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哲宗
李氏朝鮮
第25代国王
王朝 李氏朝鮮
在位期間 1849年 - 1863年
道升
大勇齋
諡号 忠敬[1]熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王
廟号 哲宗
生年 1831年7月25日
没年 1864年1月16日
全渓大院君
龍城府大夫人廉氏
陵墓 睿陵
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哲宗
各種表記
ハングル 칭호:덕완군
호:대용재
자:도승
漢字 称号:徳完君
号:大勇齋
字:道升
発音: シンホ:トグォングン
ホ:テヨンジェ
チャ:トスン
日本語読み: しょうごう:とくかんぐん
ごう:だいゆうさい
あざな:どうしょう
各種表記(本名)
ハングル 이하응・이변
漢字 李元範・李昪
発音: イ·ウォンバン、イ·ビョン
日本語読み: り・げんはん、り・べん
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哲宗(철종、チョルジョン、1820年12月21日道光11年6月17日1831年7月25日) - 同治2年12月8日1864年1月16日))は李氏朝鮮第25代国王(在位:1849年 - 1863年)。字は「道升」、号は「大勇齋」、忠敬[1]熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王、本名は即位前を李元範(이원범、イ・ウォンバン)、即位後を李昪(이변、イ・ビョン)。父全渓大院君の三男であり、母龍城府大夫人廉氏の子である。

哲宗は漢城府にて荘祖の次男恩彦君の庶孫として出生した。祖先は度々の権力争い、反逆事件にのまれ、江華島に流刑され、王族の待遇を剥奪され、常民同様の不遇な歳月を長く過ごし、逆族として国王即位前日までは、爵位を所持していない。江華島での生活には苦を強いられ、農業を営んでいた。この為、無学無知で、ろくに字を読む事ができなかったが、それは逆に安東金氏の理想のタイプにあたり、安東金氏の絶対王権によって、徳完君に冊封され、純祖の養子になる事で国王に即位した。1849年から1851年まで従叔母で、養母でもある純元王后金氏が垂簾聴政し、1851年から1863年薨去するまで親政を行った。常民から国王になった哲宗は有名無実の王であり、在位期間中には権門勢家は栄耀栄華の限りを尽くし、三政の紊乱など、綱紀が乱れ、漢字が読めない自らは、政治を安東金氏一切に任せ、淫乱で贅沢三味な生活を過ごし、一行に財政が悪化し、江華島の樵が王なったと侮辱され、江華道令と嘲笑され、33歳で薨去してしまう。大韓帝国時代の1908年哲宗章皇帝を追贈される。

生涯[編集]

江華島流刑時の邸宅

初期の活動[編集]

出生と家系[編集]

哲宗は1831年7月25日(純祖31年)正午、漢城府鄕校洞慶幸坊私第で、父全渓大院君と、母龍城府大夫人廉氏の三男として出生した。荘祖の曾孫。荘献世子の次男の恩彦君の子の全渓大院君となる。祖父の恩彦君は洪国栄に息子常渓君に正祖の王位継承者に推戴した事件により江華島に流刑され、正祖死後に常山郡夫人宋氏と嫁の申氏が、1801年辛酉邪獄の際殉教し、死薬を賜い亡くなり、そして父全渓大院君一家ともに江華島に流刑となる。ちなみに純祖正祖と同じく一家を保護し、釈放につとめ、1817年には老論僻派の反対を押し切って一家の邸宅を建設した。1822年には、邸宅の棘柵を撤収させ、結婚も許可され、一般人同様の待遇に戻された。これにも反対の上疏が上がったが、純祖はこれを受け入れなかった。1830年に漢城府に帰京し、翌年哲宗が出生する。兄弟は、異母兄の懐平君永平君である。この2人も登極後に爵号を冊封された。1836年閔晋鏞の獄が起こり、1844年には首謀者として懐平君は死刑に処され、一家は再び江華島喬桐に流刑された。このように謀反を起こした一家だとされ、王族としての待遇は与えられなかった。

青年期[編集]

