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利用者:YasuminB/sandbox/弥助

やすけ

弥助
生誕 1550年代?[注釈 1]
モザンビーク?
死没 没年不明
別名 彌助、弥介、彌介
職業 織田信長の従者[2]
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
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弥助(やすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の日本に渡来した黒人男性。宣教師から織田信長へと進呈され、信長が死去するまでの約15か月間、彼に仕えた。名は弥介[3](彌介[4])とも書かれる。

生涯

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『南蛮屏風』(狩野内膳画)。黒人の従者と象使いが描かれている[5]
日本に到来したイエズス会宣教師たち。彼らに付き従う黒人の従者が描かれている。
相撲遊楽図屏風(一部。堺市博物館所蔵)
左側の力士は、黒い肌に髷を結っていないざんばら髪や高い鼻など、明らかにそれ以外の人物とは異なる人種的特徴で描かれている。

生い立ち

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弥助はモザンビークの出身で[6]イエズス会イタリア人巡察師[7]アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日する際にインドから連れてきたという[6][8]

ヴァリニャーノは1574年3月にポルトガルを出発し、7月にモザンビークへ、その後9月にインドのゴアに到着した[9]1577年9月までインドで巡察を行った後、マラッカマカオに滞在し、1579年7月に日本へと出発する[10]

戦国時代には、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの船が日本を訪れるようになっており、アフリカ出身の人々も、従者または奴隷として連れてこられていた[11]1546年に日本に来航したポルトガル人船長ジョルジ・アルヴァレスは、船員もしくは下僕として黒人を連れていたとみられ、1548年11月付のフランシスコ・ザビエル宛ての報告で、日本人は黒人を見ることを喜び、100キロメートル近く離れた場所からも見にくると記している[12]。この後、日本側の記録に黒人が登場するのは、1581年天正9年)の『信長公記』における弥助の記述が最初となる[13]

来日後の弥助

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1579年7月25日(天正7年7月2日)に島原半島南端の口ノ津に到着したヴァリニャーノは、その後、豊後国に移り[14]、1581年3月8日(天正9年2月4日)、畿内に向け出発した[15]。豊後を出たヴァリニャーノに同行したのは、ルイス・フロイスやロレンソ・メシア(メシヤ)ら4人の司祭と3人の修道士、そして黒人で[15]、これが弥助とされる[16]

ヴァリニャーノたちは1581年3月17日(天正9年2月13日)にに到着し、その2日後に堺を出ようとしたが、その際、非常に背の高いヴァリニャーノと黒人の弥助を見るために、群衆が待ち受けていた[17][18]。これにより、ヴァリニャーノたちが狭い場所を通る際、道端の店が荒らされることになったという[17][18]

1581年3月26日(天正9年2月22日)、ヴァリニャーノ一行が織田信長との謁見のため京都に入ると、黒人の噂はたちまち広まって群衆が南蛮寺へと殺到し、投石のため負傷者が出て、死者も出そうになった[17][19]。その噂を聞いた信長の招きを受けて、3月27日(和暦2月23日)、都の教区長である[20]オルガンティーノが弥助を連れて、信長の滞在する本能寺に赴いた[17][21]

その時の様子が『信長公記』巻十四に記されている[22][23]。そこには「きりしたん国より黒坊主参り候」とあり[22][23]、年齢は26、7歳ほどに見え、牛のように黒い体をしており、十人力以上の剛力であると描写されている[22][24]。ルイス・フロイスやロレンソ・メシアの書簡によると、信長はその肌が墨を塗ったものでなく自然のものであると信じずに、帯から上の着物を脱がせたという[25][26]。さらに信長が体を洗わせたところ、白くなるどころか一層黒くなったとされる[27]

メシアによると、弥助は日本語を多少話すことができた[28][29]。また、力が強く、少しの芸ができたため、信長は喜んで庇護し、弥助に人を付けて市内を巡らせたという[28][29]。弥助の姿を見た者の中には、信長は弥助を「殿(Tono)」にするだろうと言う者もいたとされる[28][30]。また、『信長公記』尊経閣十五冊本[注釈 2]には、この「黒坊」が「弥助」と号したことや、扶持や「さや巻之のし付[注釈 3]」ならびに私宅を与えられ、時には「御道具」などを持たせられたとの記述がある[37]

