパレスチナ付近)に到達したという[1]紀元前18世紀頃のこととされる[1]

彼らは「河を渡ってきた移民」という意味で軽蔑的なニュアンスを含んでイヴリム(「ヘブライ人」)と呼ばれた[2][3]。ただし彼ら自身はヘブライ人を名乗ることはなく(モーセ五書の中でも「ヘブライ人」と呼ぶのはエジプト人かエジプト人の面前にいるイスラエル人だけである)、アブラハムの孫ヤコブが天使と喧嘩の末に「イスラエル」の名を得たとされることから後に「イスラエル人」あるいは「イスラエルの子」と名乗るようになった[4]。「イスラエル」という言葉には「神と戦うもの」「神のために戦うもの」「彼のために神が戦うもの」「神に支配されるもの」「神の前に正しきもの」「神は正しきもの」といった様々な解釈がある[4]

なお『創世記』によるとカナンの地に到達する前、アブラハムたちはハッラーン(トルコ南部)で暮らしていたという[5]。ここでアブラハムは神ヤハウェと出会い、契約を結んだという。神はアブラハムとその子孫たちが神の戒律を守るならば、彼らの神となることを約束したという。神の定めた戒律は一つだけだった。それは男子全員が誕生した日から8日目に、改宗した男子は改宗した日に割礼をしなければならないということだった[5]。そして神はアブラハムの子孫に「カナンの地」を約束したのであった(約束の地[5]。しかし神がアブラハムに約束したという地は『創世記』の中でも表記に混乱が見られる。『創世記』15章18節から21節によると「エジプトの川からユーフラテス川まで」とかなり広範囲な土地を与えている。ところが『創世記』17章8節によると「カナンの全地」となっており、範囲が狭くなっている[6]

現実にアブラハムが神と契約したかどうかについては疑問もあろうが、それは重要ではない。大事なことはユダヤ人と神の間には契約があるという思想が4000年を経た今日でもユダヤ人の中で生き続けているということである。その間にユダヤ人もユダヤ主義も様々に変化を遂げたが、その根本的な思想だけは4000年変わることはなかった[7]。カナンの土地を一時的に失ったとしてもそれは神との約束を守らなかったせいであり、神との約束を守り続ければいつかはカナンを取り戻せると多くのユダヤ人は考え続けてきたのである[2]

エジプト新王国の奴隷に[編集]

イスラエル人はカナンの地で遊牧民として暮らしていたが、カナンの地に飢饉が襲ったのを機にエジプトのファラオ(『ヘブライ聖書』では「ファラオ」ではなく「パロ」と書かれている)に気に入られてエジプト宰相になっていたイスラエル(ヤコブ)の子ヨセフがイスラエル人をエジプトへ移住させたという[8][9]。ところが「ヨセフを知らざる」新しいファラオが誕生するとイスラエル人たちはファラオの奴隷にされてしまったという[9][10]。以上は『出エジプト記』による。

なぜイスラエル人が突然奴隷にされたのか。その答えは『ヘブライ聖書』だけでは明確でないが、考古学から推察できる。エジプトは紀元前1730年に異民族ヒクソスによって征服されており、このヒクソスが王朝(エジプト第15王朝)を樹立していた。ヨセフをはじめとするイスラエル人を招いて厚遇したエジプトのファラオとはこのヒクソスの王朝のファラオと考えられる。しかしヒクソスの王朝は紀元前1580年にエジプト人によって打倒され、エジプト人新王朝が樹立される(エジプト新王国第18王朝)。その結果ヒクソスとヒクソスが厚遇したイスラエル人はそろって奴隷にされてしまったというわけである[11]

とはいえエジプト・イスラエル人が具体的にどういう状態だったかについてははっきりとはしていない。『出エジプト記』もこの時代のイスラエル人について数行で片づけてしまっている[12]。『出エジプト記』はイスラエル人奴隷が倉庫の町ピトムラムセスを建設したと記述しているが、これはエジプト新王国第19王朝のファラオラムセス2世の治下のことと思われる[8]