江華島に流刑となり、現在の江華郡江華邑官庁里441番地(龍興宮)に居住しており、現在は宮闕として整備されているが、哲宗が居住して頃は草家であった。全渓大院君の庶子に加え、一族の謀反によって、爵位を保持する事はなかった。後に哲宗が即位した為、一族は汚名を洗い流して、爵位を冊封される。完陽府大夫人の喪事を受けると、一日中哀慟しており、何度も殯室に訪れて永訣しようとしたが、入室を禁止され、一生の遺恨とし、11歳に大院君の喪事を受けると、 体を密接にして慟哭し、これを見た人は悲観していた。江華島の農民と行商として暮らしていた哲宗は、みじめな自給生活を迫られ、農業を営み、勉学することもできなっかた。地元では、江華道令と呼ばれ、たくましく成長し、鳳伊という女性と結婚した。しかし国王に即位すると引き離され、哲宗は鳳伊を忘れられず恋煩いしていたため、密かに殺害される。この事から悲愁になって、淫らな生活を送ったという一説がある。また哲宗は李是遠高宗期に吏曹判書)と友好があり、当時李是遠は、口癖のように役人になりたいという話をしていたが、聞いていた哲宗は何もできないので、心中に置いたが、王位に登極した後は、官吏選抜で李是遠の名前を最上位に記していたが、毎回安東金氏によって揉み消され失望していた。哲宗は開城留守が空位だと確認し、李是遠を直々に特抜し、官職に就くことができた。

国王期[編集]

即位[編集]

哲宗御真半焼

1849年憲宗が薨去すると、朝廷では豊壌趙氏安東金氏の激論が始った。しかし、安東金氏には国母にあたる大王大妃となった純元王后垂簾聴政を行っており、安東金氏興宣君李夏銓・李元範(哲宗)を候補として絞った。結果は興宣君は兄弟が4人いたことで除外、李夏銓は家勢が弱く兄弟もおらず若かった為に都合がよかったが、聡明である事で結局脱落する。しかし最後の李元範は、貧農で無学無知で若く兄弟もいないことで、全ての条件をクリアし、純元王后の名を借りて、宮中に入内した。7月16日づけで徳完君に封爵され、血縁上で純祖の養子となり、翌日昌徳宮仁政門の寝殿で正午に即位した。哲宗は安東金氏の制約を受け、純元王后と同じ殿閣で暮らし安東金氏の思うがままとなった。祖父も父も自分も非嫡出のうえ、江華島の樵が王になったとされ江華道令と士大夫と民から侮辱されるほど王権は失墜していた。

垂簾聴政期[編集]

無学無知の王[編集]

哲宗は純祖の養子になる事で、王位継承を果たし、常民から国王へ栄転したが、即位させた安東金氏は王権を保持し、純元王后が引き続き垂簾聴政を行った。名誉回復の為、即位年7月25日祖先兄弟に爵位を復権・封号し、哲宗の呼称を孝子(殿下)とした。しかし、7月17日昌徳宮熙政堂にて学問的素養のない哲宗は鄭元容に「どのような本を読まれていたか?」と質問され、哲宗は「小学の1巻、2巻しか読んだことがない」と返答し、即位に不満の豊壌趙氏趙寅永に「何ですかそれは、読書と講理は聖徳をなす根幹になるのですぞ。なぜ聖賢の千言万語は小学に限られるのでしょうか」とつかれたので大王大妃は、「まず史略を学んで、その後少し文理を理解させた後、経書をやらせる」と言ったが、実際の講義は小学から始まるという始末、王の正規の講義を受講する事はなかった。

豊壌趙氏の粛清[編集]

翌月8月22日、豊壌趙氏派の中心人物趙秉鉉尹致英以下を正言姜漢赫・掌令李廷斗らが弾劾し、安東金氏派は刑典を与えたいが為に、刑罰・罷免の効力を持つ、三司(司憲府·司諫院·弘文館)の大司憲李敦栄・大司諫任百秀・執義申佐模・司諫睦仁培・掌令李廷斗・持平趙光濬・献納朴浚愚・正言安喜壽趙秉鉉·尹致英の罪科を合議させ、結果趙秉鉉は絶島安置、尹致英以下は死刑と調整して、10日間ほぼ毎日上疏させ、哲宗は威圧にかなわず鞠庁を設置し、尹致英以下を拷問させた。さらには8月30日に大臣も口を出して、8月31日には大王大妃が罪科を決定し、9月6日付けで、趙秉鉉は全羅南道智島囲籬·絶島安置、尹致英以下を死罪とした。これに対し領議政鄭元容左議政金道喜は不当だとして辞職の上疏を上げたりした。とはいえ三司はさらに刑罰を厳刑化しようとして上疏したが、そこは大王大妃は「もはや死んだも同然である」と止めさせた。しかし上疏は一行にやまないうえ、賓庁から哲宗は厳刑すべきと威圧を迫られ、だめだと返答する始末、八回も啓告され、やむなく大王大妃は8月23日趙秉鉉を賜死させる教旨を下した。