1581年5月14日(天正9年4月12日)、ルイス・フロイスが修道士や信者、黒人と共に越前国北庄に赴いた[38]。藤田みどりは、京都に来た黒人は弥助が初めてだったとの記録があることなどから、この黒人を弥助としている[38]。越前に向かう途中の長浜では、黒人だけでなく白人が来たのも初めてだったため大きな騒ぎとなり、宿舎とされた家にフロイスらが入ると、黒人を見ようとした群衆がその戸を破って入ってくるということが3、4度起きたという[39][40]。その後、北庄に滞在したフロイスら一行は5月30日(和暦4月28日)に京都に戻った[38]

次に弥助の記述が現れるのは、徳川家康の家臣・松平主殿助の著した『家忠日記』天正10年4月19日(1582年5月11日)条においてである[41]甲州征伐からの帰途、織田信長が徳川家康の支配地を訪れた時の記録で[3][42]、そこには「上様御ふち候大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥介[注釈 4]ト云」と記されている[3][42]

本能寺の変

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天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都本能寺に滞在する織田信長を明智光秀の軍勢が襲う本能寺の変が起きた[46]。変の際の弥助について、信長の死後、その嫡男である信忠のもとへと駆け付け、そこで戦った末、明智方に降伏したとされている[47]。『イエズス会日本年報』には、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸[注釈 5]に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」とある[50][51]。また、家臣に弥助をどう処分すべきか聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として、「インドのパードレの聖堂に置け」と命じたという[50][51]

その後の弥助の消息については一切不明である[52]

弥助以後

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その後の文献にも黒人の描写はあり、弥助の記録が途絶えた後にも黒人が来日していた様子がうかがえる。

1584年(天正12年)、島原において有馬晴信龍造寺隆信の戦いが起きた(沖田畷の戦い[53]。フロイスの『日本史』や『イエズス会日本年報』所収の報告書によると、その戦いの際、有馬方に大砲があったものの、それを扱える者がいなかった[53][54]。そのため、その場に居合わせたアフリカ黒人が砲弾を装填し、インドのマラバル人が点火を行い発射したという[53][54]

1593年文禄2年)、肥前名護屋にて豊臣秀吉がポルトガル人総司令官(カピタン・モール)のガスパル・ピント・ダ・ロシャを引見した[55]。カピタンは「金色の槍を携えたカフル人[注釈 6]を護衛として」連れており、太鼓と笛を持った赤い衣装の黒人たちは秀吉の望みにより踊りを披露した[55][58]。秀吉は彼ら一人一人に、自らの手で褒美として白い帷子を与えている(『日本史』)[55][58]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『信長公記』の1581年の記述に「年の齢廿六・七と見えたり」とある[1]ことによる。数え年で26なら1556年生まれ、27なら1555年生まれとなる。
  2. ^ 尊経閣文庫に所蔵される写本の一つ[31]金子拓は、成立時期の遅い伝本で削除された信長の身の回りの細々とした記述が見られることなどから、初期の稿本が元になったとしている[32]。なお、弥助に関わることなど、尊経閣十五冊本でのみ見られる記述については、書写過程で加えられた可能性もある[33]
  3. ^ 『精選版 日本国語大辞典』などで「鞘巻」は腰刀の一種とされる[34]。『信長公記』巻十二に記載される「さやまきののし付」[35]は、中川太古による現代語訳では「金銀飾りの鞘巻き」とされている[36]
  4. ^ 1897年明治30年)の覆刻版[43]では「弥助」と書かれる[44][45]
  5. ^ 『イエズス会日本年報』には、変が起きた当初「世子の邸」「寺院」にいた信忠が、付近にあった「内裏の御子の居」に移ったと記されている[48]。この時の信忠の動きとしては、宿所としていた妙覚寺から隣接する二条御所に移って明智軍と戦ったことが知られている[49]
  6. ^ 「カフル(cafre)」はアフリカ東海岸、特にモザンビーク周辺を指す言葉[56]。文献上、弥助も「カフル人(cafre)」と記されている[57]

