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大正村 (鳥取県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たいしょうそん
大正村
廃止日 1953年7月1日
廃止理由 編入合併
神戸村大和村美穂村大正村東郷村明治村豊実村松保村大郷村吉岡村千代水村湖山村末恒村倉田村面影村鳥取市
現在の自治体 鳥取市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
気高郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 5.1 km2
総人口 3,711
国勢調査[1]、1950年)
隣接自治体 鳥取市、美穂村、東郷村、豊実村、松保村、千代水村
大正村役場
所在地 鳥取県気高郡大正村大字古海字下村土居ノ下820番地
地図
旧・大正村役場庁舎位置[2]
座標 北緯35度29分59秒 東経134度12分48秒 / 北緯35.4998度 東経134.213239度 / 35.4998; 134.213239座標: 北緯35度29分59秒 東経134度12分48秒 / 北緯35.4998度 東経134.213239度 / 35.4998; 134.213239
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大正村(たいしょうそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。

概要

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現在の鳥取市古海・徳尾・菖蒲・服部・野寺、および緑ケ丘1丁目・南安長1丁目の各一部に当たり[3]千代川下流左岸の沖積地に位置した。

元々は蒲野部村海徳村組合役場を設置していたが、これを発展的解消し、時の年号を村名として大正村とした[4]

鳥取市とは千代川を境として近接していたため合併の話が上がり、1937年(昭和12年)10月に協定書まで出来ていたが、同年12月の村議会議員選挙で合併反対派が多数を占めて白紙撤回となった[4]

沿革

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行政

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歴代村長

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氏名 就任年月日 退任年月日 備考
小林富蔵 1917年(大正6年)10月1日 1918年(大正7年)2月9日 前・蒲野部村海徳村組合長
岡田竜一 1918年(大正7年)2月7日 1918年(大正7年)4月1日
稲本新蔵 1918年(大正7年)7月15日 1920年(大正9年)4月30日
稲本新蔵 1920年(大正9年)5月7日 1920年(大正9年)7月29日 村長臨時代理者
土師保蔵 1920年(大正9年)7月29日 1922年(大正11年)8月23日
田中米蔵 1923年(大正12年)1月27日 1924年(大正13年)8月29日
稲本新蔵 1924年(大正13年)10月13日 1928年(昭和3年)3月31日
前嶋熊太郎 1928年(昭和3年)6月1日 1932年(昭和7年)5月31日
土師保蔵 1932年(昭和7年)8月20日 1935年(昭和10年)10月6日
前嶋熊太郎 1935年(昭和10年)10月15日 1936年(昭和11年)3月20日
宮脇善純 1936年(昭和11年)3月30日 1937年(昭和12年)10月3日
野口憲春 1937年(昭和12年)10月5日 1937年(昭和12年)10月8日 職務管掌
衣笠直市 1937年(昭和12年)11月25日 1937年(昭和12年)12月4日 村長臨時代理者
中山源蔵 1937年(昭和12年)12月4日 1938年(昭和13年)6月18日
青山猶幸 1938年(昭和13年)6月18日 1938年(昭和13年)9月10日 職務管掌
村上善市 1938年(昭和13年)9月10日 1939年(昭和14年)2月23日 村長臨時代理者
前嶋熊太郎 1939年(昭和14年)2月23日 1946年(昭和21年)11月15日
石脇善継 1946年(昭和21年)11月16日 1947年(昭和22年)4月7日 村長代理助役
依藤利郎 1947年(昭和22年)4月8日 1948年(昭和23年)7月13日
宮脇善継 1948年(昭和23年)8月17日 1952年(昭和27年)8月15日
川口慈教 1952年(昭和27年)8月16日 1953年(昭和28年)6月30日
参考文献 - [4][7]

1937年(昭和12年)以来の村内対立のため県事務官が村長職務管掌として派遣されたものの円滑にいかず、立田清辰知事が元中ノ郷村助役であった村上善市に依頼した。

教育

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主要施設

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  • 鳥取刑務所1892年(明治25年)、県会議員の加藤齢太郎が鳥取監獄を古海(現在の千代テニス場の場所)に誘致し農家の肥料問題を有利にした。1978年(昭和53年)に移転するまで所在[4][8]

交通

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鉄道

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道路

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  • 吉岡街道(松保村#道路を参照)
    • 千代橋:古海と鳥取市行徳を結ぶ橋。古海の渡しに代わるものとして1883年(明治16年)に長い木橋が架設される。1931年(昭和6年)11月19日に鋼鉄製16連プレートガーダー橋が起工し翌年11月28日竣工。2003年(平成15年)に現橋の開通により解体された[9]

脚注

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  1. ^ 他に刑の確定した監獄の在監者数791人
  2. ^ 1/25000鳥取南部 昭和7年測図・昭和10.7.30発行今昔マップ on the web
  3. ^ 町名地番の新旧対照表について(鳥取市総務部総務課)
  4. ^ a b c d e " 鳥取市七十年 : 市史(鳥取市、1962年)
  5. ^ 「村役場位置」『官報』1917年10月5日国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 「鳥取県告示第279号・市町村の廃置分合」『鳥取県広報 第2424号』1953年6月23日鳥取県立公文書館
  7. ^ 大正小学校創立百周年記念誌(鳥取市立大正小学校創立百周年記念事業実行委員会、1974年)
  8. ^ 鳥取刑務所法務省
  9. ^ 千代橋(鳥取県県土整備部技術企画課)

関連項目

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