なお『出エジプト記』を読むとイスラエル(ヤコブ)の「12人の子」(イスラエル12支族)すべてがエジプトへ移住したかのようであるが、それは事実ではない。エジプトへ行ったイスラエル人とはヨセフ族を中心にした一部だけであり、イスラエル人の多くはカナンの地に留まっていたと考えられる[13][14]。紀元前1389年から紀元前1358年までに書かれたエジプトの『アマルナ文書』は、イスラエル人がエジプトの奴隷になっていたその時期にもヘブライ人(イスラエル人)がカナンで好戦的に活動していることを記している[15]。この時代のカナンの地はエジプト新王国のファラオが弱体化した支配権を握っている状態であったが、『アマルナ文書』によればラバヤなるヘブライ人がシケムを中心にエジプト新王国の支配に抵抗する小王国を築いたことが記されている[13]。エジプトで同胞が奴隷になっている間にもシケムではイスラエル人の王国が栄えていたのである[13]

しかしカナンの地に留まったイスラエル人より、奴隷という状態に置かれていたエジプト・イスラエル人の方が父祖の地カナンに憧れを持ち、その祖先崇拝宗教ヤハウェ信仰を強く持ち続けていた[16]。結果としてエジプト・イスラエル人によってユダヤ教の基礎は固められていくことになるのである。

出エジプト[編集]

エジプトを出るイスラエル人を描いた絵。1829年デヴィッド・ロバーツ(en)画。
神の力で紅海を越えて逃亡したイスラエル人達と紅海にのみ込まれて沈む追手のエジプト軍を描いたニュルンベルク年代記木版画

エジプトで奴隷となっていたイスラエル人達はモーセという指導者に率いられてエジプトを脱出したという(出エジプト)。『ヘブライ聖書』に伝えられる話であるが、この時代のエジプトのパピルス文書にもゴシェンからシナイへ奴隷がたびたび逃げ出していることが記述されているのでこのような出来事があったのは事実と思われる[17]

『出エジプト記』によるとモーセは神にイスラエル人をエジプト人から救い出し、カナンの地へ連れ戻すよう命じられたという[18]。神はイスラエル人のエジプト脱出を助けるためにエジプトに10回に及ぶ災厄を起こしたといい、これに怯えたファラオは一度はイスラエル人の出国を認めたが、まもなく心変りして軍を差し向けてイスラエル人たちの追撃を行ったという。イスラエル人達は海辺に追い詰められたが、神が海を陸に変えて逃げ道を作ったため、イスラエル人達はそこを通ってエジプト脱出に成功したという。エジプト軍がそこを通ろうとした時、海は元に戻り、海にのみ込まれて全滅したとされる[19]。『出エジプト記』に記されるこの「神が陸に変えた海」がどこの海を指しているのかはっきりとは分かっていないが[20]、一般には紅海のこととされている[21]

「出エジプト」はいつ行ったものか。エジプトの石碑は紀元前1220年代にエジプト軍がカナンの地において「イスラエル」を名乗る者たちを破ったことを記している[22]。その時にはイスラエル人達はすでにエジプトにいなかった可能性が高い[22]。『列王記』6章1節や『士師記』11章26節なども考慮すると「出エジプト」は紀元前13世紀のことであり、紀元前1225年には完了していたと思われる[22]

「出エジプト」した人数は何人か。『民数記』によれば「出エジプト」したイスラエル人の数は成年男子だけで63万5000人というが、これは誇張であると思われる[23]。そんなに大勢の人間がシナイ半島の砂漠を放浪していたとは考えられないからである。多くても6000家族程度であろうといわれている[24]