出典

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  1. ^ 岡田 1999, p. 99; 藤田 2005, p. 4.
  2. ^ 岡田 1999, p. 420.
  3. ^ a b c 盛本昌広『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2022年(原著1999年)、56–59頁。ISBN 978-4-04-400714-0 
  4. ^ 藤田 2005, pp. 1–9; ソウザ & 岡 2021, p. 215.
  5. ^ 藤田 2005, pp. 21–25.
  6. ^ a b 藤田 2005, pp. 56.
  7. ^ 松田 1965, pp. 23–34.
  8. ^ François Solier (1627). Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon. 1. Cramoisy. p. 444. https://books.google.co.jp/books?ei=eJjFUe3tK4SEkgXlxoGICQ&hl=ja&id=pQE_AAAAcAAJ&dq=&jtp=444#v=onepage&q&f=false 
  9. ^ 松田 1965, p. 34.
  10. ^ 松田 1965, pp. 34–40.
  11. ^ 第2章 日本に渡ったアフリカ人”. 本の万華鏡 第14回 アフリカの日本、日本のアフリカ. 国立国会図書館. 2024年9月6日閲覧。
  12. ^ 藤田 2005, pp. 1–2.
  13. ^ 藤田 2005, pp. 3–4.
  14. ^ 松田 1965, pp. 53, 68, 85.
  15. ^ a b 松田 1965, p. 91; 藤田 2005, p. 7.
  16. ^ 藤田 2005, p. 7.
  17. ^ a b c d 1581年4月14日付ルイス・フロイス書簡。
  18. ^ a b 村上 1943, p. 127; 松田 1965, p. 93; 藤田 2005, p. 7.
  19. ^ 村上 1943, pp. 131–132; 松田 1965, pp. 97–98; 藤田 2005, pp. 4–5.
  20. ^ 松田 1965, p. 95.
  21. ^ 村上 1943, pp. 131–132; 松田 1965, p. 98; 藤田 2005, pp. 4–5.
  22. ^ a b c 太田 1926, p. 204; 太田 & 中川 2013, p. 259.
  23. ^ a b 松田 1965, p. 99; 藤田 2005, p. 4.
  24. ^ 松田 1965, p. 99; 岡田 1999, p. 420; 藤田 2005, p. 4.
  25. ^ 1581年4月14日付ルイス・フロイス書簡、1581年10月8日付ロレンソ・メシヤ書簡。
  26. ^ 村上 1943, pp. 132, 185–186; 松田 1965, p. 98; 岡田 1999, p. 421; 藤田 2005, pp. 4–5.
  27. ^ 松田 1965, p. 98; 藤田 2005, p. 5.
  28. ^ a b c 1581年10月8日付ロレンソ・メシヤ書簡。
  29. ^ a b 村上 1943, pp. 185–186; 松田 1965, p. 99; 岡田 1999, p. 421; 藤田 2005, p. 6.
  30. ^ 村上 1943, pp. 185–186; 岡田 1999, p. 421; 藤田 2005, p. 6.
  31. ^ 金子 2009, p. 293.
  32. ^ 金子 2009, pp. 313–314, 380.
  33. ^ 金子 2009, pp. 295–313.
  34. ^ 鞘巻. コトバンクより2024年9月6日閲覧
  35. ^ 太田 1921, p. 159.
  36. ^ 太田 & 中川 2013, p. 339.
  37. ^ 金子 2009, pp. 311–312.
  38. ^ a b c 藤田 2005, pp. 7–8.
  39. ^ 1581年5月19日付ルイス・フロイス書簡。
  40. ^ 村上 1943, pp. 140–141; 藤田 2005, pp. 7–8.
  41. ^ 藤田 2005, pp. 6, 8.
  42. ^ a b 藤田 2005, p. 6.
  43. ^ 岩沢愿彦家忠日記の原本について」『東京大学史料編纂所報』第2号、1967年https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/2/ 
  44. ^ 松平 1897, 53丁表.
  45. ^ 柴田顕正 編『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲 中巻岡崎市役所、1934年、440頁。全国書誌番号:46079204https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170606/243 
  46. ^ 岡田 1999, pp. 76, 374–377.
  47. ^ 藤田 2005, pp. 8–9.
  48. ^ 村上 1943, p. 257.
  49. ^ 岡田 1999, pp. 374–377.
  50. ^ a b 1582年11月5日付ルイス・フロイス書簡。
  51. ^ a b 村上 1943, p. 258; 岡田 1999, pp. 420–421; 藤田 2005, pp. 8–9.
  52. ^ 藤田 2005, p. 9.
  53. ^ a b c 村上 1943, p. 433; 藤田 2005, pp. 10–11.
  54. ^ a b ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『完訳フロイス日本史10 大村純忠・有馬晴信篇II 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、284–285頁。ISBN 978-4-12-203589-8 
  55. ^ a b c 藤田 2005, p. 11.
  56. ^ ソウザ & 岡 2021, p. 17.
  57. ^ ソウザ & 岡 2021, p. 30.
  58. ^ a b ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『完訳フロイス日本史3 織田信長篇III 安土城と本能寺の変』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、317–318頁。ISBN 4-12-203582-1 

参考文献

[編集]

史料

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関連文献

[編集]
  • 藤田緑『日本におけるアフリカ像の変遷』(博士(学術)論文)東京大学、1997年、10–20頁。doi:10.11501/3158419。学位授与番号: 乙第13482号。