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南郷武夫

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南郷武夫

南郷 武夫(なんごう たけお、1884年明治17年)3月22日[1][2] - 1976年昭和51年)1月26日[3])は、明治末から昭和期の林業家、政治家衆議院議員鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。

経歴

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鹿児島県[3]日置郡市来郷伊作田村[4](東市来村伊作田、東市来町伊作田[5]を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる[6]。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業[3][7]早稲田大学を中退[5][6][注釈 1]

帰郷して父の鉱山業に従事[8]。1930年(昭和5年)家督を相続[6]。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任[4][5][7][8]。1932年(昭和7年)東市来村長に就任[8]。当時村に残っていた区制の廃止を断行し、区有財産、学区の統一を実施[8]。1937年(昭和12年)町制を施行し初代東市来町長に就任し[8]、町有林の基礎を築いた[7]。その他、鹿沖木材取締役、鹿児島県森林会議員、東市来町農会長、鹿児島県産業組合連合会監事なども務めた[3]

1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、立憲民政党公認)では次点で落選[9]。1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙(鹿児島県第1区)で翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選[2][6][8][10]大政翼賛会鹿児島県支部常務、翼賛政治会政調内務委員、農林兼務委員などを務めた[2][5][6]。軍用材の乱伐のため山林荒廃が進むことを危惧し、森林組合法の制定に尽力[7][8]。鹿児島県森林組合連合会の結成の中心となり、初代会長に就任した[7][8]。戦後、日本進歩党に所属し[3]、衆議院議員に1期在任[3][5]。その後、公職追放となった[11]

追放解除後、県森林組合連合会の会長に就任[8]。1953年(昭和28年)林業功労者として初の鹿児島県民表彰を受けた[4][7][8]。その他、全国森林組合連合会監事、鹿児島県林業普及協会長、東市来町森林組合長、日置郡愛林会会長などを務めた[3][4][8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『熱き薩摩の群像700名』119頁では卒。

出典

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  1. ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、32頁。
  2. ^ a b c 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』鹿児島11頁。
  3. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』473頁。
  4. ^ a b c d 『鹿児島県姓氏家系大辞典』421頁。
  5. ^ a b c d e 『翼賛議員銘鑑』303頁。
  6. ^ a b c d e 『人事興信録 第14版 下』ナ170頁。
  7. ^ a b c d e f 『熱き薩摩の群像700名』119頁。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 『郷土人系 上』161-162頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』587頁。
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』583頁。
  11. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿425頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。

参考文献

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  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
  • 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
  • 『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 下竹原弘志編『郷土と日本を築いた 熱き薩摩の群像700名』指宿白水館、1990年。
  • 鹿児島県姓氏家系大辞典編纂委員会編著『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典46、角川書店、1994年。