モーセとは何者だったのか。モーセの実在を怪しむ説もあるが、通説ではモーセは実在した(少なくともモーセを名乗る人物がいた)とされる[25]。『出エジプト記』によるとモーセは、イスラエル人であったが、イスラエル人の赤子を殺してその数を減らす政策を推し進めていたファラオの手から守るために彼の親は彼をナイル川に流して捨てたという。そこをファラオの姫に拾われてモーセはエジプト王族として育てられたとしている[26]。しかしジグムント・フロイトは著書『モーセと一神教』(ISBN 978-4480087935)の中でモーセは生まれて8日目の割礼をしていないことからイスラエル人ではなくエジプト人の王子か僧侶だったのではないかと推測している。エジプトはイスラエルの敵なのでモーセがエジプト人では困るということで『出エジプト記』がモーセの出自をイスラエル人に改竄したのではないかというのである[27]。フロイトによればモーセは太陽神アテン信仰の一神教宗教を起こしたが、エジプト人に相手にされず、奴隷のイスラエル人に対して「私の宗教を信じるならば自由にしてやろう」などと持ちかけ、彼らの指導者になったのではないかという。ユダヤ教に一神教が持ち込まれたのはモーセのアテン信仰によるものだろうとフロイトは考えている[28]。ただしこれらはフロイトの自説の域を出ないものである[29]

モーセの十戒[編集]

十戒を掲げるモーセ。1659年、レンブラント・ファン・レイン画。

エジプトを脱出した後、イスラエル人はシナイで40年間も放浪した。この間モーセは法典の作成を行った。最初の「モーセの法典」が発布されたのは紀元前1250年頃のことと考えられている[30]。とはいえモーセはイスラエル王なわけではなく、預言者であるからして立法しようとして作ったのではなく、神の意思を伝えようとして作成したのである。したがってモーセの法典は宗教と世俗を分離させていないし、民法・刑法・道徳も峻別されていない[31]。またモーセの法典は明らかに遊牧民を対象としたものではなく、イスラエル人国家の存在を前提にして作られていた。家族だけではなく国の存在も守るべく定められているのである[32]

モーセの法典資料は様々な事項を取り扱っている。その全てがモーセの時代に遡るわけではないし、全てが最初から整った形になっていたわけではない。しかし「モーセの法典資料のほとんどがバビロン捕囚以降に成立した物であってモーセはほとんど関係していない」などという古い学説は現在ではほぼ否定されている[33]

モーセの法典の中でも中核となっているのは「十戒」である[34]。『申命記』によるとこれはシナイ山においてモーセが神ヤハウェより授けられたものであり、モーセの口頭で告げられたという[34]。「十戒」の原型になったとされるものは『出エジプト記』20章2節から17節にも記録されている[34]。神はこの十戒を遵守すればイスラエルの領土を与えると約束したという[19]。すなわちアブラハムと神の契約の更新であった。以下の10カ条からなる[35][36]

モーセの十戒
序言:私はあなたの神ヤハウェである。
第1戒:私のほか、何者も神としてはならない
第2戒:私のために偶像を作ってはならない
第3戒:あなたの神ヤハウェの名をみだりに口にしてはならない
第4戒:安息日を覚えよ
第5戒:あなたの父母を敬え
第6戒:殺してはならない
第7戒:姦淫してはならない
第8戒:盗んではならない
第9戒:偽証してはならない
第10戒:貪ってはならない

第1戒から第4戒までは神と人の関係を規律した物である。第6戒から第10戒までは人と人の関係を規律した物である。第5戒は親と子の関係を規律した物だが、ヤハウェ信仰は先祖崇拝宗教であるからして、神と人の関係、人と人の関係の二つの規律を結びつけている物であるといえる[34]

イスラエル人達は苦しい放浪生活の中、この十戒をはじめとする律法を守ることで「イスラエルの子」として団結した[37]。特に偶像禁止の戒律は民族を一つにまとめる上で重要な要素となった。偶像はどうしても地域特色が出るため、これを許すと結果として勝手な宗教解釈が生じ、民族がばらばらになるからである[38]。モーセの十戒は現在でもユダヤ教の戒律の基本となっている[36]。ただし偶像禁止には後世に弊害も生じた。ユダヤ人たちは偶像崇拝を避けるために絵画、彫刻、建築などの分野に距離を置き、結果として古代から近代までこれらの分野におけるユダヤ人の活躍がほとんど見られないのである。ユダヤ人たちが第2戒を緩めてこうした分野にも進出するようになったのはようやく19世紀になってのことであった[39]