地方官の不正[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]

1849年10月20日恩彦君の邸宅の門にある文蹟を洗草させた。

親政[編集]

垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]
垂簾聴政[編集]

死後[編集]

逸話[編集]

以下は哲宗行録からの引用である。だが、これらは、勢道政治期の為に美化されているものも多く、他の記録の経歴とは違う面がある。

祖母との関係[編集]
哲宗は純元王后との関係は親密で温和だったと記されている。それには、以下が理由に当てはまる。哲宗行録には、
  • 聖母(純元王后)が哲宗大王誕降の日に、夢の中で父永安府院君が現れ、子供を奉進されて、『この子を善く育ててください』と言われた際、聖母は覚められ、不思議に考慮されて、この事を記録して冊櫃に保管されていた。奉迎する際、顔見ると儀表と龍顔は果たして夢の中で見たのと同じだったので、歓喜された。[2]
  • 純元王后の慈愛は篤く、手厚く飲食と寝睡の手順を遵守して保護し、衣襨を進御するに至っても、必ず聖母自ら点検した。[3]
  • 王は慈殿を遵奉して誠孝が隆盛し、居所は同じ宮殿で一緒に過ごし、飲食でも必ず同じ厨房をつかい、慈殿の体候が優れないときは、自ら薬と湯を持って、夜から朝まで蝋燭を明るくし、左右の扶護を女侍に任せた。[4]
  • そもそも進献があれば、聖母の内蔵に保管し、講筵や視事以外は一時も慈殿のそばを離れなかった。両殿に仕えるにおいては、敬いと孝誠を極めてたので、祥和な気が宮闈に溢れた。[5]
  • 純元王后が昇遐した際には、悲哀な気持ちで慕い、常膳を廃却した。復膳した後に水刺を扱うと、そのたびに啼泣しながら、『食事をする度に、必ず聖母と付き添って、聖母が食事を進御された後に、私が食事を食べていた。しかし今、どうして予一人で食べることができようか?』と言われ、涙を雨が降るように流していたので侍衛していた人々はとても仰ぎ眺めることができなかった。[6]
盛徳と倹約[編集]
哲宗は民意を考慮して質素倹約に励んでいたと記される。哲宗行録には、
  • 登極後、内厨の供上の饌需の中に贅沢な食物があれば、その都度却下して召し上がらなかった。また肉饌も喜ばず『予が肉を沢山食べるなら士庶人まで争ってお互いに恩恵を受けるために、六畜が必ず沢山傷つく。』と言った。[7]
  • 薬院の進上する酪粥を停止するよう命じて、続いて下教することを、『この仕事は本当に古例であることや牛の乳がよく出ない、生畜が盛んにできないはずなのに、なぜこのような不利益な事をして禽獣に害を与えることをするのか?』と言われた。[8]
  • 衣襨を倹約し、龍袍や法服以外は絹織の服を召さなかった。常に綿紬・綿布を着て楽しくして、『これは民から出てきたのだ。民が存在しない場合はいかに国を支えていくことができようか?』と言った。[9]
  • 宮人が調理をよく煮ず、罪を得ていたので、寛大な許しを加える下教と同時に『どうして料理の為に急に責罰を与えることがあるだろうか?』と言った。[10]
  • 以前宮中で銀器を喪失した事があって左右が罪を受けると、『銀器の為に多くの人々を傷つけてしまうだろうか?』と言い、特命を下教し、別に銀器を作って、最終的に不問に付した。その後、再び銀器を喪失したが、王の下教が再び以前と同じ内容なので、宮人が皆寛大で盛大な徳を讃えた。[11]
顔立ち[編集]
哲宗の顔形は異様に優れていたとされる。哲宗行録には、
  • 4歳の頃。群れに広がって遊んでいて、迷子になった際に、興仁門に至って容貌に注目を集めた。[12]
  • 即位の為、宮殿に入内すると、古くからの宮人は純祖の儀型に非常に似ていると賞賛した。純祖の妃純元王后も顔をみて喜んでいた。[13]
その他[編集]
  • 4歳の頃。群れに広がって遊んでいて、迷子になった際に、興仁門に至って容貌に注目を集めた。[14]
  • 即位の為、宮殿に入内すると、古くからの宮人は純祖の儀型に非常に似ていると賞賛した。純祖の妃純元王后も顔をみて喜んでいた。[15]
その他[編集]
その他[編集]

