南部直房
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南部直房像 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永5年(1628年) |
死没 | 寛文8年8月24日(1668年9月30日) |
改名 | 中里直好→南部直房 |
別名 | 通称:数馬 |
官位 | 従五位下左衛門佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 陸奥八戸藩主 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 父:南部利直、母:仙寿院 |
兄弟 | 家直、政直、重直、利康、重信、利長、直房、七姫、北直愛室、東胤政室 |
妻 |
正室:なし 側室:霊松院 |
子 | 直政、直常、市橋政勝正室 |
南部 直房(なんぶ なおふさ)は、江戸時代前期の大名。陸奥国八戸藩の初代藩主。官位は従五位下・左衛門佐。盛岡藩主・南部利直とその側室・仙寿院の子[1]。八戸立藩以前は、母方の姓の中里直好(中里数馬)を名乗った[1]。
生涯
[編集]寛永5年(1628年)、陸奥盛岡藩の初代藩主・南部利直の7男として誕生。
寛文4年(1664年)、兄で盛岡藩2代藩主・南部重直が跡継ぎを決めないまま死去すると、盛岡南部家では御家断絶および領地没収の可能性が濃くなった。生前の重直は幕府による裁定を願い出ており、幕命により重直の異母弟、七戸重信(七戸隼人正)と中里直好(中里数馬)は江戸に上り、裁定を受けた。盛岡藩10万石を分け、8万石を七戸重信が相続し盛岡藩を存続させ、2万石を直好に与えて八戸藩を立藩することとなった[1]。立藩を機に直好は、南部直房と改名した[1]。
寛文8年(1668年)、死去。享年41。
死因は病死であるとされているが、「逆恨みをした盛岡藩の陰謀による暗殺」とする説もあり、当時既に幕府からも調査が入っている。この幕府の調査以降、盛岡藩はわざわざ「八戸藩は分家ではない。独立した対等の立場」と表明している。
跡を長男・直政が継いだ。直政もまたその死因に盛岡藩による暗殺の噂がある。
系譜
[編集]父母
側室
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『青森県百科事典』(東奥日報社、1981年)