カナンの地を征服[編集]

エリコを占領したイスラエル軍を描いた絵。1896-1902年、ジェームス・ティソ(fr)画。

モーセの後継者ヨシュアはイスラエル人を率いてカナンの地に侵入し、現地民を征服してカナンの地への帰還を達成した。この戦いは『ヨシュア記』に記録されている。この『ヨシュア記』は重要な点で限界があるものの基本的に史実に沿っていると考えられている[40]。当時のカナンは弱小王が統治する小都市国家がまとまりなく連合していた状態であった。彼らはイスラエル人侵入という共通の脅威のもとに団結を図ったが、ヨシュア率いるイスラエル軍はカナン人が団結する前に一気にカナンを征服する[41]

まずイスラエル軍はヨルダン川を超えてエリコを陥落させた。ついでギブオンを陥落させた。アモリ人の5人の王が取り戻そうとギブオンに攻撃をかけてきたが撃退することに成功した[42]。イスラエル軍の勢いを恐れたハツォルヤビンは北部カナンに兵力を結集させてそれ以上の侵攻を防ごうとしたが、ヨシュア率いるイスラエル軍は北進してヤビンの軍を撃破した[43][41]

『ヨシュア記』によるとこれらの戦いにおいてイスラエル人たちは容赦なき殲滅戦争を遂行したようである。「町にある者は、男、女、若き者、老いたる者、ろばに至るまで、ことごとく剣にかけて滅ぼした」「彼らは剣をもってその中の人々を討ち滅ぼした。息のある者は一人も残さなかった」などとかなり苛烈に記述されている[44]。とはいえ後のローマ人やギリシャ人もそうだったように古代戦争にこうしたことは常である[41]

ヨシュアはカナン征服に大きな役割を果たしたが、ヨシュアが死去した際にもカナンの完全征服にはほど遠い状態であった。イスラエル人達は、紀元前1200年から紀元前1000年のおよそ2世紀にわたってカナン完全征服を目指して戦い続けねばならなかった。残った都市の制圧、カナン人残党との戦い、新たにカナンに侵入してきたペリシテ人との戦いである[45]

またカナンで暮らし続けた同胞との統合も課題だった。前述したようにイスラエル人は全てがエジプトへ移住したわけではなく、カナンの地に留まったイスラエル人も多かったのである[46]。こうしたイスラエル人達はバアル神信仰をはじめとするカナン土着宗教の影響をかなり受けていた。民族統合の過程でヤハウェ信仰がバアル神信仰の影響を受けるのは避けがたかった。後世の預言者たちはこのバアル神信仰を排除するのに苦労することとなる[47]

またイスラエル人達はカナン人に代わってその都市を受け継ぎ、土地を耕さねばならなかった。イスラエル人はカナン人に比べて各種技術、特に建築と陶芸の分野で著しく劣っていたのでこれを受け継ぐのは大変なことだった[48]

士師のもとカナンに定住[編集]

カナンの地に帰還したイスラエル人達は遊牧民から農耕民族に転じて定住を開始した[37]。定住民族になったイスラエル人は士師制度を導入した。各部族ごとにそれぞれ士師という指導者が選ばれて部族を統率した。士師は平時には行政長官であり、戦時には軍最高司令官となる存在である。士師は神によって任を受け、神に対してのみ責任を負い、啓示によって導かれるとされた[46]。士師は世襲ではなかった。ほとんどの士師は貧しい家の生まれである。自分の能力を駆使して神に選ばれた者であることを証明してその地位を手に入れた[49]

危機的時代には神が全ての部族を統合する偉大な士師を遣わしてくれるという信仰がイスラエル人の間に生まれた。これが後のメシア信仰の根であるとする見方もある[50]。『士師記』は個性的な士師たちを紹介している。神秘的に脚色はされているが、基本的に史実に基づいているものと考えられている[51]