系図[編集]

哲宗祖先系図[編集]

哲宗の親類・近親・祖先の詳細

宗室[編集]

后妃[編集]

祖系
続柄 本貫 備考
父王 純祖 全州李氏
母后 純元王后 安東金氏
憲宗 全州李氏
実父 全渓大院君 全州李氏
実母 龍城府大夫人
外祖父 金祖淳 安東金氏
義父 金汶根 安東金氏
后妃
王妃 哲仁王后 安東金氏 金文根の女
  元子 早卒 第一子
貴人 朴氏 密陽朴氏
  王子 早卒 第二子
貴人 趙氏 平壌趙氏
  王子 早卒 第三子
王子 早卒 第四子
貴人 李氏
淑儀 方氏 温陽方氏
  翁主 早卒 第一女
翁主 早卒 第二女
淑儀 范氏 羅州范氏
  翁主 永恵翁主 第四女。朴泳孝に下嫁
淑儀 金氏 金海金氏 金致郁の女
  王子 早卒
翁主 早卒
宮人 李氏
  王子 早卒 第五子
宮人 金氏
  翁主 早卒 第三女
宮人 朴氏
  翁主 早卒 第五女
宮人 南氏

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち 朝鮮日報 2007/09/16
  2. ^ 純元聖母夢中, 永安國舅, 奉進一小兒以告曰, ‘善養此兒’, 聖母覺而異之, 因記其事, 藏于篋笥矣。 及己酉奉迎時, 日表龍顔, 果如夢中所見,
  3. ^ 純元聖母, 慈愛篤至, 飮食寢睡之節, 念念保護, 至於進御衣襨, 亦必親檢
  4. ^ 上, 遵奉慈衷, 誠孝隆洽。 居處必同一殿, 飮食必共一廚, 其有不安節, 則躬親湯藥, 蚤夜洞燭, 左右扶護, 不委於女侍
  5. ^ 凡有進獻, 則置諸聖母內藏, 講延視事之外, 暫不離側。 事兩殿盡敬盡誠, 祥和之氣, 溢於宮闈焉
  6. ^ 純元聖母昇遐, 哀毁痛慕, 廢却常膳矣。 復膳之後, 對水剌輒泣曰, ‘每食必侍聖母, 聖母進御後, 予乃進食矣。 今何忍獨食乎。” 淚下如雨, 侍衛諸人, 不忍仰瞻
  7. ^ 御極之後, 內廚供上饌需, 或有奢味, 輒却而不御。 又嘗不喜進肉饌曰, ‘予若多食肉, 則至于士庶, 競相效之, 六畜必多傷損矣。
  8. ^ 命停藥院所進酪粥, 仍敎曰, ‘此事倘是古例, 牛不能亂, 則生畜不蕃, 何可以無益之事, 害及禽獸乎
  9. ^ 儉於衣襨, 龍袍法服之外, 不御緞紗之屬。 常喜服綿紬綿布曰, ‘此出於民者。 無民, 何以爲國乎
  10. ^ 宮人不善烹飪, 當得罪, 曲加寬恕曰, ‘何忍以飮食之故, 遽加責罰乎
  11. ^ 宮中嘗失銀器, 左右當抵罪, 上曰, ‘豈可以一銀器而傷衆人乎?’ 特命別造而賜之, 遂勿問焉。 其後又失銀器, 而上敎復如是, 宮中咸誦寬仁之盛德焉
  12. ^ 從群兒出遊失路, 獨行轉轉, 至興仁之門, 見者異其容貌行止, 逈出凡常,
  13. ^ 而老宮人, 感稱酷肖純廟儀型矣
  14. ^ 從群兒出遊失路, 獨行轉轉, 至興仁之門, 見者異其容貌行止, 逈出凡常,
  15. ^ 而老宮人, 感稱酷肖純廟儀型矣
先代
憲宗
朝鮮国王
第25代:1849年 - 1863年
次代
高宗