北川武 (陸軍軍人)
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北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 1913年(大正2年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は、従四位・勲三等・功四級。陸軍電信部隊の創設者。
略歴
[編集]- 三河国渥美郡(現在の愛知県田原市)大庭要を父として生れる。後、北川家に養子として入る。
- 1875年(明治8年)、陸軍幼年学校に入る。
- 1879年(明治12年)12月22日、陸軍士官学校旧3期を卒業、任官[1]。
- 1891年(明治24年)3月、北海道士族北川誠一の長女ギンと結婚[2]。
- 1893年(明治26年)7月22日、陸軍工兵大尉北川武、ドイツ留学を仰付られる
- 日清戦争開戦に伴い帰国。
- 1895年(明治28年)9月27日、陸軍工兵少佐
- 1896年(明治29年)2月、占領地総督部兵站司令官を免ぜられ、工兵会議審査官に補される[3]
- 同年5月、軍事視察のためドイツ駐在を仰付られる[4]
- 1898年(明治31年)10月14日、ドイツ駐在を免ぜられ、砲工学校教官兼鉄道大隊御用を命じられる[5]
- 1902年(明治35年)10月29日、陸軍砲工学校教官兼陸軍工兵会議議員工兵中佐北川武、陸軍大学校兵学教官兼任を命じられる[6]
- 1902年(明治35年)12月19日、大佐。新設の電信教導大隊長[1]
- 1905年(明治38年)3月11日、陸軍電信教導大隊長工兵大祭北川武、工兵監事務取扱を仰付られる[7]
- 1907年(明治40年)10月22日、電信教導大隊を改組した電信大隊の大隊長に任ぜられる[8]
- 1909年(明治42年)5月24日、病のため休職[9]
- 1911年(明治44年)9月6日、少将に昇進し、即日、予備役編入
- 1913年(大正2年)1月2日、脳溢血に倒れ、逝去[10]
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ a b 参考文献『陸海軍将官人事総覧』。
- ^ 防衛省防衛研究所所蔵「北川工兵大尉結婚願の件」(陸軍省-貳大日記-M24-3-20、アジア歴史資料センターRef.C06081349500)。東京朝日新聞1894年(明治27年)12月21日3面「北川工兵大尉の夫人」によると、家族は、「父誠一、母某、夫人銀子(二十六)及び召使某を併せ都合五人の家内」で、小石川区江戸川町十番地に居住していた。「父誠一氏も所用ありて北海道へ赴むき家には母と夫人とのみありけるに」とあり、北海道で事業を営んでいる家計であることを推測させる。
- ^ 読売新聞1896年(明治29年)2月8日2面「叙任辞令」。
- ^ 東京朝日新聞1896年(明治29年)5月3日1面「独逸国軍事視察」。
- ^ 東京朝日新聞1898年(明治31年)10月16日2面「辞令(十四日)」。
- ^ 東京朝日新聞1902年(明治35年)10月30日1面「叙任辞令(十月二十九日)」。
- ^ 東京朝日新聞1905年(明治38年)3月15日3面「陸軍辞令(三月十一日)」。
- ^ 東京朝日新聞1907年(明治40年)10月23日4面「陸軍の新任命」。
- ^ 東京朝日新聞1909年(明治42年)5月26日2面に「休職工兵大佐北川武氏 昨二月以来レウマチスに罹り治療中」とある。
- ^ 東京朝日新聞1913年(大正2年)1月5日7面掲載の会葬告知には、嗣子「北川武郎」、親戚総代「大庭仲」、友人「落合豊三郎」、総代「本郷房太郎」とある。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。
- ^ 『官報』第8486号「叙任及辞令」1911年10月2日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第6123号「叙任及辞令」1903年11月28日。