イスラエル人たちは200年ほど士師制度のもとにカナンの地で暮らした。しかしこの士師制度は部族間の協力に難点があったため、強力な中央集権的統治の実現を妨げた。これによりイスラエル人はペリシテ人のカナン侵入の脅威に晒されることとなった[37]

ペリシテ人は「海の民」の一部と見られ、鉄製の武器を持ち、軍事貴族階級の強力な支配のもとに規律正しく組織された民族であった。彼らはエジプト侵攻に失敗してこれを断念したが、代わりにカナン沿岸地域に進出してきて同地のカナン人を殲滅するとイスラエル人が暮らす内陸部(特に南部ユダ地方)に侵攻してきた[52][53]。南部イスラエル人部族のベニヤミン族が勇敢にペリシテ人の侵攻に対抗した[54]。しかしペリシテ人の脅威を打ち払うにはイスラエル人が団結して中央集権国家を作る必要があった。

古代イスラエル王国[編集]

統一王国時代[編集]

ペリシテ人との戦いで勇戦したベニヤミン族のサウルが預言者サムエルから頭に油を注がれて最初のイスラエル王に即位した[55][24][56]。ここに古代イスラエル王国が成立した。しかしサウル王は紀元前1005年にペリシテ人との戦いに敗れて戦死する[57]

サウル王の崩御後、南方ユダ地方のイスラエル6支族をまとめたダビデが王に即位したが、北方6支族がこれに反発してサウル王の遺児イシュ・ボシェテを王に立てて別の王国を樹立した[58]。両王朝は7年半にわたって内乱を続けたが、イシュ・ボシェテ王が暗殺されたことで北の支族は南のダビデ王に北の王も兼ねるよう求め、ダビデ王の下に王国は統一された[58]

ダビデ王は王国の基礎を固めた人物である。ペリシテ人を撃破し、彼らを沿岸地域の小集団に転落させた[59]。さらにモアブ人エドム人などイスラエル人と敵対する民族を次々に征服し、ダビデの王国は紅海からユーフラテス川までに広がった[60][61]フェニキアの諸都市とも同盟や婚姻を結んだ[61]。南の大帝国エジプトはすでに全盛期を過ぎており、東の帝国アッシリアはまだ最盛期を迎えていなかったことがダビデがこの地に強力な王国を建設することを可能にした[62]。ダビデ王はエルサレムを王国の首都に定め(北部にも南部にも偏らない立地としてここを選んだ[58])、十戒の石板を納めた「契約の箱聖櫃)」をここに移すことでエルサレムを聖都にした[63][64]

ダビデの息子ソロモン王は外国との貿易によって経済を発展させたが、城塞都市建設やチャリオット部隊増強のために北部住民を中心に強制労役や重税を課したため、北部住民の不満が高まった[60][65]。またソロモン王は自らの絶対王政に都合のいいように宗教改革を行った。自らが建設したエルサレム神殿にだけ祭儀を集中させ、アブラハムとのつながりが強いシケムやヤコブと関係が深いベテルのような北部の聖所の価値を低めたのである。これも北部の不満を助長した[66]

王国が南北に分裂[編集]
紀元前830年のカナンの地図。水色がイスラエル王国(首都サマリア)と黄色がユダ王国(首都エルサレム)。

ソロモン王は紀元前925年紀元前926年に崩御した。その後北部と南部の対立は決定的となった。北部のイスラエル10支族はシェケム(後にサマリア)を首都として新たな王国を樹立した(北イスラエル王国)[60]。一方南部のイスラエル2支族(ユダ族ベニヤミン族)はエルサレムを首都とするダビデの家系の王国を継続させた(ユダ王国[67]

