千代水村
ちよみそん 千代水村 | |
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廃止日 | 1953年7月1日 |
廃止理由 |
編入合併 神戸村、大和村、美穂村、大正村、東郷村、明治村、豊実村、松保村、大郷村、吉岡村、千代水村、湖山村、末恒村、倉田村、面影村 → 鳥取市 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 気高郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 5.1 km2 |
総人口 |
2,006人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 鳥取市、大正村、松保村、湖山村 |
千代水村役場 | |
所在地 | 鳥取県気高郡千代水村大字秋里 |
座標 | 北緯35度30分59秒 東経134度12分32秒 / 北緯35.516458度 東経134.208806度座標: 北緯35度30分59秒 東経134度12分32秒 / 北緯35.516458度 東経134.208806度 |
特記事項 | 村役場は千代水小学校(現在の酒造会社)東側に所在した[2] |
ウィキプロジェクト |
千代水村(ちよみそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは高草郡に属した。
概要
[編集]千代川下流の低地に位置し、村名はこの川に由来した。命名は合併当時の秋里村村会議員で後に村長も務めた木下秀次郎の発案と言われる[3]。
米や麦を主産業とする水田地帯で、藩政時代は藍の栽培も盛んであったが、明治中頃から桑園が導入され養蚕業が副業となった[3][4]。
明治の初めは賀露村に設置された高草郡賀露村外六ヶ村連合戸長役場の管轄となっていたが、町村制施行の際、貧乏な賀露と別れようとの話し合いで賀露を除いた6ヶ村が合併して成立した[2]。
しばしば大洪水に悩まされ、1893年(明治26年)、1912年(大正元年)、1918年(大正7年)、1923年(大正12年)は特に被害が大きかった。そのため東方向に大きく蛇行していた千代川を秋里から河口へ直流させる河川改修工事が1926年(大正15年)に着工され、1931年(昭和6年)完成し通水した。これにより洪水被害は無くなったが村内の耕地は78町歩が失われ、また村域のうち江津と秋里(一部)が同川左岸から右岸に位置するようになった[2][3][4]。
鳥取市に近接することからしばしば合併の話が上がったが、財政的に自立容易の立場だったため実現せず、1953年(昭和28年)の15ヶ村合併まで行われなかった[4]。
沿革
[編集]- 元禄14年(1701年) - 賀露村から枝郷の晩稲村と南隈村を分村する[5]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、徳吉村・安長村・秋里村・江津村・晩稲村・南隈村が合併して村政施行し、千代水村が発足。旧村名を継承した6大字を編成し、役場を秋里に設置[3]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、高草郡・気多郡の区域をもって気高郡が発足し、気高郡千代水村となる。
- 1943年(昭和18年)9月10日 - 鳥取地震発生。村内でも家屋や小学校が倒壊[2]。
- 1953年(昭和28年)7月1日 - 鳥取市に編入。同日千代水村廃止[6]。
合併後
[編集]村政時の6大字(徳吉・安長・秋里・江津・晩稲・南隈)は合併後に鳥取市の大字として継承された。
その後、1969年に商業卸センター設立により秋里・安長の各一部から商栄町を[7]、1976年に湖山貨物駅化事業により石油基地が建設され商工業地区として開発が進んだことにより徳吉・安長・岩吉(旧松保村)の各一部から五反田町を起立した[8]。
1991年には秋里・安長・岩吉などの各一部から旧村名を冠した千代水1〜4丁目を[9]、1994年に安長・徳吉の各一部から緑ケ丘2〜3丁目および南安長2〜3丁目を起立した[10]。
そして2012年に、かつての役場・小学校所在地だった千代川西岸の秋里残部が商栄町に変更[11]、これにより川を挟んで東西に分かれていた秋里は東側に一本化された。
行政
[編集]歴代戸長・村長
[編集]代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 出身 | 備考 |
