前田利豁
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時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文政6年1月9日(1823年2月19日) |
死没 | 明治10年(1877年)8月16日 |
改名 | 惇八郎・孫八郎(幼名)、利豁 |
戒名 | 松躊院睡巌覚翁大居士 |
墓所 | 東京都文京区本駒込の吉祥寺 |
官位 | 従五位下、大和守、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府→明治政府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 上野七日市藩主 |
氏族 | 加賀前田氏 |
父母 |
父:前田利幹、母:章(柴田氏) 養父:前田利和 |
兄弟 |
松平近信、利民、利親、恵子、鋭子、栓子、 誼子、利貫、利威、利愛、利豁、花房利種 |
妻 | 正室:岩城隆喜の娘・緑操院 |
子 | 郁、利昭、信乃、菊、始、金、栄次郎、赤 |
前田 利豁(まえだ としあきら)は、江戸末期から明治初期の大名、華族。
生涯
[編集]文政6年(1823年)1月9日、越中富山藩の第9代藩主・前田利幹の八男として江戸で生まれる(異説として第10代藩主・利保の弟であるという説もある)。
第10代藩主・利和の養子となり、利和が天保10年(1839年)11月12日に死去したため、翌天保11年(1840年)2月2日に家督を継いだ。天保12年(1841年)1月8日、町家で火事が起こり、陣屋や長屋などほとんどが類焼してしまった(俗に「燈籠火事」といわれる)。この年、大坂城の警護を命ぜられる。天保13年(1842年)に藩校・成器館を創設する。天保14年(1843年)に藩邸(現存している建物)を再建する。嘉永2年(1849年)2月の旱魃で藩内が大被害を受けると、本家の加賀藩から援助を受けた。嘉永6年(1853年)、黒船来航により、江戸警備を命ぜられた。慶応2年(1866年)には江戸詰の留守居・横尾鬼角らによって、利豁を廃立して若年の利昭を擁立し、藩政を独占しようという陰謀が企てられたが、加賀藩によって鎮圧された。またこの年、上野国吉井ならびに下仁田の警護をする。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に恭順し、会津藩に出兵する。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で七日市藩知事に任じられるが、8月2日に家督を長男・利昭に譲って隠居した。明治10年(1877年)8月16日、東京にて死去した。享年55。
系譜
[編集]父母
正室
- 緑操院 ー 岩城隆喜の娘
子女