北イスラエル王国は南ユダ王国より豊かな国であり、オムリ王のもとに勃興した[68][69]。しかしユダ王国との内戦は北イスラエル王国の国力を確実に衰微させ、紀元前9世紀を通じて勢力を拡大していたアッシリアに対抗する力が削がれた[70][71]。また北イスラエル王国は権力闘争が多く国内政治が不安定であった。212年間の歴史の中で10王朝も交替しており、中にはイスラエル人ではない王朝まで存在した[71][69]。北イスラエル王国の領土はアッシリアによって次々と浸食されていった[71]。そして紀元前722年に首都サマリアがアッシリアによって占領され、北イスラエル王国は滅亡した。北部イスラエル10支族は歴史の彼方に消されてしまった。彼らがどうなったのかは不明である(イスラエルの失われた10支族[72][67]

一方南のユダ王国は北イスラエル王国に比べて貧しい国だったが、代わりに権力闘争が北より少なかった[73]。ダビデの家系の王朝が347年間も続いた[72]。ユダ王国はアッシリアに服属することで北イスラエル王国滅亡後も140年ほど存続した[74]

ヨシヤ王の「申命記改革」[編集]

しかしユダ王国のアッシリアへの服属期間にバアル神信仰をはじめとするアッシリアの信仰がヤハウェ信仰に深く侵入した[74]。ヤハウェ信仰は一神教のはずなのに、エルサレム神殿にアッシリアの異神に捧げる神殿が建設されるに至った[74]

これを憂いたユダ王ヨシヤ(紀元前647年-紀元前609年)は、新バビロニアの勃興によってアッシリアが滅びゆく情勢を好機とみて、ヤハウェ信仰を立て直すための原理主義宗教改革を行った。まず紀元前622年にヨシヤ王は「エルサレム神殿から新しい律法の書が発見された」と発表した[75][76]。これが『申命記』である。この時に「発見された」『申命記』と現存する『申命記』との相違の程度については諸説あるものの、現在の『申命記』の一部であろうことについては学説はほぼ一致している[77]。『申命記』は「第二の律法」とも呼ばれ、モーセの時代に立ち返って再出発しようという趣旨の書である。イスラエル人が神に選ばれし民であることを強調し、律法の遵守を強く求めている[78]。ユダヤ人は選民思想が強い民族であるといわれるが、その選民思想が最初に文字で原理として書かれたのがこの『申命記』であり、それを確立したのがヨシヤ王の宗教改革であるといってよい[79]。ヨシヤ王は『申命記』を根拠として「申命記改革」と呼ばれる宗教改革に乗り出した[77]。バアル神などアッシリア系の神々の神殿を破壊し、その偶像を焼き払った。また並行してエルサレム以外のヤハウェ祭壇も次々と破壊させ、エルサレム神殿に祭祀を集中させる中央集権改革も行った[80]

滅亡[編集]

一方アッシリアと同盟を結ぶエジプトはアッシリアを支援するために出兵を開始した。反アッシリアのヨシヤ王はこれを阻止するため、紀元前609年メギドでエジプト軍と戦うが、敗北して戦死した(メギドの戦い)。これによりユダ王国はエジプトの属国になってしまった[81]。そしてユダ王国はエジプト側で新バビロニアと戦うこととなる。紀元前605年にカルケミシュの戦い(en)にエジプト軍が新バビロニア軍に敗れた。紀元前597年にはユダ王国首都エルサレムが陥落した。『列王記』によればユダ王国の王エホヤキン、高官、勇士、職人、鍛冶が新バビロニア首都バビロンへ連れて行かれ、後には貧民だけが残されたという[82]。新バビロニアはイスラエル人のゼデキヤを王に任じたが、彼の下にイスラエル人達は反乱を起こした。エルサレムは再び新バビロニア軍によって包囲され、紀元前586年にエルサレムは再度陥落。ここにユダ王国は滅亡した[60][83][84]

バビロン捕囚、ユダヤ教の確立[編集]

