利用者:Sinhako/ミャンマー連邦 (1989年-2011年)
ミャンマー連邦 | ||||||
ビルマ語: နိုင်ငံတော် အေးချမ်းသာယာရေး နှင့် ဖွံ့ဖြိုးရေး ကောင်စီ Pyidaunzu Myăma Nainngandaw | ||||||
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国歌 ガバ・マ・チェ Till the End of the World | ||||||
首都 | ヤンゴン (1988-2006) ネピドー (2006-2010) | |||||
言語 | ビルマ語 | |||||
宗教 | 上座部仏教 | |||||
政府 | 軍事政権 | |||||
国家平和発展評議会議長 | ||||||
• | 1988–1992 | ソウ・マウン | ||||
• | 1992–2011 | タン・シュエ | ||||
国家平和発展評議会副議長 | ||||||
• | 1988–1992 | タン・シュエ | ||||
• | 1992–2011 | マウン・エイ | ||||
首相 | ||||||
• | 1988–1992 | ソウ・マウン | ||||
• | 2007–2011 | テイン・セイン | ||||
歴史・時代 | 冷戦 | |||||
• | 8888蜂起 | 1988年9月18日 | ||||
• | アウン・サン・スー・チーの自宅軟禁開始 | 1989年7月20日 | ||||
• | サフラン革命 | 2007年8月15日 | ||||
• | 国民投票で新憲法が承認 | 2008年5月10日 | ||||
• | アウン・サン・スー・チーの自宅軟禁終了・政治活動再開 | 2010年11月13日 | ||||
• | SPDCの解散、民政復帰 | 2011年3月30日 | ||||
• | 2015年総選挙 | 2015年11月8日 | ||||
面積 | ||||||
• | 1988年 | 676,578 km² (261,228 sq mi) | ||||
通貨 | チャット | |||||
現在 | ミャンマー連邦共和国 |
ミャンマー連邦(英語:the Union of Myanmar、ビルマ語: နိုင်ငံတော် အေးချမ်းသာယာရေး နှင့် ဖွံ့ဖြိုးရေး ကောင်စီ)は、1989年にそれまでのビルマ連邦から国名を変更したミャンマーの軍事政権。
概要
[編集]1988年9月、旧ビルマ軍のクーデターにより国家法秩序回復評議会(State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が全権を掌握して以来、同国では2011年3月30日まで軍事政権が続いた。このSLORCが1997年11月に改組されたのが、最高議決機関の国家平和発展評議会である。
SPDC内の序列上位は以下の通り。
- タン・シュエ 議長、上級大将
- マウン・エイ 副議長、上級大将補
- トゥラ・シュエ・マン 国軍統合参謀長、大将
- テイン・セイン 首相、大将
- ティン・アウン・ミン・ウー 第1書記、大将
2010年総選挙後の2011年1月31日にトゥラ・シュエ・マンが下院議長に任命され、2月4日にテイン・セインが大統領に選出された(ティン・アウン・ミン・ウーは副大統領に就任)。同日までにマウン・エイは引退している。テイン・セイン大統領による組閣に伴い、2011年3月30日にSPDCは解散した。
歴史
[編集]社会主義政権の崩壊と軍事政権の成立
[編集]1988年、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)議長ネ・ウィンの退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン率いる軍部が再度クーデターにより国家法秩序回復評議会の発足を宣言して政権を掌握し、再度ビルマ連邦へ改名した。
軍政は総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し、体制維持をはかった。民主化指導者アウン・サン・スー・チーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウン・サン・スー・チーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年にワ州連合軍が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行った。
1989年6月4日、中国で天安門事件が勃発。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1989年12月、マルタ会談。1990年5月27日に実施された総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。1991年12月25日、ソ連崩壊。
1992年4月23日にタン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島を賃借し、中国はレーダー基地と軍港を建設した。この中国の海洋戦略は真珠の首飾り作戦と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(英: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会(英: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウン・サン・スー・チーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。
2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。
後任の首相には、保守派のソー・ウィンが就任。同年、中国・ビルマ・パイプラインの協議が中国との間で開始され、翌2005年に中国石油天然気(PetroChina)との間で契約が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下でホテル経営を行っていたロー・シンハン(羅星漢)率いるアジア・ワールド社が独占的な契約を結んでいった。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。2007年9月27日、APF通信社の長井健司が反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺された。
民政復帰に向けた手続き
[編集]2007年10月12日にソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セインが2007年10月首相に就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。2008年5月、新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。
2010年10月、国旗の新しいデザインを発表[1]。11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また、政府はアウン・サン・スー・チーの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。2011年3月30日、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月、アウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録された。
2015年総選挙とNLD政権の成立
[編集]2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、憲法の規定と国軍の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のティン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。ティン・チョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した[2]。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。
脚注
[編集]- ^ “ミャンマー新国旗を公表 市庁舎などで一斉付け替え”. MSN産経ニュース (2010年10月22日). 2011年1月9日閲覧。
- ^ “ティン・チョー氏、ミャンマー大統領に正式就任”. 読売新聞. 2016年3月30日閲覧。
関連項目
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