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前田利豁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
前田利豁
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生誕 文政6年1月9日1823年2月19日
死没 明治10年(1877年8月16日
改名 惇八郎・孫八郎(幼名)、利豁
戒名 松躊院睡巌覚翁大居士
墓所 東京都文京区本駒込の吉祥寺
官位 従五位下、大和守、丹後
幕府 江戸幕府明治政府
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
上野七日市藩
氏族 加賀前田氏
父母

父:前田利幹、母:章(柴田氏)

養父:前田利和
兄弟 松平近信利民利親、恵子、鋭子、栓子、
誼子、利貫利威利愛利豁花房利種
正室:岩城隆喜の娘・緑操院
郁、利昭信乃、菊、始、金、栄次郎、赤
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前田 利豁(まえだ としあきら)は、江戸末期から明治初期の大名華族

上野七日市藩第11代(最後)藩主、同藩初代知藩事を務めた。

生涯

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文政6年(1823年)1月9日、越中富山藩の第9代藩主・前田利幹の八男として江戸で生まれる(異説として第10代藩主・利保の弟であるという説もある)。

第10代藩主・利和の養子となり、利和が天保10年(1839年)11月12日に死去したため、翌天保11年(1840年)2月2日に家督を継いだ。天保12年(1841年)1月8日、町家で火事が起こり、陣屋や長屋などほとんどが類焼してしまった(俗に「燈籠火事」といわれる)。この年、大坂城の警護を命ぜられる。天保13年(1842年)に藩校・成器館を創設する。天保14年(1843年)に藩邸(現存している建物)を再建する。嘉永2年(1849年)2月の旱魃で藩内が大被害を受けると、本家の加賀藩から援助を受けた。嘉永6年(1853年)、黒船来航により、江戸警備を命ぜられた。慶応2年(1866年)には江戸詰の留守居・横尾鬼角らによって、利豁を廃立して若年の利昭を擁立し、藩政を独占しようという陰謀が企てられたが、加賀藩によって鎮圧された。またこの年、上野国吉井ならびに下仁田の警護をする。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順し、会津藩に出兵する。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で七日市藩知事に任じられるが、8月2日に家督を長男・利昭に譲って隠居した。明治10年(1877年)8月16日、東京にて死去した。享年55。

系譜

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父母

正室

子女