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副島大助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
副島 大助
生誕 1890年2月14日
日本の旗 日本 佐賀県
死没 (1974-04-19) 1974年4月19日(84歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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副島 大助(そえじま だいすけ、1890年明治23年)2月14日[1] - 1974年昭和49年)4月19日[1])は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将位階勲等正三位勲一等[2]

経歴

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佐賀県出身[1]1910年(明治43年)7月、海軍兵学校第38期を卒業し[1]1911年(明治44年)12月に海軍少尉に任官した[2]呉海軍工廠艤装員[2]、「扶桑」「生駒」各乗組などを経て[2]1916年(大正5年)、海軍大尉進級と同時に海軍大学校乙種学生となり[2]1917年(大正6年)5月に海軍砲術学校高等科学生となった[2]。次いで「浅間」「鹿島」各分隊長[2]、「伊吹」副砲長兼分隊長などを経て[2]1921年(大正10年)12月に海軍大学校甲種学生(第21期)となった[2][1]1922年(大正11年)12月に海軍少佐に進級し[2]1922年(大正12年)10月に「長門」副砲長兼分隊長に就任した[2]1924年(大正14年)1月に軍事参議官副官兼海軍省副官となり[2]井出謙治大将に仕え[2]、同年6月に海軍省副官兼海軍大臣秘書官に転じた[2]。その後は練習艦隊司令部附兼参謀[2]、海軍兵学校教官兼監事を経て[2]1927年(昭和2年)12月に海軍中佐進級と同時に海軍省教育局局員に着任した[2]1930年(昭和5年)12月に「長門」副長に転じ[2]1931年(昭和6年)12月に海軍大佐に進級した[2][3]

欧米出張を経て[2][3]1932年(昭和7年)11月に「多摩」艦長に就任し[2]1933年(昭和8年)11月、「八雲」艦長に転じ[2]1934年(昭和9年)2月に海軍兵学校教頭兼監事長に着任した[2]1936年(昭和11年)12月に横須賀海兵団長に転じ[2]1937年(昭和12年)12月に海軍少将に進級した[2][3]1938年(昭和13年)2月に横須賀鎮守府参謀長に就任し[2]1939年(昭和14年)11月に広東方面特別根拠地隊司令官(第2遣支艦隊[4])に任ぜられ[2]、同方面に出動した。1941年(昭和16年)10月に海軍中将に進級し[2][3]、11月には水路部長に就任した[2]1943年(昭和18年)6月には第2遣支艦隊司令長官に親補され[2]太平洋戦争に出征した[1]1945年(昭和20年)4月25日軍令部出仕となり[2]9月6日に予備役に編入された[2]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

年譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 福川 2000, 218頁.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw 海軍歴史保存会 1995, 287頁.
  3. ^ a b c d 外山 1981, 148頁.
  4. ^ 坂本、福川 2003, 257頁.
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。

参考文献

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  • 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034 
  • 坂本正器、福川秀樹 編著『日本海軍編制事典』芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4829503300