厚地政敏
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厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月[1][2])- 1921年(大正10年)2月11日[1])は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。
経歴
[編集]薩摩国谿山郡谷山郷、のちの鹿児島県[1]谿山郡谷山村(鹿児島郡谷山村、谷山町[2]、谷山市を経て現鹿児島市[3])で生まれた。15歳で上京しバラ塾で英語を学んだ後に大学予備門に入学[3]。病のため帰郷し[3]、九州改進党鹿児島部の結成に参画し[3]、政治活動と共に青年の指導を行う[3]。谷山小学校(現鹿児島市立谷山小学校)の初代校長を務めた[3]。
1883年(明治16年)1月、鹿児島県会議員に当選し[1][2][3]、鹿児島同志会が発足し理事に就任して自由民権運動を進めた[3]。第7代県会議長に就任[1][2][3]。その後、吏党派の独立クラブに転じた[3]。1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区)で当選し[3][4]、以後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[1][2][3]。
その後、政界を引退し故郷で材木商を経営した[3]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、1892年2月、中央交渉会)当選[4]
- 第3回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、1894年3月、国民協会)当選[4]
- 第4回衆議院議員総選挙(鹿児島県第1区、1894年9月、国民協会)当選[5]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。