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初 | 不詳 | 1873年(明治6年) | 不詳 | - | 戸長 |
2 | 西垣善次郎 | 1879年(明治12年)2月 | 不詳 | 安長 | 戸長 |
3 | 森本甚三郎 | 1880年(明治13年)3月 | 不詳 | - | 戸長 |
4 | 中山定次郎 | 1880年(明治13年)9月 | 1893年(明治26年)11月19日 | 安長 | 高草郡賀露村外六ヶ村戸長 町村制施行後、千代水村長となる |
5 | 波當根和七郎 | 1893年(明治26年)12月21日 | 1894年(明治27年)4月頃 | 江津 | |
6 | 西尾嶺治 | 1894年(明治27年)5月7日 | 1896年(明治29年)7月20日 | - | |
7 | 木下秀次郎 | 1896年(明治29年)8月22日 | 1900年(明治33年)3月12日 | 秋里 | |
8 | 深田仲蔵 | 1900年(明治33年)3月30日 | 1901年(明治34年)4月10日 | 安長 | |
9 | 奥村禎次郎 | 1901年(明治34年)9月16日 | 1901年(明治34年)11月11日 | - | |
10 | 堀尾義隆 | 1901年(明治34年)12月21日 | 1902年(明治35年)7月28日 | - | |
11 | 荒尾成美 | 1903年(明治36年)9月10日 | 1904年(明治37年)4月23日 | - | |
12 | 田淵文吉 | 1904年(明治37年)8月11日 | 1906年(明治39年)12月1日 | - | |
13 | 平尾藤三郎 | 1906年(明治39年)12月24日 | 1921年(大正10年)10月20日 | 安長 | |
14 | 西脇亀太郎 | 1921年(大正10年)12月7日 | 1923年(大正12年)3月9日 | 徳吉 | |
15 | 岸本万英 | 1923年(大正12年)3月24日 | 1927年(昭和2年)3月23日 | 湖山村 | |
16 | 山形長太郎 | 1927年(昭和2年)4月26日 | 1946年(昭和21年)11月14日 | 秋里 | |
17 | 森本貞保 | 1947年(昭和22年)4月8日 | 1951年(昭和26年)4月 | 安長 | |
18 | 森下友五郎 | 1951年(昭和26年)4月 | 1953年(昭和28年)6月30日 | 晩稲 | |
参考文献 - [2] |
教育
[編集]- 千代水村立千代水小学校(後に鳥取市立千代水小学校となり、現在は鳥取市立城北小学校)
- 中学校は湖山村の湖東中学校区
交通
[編集]鳥取市との交通は旧藩時代から明治にかけては水路による舟便が利用され、特に秋里・江津は鳥取市と港のある賀露村の中間に位置し、舟の往還で賑わった[4]。
鉄道
[編集]道路
[編集]- 賀露街道: 秋里・南隈を通って賀露に通ずる道路
- 伯耆街道(米子往来):地内安長を東西に通過
- 八千代橋:秋里から安長に架けられた橋。伯耆街道「安長の渡し」に代わるものとして最初の橋は明治5年(1872年)架橋。1931年(昭和6年)1月13日に千代川の川筋の付替工事に伴い永久橋が竣工し渡り初め式が行われる。その後国道9号(現在の県道318号)の橋となる[2][12]。
脚注
[編集]- ^ 1/25000鳥取北部 昭和7年測図・昭和9.11.30発行(今昔マップ on the web)
- ^ a b c d e f 千代水村誌(橋本寿雄、1983年)
- ^ a b c d 角川日本地名大辞典 鳥取県「千代水村(近代)」
- ^ a b c d " 鳥取市七十年 : 市史(鳥取市、1962年)
- ^ 角川日本地名大辞典 鳥取県「賀露村(近世)」
- ^ 昭和28年6月23日付 鳥取県広報 第2424号「鳥取県告示第279号・市町村の廃置分合」(鳥取県立公文書館)
- ^ 角川日本地名大辞典 鳥取県「商栄町(近代)」
- ^ 角川日本地名大辞典 鳥取県「五反田町(近代)」
- ^ 平成3年3月29日付 鳥取県広報 号外第33号「鳥取県告示第324号・町等の区域の新設等(鳥取市千代水一丁目 外)」(鳥取県立公文書館)
- ^ 平成6年3月25日付 鳥取県広報 号外第9号「鳥取県告示第258号・町等の区域の新設等(鳥取市緑ヶ丘 外)」(鳥取県立公文書館)
- ^ 町の区域の変更について(秋里の一部を商栄町へ変更します)(鳥取市総務部総務課)
- ^ 八千代橋の渡り初め式(賀露神社)