バビロニア兵に連行されるユダヤ人達(バビロン捕囚)。1896-1902年、ジェームス・ティソ画。

イスラエル人のうちユダ族は新バビロニア首都バビロンへ連れて行かれ、そこで捕囚にされた。一方ベニヤミン族はユダ族よりも早い紀元前588年に降伏したとみられ、捕囚にはされなかったが、サマリアエドムモアブエジプトなどに散り散りとなった[85]。バビロンへ連れて行かれたユダ族は「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。本稿でも以降ユダヤ人と記述する。

このバビロン捕囚時代にヤハウェ信仰は現在のユダヤ教の形になったと言っていい。ユダヤ人達は捧げ物を供える神殿の代わりに宗教的な集会場としてシナゴーグを建てるようになった。また神に対して儀式を行う代わりに神に向かって祈祷を唱えるようになった。これによりユダヤ教はどこにおいても信仰できる「輸送可能宗教」になり、バビロン捕囚時代にも信仰を保つことができたのである[86]過越祭仮庵祭新年祭贖罪日などのユダヤ教のお祭りもこの捕囚時代にバビロニアの暦技術を導入して確立された[87]。また捕囚という状態の中でも民族のアイデンティティを維持するため、ユダヤ教はヤハウェ信仰以上に選民思想、律法遵守、奇跡待望論を強化した[88][89]。これらは先のヨシヤ王による「申命記改革」によって十分に準備されていた[89]

ただ捕囚とはいってもバビロン捕囚のユダヤ人達は完全な奴隷状態というわけではなく、一定の自由は認められていたという[90]。バビロンのユダヤ人の中には成功した者も少なくなかったようである[91][86]。またエルサレムとの連絡も完全に禁じられていたわけではなかったという。だからこそバビロン・ユダヤ人達は故国再興を夢見続け、北部10支族のように他民族に埋没して歴史の彼方に消えることはなかったのであろう[90]

ペルシア、ギリシャ時代[編集]

その後バビロニアはアケメネス朝ペルシアによって滅ぼされ、ペルシア王キュロス2世によってユダヤ人のエルサレムへの帰還が許された[92]紀元前538年に最初の帰還があり、ついで紀元前520年ゼルバベルの指導の下に二度目の帰還があった[93]。彼らによってエルサレムの神殿が再建されたが、現地のユダヤ人は異端として排除された。バビロン・ユダヤ人の選民思想がかなり強化されていたためかもしれない[93]。さらに紀元前458年に祭司エズラに率いられて三度目の帰還が行われ[93]、ついで紀元前445年ネヘミヤの指導の下に最後の帰還が行われた[93]

ネヘミヤはペルシア王よりユダ総督に任命された[93][94]。ネヘミヤとエズラはユダヤ人の選民性を守るためにとユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻を禁じている[94]

バビロンから帰還したユダヤ人達はエルサレムにもシナゴーグを持ち込んだが、70年に神殿を破壊されるまではシナゴーグが神殿に取って代わる事はなかった[95]。シナゴーグはこの時代にベート・ミドラーシュ(学びの場)、ベート・テフィラー(祈りの場)、ベート・クネセト(集会の場)という三種の機能を持つようになった[96][97]

マケドニア王アレクサンドロス3世がペルシアを征服し、



彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。アケメネス朝ペルシアによる新バビロニア王国滅亡に伴い、捕囚のユダヤ人は解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で自治国として統一イスラエルが復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民(ディアスポラ)の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年代頃、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たナザレのイエス(キリスト教の言うところのイエス・キリスト)が活動したと伝えられる。彼はユダヤ教の伝道者だったが、ユダヤ教指導者と対立を深めて逮捕され、ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスに引き渡されて十字架にかけられて処刑されたという。

紀元66年からローマ帝国に対し3度にわたって反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した。とはいえ一部はパレスチナに踏みとどまり、1948年イスラエルの建国まで多数派になる事はなかったが、常にパレスチナにはユダヤ人が一定数いた[98]

以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。

最盛期の人口は2億5000万人である[要出典]

離散後[編集]

ヨーロッパ・ユダヤ人[編集]

キリスト教確立前[編集]

ヨーロッパに離散したユダヤ人たちはユダヤ教の信仰を堅持したが、キリスト教最初の600年ほどはユダヤ人にとっては比較的迫害を受けない時代だった[99]

300年頃まではキリスト教もローマ帝国によって激しい弾圧を受けていたので、キリスト教はローマ帝国から身を守るのに必死でユダヤ人にかまっている暇がなかった[100]4世紀初頭にキリスト教はローマ帝国で最大の宗教となり[101]313年ミラノ勅令によりキリスト教が公認され、さらに380年にはキリスト教がローマ帝国の国教となった。これによってキリスト教がユダヤ教に対して優位を確立したものの、それでもやはりユダヤ人がすぐさま迫害されたわけではなかった。この後、キリスト教とローマ帝国は東方からヨーロッパへ侵入してくる西ゴート族ヴァンダル族東ゴート族フン族などの「神を恐れぬ蛮族ども」に対抗するのに必死だったので引き続きユダヤ人にかまっている暇はなかったのである[99]

キリスト教の確立[編集]

しかし6世紀になると蛮族のヨーロッパ破壊・略奪活動も終焉に向かった[102]。またこの6世紀にキリスト教に教皇制度が確立し、教会を中心にキリスト教が強固に固まり始めた[100]

キリスト教は蛮族を次々と改宗させていくことで巨大化を続けていた。キリスト教は南欧から西欧、さらに東欧と北欧にも広まり、10世紀末にはほぼヨーロッパ全域を教化した[103]。急速に広まるキリスト教を前に他の様々な異教は衰退していったが、ユダヤ教だけは活気を保ったため、キリスト教会はいよいよユダヤ人に迫害を加えるようになった。

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b 滝川(1994)、p.17
  2. ^ a b ジョンソン(1999)、上巻p.38
  3. ^ ディモント(1984)、上巻p.24
  4. ^ a b ジョンソン(1999)、上巻p.39
  5. ^ a b c ディモント(1984)、上巻p.25
  6. ^ ジョンソン(1999)、上巻p.37
  7. ^ ディモント(1984)、上巻p.26
  8. ^ a b 滝川(1994)、p.18
  9. ^ a b ディモント(1984)、上巻p.28
  10. ^ 村松(1963)、p.68
  11. ^ ディモント(1984)、上巻p.31
  12. ^ ディモント(1984)、上巻p.29
  13. ^ a b c ジョンソン(1999)、上巻p.43
  14. ^ 村松(1963)、p.67
  15. ^ ジョンソン(1999)、上巻p.42-43
  16. ^ 村松(1963)、p.77-78
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  19. ^ a b 滝川(1994)、p.20
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  21. ^ 村松(1963)、p.71
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  32. ^ ディモント(1984)、上巻p.40
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  102. ^ ディモント(1984)、下巻p.8
  103. ^ ディモント(1984)、下巻p.9

参考文献[編集]

  • ポール・ジョンソン 著、石田友雄監修、阿川尚之池田潤山田恵子 訳『ユダヤ人の歴史上巻』徳間書店1999年ISBN 978-4198610685 
  • ポール・ジョンソン 著、石田友雄監修、阿川尚之、池田潤、山田恵子 訳『ユダヤ人の歴史下巻』徳間書店、1999年。ISBN 978-4198610692 
  • 滝川義人『ユダヤを知る事典』東京堂出版、1994年。ISBN 978-4490103632 
  • マックス・ディモント(en) 著、藤本和子 訳『ユダヤ人:神と歴史のはざまで 上巻』朝日新聞社、1984年。ISBN 978-4022593658 
  • マックス・ディモント 著、藤本和子 訳『ユダヤ人:神と歴史のはざまで 下巻』朝日新聞社、1984年。ISBN 978-4022593665 
  • 村松剛著『ユダヤ人:迫害・放浪・建国』中央公論新社、1963年。ISBN 978-4121000309 
  • ルイス・ワース著 著、今野敏彦 訳『ゲットー:ユダヤ人と疎外社会』マルジュ社、1981年。ISBN 978-4896160826